長老団への手紙―沖縄県うるま市みどり町会衆 比嘉兄弟|元エホバの証人の証


長老団への手紙

本記事でご紹介するのは、沖縄県うるま市みどり町会衆の元エホバの証人である比嘉兄弟が、長老兄弟へ実際に送った手紙の全文です。この手紙は、終末預言や世代の解釈の変更等に関わる組織の姿勢の問題点や、エホバの証人の信者の考えや抱きやすい疑問点などを理解するのに役立つ内容となっています。

 

親愛なる長老兄弟たちへ

先日は、牧羊に貴重な時間をいただき、ありがとうございました。その後、世代についての理解の調整について、自分自身がそれに合わせていくことができるためには、まず1914年についての理解を深める必要があると思いましたので、そのことを、祈りのうちによく調べてみました。以下が、そのまとめた内容と私の見解です。

イエスの臨在についてですが、それがいつなのかを特定することは、非常に重要な“時に関する聖書預言”です。ラッセル兄弟は、それを1914年としました。

私が問題に感じたのは、ラッセル兄弟がその年についてどう解釈していたかということでした。

それは明らかに、「1914年に注意を払いなさい!」というだけのことではありませんでした。

ラッセル兄弟は、その年までに、すべての終わりが来て自分たちが天に引き上げられることを期待していました。(年鑑76年P34-108)

今の私たちからすれば、100年も前のことですから、「そういう考え方をしていたんだねぇ。」くらいで笑い話として片付けてしまうかもしれません。しかし当時の人々にとっては人生を大きく左右する一大事です。

1914年に天に引き上げられると真剣に信じていたわけですから。

ラッセル兄弟が言っていたのは、明らかに主の臨在と共に1914年に終わりが来るという聖書預言です。

そして、それは間違っていました。

その時に生じたのは戦争だけです。戦争だけしか起こりませんでした。

しかしラッセル兄弟は、30年も前から1914年について、第一次世界大戦が起こることを預言していたのではありません。たまたまその年に、戦争が起きただけです。

その後、ラザフォード兄弟の時に、1914年にキリストが天で支配を開始されたという見解に変わり、それに伴って、“1914年の出来事を見た世代のうちに終わりが来る”という理解が生まれました。

1914年に関する聖書解釈が、主の臨在に関する聖書預言だったわけですから、世代に関する見解もりっぱな聖書預言の一部と言えます。ですが、その世代に関する理解も間違っていました。

預言というものは、どんな時代にも神の聖霊によって語られるものは100%当たります。

しかもこれは、“時”に関する重要な預言です。その預言がはずれたのですから、それをどのように神の聖霊によってもたらされた聖書解釈であると理解することができるのでしょうか。

 

いつの時代にも、人は自分が生きている間に終わりが来てほしい、それを実際に見たいと願うものです。それは、1800年当時に生活していた人々も、現代のわたしたちも同じで、その気持ちは今も昔も何も変わらないと思います。

自分たちが生きている“”が、その時にとっての最新の世の中なのですから。この1914年に関するラッセル兄弟の年代計算についても、兄弟のその強い気持ちが表れているような気がします。

そもそも、ネブカドネザルに起きた「7つの時」を「異邦人の時」の終わりに結びつけることができる聖書的な根拠はどこにあるのでしょうか。“ダニエルの預言に注意を払いなさい”の書籍の中にはどこにもその根拠となるものが挙げられていませんでした。

また、2520日を2520年とする聖書的な根拠に、「1年に対して1日」(エゼキエル4:6,7。民数記14:34)を当てはめなければならないと書かれていますが、この聖句をこの「異邦人の時」に当てはめるように指示している聖句はどこにもなく、「1年に対して1日」という言葉だけを拾ってきてくっつけたようにしか見えません。

もちろん、“1914年+世代”についての聖書預言が成就していたのであれば、それは神の霊感に導かれた結果と言えるかもしれません。しかし、実際は間違っていました。

以上のことから、私は「異邦人の時」の終わりに結びつけることと「1年に対して1日」という聖句を当てはめることは人間的な解釈によってもたらされたものであると思っています。

私たちは通常、それは後で理解の変更がされたのだから、その変更後の理解についていくべきだと考えます。しかしそれは、1914年に関しても、理解の変更という程度で片付けてしまってよいのでしょうか。

協会の出版物の中では、異教のものに関係するかもしれないものはその“起源”をいつも大切にされています。しかし、この1914年に関する臨在の大切な預言については、その起源(もともとの理解)は軽く扱われています。

そもそも、1914年を過ぎた時点で、「1914年のことは忘れましょう」とならなかったのでしょうか。それを無くしたら、ついてくる方がいなくなってしまうからですか?

その当時に、理解の変更をしてずっと“1914年”を信仰の基盤として持ち続けていたために、今はもっと無くすことができないものになってしまっている気がします。

 

私は献身してこれまで、世代に関する理解の調整がなされるまで、世代の意味を詳しく知りませんでした。ましてや、目ざめよ誌(94年11月8日号)に次のような言葉がはっきりと書かれていると夢にも思いませんでした。

<1914年の真の意味>(94年11月8日号)

しかし,この終わりの時は比較的短期間で,1世代に及ぶに過ぎません。(ルカ 21:31,32)1914年から80年が経過したということは,神の王国による救出を間もなく期待できることを示しています。

ここで、「1914年から80年が経過したということは、間もなく期待できる」と書いてあるわけですから、これは明らかに1994年当時のエホバの証人と世界中の一般読者全員に、終わりの時が残りわずかであることを具体的な数字で表しています。

もちろん、○○年○月○日までに終わりが来ると述べてはいませんが、年数を限定しているということは、これを読む人に、人間の寿命を考慮したら残り数年~20年の間に来るかのような印象を与えています。これは誰が読んでも、人為的ミスでうっかり記載された内容などではありません。こ

の執筆者の兄弟は明らかに確信を込めて執筆されています。そして、当時の目ざめよ誌の目的(P4)と調和していました。このことに対する変更は、光が増し加わっていった変更でしょうか。

終わりの日が、1914年の出来事を見た世代と“重なる世代”のうちに来ると理解するなら、終わりの日があと50年は先送りできそうです。それでも、時を限定していることに変わりありません。結局これも“時”に関する預言です。

それに期待したい気持ちもわかります。でもそれは、本当に神の聖霊によるものでしょうか。終わりの日がいつかについては、エホバしか分からないのではありませんか?

私には“1914年と世代”にこだわり続ける理由が分かりません。例えば、「“キリストの臨在は、本当は今からでした。その時についてはエホバにお任せして、私たちは引き続き奉仕に携わりましょう”」と訂正できないのでしょうか。

私は、そのほうがよっぽどすっきりして納得できます。統治体の兄弟たちについて行きやすくなります。それで大勢の人が離れていくなら、それはそれに任せればいいのではないでしょうか。

といっても、出版物を通して地球的な規模で人数が増し加わっていることがエホバの聖霊の導きの証拠であると述べられている以上、もし大幅に人数が減ってしまっては違う意味で大変なことになるかもしれません。

 

長老兄弟たちは、「1914年は絶対に外すことはできない。これを外したら現在の伝道の業の意味がなくなるとおっしゃいました。」

私は、伝道者の時から、1914年を強く主張した奉仕など一度も行ったことはありません。発言したとしても、書かれていることをさらっと流す程度です。なぜなら、私自身が終わりが1年後でも100年後でもそれは信仰に影響しないと感じていたからです。

終わりが近いから献身するという動機は、無条件の献身ではありません。ハルマゲドンで滅ぼされたくない献身。救われるための条件付きの献身です。そのような献身は、後々自分の身を削るだけです。少なくとも私は、そういう生き方に幸福感を感じません。私の持つかもしれない研究生に、そのような献身をしてほしいとも思いません。

だからこそ、目ざめよ誌の記事には心底がっかりしました。そして、当時の目ざめよ誌の発行の目的(P4)に毎号その世代のことが書かれていたわけですから、今でも信じられません。さらに、いつの間にか削除されていたこともどうかと思います。

目ざめよ誌の目的という非常に重要な項目であるのに。。。削除の発表もなかったですよね。

 

協会の年代計算に関するもっと詳しことを知るために、“ふれ告げるの人々”の本のP631から始まる“彼らの期待は正しかったか”という見出しからよく読んでみました。そして、こう書かれていました。

聖書研究者は幾度か,批評家たちにあざけられるような希望や期待を抱きました。とはいえ,そうした希望や期待すべての根底には,それら熱心なクリスチャンたちの強い願いがありました。それは,潰えることのない神の約束であると自分たちが考えた事柄の成就を見たいという願いでした。

なんとこの中で、「そうした希望や期待のすべての根底に、自分たちが考えた事柄の成就を見たいという願い」があったことを認めています。

とても重要な聖書預言(年代計算)のはずなのに、神の聖霊に導かれたことが根底にあるのではなく、人間的な観点から見た期待が根底にあったのです。であれば、現在の出来事から終わりの日について人々を期待させるような記事(国際連合、野獣)も、“成就を見たいという願い”が根底にあるとしか考えられません。

 

どんなにもっともだと思える記事を書いても、それが人間的な願いを根底にしていれば、それを神が導かれた書物だと見ることができるのでしょうか。

そして、それによって導かれて、それに期待してバプテスマを受ける人たちは、神に仕える正しい動機によって、また聖霊に導かれてそうしているのでしょうか?

ですが“1914年”というメッセージがなければ、エホバの証人の伝道は成り立たないのです。

この年代計算について、その聖書預言が1914年だけでなかったことが、”ふれ告げる人々”P632~の次の記事を読んで詳しくわかりました。

・1925年までに天的な報いを受けるかもしれないと考えました。その年も、キリスト教以前の神の忠実な僕たちが天の王国の君なる代表者として地上で奉仕するために復活させられるという期待と結びつけられました。

・その後,1935年から1944年の間に聖書に基づく年代計算の全体的な枠組みを見直した結果,人類史の第7千年期は1975年に始まるので,キリストの千年統治の始まりに付随する出来事はその年に生じ始めるかもしれないという考えが、時には断定的な調子で語られました。

その後、多くの人が組織を去ったことの理由を次のように記されています。

・年代に関する失望が一つの要素となったことは確かですが,場合によっては根はもっと深いところにありました。

本当にそうでしょうか?

その根は、年代に対する期待だったのではありませんか?

この本の中でははっきりと、もともと年代計算をすることの根底は、成就を見たいという願いだったと述べているのです。

成就を見たいという願いが根底にあって年代計算されているのに、それが間違ったとき、組織を離れていく人たちのその動機に対して、「その根がもっと深いところにありました。」と言ってよいのでしょうか。

さらに驚いたのは、”1914年―期待と現実”P635~ の中で、組織を去って行った人々に対してラッセル兄弟の言われたことです。

何らかの理由で主とその真理を手放し,主のために犠牲をささげることをやめる人がいるとすれば,主に対する関心を引き起こしたのは,純粋に心の中に生じた神への愛ではなく,何かほかの事柄,恐らく,時は短く,聖別は限られた期間だけのものであるという期待であったに違いない。

ラッセル兄弟は、ここではっきりと、純粋に心の中に生じた神への愛が重要であると述べています。全くその通りです。私も同感です。本来信仰とはそうであるべきです。

この、純粋な神への愛があれば、終わりが明日来ても、死ぬまで来なくても、全く関係ないのです。

 

ですが、この中で主に対する関心について、時に関する期待であったに違いないと言われています。時について期待させて人々を集めたのはラッセル兄弟自身ではなかったのですか?そして、その後の協会の歴史はどうでしょうか。

このラッセル兄弟が強調している”純粋な神への愛”を主に対する関心事として伝道してきたでしょうか。

 

それとも、”終わりは近い”を前面に出して伝道してきたでしょうか。もちろん後者です。だから、みんな終わりにこだわり、終わりを待ち焦がれていたのです。当然です。その結果はどうでしょうか。

1914年の後、1925年、1975年、1世代のうちに終わりが来ることの明確な宣言・・・・

信仰に一番重要な、”純粋な神への愛”を人々に宣べ伝えていれば、このような年代計算は必要なかったはずです。それで、年代計算につまずいて離れてしまった人に対して、”神への愛がなかったから”とするのは非情なことであり、エホバの愛を反映させた結果ではありません。

私は、このことにつまずいて離れてしまった人たちの気持ちが、今は本当の意味で理解できます。もちろん、終わりが来そうにないから離れるというだけの人もいたかもしれません。ですが、その他の方たちは、年代を強調した奉仕をすることに良心の呵責を感じたからではないでしょうか。

本来は、ラッセル兄弟の言われた通り、神の愛を宣べ伝えたいのに、研究生をバプテスマまで導くためには、必ず1914年のことを、確信を込めて伝える必要があるからです。

そして、本当に良心的に奉仕に励むとき、それと共に”世代”についての理解を説明することも外せないはずです。協会が、あれほど確信を込めて記事にしてきた事ですから・・・

そのことを信頼して、心からそれを信じて熱心に伝えてきた兄弟姉妹たちこそ、これ以上、世代について語りたいとは思わないはずです。そして理解の調整に心を痛めているはずなのです。

そのことについて、どんなに心を痛めても、疑問に思ってもそれを自分の中で押し殺し、口に出すことすらできないのは、たった一つの理由からです。

ほとんどの兄弟姉妹は次のように考えます。

「エホバ神が唯一導いておられるのは、この組織だけだから、この組織から出ても他に行くところはない。この組織以外はすべてサタンの組織だから、ほかの教会組織に属しても、滅ぼされるだけだ。であれば、どんなに疑問に思ったことでも、良心の呵責を感じても、この組織について行き、そのことについて人々に宣べ伝えなければならない。」

もしくは人によっては、

「この部分だけは宣べ伝えないでおくことにしよう。」とか、「自分の心の声は無視して、とにかく従っていればいい。」と。

たとえ自分の心を守れなくても、この組織について行くしかないから自分の心の声を無視するのです。でも、箴言4:23では、「守るべき他のすべてのものに勝って」自分の心を守るように勧めています。なぜなら命は、”自分の心”に源を発しているからです。

ですから、他のどんなものよりも、聖書によって訓練された自分の良心に耳を傾け、それを守るべきです。それが、み言葉聖書に従った生き方であり、それを人々に伝えるべきだと私は考えます。

兄弟たちがおっしゃられたように、聖書を本当に理解するためにはエホバからの聖霊の助けが絶対条件です。でも、“時”に関するラッセル兄弟の預言とその後の世代の理解については、聖霊によって理解することはできませんでした。

神は、聖書の真理を“みどり子”に理解できるように啓示されました。この難しい年代計算を、神は本当にみどり子に理解できるように啓示されたのでしょうか。小学生の子供でも、聖霊の導きを祈り求めれば容易に理解できる真理なのでしょうか。

1914年が信仰生活(伝道活動)から絶対に外せないということは、バプテスマを受ける前に理解することが絶対条件ということになります。

私は、研究生の時に、1914年について、理解の変更がなされたものだとは知りませんでした。世代についても、1994年当時に理解されていた内容を知りませんでした。

ぜひ丁寧に教えてほしかったです。1914と世代に関する理解がセットで聖書預言であったと。

それに、“聖書は実際に何を教えていますか”の本の中でも、世代について説明がされていないのはなぜですか?1914年がエホバの証人の信仰にぜったい外せないものなのであれば、世代についても絶対に外せないはずです。この本は、以前の世代の理解の時に発行された本だと思いますが、それを書かないのはなぜですか?

 

人々を真理に目覚めさせるために発行されている目ざめよ誌の目的にはずっと書かれてきたのに、なぜ研究生をバプテスマまで導く段階で、世代のことには触れないのですか?預言が外れたら困るからですか?これはエホバの証人の中核をなす大切な聖書預言なのですから、世代についても研究生の段階で親切に教えてあげるべきだと思います。それがエホバのみ前で良心的な研究と言えるはずです。

ですが、それを語るのはある意味、とても勇気がいることです。なぜなら、それを語ることは預言を語ることと一緒だからです。自分自身の口で、人々に“時”に関する預言をエホバの民を代表して語ることになるからです。

そして、そのことを確信を込めて研究生に伝えてそれが外れた時、自分自身の口から偽りの預言を語ったことになります。

ですが、逆にそれを、エホバの証人の重要な信条として知っていながら語らないなら、真実を覆い隠しながら研究していることになります。現在の世代に対する理解についてもそうです。私は、良心が痛すぎてそのような伝道はできません。語ることも、語らずにいることもできません。

聖書に精通している長老兄弟たち、まして巡回監督や地域監督の兄弟たちは、本当に何も思われないのですか?神がこの組織を導いておられるのは間違いないのだから、ということだけで頭の隅に片付けてしまえるものなんでしょうか。

今後、出版物の記事の中では、1914年や世代についてはきっと強調されることは無くなると思います。1914年を強く語らなくても、ダニエルの他の預言と啓示の書の預言から、英米世界強国や国際連合、野獣について強調されていくことが十分予想できます。だから終わりが近いことに間違いないのだと。

確かに、終わりは近いのかもしれません。しかしそれは、数年後なのか100年後なのか分かりません。それに左右される信仰も間違っていると思います。もし、終わりが100年後、200年後だったら、奉仕を拡大しようとしないのですか?開拓奉仕はしないのですか?

私は、1914年に関する信仰に対して、その絶対条件にもともとかなっていませんでした。今でも理解できないのですから。そして、確信がないことを、確信しているかのように人々にお伝えすることもできません。

それは自分の心を守ることにならないからです。(箴言4:23)ですから、今の私は、エホバの証人として伝道する資格がないと思います。

 

しかし、きっと兄弟たちはおっしゃることでしょう。

「比嘉兄弟は、この組織がエホバ神に用いられた唯一の組織だと信じていないのですか?と・・・」

もちろん、エホバに導かれていると思います。ですが、唯一だと断言することは決してしません。唯一であると断言することは、エホバの証人以外のクリスチャンたちすべてを自分の口によって裁くことになるからです。

協会もそのことは十分承知しているはずです。公に自分たちだけが唯一だと公言できないことを。そのことが、ものみの塔2008年11月1日号P28(読者の質問に答える)に次のように掲載されていました。

読者の質問に答える

エホバの証人は,自分たちだけが救われると信じていますか

エホバの証人は,真の宗教を見いだしたと考えています。そうでなければ,宗教を変えるでしょう。そして,他の多くの宗教の人たちと同じく,救われることを願っています。とはいえだれが救われるかを決めるのは自分たちではない,と考えています。裁きを行なわれるのは神なのです。神が決定なさいます。―イザヤ 33:22。

神の言葉によれば,救われる者は,救いを願うだけでなく,救い主の指示に従わなければなりません。例えで考えてみましょう。旅人が荒野で迷ってしまいました。何とかして抜け出したいと思います。生きるか死ぬかは,助けにどう応じるかにかかっています。プライドに邪魔されて,救助者の助けを拒むでしょうか。それとも,謙遜に助けを受け入れ,安全な場所にたどり着くでしょうか。

同じように,救いは,人類の救出者であるエホバ神の指示に従うかどうかにかかっています。救いは神が与えてくださるものですが,すべての人が受けるわけではありません。神の子イエスはこう言いました。「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです」。―マタイ 7:21。

エホバの証人は,イエスの贖いの犠牲に信仰を働かせてイエスの教えに固く従う人だけを神は救われる,と信じています。(使徒 4:10‐12)神の言葉は,救いに必要な三つの事柄を明らかにしています。

(1)「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。イエスは仲間たちにそう言いました。(ヨハネ 13:35)イエスご自身,他の人々のために自らの命を与えました。その手本は,愛の重要性を際立たせています。他の人を愛する人は,救いに不可欠な特質をはっきり示しているのです。

(2)「わたしはみ名を彼らに知らせました」。イエスはみ父への祈りの中でそう述べました。(ヨハネ 17:26)イエスは,エホバという神のお名前がみ父にとってどれほど重要であるかを知っていました。それで,父の名が「神聖なものとされますように」と祈りました。(マタイ 6:9)神の名を神聖なものとすることには,その名を知り,それを聖なる重要なものとして扱うことが含まれます。救いを求める人は,イエスと同じように,神の名を用いる必要があります。そして,神の名と特質を他の人に教えなければなりません。(マタイ 28:19,20)神の名を呼び求める人だけが救われるのです。―ローマ 10:13。

(3)「わたしの王国はこの世のものではありません」。イエスはポンテオ・ピラトにそう言いました。(ヨハネ 18:36)今日,イエスを王とする神の王国(神の政府)への信仰を示している人は少数です。多くの人は,人間の組織に信頼を置いています。しかし,救われるのは,神の王国を忠節に支持する人たち,王国が忠実な人々すべてをどのように解放するかを他の人に教える人たちです。―マタイ 4:17。

救いに必要な事柄を教えられた弟子たちは,「果たしてだれが救いを得られるのでしょうか」と尋ねました。イエスはこう答えました。「人には不可能な事も,神にとっては可能です」。(ルカ 18:18‐30)エホバの証人は,救いに必要な事柄を行なおうと誠実に努力しています。そして,救われるよう他の人を助けるため,懸命に働いています。

 

この記事の中では、はっきりと誰が救われるかを決めるのは自分たちではないと言っています。ですから、エホバの証人だけが唯一神によって用いられている真のクリスチャンだと、公に宣言できないのです。

それは、人を裁くことに直結するからです。人を裁けば、その裁きによって自分自身が裁かれてしまいます。だから、エホバの証人以外に救われる人はいないとは絶対に言えないのです。

そして、この記事の中では、救いには三つの事柄が必要だと書いてあります。

①愛を示すこと
②エホバのみ名を呼び求めること
③人間の組織ではなくイエスの支配される王国に信仰を持ち他の人に伝えること。

この三つだけです。一般の人々も読まれるこの公の出版物の中では、この三つしか挙げていません。

統治体が大いなるバビロンの信じているものとして退けている三位一体や霊魂不滅、地獄に関すること、クリスマスや十字架も記載されていません。

啓示の書では、大いなるバビロンから出るように書かれているはずです。救われるためには、大いなるバビロンから出ることが必要だからです。それほど重要なことを、公の記事の中で記載しないということは、それを信じるのは個人の自由だと言われているものと解釈せざるを得ません。本当に救いに必要なことを記載しないのは偽りになるからです。

ですから、私はこの記事に書かれていることを、救いに関する協会の現在の正しい理解であると信じています。であればなおのこと、エホバの証人用の研究用の記事の中でも、上記3つ以外のことを、救いに必要な絶対条件として挙げるべきではないと考えます。そうしてしまえば、そのこと自体も偽りになるからです。

兄弟姉妹たちに対して伝えることと、外部に伝えることとが一致しないのは絶対にあってはならないと思います。常に正直であることを、統治体は教えてくださっているのですから、統治体も当然そうあってくださると期待しています。

さて、上記の3つの事柄についてですが、兄弟姉妹たちがその記事を読んだら、

「それを全て当てはめているのはエホバの証人だけだ。だからやっぱりエホバの証人こそが真のクリスチャンだ。」と思われるはずです。

しかし、外部の方には、条件が3つしかないことを提示することでエホバの証人以外でも救われることをはっきりと示しています。

なぜそう言えるのでしょうか。

①互いに対して、キリストに見倣った愛を示しているのは、エホバの証人以外のクリスチャンも行っています。そのことを否定できるのは、他のクリスチャンを“キリスト教世界”と一括りに考えるエホバの証人だけです。

②次に、神のみ名を呼びもとめることが挙げられています。もちろんエホバの証人以外にも、神のみ名を用いている組織はあります。例えばアドベンティスト教会、モルモン教、その他のプロテスタント系の少数派の教会などです。

このことは、一般の書店や図書館でキリスト教に関係する資料を読めば一目瞭然です。わざわざ背教者の出版物を読みあさる必要はありません。

アドベンティスト教会などは、賛美の歌ではっきりとエホバをほめたたえ、霊魂不滅や地獄の教理を退け、伝道もしています。ラッセル兄弟が信仰を回復させることができたのも納得できます。

③イエスの支配する王国に信仰を持ち、他の人に伝えることですが、これも当然エホバの証人だけではありません。他の教会の方からすれば、救いに必要な上記の3つを自分たちに当てはめることができるのですから、当然、今所属している教会を脱退してエホバの証人になる必要性を全く感じません。

さらに言えば、救いに必要な3つに該当しない三位一体や霊魂不滅、地獄の教理、クリスマスを退けているのもエホバの証人だけではありません。それらを退けている教会は現に存在するのです。協会から発行されている出版物の中で、このような他の教会に対する事実を教えてくれている記事を今まで目にしたことがありません。どの資料も、“キリスト教世界”として退けているだけだったように思えます。

私は間違っても、エホバの証人だけが救われると言うことはできません。統治体だけが、エホバが用いておられる唯一の経路だと断言することも、これと一緒です。それは、兄弟姉妹たちの中でも、外部の方たちに対しても決して言ってはならないと思います。他者を裁くことで、自分がエホバから裁かれることになるからです。

統治体の兄弟たちはそのことをよくご存じなので、公の記事の中で条件を3つしか挙げなかったはずです。そうでなければ、読者からの質問に対して、自分たちが神に導かれた唯一の組織だと断言するはずだからです。

以上のことを考慮した結果、私と私の家族は、エホバの証人の活動を停止し、これから別の教会を探してみます。エホバの証人をやめたいわけではありません。大好きです。ただ、1914年を軸とした信仰は持てないと思います。

 

私と姉妹のこの決定を、長老兄弟たちが背教的だと判断されれば、それに必要な処置を取ってください。私は、協会を通して聖書の知識を教えていただいていることに心から感謝しています。キリストの人格を身に着けるためには、聖書の理解が絶対に必要だと確信しているからです。

聖書を学んでいなければ今の自分はありえません。自己中心的な生き方をすることに人生の価値を見出そうとした可能性があります。人が、神のみ前でどうあるべきかについて、とても貴重な知識と経験を与えていただきました。そのことには本当に、心から感謝しています。

ですから、私は統治体の兄弟たちに対して、決して悪感情を持っているわけではありません。むしろ、エホバから統治体を通して鍛えていただいた良心の声に聴き従いたいだけなのです。

 

もし、兄弟たちにこの気持ちを伝えずに不活発になろうと思えばそうできたと思います。ですが、霊的なことを何もしなくなることは、聖書そのものに対する確信を弱めていくだけです。なので、そのようなことはしたくありません。エホバに対して霊的に家族を養っていく責任があるからです。

今後は、今までの霊的な活動と、これからの霊的な活動の形が変わるだけで、エホバを賛美し続けます。

引き続き、兄弟姉妹たちの上にエホバからの祝福があることをお祈りしています。


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14件のフィードバック

  1. 山口素子 より:

    この手紙の通りです。全く正しい。私が無実の罪で排斥になった時、私を慕ってくれていた(周囲の虐めにあっていた)歳下の姉妹から「神が是認している唯一の宗教なんだよ。たった一つしか無いんだよ!」に違和感を感じました。その違和感の正体は排斥から2年経って随分明らかになってきました。出されなければ、今でも嘘に気がつかなかったでしょう。分不相応な寄付を沢山して、尚その寄付で食べてるベテルの兄弟達に見下されてです。今はこれで良かったと思っています。戻るつもりはありません。

    • Webmaster-GJW より:

      「この組織しかない」という偽りを信じ込ませる組織は、本当に罪深いですね。人は組織によってではなく、ただ神に対する信仰によって救われるからです。山口様が、組織を離れることができたことを神に感謝します。

  2. 渡辺 実 より:

    このように素晴らしい信仰をお持ちの方々が今でも多く、エホバの証人として活動している。
    騙されているのに、気付かずにまた新たな信者を探し、結果騙してしまう。
    本当に罪深い組織だと思います。

  3. 比嘉 より:

    山口様、渡辺様、貴重なコメントありがとうございます。
    これは今から7年前の手紙になります。

    約20年間組織に交わっていましたから、その当時は本当に組織を出ることを選択するのは恐怖でした。
    しかし、今は本当の愛のある神とはどんな方なのかを味わい知ることができています。
    現在、親族が総勢20名ほどはまだ現役のエホバの証人であり、親族の中で組織を出る選択をしたのは私だけです。
    組織の罪深いところは、この組織以外にいは救いはないと信じ込ませているところだと思います。
    そんなことあるはずがありません。

  4. カイト より:

    手紙を拝見しましたが、20年もの長い間築いてきた人間関係を失うという大変な覚悟されての脱退だったのですね。私自身もJWが唯一の組織などという信仰は既にありませんが、私は現役を今も続けています。やはりそれは家族や友人との関係の維持が最も重要なことだからです。組織に一度献身表明をしてしまった以上は、友好的に脱退することは不可能であり、こうする他に選択肢がありません。しかしながら、JWが唯一の組織ではないと確信しつつ、この組織に留まることに良心の呵責を感じることもありません。それはどの組織に属しているかといったような問題はエホバ神の観点から見れば何の問題もないことだと信じているからです。JW組織には様々な欠陥がありますが、世界中で聖書を頒布し、創造者がおられること、神の王国が来ることといった、基本的な真理を伝える点において、エホバが用いておられる数ある手段の一つとしては、一定の役割を果たしている部分もあると感じるからです。それぞれ色んな欠陥を抱えつつも聖書のを教えているという点では、カトリックもプロテスタントも、JWを含む新興キリスト教もみな同じであり、どの組織が一番聖書に従っているかといった優劣に、少なくともエホバの観点からは大した意味はないかと思っています。エホバから見れば不完全な人間も人間の組織もすべてどんぐりの背比べであり「義人はいない、一人もいない」が結論ではないかと。なので、JWから脱退はしなくとも、自分なりに真理を探究しつつ、良心を働かせ、真摯に神に従っていくことは可能だと信じてやっている感じです。

    • Webmaster-GJW より:

      当サイト管理人です。長老への手紙が励ましとなったようで嬉しく思います。カイト様が考えてらっしゃる事柄について、私の見解を以下に記載させていただきます。この考えが絶対に正しいとは主張しませんが、大事な点について、新たな気づきを与えることのできるものとなれば幸いです。

      1:属している宗教組織やグループが、永遠の命の救いに影響を与えることがあるか?

      聖書は、人が組織を通してではなく、ただキリスト・イエスを信じる個人的な信仰によって救われると教えています。そのそれゆえに、人は「イエスは主である」という告白を持って、組織ではなく、キリストに属するようになり、それによって救われることになります。(ローマ10:9)
      しかし、ある組織に属しているという事実が、その人の救いを妨げることがあると、私は考えています。それは次のような理由によります。

      (1)聖書が教えている事柄によれば、この宇宙には、「転嫁の法則」が存在しています。それは、例えばあるグループの代表権を持つ者が、罪を犯した場合、その代表だけでなく、そのグループに属する他の全ての人も、同様の罪を犯したと見做される、という法則です。
      この法則によって、人類全ては、善悪の知識の木から取って食べた事が無いのにも関わらず、生まれながらに、アダムの罪を受け継ぐものとなりました。
      また同じ法則によって、罪を犯さない生活をした事が無いのにも関わらず、第二のアダムであるキリストを信じることによって、キリストの義が転嫁されるようになりました。

      (2)バプテスマの意味:バプテスマとは、その意味を決して軽視することのできない重要な宗教的儀式です。新約聖書が教える「イエスの名によるバプテスマ」とは、信仰によって義とされ、キリストと一体化した信者が、その霊的真理を公に表す行為です。

      では、エホバの証人のバプテスマとは、何を意味するのでしょうか?それは、バプテスマの前に行われる質問に、答えがあります。そこでは、「神の霊に導かれるエホバの証人の一人となる」ことに同意するのです。つまり、全てのエホバの証人は、エホバの証人のバプテスマを受けることによって、「ものみの塔」という組織と一体化するのです。そして、自分たちの代表者が「統治体である」と公に告白するのです。したがって、全世界のエホバの証人は、聖書的な「転嫁の法則」によれば、良くも悪くも、「ものみの塔」及び「統治体」と、その運命を共にすることになります。

      ちなみに、救われる信仰において重要な要素とは、ローマ10:9において、次のように記されています。そして、残念ながら、エホバの証人がバプテスマを受ける前に行う告白の中には、これらの重要な要素がありません。
      「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」
      ※もちろん、イエスの死が罪の贖いであったことへの理解も重要であることは言うまでもありません。

      (3)以上の点を考慮すると、神が、この「ものみの塔」という組織、及びその代表者である「統治体」をどう見ているのか、という点が、全てのエホバの証人の永遠の運命に関わる重要な問題だということがわかります。
      そして、私はこの問題について、多くの時間を割いて研究をしてきましたが、次のような結論に達しています。
      「統治体は神によって任命されてはいない。また「ものみの塔」は、「唯一の組織」ではなく、また「神の経路の一つ」でもなく、神から「用いられていない組織」である。」
      その事を示す詳細な理由については、当サイトの「教え」のカテゴリを見ていただければ、ご理解いただけるものと考えています。

      そして、この組織が神の組織でない以上、そのような組織と一体化した状態で人生を送っているのは、霊的にとても危険なことである、と私は考えます。全てのエホバの証人が、その危険性に気づき、組織との霊的な契約を断ち切り、ただ、イエス・キリストに属する者となることを、心から願っています。これらの点は、とても重要な問題なので、また追って、記事で取り上げようと考えています。

      • カイト より:

        ご意見ありがとうございます。ご指摘の点は私自身も長年、祈りの内に自分なりに真剣に考慮してきたつもりではあります。

        しかしながら、所詮は不完全で愚かな1人の人間に過ぎない知識と思考力でいくら考えても、出せる結論には、少なくとも今は限界があると感じています。聖書の預言や教義の解釈議論においてもそれは同じです。

        この体制において、今どんな宗教を選択するか、あるいはしないか、どのような聖書の解釈を受け入れるか、受け入れないか、こうした意思・選択において、不完全な人間の判断力が永遠の命を決定的に左右するほどの責任を持つとは考えていません。

        聖書にある通り、許されない罪(永遠の命を受けられない罪・イエスの贖いでも救いようがない罪)とは、「聖霊に対する冒涜の罪」だけだと信じています。

        この聖霊に対する冒涜の罪とは、エホバ神が絶対的な支配者であることが明らかに示され、そのご意思、聖霊の働きをハッキリと自覚・認識しているにも関わらず、それでもあえてそれに逆らうことだと理解しています。

        千年王国の最後には海の砂粒のように神に反逆する人々が出てくると預言されていますが、神の王国で千年近く生活して、心も身体も完全になってなお、その支配を受け入れたくないと確信犯的に反逆する人々がいるということです。

        これはもうどうしようもないことであり、エホバ神から見ればどんなに憐れみを示して救いの手を差し伸べても、それに応じない人々がいるということです。それこそまさに聖霊に対する冒涜の罪だと思いますが、逆に言えば、それ以外のどんな罪も、それは許されないものではないと思います。

        罪の結果は死であるという原則にある通り、神の規準という的から外れている不完全な人間は、人間的にそれがどんな些細な罪に思えることであっても、死を免れることができません。罪は死によって清算されるものであり、それゆえどんなに人を殺しまくったような極悪人でも、比較的善良に生きてきた普通の人でも、等しく死という同じ報いを受けます。これが今の現実です。

        本来はそれで終了なのですが、エホバ神はイエスの贖いという無償のプレゼントによって、人類にもう一度生きるチャンスを与えて下さったのだと思います。この体制下で不完全な人間が犯す罪はどんな罪であってもイエスの贖いを超えるものにはならない…と言い切れるかどうかは分かりませんが、少なくともマナセ王のような最低最悪の悪行をも許された記述が聖書にある通り、エホバの憐れみの大きさは私たちの常識や想像を遥かに超えていると思います。全人類の復活の希望はまさにそのエホバの憐れみの表明です。

        それゆえに、究極に私たちにできることは、イエスの贖いを信じ、エホバの憐れみに希望を抱くことだけであり、聖書を持ち出して、この人は救われるが、あの人は救われない、この組織は救われるが、あの組織は救われないなどと、不完全な人間が神の裁きを代行して考える必要は全くないと感じます。

        ご指摘のような、どの組織に属しているかが重要だという点に関しても、今の体制の不完全な命を左右するものにはなることがあったとしても(それがどうでもいいとは言いませんが)、永遠の命を左右するような「聖霊に対する冒涜の罪」に当たるとはとても思えません。

        少なくとも今この体制において宣べ伝えるべき重要なことは、エホバという創造者がおられること、イエスの贖いを通して全人類を救うこと、そして神の王国が支配を行うこと、このどんなキリスト教にも共通しているような基本的な真理だけかもしれません。そしてそうした理解・信仰さえも「救いの条件」になるとは思いません。

        神がご自身の存在と権威を、人が疑う余地のないような仕方でハッキリと表明される時が必ず来ますから、その時に個人個人がそれを受け入れるかどうか、究極的にはシンプルにただそれだけなのではないかと、今の私は考えています。

  5. 比嘉 より:

    カイトさん、読んでいただきご感想にも感謝します。

    この手紙は7年前に書きました。
    ですので、その文面にある気持ちも7年前のものです。

    私の身近な家族親族は総勢20名ほどエホバの証人です。
    その中で、家族や親族、友人知人との20年という月日の間に築いた関係を自ら断ちました。
    当時は恐ろしく寂しかったです。霊的なコミュニティが無くなることに対して恐怖さえ感じました。しかし後悔はしていません。

    今は、真理を探す旅を続けて良かったと感じています。
    人間関係のために組織に戻るという選択をすることはないでしょう。
    親族にも真実に気づいて組織から出てきてもらいたいからです。

    この手紙は、その当時の長老宛へのものとして、
    「この組織だけが唯一ではない」という表現になっていますが、
    はっきり結論から申し上げると、今の考えとしては、この組織はエホバが用いておられるとは考えていません。
    啓示の書20章にある通り、偽預言者は悪魔とともにゲヘナに行きます。
    この組織も偽預言を繰り返してきました。
    これを神が容認されている組織と言えるでしょうか。まして用いておられるでしょうか。
    偽預言の源が神ではないということは確かです。偽預言ではなかったかもしれないというレベルでもないのです。
    唯一ではないにしても神が用いておられるかもしれない。という考えもありません。

    また、永遠の命、復活の身体、地球の永続性に対する捉え方も違います。
    イエスの神性についての理解も当時とは全く異なります。

    この7年の間に、組織の出版物では決して理解することのできなかった聖書理解を数多く学んできました。

    もし真理が見つけることのできるものでないのなら、今信じていることも無意味なものかもしれません。
    しかし、真理は探し求めるためにあります。
    その過程で、真理でないと確信したことは人に宣べ伝えることはできません。
    この組織が、神に用いられている組織だとは思っていないので、そこへ導くこともできません。それが今の心境です。

    • カイト より:

      ご意見ありがとうございます。現役JWを続ける私の今のスタンスや考え方は上の方にほぼ書いていますが、少し補足します。

      私なりに聖書を長年学んできて一番感じることは、聖書は重要なことほど非常にシンプルに分かりやすく書いてるある本ではないかということです。「最初に神は天と地を造った」という、これ以上ない分かりやすさで聖書は始まりますが、これは幼い子供でも理解できる簡単な真理です。

      もちろん聖書は全体的に難解な本であり、一人で読んでも分からないことだらけです。
      聖書預言などは宗派の数だけ様々な解釈があります。それらの無数にある解釈から正解と言えるような真理を見つけ出すのは決して簡単なことではなく、見つけたと思ったところでそれが正解だという保証はどこにもありません。どこどこの教会の解釈が一番正しいと判断したところで、それは不完全な自分の判断力に依存したもので、究極には自分の好みの問題に過ぎないとも言えます。

      それゆえに意見が割れるような難解な聖書解釈ほど、少なくとも今の体制ではさほど重要なことではないと感じます。どこかの宗派の聖書解釈にのみ真理があり、神はその組織にだけ正しい理解を与えておられるとしたら、その一つを見出すのは至難の業です。その組織に属することでしか救いはない、などということが本当にあれば救いは異常に高いハードルのものとなります。そうなると救いはほとんど運に近いと感じます。

      私のようにJWの家庭に生まれ、JWの聖書解釈こそ真理であり、唯一の組織だと教え込まれてきた人間が、他の聖書解釈にも触れ、自分の信仰に疑問を持ち、JWがすべてではないのではないか、と感じられるようになるだけでも、非常にたくさんの障害があり、そこまで行く人の方が圧倒的に少ないでしょう。組織に疑問を持つことすら罪という恐怖が植え付けられているので、JW以外の聖書解釈も真剣に考慮してみるなどということはほとんどありえません。でもそれは仕方のないことだと思います。

      そうしたJWの信者も、基本的には真面目で優しい人が多く、純粋に霊的な飢えを感じている人たちばかりです。JWの組織幹部が権威主義に走り、聖書研究者としての原点を見失っているとしても、末端の信者に罪はありません。神から是認され、用いられている組織が別にあり、JWに属していることが永遠の命を失うほどの問題だというのであれば、神はJWから人々をその組織に導かれるはずです。愛の神は決して放置はされないはずです。

      しかしながら、少なくとも今のところはそのような、神の導きといえる大きな変革はありませんし、依然として世界のキリスト教には様々な宗派、聖書解釈が存在し、難解な部分ほど意見は割れていきます。

      そのような今の体制の状況を考慮して、私自身は、現時点でどの組織に属しているか、どのような聖書解釈を信じているか、といった問題は、永遠の命に関わるような問題ではないと確信するようになりました。

      イスラエルを懲らしめるためにアッシリアやバビロンでさえ神は用いられたように、神から用いられるということの定義は幅広いものです。ですから例え指導部がどんな問題を抱えていようと、カトリックもプロテスタントも、その他の新興キリスト教も、聖書を世界中に頒布してきたという点では、すべては神から用いられていると言えるのかもしれません。

      いずれにしても、1人も滅ぼされることを望まない神のご意志と、深い愛と憐れみを考慮する時に、それこそJWが教えているようなJWに属していない人は皆滅ぼされるといった考えは、決して聖書的なものではないと確信できますし、逆に言えばJWに属しているから滅ぼされるといったことも決してありえないと確信しています。全員が不完全なこの複雑な世の中で、一宗教団体の勧誘に応じなかったことが原因で永遠の命を失うなどということは、聖書の神の憐れみから考えても到底ありえないことだと感じています。

      神は個人個人を顧みて下さる方であり、1人1人の状況をよくご存じです。本当に救いに必要な事柄は、誰にでも分かりやすい仕方でハッキリと導きがあるはずです。そしてそれはエホバご自身がその存在と権威を、疑いの余地なくこの地に表される時だと思っています。自分が生きているうちかどうかは分かりませんが、いずれ必ずその時は来ますから、私たちはそれをただひたすら信じて待ち望めば良いと思っています。

      最初に書いたように、聖書は重要なことほどシンプルに分かりやすく書いてある本だと思います。聖書を誰がどう読んでも理解できるような真理は、創造者がおられること、イエスの擬制を通して罪が贖われること、神の王国が来ることくらいではないかと現時点では感じています。これらの点はどのキリスト教の宗派も概ね同じことを理解していると思います。

      これはどんなに教育レベルの低い人でもほとんど理解できる真理かと思います。今この体制で私たちに求められている信仰というのは、それくらいシンプルで分かりやすいことだけなのかもしれません。少なくとも難解な預言解釈を読み解いて抱いた信仰の先にしか救いがないなどということはとても考えられません。

      • Webmaster-GJW より:

        「聖書は重要なことほど非常にシンプルに分かりやすく書いてるある本ではないかということです。」

        >同感です。間違い無いと思います。

        「聖書預言などは宗派の数だけ様々な解釈があります。それらの無数にある解釈から正解と言えるような真理を見つけ出すのは決して簡単なことではなく、見つけたと思ったところでそれが正解だという保証はどこにもありません。」

        確かに、無数にある解釈から正解と言えるような真理を見つけ出すのは決して簡単なことではありません。しかし、正解を確証させることは可能です。それは、ユダヤ的な視点を考慮し、文脈を正しく捉えた聖書解釈が、現代においてキリストが直接的に啓示している内容と調和している場合、その解釈は非常に固い真理であることが見えてきます。
        https://true-ark.com/christ-revelation/

        ただし、次の点は分けて考えるべきです。「聖書解釈」という大きなカテゴリの中に、「預言解釈」という小カテゴリがあるわけですが、おおよそプロテスタントの教会の中で、「預言解釈の違い」が、救いに影響すると考える教会はほとんどありません。あくまで、それは二次的な問題です。

        しかし、エホバの証人の場合、その二次的な問題を絶対視し、それに従わなければ救われない、とします。これは、どんなキリスト教の教会よりも、深刻な問題ではないでしょうか?

        既に確認した通り、重要な教理、たとえば救いに関する聖書の教えは、明快でわかりやすいものであるはずです。だから、おおよそ正統と言われるキリスト教の教会において、救われる方法として共通している福音は、極めてシンプルです。それは、ルターが提唱した「信仰義認」とも言われますが、その方法は、次の聖句に要約されています。

        「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)

        とても、簡単ではないでしょうか?そして、おおよそ全ての正統のキリスト教の教会において、上記が救われる条件とされており、難しい聖書解釈への同意が先に要求されることはありません。
        そして、聖書が、人が救われる方法として、これだけ単純な真理を示しているなら、その単純な真理に逆らう場合、人はどうやって救われるのでしょうか?残念ながら、全てのエホバの証人は、このような信仰告白を行っておらず、「イエスは主です!」という認識が皆無です。また、救いの単純な真理を、1914年とか、地獄の否定とか、色々なハードルを設定し、福音を曲げています。パウロは、そういう福音を曲げる人々に対し、次のような宣告をしました。これも、単純です。

        「しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。9 私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。」(ガラテア1章)

        最終的に、エホバの証人が救われるのかどうかは、神に委ねたいと考えており、私の希望的観測では、救われてほしいと考えています。ただし、聖書の真理を深く理解すればするほど、ものみの塔の教理が、救いから全く離れていることを痛感していく日々です。

        また、救われるかどうか以前に、単純に、神の明白な命令として、組織から離れるべきだと思います。

        「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。2 そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒?し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。3 また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、4 人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、5 見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。」(テモテ第二3章)

        少し調べると、統治体が、人と和解せず、中傷し、善を好まない者、裏切る者、であることがわかります。パウロは、そういう人から「離れなさい」と命令しています。これは誰でもわかる真理です。

        「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。」(マタイ7:15)

        偽預言者から離れることは、主イエスによる命令です。誰でもわかります。なので、聖書の単純な真理に基づき、ものみの塔は離れるべき組織であることがわかります。

        なお、人は、どれだけの知識と理解を得るかによって、結論が変わるものです。私もかつて、三位一体論を巡って、クリスチャンが分裂すべきでは無い、と考えていた時期があり、ブログを書いていました。しかし、書いていく内に、キリストの神性を全く否定できなくなり、ブログを止め、考えを変えました。

        カイトさんには、是非勇気を出して、組織の外の世界と触れ合って、実際に教会へ行き、主を礼拝し、「イエスは主である!」と、心から言えるようになってほしいと思います。その時には、きっと、今のお考えに変化が生じることでしょう。そして、共に、天の御国へ行き、神の子供として、永遠を共にする仲間となることを願っています。

        私や、比嘉さんは、実際に組織から出て、多くのものにふれあい、見てきましたが、組織の中だけでは、決してわからない多くの体験をし、神に対する理解を深めてきました。だからこそ、今の考えに至っているのです。カイトさんの学びに、主の導きがありますように。

        ちなみに、以下も、単純でわかりやすい真理ですね。
        「神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。」(ローマ 8:14)

  6. 比嘉 より:

    カイトさん

    ご返信ありがとうございます。
    組織の中に属しながら自分自身の信仰を保ち続けるのは容易なことではないと思います。
    そうしながらでもどんどん聖書の理解を深めていってくださるのであれば必ず道が開けるでしょう。

    しかし、仰っておられる言葉がやはり証人特有の考え方です。
    7年前の私もほとんど似たような考え方でした。

    様々な本に出合い、様々な教会関係者に合わなければ決して出会うことのできない知識と経験があります。
    それがカイトさんには足りないように思います。

    ご返信いただいた内容で気になった言葉にコメントをつけさせていただきました。

    >どこかの宗派の聖書解釈にのみ真理があり、神はその組織にだけ正しい理解を与えておられるとしたら、その一つを見出すのは至難の業です。
    ➡そう教えているのがこの組織ですね。

    >そうなると救いはほとんど運に近いと感じます。
    ➡そう思います。JWになるのは運に近いです。

    >JWがすべてではないのではないか、と感じられるようになるだけでも、非常にたくさんの障害があり
    ➡信仰を持つうえで障害があると感じているのなら取り除いたほうがいいと思います。

    >JW以外の聖書解釈も真剣に考慮してみるなどということはほとんどありえません。
    ➡このように仰っているのですが、

    >世界のキリスト教には様々な宗派、聖書解釈が存在し、難解な部分ほど意見は割れていきます。
    ➡JW以外の聖書解釈を真剣に考慮してみたことがないのにこの言葉は言えないと思います。
     何がどのように意見が割れているのかJW以外で提供されている資料を深く学ばなければ分からないはずです。

    >JWの組織幹部が権威主義に走り、聖書研究者としての原点を見失っているとしても、末端の信者に罪はありません。
    ➡その通りです。しかしこの論理は、カトリックにもプロテスタントにも当てはまります。
     どの組織、宗派、教会に属していたとしても権威主義に走っている組織からは逃げるべきです。
     羊が食い物にされているのを知っていながら、その組織に変革をもたらすか逃げるかしないというのは良心的に不可能です。

    >カトリックもプロテスタントも、その他の新興キリスト教も、聖書を世界中に頒布してきたという点では、すべては神から用いられていると言えるのかもしれません。
    ➡神から用いられているという言葉を拡大解釈しないほうがいいです。
     大いなるバビロンもある意味用いられていますが、そうと分かったならばそこから出なければなりません。

    >JWが教えているようなJWに属していない人は皆滅ぼされるといった考えは、決して聖書的なものではない
    ➡そのことを確信しておられるのであれば、長老に訴えるか注解する機会にぜひ訴えてください。

    >逆に言えばJWに属しているから滅ぼされるといったことも決してありえないと確信
    ➡それは私も思います。決してありえないかどうかまでは分かりませんが、偽預言には関わらないほうが安全かと思いました。

    >一宗教団体の勧誘に応じなかったことが原因で永遠の命を失うなどということは、聖書の神の憐れみから考えても到底ありえないこと
    ➡このこともぜひ会衆の中で注解に含めてください。

    >誰にでも分かりやすい仕方でハッキリと導きがあるはずです。
    >私たちはそれをただひたすら信じて待ち望めば良いと思っています。
    ➡もし仮に、この組織から出なさいというハッキリとした導きがあれば出られますか?

    >聖書は重要なことほどシンプルに分かりやすく書いてある本だと思います。
    ➡その通りです。バプテスマを受けるまでの道筋はエホバの証人は恐ろしくハードルが高いです。

    >少なくとも難解な預言解釈を読み解いて抱いた信仰の先にしか救いがないなどということはとても考えられません。
    ➡エホバの証人の信仰そのものです。このことも、はっきりと長老に訴えてみてください。

  7. まさる より:

    私はプロテスタントのクリスチャンです。

    皆さんのやりとりを読ませてもらう中で疑問が生まれました。

    私たちクリスチャンは「イエスを主と告白する」ことが「救い」の唯一の条件だと理解しております。エホバの証人の方々はそれをしないということですが、ではエホバの証人の方々の「救い」とは何なのでしょうか?

    • Webmaster-GJW より:

      当サイトにご関心をお寄せいただきありがとうございます。エホバの証人は、「イエスを主と告白する」代わりに、「エホバの証人の一人となること」を宣言します。つまり、キリストに属する者となることが救いの条件ではなく、ものみの塔という組織に属することが、救いの条件とされます。「エホバと、その唯一の経路である統治体に従い続けることにより、ハルマゲドンを通過するなら救われる」というのが、全ての信者に叩き込まれている教えです。これは、新しい契約ではなく、別の契約です。この点についての詳しい解説は、追って記事で取り上げる予定です。

  8. まさる より:

    Webmaster-GJW様、ご返信ありがとうござます。

    私の最寄駅の近くで、毎週エホバの証人の方々が、交代で、非常に熱心に活動されています。その熱心さに、単純に驚きます。

    どんな思いで伝道されているのか、何が私たちと具体的に違うのか、以前からそこを通るたびに疑問に思っていました。

    引き続き、更新を楽しみにしておりますので、よろしくお願い致します。

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