聖書改ざん陰謀論の真実~エホバの御名を除き去る改ざんは、二,三世紀のクリスチャンによって本当になされたのか?

エホバの証人は、唯一の神「エホバ」のみ名を呼び求めることを最重要なものと見做していますが、その理解の重要な根拠となっている主張の一つが「西暦二,三世紀の背教したクリスチャンたちは,ギリシャ語聖書の写本の写しを作る際にみ名を取り除いた」という陰謀論です。

写本を研究するどの専門家も支持せず、ものみの塔だけが主張しているこのような聖書の改ざん問題は、かつて本当に起きたのでしょうか?

今回の記事では、実際にこのような改ざんが2~3世紀にあったのかどうかを、誰にでもわかるような形で解説し、問題の是非を明らかにしていきたいと思います。ぜひ、最後までお付き合い頂ければ幸いです。

ものみの塔は、なぜエホバの御名を取り除く改ざんがあったと主張しているのか?

組織の説明

まずは、この点について、組織がどんなことを述べているのか、出版物の文章から確認しましょう。

神のみ名と『新約聖書』
ヘブライ語聖書つまり「旧約聖書」の中で,神のみ名は揺るぎない位置を占めています。ユダヤ人はやがてみ名を発音しなくなりましたが,その宗教信念ゆえに,聖書の古い写本を作る際,それを除くことはしませんでした。ですから,ヘブライ語聖書には,神のみ名が他のどの名よりも多く記されています。

クリスチャン・ギリシャ語聖書つまり「新約聖書」の場合は事情が異なっています。啓示の書(聖書巻末の書)の写本には,神のみ名が「ヤハ」という省略形で(「ハレルヤ」という語に含まれて)出ています。しかしそれを別にすれば,聖書のマタイから啓示までの書の古代ギリシャ語写本で今日わたしたちが手にしているものの中に,神のみ名をすべての箇所に含んでいるものはありませんそれは,み名がそこにあるべきではないという意味でしょうか。イエスの追随者たちが神のみ名の重要性を正しく認識しており,神のみ名が神聖なものとされるよう祈り求めることをイエスがわたしたちに教えた事実からすると,そのようなことは考えられません。では,何が起きたのでしょうか。

それを理解するには,今日わたしたちが手にしているクリスチャン・ギリシャ語聖書の写本は原本ではないことを覚えておかなければなりません。マタイやルカ,および他の聖書筆者たちが実際に書き記した書物は十分に使用され,すぐに傷んでしまいました。そこで,写本が作られましたが,それも傷むと,それら写本の写本がさらに作られました。写本は普通,使用することを目的に作られ,保存を目的とはしていませんでしたから,これは当然予期できることです。

今日,クリスチャン・ギリシャ語聖書の写本が幾千も存在していますが,その大半は,西暦4世紀以降に作られたものです。これは次の可能性を示唆しています。つまり,西暦4世紀より前にクリスチャン・ギリシャ語聖書の本文に何かが生じ,神のみ名が省かれるようになったのではないだろうかということです。事実は,何かが生じたことを裏付けています。」『神のみ名は永久に存続する』23~24ページ

み名に対する反対
「聖書中に神のみ名を復元しようとする多くの翻訳者の努力にもかかわらず,み名を消し去ろうとする宗教的圧力も常に存在してきました。ユダヤ人は,み名を聖書にとどめてはいましたが,それを発音しようとしませんでした。西暦二,三世紀の背教したクリスチャンたちは,ギリシャ語聖書の写本の写しを作る際にみ名を取り除き,聖書の翻訳を行なった時にもみ名を省いてしまいました。現代の翻訳者たちは,み名が7,000回近く出ているヘブライ語原文に基づいて翻訳する場合でも,み名を除き去ってしまいました。(新世界訳聖書,英文1984年版のヘブライ語聖書部分には,み名が6,973回出ています。)」『神のみ名は永久に存続する』27ページ

ここでは、「西暦二,三世紀の背教したクリスチャンたちは,ギリシャ語聖書の写本の写しを作る際にみ名を取り除き,聖書の翻訳を行なった時にもみ名を省いてしまいました。」とあり、御名を除く改ざんがあったことが、あたかも事実であるかのように述べられています。

神のみ名は永久に存続する

『神のみ名は永久に存続する』の冊子(ブロシュア)

エホバのみ名を含むギリシャ語写本は存在しない

「聖書のマタイから啓示までの書の古代ギリシャ語写本で今日わたしたちが手にしているものの中に,神のみ名をすべての箇所に含んでいるものはありません。」

「西暦二,三世紀の背教したクリスチャンたちは,ギリシャ語聖書の写本の写しを作る際にみ名を取り除き,聖書の翻訳を行なった時にもみ名を省いてしまいました

これらの組織の説明からわかる第一の重要な点は、現存するギリシア語聖書の写本の中には、「エホバの御名」を含む写本が全くない、ということです。ギリシア語聖書の現存数は、実に五千以上に上るのですが、それら全ての中に、エホバの御名を表す「YHWH」は一つも見出すことができないのです。(もしあるのなら、とうの昔に、組織はその写本の情報を示してきたはずです。)

そしてこの事実は、専門的には「元のギリシア語の原本の中にも、実際に「YHWH」を含むものはなかった」ということを明白に示しています。ですから、写本の専門家でこの組織の主張を支持する人は、一人もいないと断言して良いと思います。(なぜ、そう言えるのか、理由は追って明らかにしていきます)

エホバの証人が「エホバ」のみ名を重視する理由

では、なぜどの専門家も支持しないこのような改ざん説を、ものみの塔は主張しなければならないのか、それは、もしもエホバの御名が新約聖書のギリシャ語原本にも全く含まれていないことが事実である場合、イエスを含めた紀元一世紀のクリスチャンたちは、今日のエホバの証人がするように、エホバの御名を用いていなかったということになるからであり、その事実は、エホバのみ名を重視するものみの塔という組織の土台、およびエホバの証人としてのアイデンティティを根本的に覆してしまうからです。

ですから、「二,三世紀のクリスチャンが、み名を取り除く改ざんを行ったのか」という問題は、それによってエホバの証人のグループと組織が立も倒れもする重要テーマとなっているのです。

エホバのみ名の改ざん説に対し『目ざめよ!』誌が反論する

ここからは、この改ざん問題の真相を明らかにしていきますが、大変興味深いことに、「西暦二,三世紀の背教したクリスチャンたちが、神のみ名を除き去った」というものみの塔による主張に対しては、同じものみの塔から出版されている『目ざめよ!』誌が、その説に見事な反論をしています。その箇所を以下にご紹介したいと思います。(つまり、出版物同士の主張に完全な矛盾がある、ということです)

大勢の証人たち

西暦4世紀の写本よりも,さらに時代をさかのぼる写本が出て来ようとしていました。エジプトではパピルスに書かれた聖書の写しが発見されました。その中にはミイラを包んでいたものさえあります。これらの写本は細心の注意をもって復元されました。その作成年代は3世紀にまでさかのぼります。ヨハネによる書の断片の一つは,西暦125年もの昔に作成されたものでした。それらの写本を,4世紀の写本,そして今日のわたしたちの聖書と比較した結果はどうでしょうか一言半句の違いもないというわけではありませんでしたが,その音信に変わりはありません。どこであれ手が加えられた箇所は,すぐに明らかにされます。その音信は,はっきりと響き渡っています。

5,000を超すギリシャ語写本のおかげで,原本の本文を実際に復元する上で,手づるに事欠くことはありません。これら古代写本の研究にほとんど一生を費やしたフレデリック・ケンヨンは次のような結論を出しています。

「これら幾千部もの写本すべての起源をたどってゆくと,地球上の非常に多くの異なった土地や,非常な相違の見られる環境に到達する。ところが本文の変異は,全く末梢的な問題に関するものにすぎず,実質的なものではない。これはまさに,本質的に正しい方法で伝承が行なわれてきたことを示す驚くべき証拠である

「また,これらの発見すべて,およびこの研究すべての全般的な結果が聖書の真正さの証拠となっていることを,最終的に見いだせたのは心強い限りである。そして,わたしたちは,実質的には損なわれていない,まがうことのない神の言葉を手にしていると確信しているのである」―「聖書の話」,136,144ページ。

聖書は二重の勝利者になります。聖書は本として生き続けるだけでなく,本文の高い純度を保っています。しかし,正確な本文が保たれてきたのは単なる偶然だ,という考えは道理にかなっていますか。二千年近くも前に完成され,激しい攻撃に直面した本が,幾千部もの古代写本という形で,依然として存在しているのは単なる偶然によると言えますか。しかもその古代写本の中には,原本ができてから25年以内に作成されたと思われるものもあるのです。これは,『われらの神のことばは永遠にたたん』と言われている方の力を示す豊かな証拠ではありませんか。―イザヤ 40:8。

目ざめよ!1月8日号、16-17ページ

実は、ここで引用した文章の内容こそが、新約聖書の信頼性について、写本の専門家の間で一貫して共有されている結論なのです。そしてものみの塔は、これらの文章を通して、聖書の信頼性についての専門家の結論に同意していることを、公に表明していることになるわけです。要点をまとめると、次のようになります。

  1. どこであれ、聖書の中で手が加えられた箇所は,写本同士の比較によってすぐに明らかにされます。5,000を超すギリシャ語写本のおかげで,原本の本文を実際に復元する上で,手づるに事欠くことはありません。
  2. 聖書は二重の勝利者になります。聖書は本として生き続けるだけでなく,本文の高い純度を保っています。これは,『われらの神のことばは永遠にたたん』と言われている方の力を示す豊かな証拠です。「わたしたちは,実質的には損なわれていない,まがうことのない神の言葉を手にしていると確信しているのである」

そして、以上の要点を、この改ざん問題に適用して言うならば、次のようになるでしょう。

たとえ「二,三世紀のクリスチャンが、み名を取り除く改ざんを行った」としても、5000を越すギリシア語写本の相違を比較することで、写本自体の証拠から、その間違いを明らかにすることができます。

では、写本同士の比較から、この問題について何がわかるのか?それは、エホバのみ名を含む写本が存在しない、という事実です。もしも誰かが改ざんしても、原本に存在していたのであれば、多くの写本がエホバのみ名が原本にあったことを証明してくれていたことでしょう。しかし、どの写本にもエホバの御名が見いだされないということは、はじめから原本にもその御名は存在しなかったということなのです。

このように、5000を越すギリシア語写本のおかげで、私たちは「エホバのみ名を取り除く改ざんはなかった」と確信を持って言うことができます。「『われらの神のことばは永遠にたたん』」と書かれている通りです。

写本の研究を通して新約聖書の正確性に絶対的な確信を得たフレデリック・ケンヨン卿

改ざん問題をさらにわかりやすく考える

以上の説明からも、この問題の是非をある程度わかっていただけたかと思いますが、ここからは、「エホバのみ名を取り除く改ざんはなかった」という事実をさらにはっきりと理解していただくために、実際に「改ざんする側の視点」に立ってこの問題を考えてみたいと思います。。以下の三つの事例を想定し、順を追って説明していきます。

  1. 第一の例:ヨハネの福音書、写本数2、保管場所がエペソ教会のみの場合
  2. 第二の例:ヨハネの黙示録、写本数7、保管場所がエペソを含むアジアの七つの教会
  3. 第三の例:新約聖書27書、写本数、保管場所は多数

第一の例:ヨハネの福音書、写本数2、保管場所がエペソ教会のみの場合

最初に、エホバの御名を含むヨハネの福音書の写本が、原本が書かれたと考えられるエペソ周辺で二つだけ作成されたと考えましょう。そして、この二つを、エペソ教会が責任を持って保持していたと仮定します。

第二の例:ヨハネの黙示録、写本数7,保管場所が七つの教会の場合

地図の出典は新世界訳2017アプリ

紀元二世紀になり、当時の教会の監督が、「エホバの御名を除いて主にするべきだ。後代に、エホバの御名を含むヨハネの福音書が残らないようにしよう」と考え、それを実行しようとしたとします。それはやろうと思えば、簡単ではないかもしれませんが、不可能なレベルではありません。

なぜならこの場合、「エホバの御名を除き去る」罪に共謀するよう、あるいは「エホバの御名を除くべき」という考えに同意させなければならない人は、同じ教会内の少数に限定されますので、難しそうではありますが、場合によってはなんとか可能なレベルとなるからです。

※ものみの塔が想定しているヨハネの福音書内の「エホバ」の出現数も10カ所程度です。

第二の例:ヨハネの黙示録、写本数7,保管場所が七つの教会の場合

では次に、ヨハネの黙示録の原本を写した写本が七つ作成され、イエスの指示通り、小アジア周辺の七つの地域に送られたとします。その後、それらの七つの写本が各地の教会で責任を持って保管されたとします。(これは仮ではなく、実際にそのようにされた可能性も高いと思われます)

第一の例:ヨハネの福音書、写本数2、保管場所がエペソ教会のみの場合

写本が七つの異なる場所に行き渡るだけで、神の御名を除き去ることが不可能になる

さて、二世紀に入り、エペソの教会の監督が「エホバの御名を除いて主にするべきだ。後代に、エホバの御名を含むヨハネの福音書が残らないようにしよう」と考えたとします。自分が監督するエペソの教会の写本はどうにかなるとしても、問題は他の六つの教会です。

ものみの塔が推定するヨハネの黙示録中の「エホバ」の推定出現個所は18カ所ですが、それら18カ所において、御名を除き去る改ざんをすべきだという持論を、他の六つの教会の監督に持ち掛けて、彼らを説得する必要があります。しかし、ここで二つの重大な問題に直面します。一つ目は、黙示録の中に、次のように書かれていることです。

「わたしは,すべてこの巻き物の預言の言葉を聞く者に証しする。これらのことに付け加える者がいれば,神はこの巻き物に書かれている災厄をその者に加えるであろう。19 また,この預言の巻き物の言葉から何かを取り去る者がいれば,神は,命の木から,また聖なる都市の中から,すなわち,この巻き物に書かれているものから彼の分を取り去られるであろう。」啓示(ヨハネの黙示録)22章18~19節、新世界訳

エホバは、この預言の書の中からどんな文字でも取り除くなら、その人は滅びると警告しているので、ユダ・イスカリオテのような人物でない限り、そのような意図的かつ深刻な罪に共謀しようとしたりはしないでしょう。

もう一つの問題は、2~3世紀の教会の監督たちは、多くの場合、筋金入りの信仰者であった、という事実です。というのは、当時のローマ帝国内では、迫害が断続的にあったため、クリスチャンとなることは、まして教会の監督となる者には殉教の覚悟が求められました。

キリストのためには命を捨てることも辞さないような覚悟を持つ教会の監督たちが、そんな意図的な罪に加担することなどあり得たでしょうか?万が一そのような人がいたとしても、六つの全ての教会の監督が、そのような罪に合意することなどあり得たでしょうか?それは、明らかに不可能です。

※間違いなく、二世紀のスミルナの教会の監督であったポリュカルポスを説得することは不可能だったことでしょう。彼は、使徒ヨハネの直弟子であり、殉教に至るまで忠実に歩んだことが伝承から証明されている高潔な人物です。そして、このような信仰の勇者たちが各地域の教会を監督していたというのが、西暦2~3世紀の時代背景なのです。

さて、これらの事例を実際に比較してみると、写本の数と保管場所が少数に限られている場合と、写本数と保管場所が多岐に渡る場合とでは、「エホバの御名を除き去る」という陰謀を成功させる難易度に、雲泥の差が生じる、ということがおわかりいただけたと思います。つまり、一たび写本が複数の場所に行き渡り始めると、原本の文字を除き去ることがたちまち困難になっていくのです。

「『新約聖書が信頼できる、特に他の古代文献に比べて俄然信頼できるという理由は、今までに残されてきた写本の多さにあります。』と博士は答えた。
『どうしてそれが重要なのでしょうか』
つまり、同一の写本が多いほど、特に違う場所から同一の写本が見つかった事例が多いほど、それぞれの写本を見比べて原本の内容を推察することがしやすくなります。・・』」(ナザレのイエスは神の子か、94ページ)

上記は、新約聖書研究の権威であるブルース・M・メツガー博士によるコメントです。メツガー博士によれば、新約聖書が信頼できる理由は、(1)写本の多さにあること、(2)加えて同一の写本が違う場所から見つかる事例が多い、とされていますが、なぜそう言えるのか、これまでに挙げた二つの事例を通して、きっとその仕組みをお分かりいただけたと思います。

第三の例:新約聖書27書、写本数及び保管場所は多数

では最後に、実際の新約聖書の場合を想定して考えてみましょう。書簡数は27に上り、作成された写本数や保管場所の数がかなりの規模になっていたことは明らかです。ざっと図で表すと、以下のようになるでしょう。

第三の例:新約聖書27書、写本数及び保管場所は多数

27の書簡の写本があらゆる地域に行き渡ると、収集がつかなくなり、神の御名を除き去ることが全く不可能になる|地図の出典は新世界訳2017アプリ

エホバの証人の予測では、27の書簡の全てに「エホバのみ名」が含まれていたことになるので、二世紀初頭には、すでにそれらの写本が膨大な地域に広まっていたことになります。先ほどの事例2で挙げた通り、写本が七つの教会に広がっただけでも原本から神のみ名を除き去ることが不可能なほど困難になりますが、これだけの広範囲の地域に27の書簡がバラバラに広まっていった場合、説得しなければならない保管先も多くなり過ぎてしまい、どの書簡の写本がどこまで広がったのかも把握することが不可能になるため、神の御名を除き去ることは全く不可能になるのです。

もしできたとすれば、当時の写本が保管されていた広範囲の地域全てのクリスチャンが、聖霊ではなく悪霊に満たされ、「エホバの御名を除かねば」という思いと、「どの個所を取り除いて主に置き換えるべきか」ということについての超自然的な確信と一致が与えられ、それらがある期間に漏れなく取り除かれた、という以外にはありません。

ただ、そんな空想の神話を認める専門家は誰もいませんし、万が一そんなことあったとすれば、エホバの御名の問題だけでなく、聖書の信頼性が根本から覆ることになり、エホバの証人の発行する「新世界訳聖書」も、共にその信頼性が覆ることになるのです。

結論

ですから、この問題の結論は、すでにものみの塔自身が答えている通りです。5,000を超すギリシャ語写本のおかげで,原本の本文を実際に復元する上で,手づるに事欠くことはありません。それゆえに、神の御名を表す「YHWH」を含む写本が一つも存在しない事実から、「エホバの御名を除く改ざんはなかった」と確信を持って言うことができるのです。加えてこの結論は、写本の問題を少しでも学んだことのある人であれば、誰でも簡単にわかるようなことなのです。

ですから、ものみの塔協会が今でもこの改ざん説を言い続けている理由は、写本の問題についてあまりにも素人なのか、意図的な嘘をついているのか、悪魔によって完全に盲目にされてしまっているのか、のどちらかになるでしょう。

最後に、ではなぜ一世紀の聖書筆者たちは、「エホバの御名」を書簡の中に含めなかったのでしょうか?それは、日々の信仰生活の中で、その御名を用いていなかったからです。

では、彼らはなぜ「エホバの御名」を用いる必要を感じなかったのでしょうか?その理由は、第一コリント1章が明らかにしています。

「コリントにある神の会衆へ。皆さんはキリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ,招かれて聖なる人となりました。他のあらゆる場所でも,主イエス・キリストの名を呼んでいる人たちが招かれています。キリストはその人たちと私たちの主です。」新世界訳2019

父なる神は新しい契約の時代において、イエスを万物の主と定め、この方のお名前「イエシュア」の名を救いのために呼び求めるよう定められたのです。

ではなぜものみの塔は、エホバの証人は、最も呼び求めるべき名がイエスの名であることに気が付かないのでしょうか?その理由は、イエスが誰であるのかについての決定的な誤解があるからです。イエスを過小評価しているからです。

神の民が呼び求める御名が旧約から新約にかけて「エホバ」から「イエス」に変わったということは、イエスの名にはエホバの名と同等の救いの力と権威があることを意味しているのです。つまり、イエスは神であり、エホバご自身だったのです。

 

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