4. 教え(教理)と戒律|エホバの証人とはーものみの塔の実態に迫る

4. 教理(信条)と戒律|エホバの証人とはーものみの塔の実態に迫る

4. 教理(信条)と戒律|エホバの証人とはーものみの塔の実態に迫る

エホバの証人は、正統派キリスト教から「異端」と呼ばれている通り、多くの独特な教えや戒律を掲げています。以下に、各テーマに関するエホバの証人の立場を示します。

聖書観:十全霊感説

エホバの証人は、以下の聖句等に基づき、聖書全体が、聖霊に導かれた誤り無き神の言葉であると信じています。

「聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。」(テモテ第二 3:16)

したがって、同じ聖書観を持つクリスチャンであれば、聖書を土台にして会話を進めることが可能ですが、以下の2つの点に注意する必要があります。

新世界訳聖書が最高の聖書だと信じている:エホバの証人は、ものみの塔が独自に発行した「新世界訳聖書」こそが、最も優れた聖書だと信じ込んでいますが、実際には教理を正当化するための改ざんや意訳が数多くなされています。(他の聖書にも、ある程度の価値を認めてはいます)

聖書を解釈する絶対的な権威を統治体が握っている:たとえ、聖書の言葉が明白に「A」と教えていても、統治体が「それはBだ」だと解釈すれば、全世界の信者は、それを「B」として理解することになります*[1]。このようなマインドコントロールされた思考パターンがあるために、多くのクリスチャンはエホバの証人との会話において平行線を辿ることが多いのです。

三位一体の否定

三位一体の教理は、カトリック・プロテスタントを含むおおよその正統派キリスト教において支持されている教理ですが、ものみの塔は、初代会長チャールズ・テイズ・ラッセルの時代から、この「三位一体」の教えを否定し、「偽りの教え」「非聖書的な教え」として強く批判してきました。

父なる神:神の名前は「エホバ」(Jehovah)であり、この方は唯一の神・全知全能の神であり、複数の位格を持つような存在ではないと理解されます。そのため、エホバの証人はエホバだけを崇拝します。

イエス・キリスト:イエスは神の子であり、救い主ですが、「唯一の神」「全知全能の神」ではありません。そのため、イエスを誉め称えることはあっても、崇拝することはありません。イエスは創造者ではなく被造物であり、天においてみ使いの頭「ミカエル」として創造されました。今は神の王国の王として、即位しており、より高い地位に座しておられます。

聖霊:聖霊は神の「活動力」であり、人格的主体(位格)を持つような存在ではありません。聖書の中で、聖霊に位格があるかのように表現されている箇所は全て「擬人法」だと理解されます。

▶参考:三位一体は聖書の教えですか?(当サイト)

霊魂不滅・地獄の否定

霊魂不滅・地獄の教えは、キリスト教の多くの教団で支持されており、他の多くの宗教においても広く見られる教理です*[2]。しかし、初代会長のラッセルは、教会で教えられている「永遠の刑罰」への恐れから、「愛の神が永遠の裁きをもたらすはずが無い」として、この教えを否定し、以来エホバの証人は歴史的に同じ立場を貫いています。

霊魂不滅:人の肉体が死ねば、霊魂も共に消滅します。つまり、人は死んだら意識は無くなり、無になると教えられます。(霊魂消滅説)

地獄:霊魂が不滅ではなく、消滅する以上、罪人が死後に苦しみ続ける「地獄」は存在しません。聖書の中で地獄について言及されている全ての箇所は象徴的な表現だと理解されます。また、人が永遠に苦しむ地獄の存在は、神の愛のご性質と矛盾する、とされています。

▶参考:霊魂不滅・地獄は聖書の教えですか?(当サイト)

1914年:キリストの臨在の開始

1914年という年代に関わる教えは、唯一正統を掲げるエホバの証人の土台を構成する重要な教理となっており、要約すれば以下のようになります。なお、1914年に同じような意味付けをした教理を持つ教派・教団は、筆者の知る限りありません。

  1. 1914年に、異邦人の時が終了し、終わりの日が始まった。
  2. 1914年から、キリストの目には見えない「臨在」が始まり、全世界の王としての統治が始まった
  3. 1914年から三年半の間、キリストは霊的神殿に来られ、当時のエホバの証人を精錬した。
  4. 三年半の後、1919年、エホバの証人の油注がれたクリスチャンは大いなるバビロンから解放され、キリストによって「忠実で思慮深い奴隷」として任命された。以後、キリストはこの組織を、神の霊に導かれる唯一の経路として用いてきた。

このように、ものみの塔協会がエホバから正式に「任命された」とする根拠は、この1914年という年代をどう解釈するかに、大きく関係していることがわかります。

▶参考:1914年は「異邦人の時の終わり・キリストの臨在の始まり」ですか?(当サイト)
▶参考:1914年は「キリストの臨在の始まり」ですか?(当サイト)

十四万四千人と大群衆

ものみの塔協会独自の有名な教理の一つであり、同じような教えを持つ教団はありません。144000人と大群衆は、啓示(黙示録)7章に登場する二つのグループのことですが、これらのグループの実体について、エホバの証人は次のようなことを信じています。

十四万四千人(144000人)

144000人とは、文字通りの人数のことであり、主に紀元一世紀のクリスチャンと、エホバの証人の油注がれたクリスチャンによって構成されると考えられています。彼らはキリストへの信仰によって神の子供とされた後、死に至るまで忠実を保つならば、やがて霊的な体*[3]で復活して天へ挙げられ、キリストと共に千年の間、天から地上の楽園を統治します。

キリストを仲介者とする新しい契約の「当事者」は、144000人だけです。そのため、記念式(聖餐式)のパンとぶどう酒に与ることを許されているのは、144000人だけとなります。また、新約聖書の大部分は144000人のために書かれたものと見做されます。

なお、もしも自分が144000人の一人である場合は、聖霊によってその確信が与えられると教えられます。(ローマ8:15)つまり、結局は自己申告制となっているため、その人が本当に油注がれた人であるかどうかについては、客観的な判断が不可能となっています。近年は、ものみの塔の教理に反して、記念式でパンとぶどう酒に与る人が増加していることが、若干の問題となっています*[4]

大群衆

大群衆は、144000人以外のエホバの証人のことであり、エホバとその組織に対する従順を通して、大患難~ハルマゲドンを生きて通過し、千年王国に入る人々を表すとされています。大群衆は、地上の楽園で永遠に生きる見込みを持っていますが、最終的に神の子供とされるためには、大艱難~千年王国~最後の試みを忠実に歩み続ける必要があります。

大群衆は、新しい契約の「当事者」ではなく、イエスは彼らの「仲介者」ではありません。しかし、彼らはその契約から「益を受ける人々」であるため、記念式(聖餐式)でパンとぶどう酒に与ることはなくとも、参加することによってイエスへの感謝を表す必要があります。

新約聖書は144,000人のために書かれたものであり、大群衆のために書かれたものではないとされます。しかし、神は「ある意味」において大群衆を義なる者と見ているため、その教えの多くが適用されます。

▶参考:144000人とは誰のことですか?十四万四千人と大群衆の実体①(当サイト)

輸血拒否

概要

輸血拒否の教理は、エホバの証人独特の教理として、社会的にも広く認知されており、この教えと関係する事件を巡って多くの議論があります。

エホバの証人の輸血拒否の具体的な基準とは、全血、あるいは血液の四つの主要成分(赤血球、白血球、血小板、血漿)を避けることを意味します。また、今日では主要成分をさらに細かく処理した分画が医療の現場で用いられますが、分画を受け入れるかどうかは、個々のエホバの証人の「良心の問題」だとされています。

エホバの証人が命がけで輸血を拒否する理由は、医学的な理由ではなく、宗教的―聖書的な理由によります。旧約聖書には「血を食べてはならない」という禁令がありますが、ものみの塔は、その命令が今日の輸血という医療行為にも適用されると解釈します。(創世記9:3、レビ記17:10)また、使徒行伝に記されたエルサレム会議の決定事項によって、輸血を含む血の禁令が普遍的な教えとして確立されたと理解しています。(使徒15:20)

エホバの証人の社会において、輸血をすることは、神の命令に対する明確な違反行為と見做されます。そのため、輸血行為は永遠の命を失う可能性のある深刻な罪として信じられ、実際に輸血を行う信者は、悔い改めが無い限り、組織からは排斥されます。

かつてイギリスのBBC放送に出演したエホバの証人の証言によれば、一日に三人、年間千人の人が、輸血禁止のために死亡しているとされています*[5]

事件と被害者

輸血拒否に関わる事件としては、日本では「エホバの証人輸血拒否事件」が有名であり、法学上著名な判例ともなっています。この事件は、絶対的輸血拒否の立場をとるエホバの証人の信者が、手術の際に無断で輸血を行った医師、病院に対して、損害賠償を求めた事件です。この裁判では、2000年2月29日の最高裁の判決により、エホバの証人の信者側が勝訴しています。

▶参考:輸血拒否は聖書の教えですか(当サイト)

十字架の否定

エホバの証人は、神への崇拝で十字架を用いることはありません。理由としては、次のような点が挙げられています。

(1)イエスが架けられたのは十字架ではなく、一本の杭だった。(2)十字架の象徴は異教に由来するものである。したがって、十字架を崇拝で用いることは偶像礼拝となる。(3)崇拝で何らかの象徴を用いることは偶像礼拝にあたる。(4)初期のクリスチャンが、十字架を用いた証拠は無い。

しかし、これらの主張は大抵の場合、文献の悪引用や、歴史的証拠の無視に基づいており、十字架に関する実際の証拠の数々は、上記のエホバの証人の見解をことごとく否定しています。

▶参考:クリスチャンは十字架を用いるべきですか(当サイト)

政治的中立

エホバの証人は、この世の政治的問題・活動に一切関与せず、厳正中立を保つよう教えられています。具体的には、政治家として立候補したり、投票したり、その他あらゆる政治活動への参加を行いません。その理由は、エホバの証人が神の王国に属する民であり,唯一支持すべきなのが、イエスを王とするその王国だと理解するからです。根拠としてよく挙げられるのは、以下の聖句です。

「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」(ヨハネ18:36)

なお、どのような政治組織がその国や地域の指導者になろうとも、その要求が聖書の基準と矛盾しない限り、法律には従うべきだと教えられています。この教えは、以下のローマ13章の聖句に基づいています。

「すべての魂は上位の権威に服しなさい。神によらない権威はないからです。存在する権威は神によってその相対的な地位に据えられているのです。」(ローマ13:1)

▶参考:『聖書は実際に何を教えていますか』149頁。(以下「聖書の教え」という)

良心的兵役拒否

エホバの証人は、宗教的な信条に基づいて、良心的兵役拒否の立場を取ります。つまり、戦争に参加したり、兵役に就いたりすることはありません。たとえ人を殺さなくても、兵役につくことは許されていません。また、迫害を受けたとしても、暴力的な方法によって抵抗したりすることもありません。根拠として用いられるのは、以下の聖句です。

「彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。」(イザヤ2:4)

「すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです」(マタイ26:52)

韓国では、全ての男子に兵役義務があり、拒否する人には有罪の判決が下ります。そのため、良心的兵役拒否の立場を取る韓国のエホバの証人の男子は、長い間、毎年実刑判決を受けてきた歴史があります。

▶参考1:『自分を神の愛の内に保ちなさい』52頁。(以下、「神の愛」という)
▶参考2:『聖書から論じる』319~320頁。(以下、「論じる」という)

国旗敬礼、国歌斉唱の拒否

エホバの証人は、国旗敬礼や、国歌斉唱を「偶像礼拝」に相当する行為として退けます。その理由は、これらの行為が、神ではなく、国家などの組織やその指導者に救いを帰する宗教的行為であると見做すからです。根拠としては、以下の聖句が示されます。

「あなたは自分のために,上は天にあるもの,下は地にあるもの,また地の下の水の中にあるものに似せたいかなる彫刻像や形も作ってはならない。それに身をかがめてはならず,さそわれてそれに仕えてもならない。あなたの神であるわたしエホバは全き専心を要求する神であり,わたしを憎む者については父のとがに対する処罰を子にもたらして三代,四代に及ぼし」(出エジプト20:4-5)

「偶像礼拝から逃げ去りなさい」(コリント第一 10:14)

なお、学校などで国旗敬礼や国家斉唱が強制される国においては、エホバの証人の子供たちが退学処分を受けるなどの問題が生じてきました。

▶参考1:『神の愛』212頁。
▶参考2:『論じる』322頁。

全ての格闘技を拒否

柔道、剣道、空手、ボクシングなど、あらゆる格闘技を行うことは許されていません。その理由は、これらのスポーツは暴力的な傾向を培うものであり、平和を求めるクリスチャンの特質とは相容れない、と理解されているからです。根拠として挙げられるのは、以下の聖句です。

「彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」(イザヤ2:4)

「だれに対しても,悪に悪を返してはなりません」(ローマ12:17)

「すべて剣を取る者は剣によって滅びる」(マタイ26:52)

格闘技については、たとえ授業のプログラムであっても、それを拒否するよう信者は教育されています。そのため、学校側がそれを認めず、エホバの証人の生徒の進学に支障が生じる、などの問題が全国各地で生じてきました。

有名な判例では、神戸高専剣道実技拒否事件があり、剣道の科目を拒否した信者に対して、学校側が代替措置を講じず、退学に繋がったことが裁判の原因となりました。最終的には、大阪の最高裁にて、原告のエホバの証人の生徒側が勝訴しています。

▶参考1:『神の言葉は生きている』177頁。
▶参考2:『ものみの塔』2012年7月1日号、13~14頁

冠婚葬祭

結婚式や葬式などの冠婚葬祭に出席するか否かは、「個人の良心」として各信者に委ねられています。しかしその場において、宗教的な要素が含まれる儀式には一切関わることが無いよう厳重に指導されています。

例えば、仏教式の葬儀において、「喪主」になったり、香典(香の代金)を受け取ったりする受付係になったり、お焼香を上げたりすることは許されていません。

▶参考:『王国宣教』2011年11月号、4頁。

誕生日、クリスマスなどの祝祭・文化的行事は全て拒否

誕生日、クリスマス、七夕、節分、ひな祭りなど、あらゆる文化的行事に参加することや、祝祭日を祝うことは否定されます。多くの文化的行事、祝祭が異教の習慣に由来するものである、という主張が、その理由となっています。

誕生日の否定:協会側が誕生日を否定する主な二つの理由として、(1)聖書の中に、神の民が誕生日を祝った記録が無いこと、(2)誕生祝いは、多くの場合、異教の習慣と関係している、という点が挙げられます*[6]。なお、実際には旧約聖書のヨブ記には、ヨブの子どもたちが誕生日を祝っている記録が見出されます。(ヨブ1:4、3:1-3)

クリスマスの否定:理由として、(1)イエスが12月24日に生まれた証拠が無いこと、(2)初期のクリスチャンの間に、イエスの誕生を祝う習慣が無かったこと、(3)古代ローマにおける異教の祝祭(ミトラ神や農耕神サトゥルヌスの祝祭)にその起源がある、という点が主張されます。なお、「クリスマスの起源」(オスカー・クルマン著)によれば、クリスマスの習慣が定められた経緯は、異教の祭りに便乗する目的ではなく、異邦人が「創造物」を拝む日に、「創造者・義の太陽」であるキリストを拝むべきことを明記させるためであった、と説明されています。

▶参考:『神の愛』145~151頁。「神を不快にさせる祝祭」

喫煙の禁止

喫煙は、健康上有害であり、肉体を汚すものとして、禁止されています。聖書的な根拠としては、(1)命の与え主である神に対する敬意の不足であること、(2)クリスチャンは聖なる犠牲として自分を捧げる必要があること、(3)依存症になり、神以外の奴隷となってしまうこと、などが挙げられます。

「世界とその中のすべてのものを造られた神(は)……すべての人に命と息とすべての物を与えておられる」(使徒 17:24,25)

「兄弟たち,わたしは神の情けによってあなた方に懇願します。あなた方の体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲として差し出しなさい。これがあなた方の理性による神聖な奉仕です」(ローマ 12:1:)

「あなた方は,自分を奴隷としてだれかに差し出してそれに従ってゆくなら,その者に従うがゆえにその奴隷となり,死の見込みを伴う罪の[奴隷]とも,あるいは義の見込みを伴う従順の[奴隷]ともなることを知らないのですか。」(ローマ6:16)

なお、バプテスマを目指す研究生(求道者)は、先に禁煙をしないとバプテスマを受けることはできません。

▶参考1:『神の愛』93頁。「人を汚す習慣から自分を清める」
▶参考2:『論じる』391~392頁。
▶参考3:『ものみの塔』2014年6月1日号、4頁。「神は喫煙をどう見ておられるか」

過度な飲酒の禁止(酩酊)

飲酒は可能ですが、過度な飲酒(酩酊)は禁止されています。たとえお酒を飲んでも、お酒に支配されるほど飲んではならない、ということです。聖書的にも、社会的にも、道理にかなった基準であり、多くのキリスト教団体も同じ立場です。

「しかし今わたしは,兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように,と書いているのです。」(コリント第一5:11)

▶参考:『神の愛』18頁。

服装・身だしなみ

慎み・清潔さ・品位のある服装や髪型が模範的だとされています。また、その場に適したものであることも大切です。露出が多い服装、個性の強い服装や髪型は、「独立的・世的な態度」の表れであり、好ましくないものと考えられています。根拠としては、以下のような聖句が挙げられます。

「同様に女も,よく整えられた服装をし,慎みと健全な思いとをもって身を飾り,髪の[いろいろな]編み方,また金や真珠や非常に高価な衣装などではなく,10 神をあがめると言い表わす女にふさわしい仕方で,すなわち良い業によって[身を飾る]ように望みます。」(テモテ第一2:9)

「ですから,あなた方は,食べるにしても,飲むにしても,あるいはほかのどんなことをするにしても,すべての事を神の栄光のためにしなさい」(コリント第一10:14)

「わたしたちはどんな点でも決してつまずきの原因を作らないようにしています。わたしたちの奉仕の務めがとがめられるようなことのないためです。」(コリント第二6:3)

その他、レビ記19章28節に基づき、タトゥーは禁止されています*[7]

男性の場合:集会では、男性は全員スーツを着用しなければなりません。野外奉仕は、スーツか、それに近いフォーマルなスタイルで行う必要があります。プライベートでは、組織の規定の原則に沿っていれば、特に細かい決まりはありませんが、最近ではタイトなパンツを履くのは良くないとされる傾向があります*[8]。その他には、日本においては、ヒゲを伸ばすことは好ましくないものと見做される傾向があります。

女性の場合:日本国内のローカルなルールとして、集会や奉仕では、女性はズボンが禁止で、スカートを着用しなければなりません。プライベートでは、そのような縛りはありません。

▶参考:『神の愛』56頁。「服装と身だしなみの点で慎み深くある」

排斥制度(破門)

組織の教義に反する考えや行動が明らかになり、かつ悔い改めが認められない信者は、長老団の審理委員会を経て、排斥措置となります。また、信者自ら組織へ脱退の申し出を行うケースは「断絶」と呼ばれ、排斥よりも重い事態だと考えられています。

排斥の原因として最も多いのが、「淫行」(性的不道徳)だと言われており、数年前のある巡回監督の証言によれば、排斥される人の8割程度は、淫行が原因だとされています。他の目立つ原因としては、組織の教義に同意できないことによる「背教」を挙げることができます。

重要な点として、全ての現役の信者は、排斥・断絶した人との交流・会話・挨拶を一切禁止されます。根拠としては以下の聖句が示され、排斥された人と関わりを持つことは「邪悪な業に与ること」であり、排斥者から離れることを通して「エホバとその組織に対する従順を示すことができる」と教育されています。

「この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば,決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません。11 その人にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかることになるからです。」(ヨハネ第二8節)

「しかし今わたしは,兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように,と書いているのです。」(コリント第二5:11)

このような戒律により、家族との関係を分断されて傷ついている脱退者は相当数に上ります。なお、家族の中で排斥される人が生じれば、必要最低限の交流が許されるケースもあります*[9]

▶参考:『神の愛』207頁。「排斥された人にどう対応すべきか」

記事一覧:エホバの証人とは?

  1. 基本概要
  2. エホバの証人の歴史
  3. 組織構造
  4. 教理(戒律)
  5. 偽予言
  6. 統計と動向
  7. 宣教活動
  8. 出版物・メディア
  9. 集会・大会
  10. 寄付制度と会計報告
  11. カルト性について

脚注

[1] もしもある信者が、統治体の見解よりも聖書の言葉を優先し、それが「A」だと主張した場合、背教的であると見做され、悔い改めない場合は排斥処分となります。

[2] ただし、聖書による霊魂不滅の教えと、他宗教における霊魂不滅の教えとの間には、かなり明瞭な違いがあります。

[3] エホバの証人は、イエスの復活は肉体を伴ったものではなく、「霊的な復活」だと教えられています。そのため、144000人の復活についても、肉体を伴わない霊的なものだと信じています。

[4] この点について、現在協会は、「自分が天に行くと思い込んでいる人もいるため、表象物に与った人数は、必ずしも天へ召しを受けた人の正確な数を表しているわけではない」としています。―『ものみの塔』2011年8月15日号、22頁、読者からの質問。

[5] 中澤啓介『輸血拒否の謎』(いのちのことば社)38頁。

[6] 加えて、記録された二つの誕生祝の箇所では、どちらも悪いことが起きているので、聖書では誕生祝いが好ましくないものであることが示唆されている、と主張されています。―『神の愛』2008年、151~152頁。

[7] エホバの証人は、モーセの律法はキリストの死によって廃棄されたと信じていますが、律法における入れ墨の禁止令は、原則として今日でも有効だと理解しています。

[8] 統治体のアンソニー・モリス氏が、最近そのような発言をしたことが、JWの間で話題となっています。

[9] 家族・親族が排斥された場合、兄弟姉妹という関係は途絶えますが、家族関係としては残るため、状況に応じて最低限の交流が許されます。具体的には、その家族が同居しているかどうかが判断基準の一つです。同居していれば、ある程度の交流はやむを得ませんが、同居していなければ最低限の交流で留めるよう指示されます。実際には家族の誰かがが排斥された場合、別居をするケースも多くあります。


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2件のフィードバック

  1. きた より:

    質問です。
    エホバの証人は「良心的兵役拒否」「全ての格闘技を拒否」とのことですが、神が自らの手で、または他の者を使って人間を殺すことは正しいと考えているのですか?
    また、(神に背く)個々の人間を罰するのでなく民族・民衆全体を罰すること(例えば「すべてのエジプトの初子が無差別に殺害された」「金の子牛崇拝に加担した(3千人といわれている)民衆の殺害」など)は正しいと考えているのですか?

    • Webmaster-GJW より:

      「エホバの証人は「良心的兵役拒否」「全ての格闘技を拒否」とのことですが、神が自らの手で、または他の者を使って人間を殺すことは正しいと考えているのですか?」

      >この点は仰る通り、エホバの証人はそのように考えています。

      「(神に背く)個々の人間を罰するのでなく民族・民衆全体を罰すること(例えば「すべてのエジプトの初子が無差別に殺害された」「金の子牛崇拝に加担した(3千人といわれている)民衆の殺害」など)は正しいと考えているのですか?」

      >まず、ご質問の内容には、聖書的に誤解があります。エジプト人は、国民的にユダヤ人を迫害したため、彼ら全体には連帯責任がありました。子牛崇拝についても同様です。3千人というのは、純粋に子牛崇拝に加担した人数だと推定されます。

      そして、エホバの証人は、以上の歴史における神の裁きが正しかったと判断しています。この点は、キリスト教の主流派においても全く同じ考えです。

      神の裁きをどう考えるか、という点は、以下の記事で詳しく説明していますので、一度ご覧になってみて下さいね。
      http://true-ark.com/bible-faq-gods-rightousness/

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