【断絶届】元エホバの証人の姉妹が書いた長老団への脱会届の全文をご紹介。数十年の信者生活に終止符


【断絶届】元エホバの証人の姉妹が書いた長老団への脱会届の全文をご紹介。数十年の信者生活に終止符

ハレルヤ!数十年間に渡り、エホバの証人として活動をした元エホバの証人の姉妹が、組織の長老団へ提出した断絶届けの全文をご紹介いたします。単なる脱会届ではなく、エホバの証人の教えが聖書といかにかけ離れているか、ということについての姉妹の発見が丁寧に説明されています。組織の教えの聖書的な問題点を知る上で、とても役に立つ文章となっているので大変お勧めです。どうぞお読みください。

※諸事情により、個人情報に関する部分には修正を加えておりますが、それ以外の文章は全て原文のままです。

疑念の始まり

ご無沙汰しておりましたが、私の近況をお知らせする必要を感じ、手紙を書かせていただこうと思いました。

私は、2019年秋ごろから少しずつ会衆に違和感を覚えるようになり、心身共に疲れを感じるようになりました。講演で、「エホバ神は組織の指示に従う事を望んでおられる」と語られたり、「逃げ出したくなるような割り当てでも従うなら信頼されます」というコメントや誰が何を言ったか、行なったか明らかにされる事なく「警告が与えられるかも知れません」と集会中、威圧的な発表がある等、権威主義的な空気に呼吸困難になりました。

本当に神は、この組織を用いておられるのだろうかと、私の心の声が尋ねて来るようになり、真実を教えて下さいという、祈りと共に、組織に禁じられている領域に飛び込み、調べることを始めました。

元統治体の成員であった、レイモンド・フランズ著『良心の危機』を読み、組織内の権力構造を詳しく知ることが出来ました。神様から個々の人に与えられている自分の意思を決定する権利を組織が奪うならどんな結果になるか、考えさせられました。

『ものみの塔のアキレス腱』中澤啓介著では、エルサレムの陥落した年代は世界史の本、百科辞典、どの古代文献を見ても西暦前587年に起こったと記されているけれど、ものみの塔協会だけが、西暦前607年と主張している事を知りました。西暦前607年でなければ1914年にキリストが天で王となり「終わりの日」が始まったという重要な教義が崩れてしまうからです。年代計算に20年の誤差があるのなら、思慮深い奴隷の任命に関する教義も危ういものとなり、その教えについても調べてみる必要があると感じました。

エホバの証人ではなくイエスの証人

ものみの塔では、クリスチャンは、神のみ名の民としてエホバの証人と呼ばれるべきで、それ以外のキリスト教世界のクリスチャンは大いなるバビロンの主要な部分で、滅びに定められていると学びました。でも、聖書を素直に読むと、使徒1:8では「聖なる力があなたたちに働く時、あなたたちは力を受け、エルサレムで、ユダヤとサマリアの全土で、また地上の最も遠い所にまで、私の証人となります。」(新世界訳2019年版)と書かれていています。イエスは弟子達に「私の証人」となると予告され「エホバの証人」ではなく「イエス・キリストの証人」となる事が、クリスチャンに与えられた使命だと分かります。

聖霊について

この訳では、聖霊は単なる活動力という意味ですが、聖霊について書かれている数々の聖句により、聖霊は人格を持つお方である事がわかります。エフェソス4:30では「神の聖なる力を悲しませてはなりません。」とあり聖霊は感情を持たれる事が分かります。

ヨハネ14:26では「聖なる力が、あなたたちに全てのことを教えるとともに、私が話した全てのことを思い起こさせます。」とあり、聖霊は教えて下さる方であることが分かります。

ローマ8:26では「聖なる力も、弱い私たちを助けてくれます。祈るべきなのに何を祈り求めれば良いか分からないとき、私たちの声にならないうめきと共に、聖なる力が願い出てくれるのです。」とあり、聖霊は助け、とりなしをして下さる方であることが分かります。

まだまだ多くの聖句が聖霊は導いたり、語り、聞き、話し、示し、現し、受け、知らせると述べています。

また、使徒5:3−4では、「ペテロは言った。『アナニア、なぜサタンのなすがままに大担になって、聖なる力をだまそうとし、畑の代金の一部をひそかに取っておいたのですか。畑は売る前、あなたのものだったのではありませんか。売った後も、代金はあなたが自由に出来たはずです。どうしてこのようなことをしようと思ったのですか。あなたは、人ではなく神にうそをつきました。』」と書かれています。

3節でペテロはアナニアに聖なる力を騙そうとしたと言い、4節ではアナニアは神に嘘をついたと言い、聖なる力を神と同等に見ています。このことから、聖霊は神の属性を備えたお方だと分かります。

イエス・キリストについて

エホバの証人は、イエスは神ご自身が創造された被造物と教えています。

これも聖書の記述を素直に読むと、ヨハネ20:28−29で「トマスは言った『私の主、私の神!』イエスは言った『私を見たので信じたのですか。見なくても信じる人は幸福です。」と書かれている事から、主イエスはトマスの信仰告白をお叱りにならず、受け入れられたことが分かります。この事からイエス・キリストはトマスの神であり、私達の神でもあると聖書は述べています。

イエス・キリストが造られたものではないことは、ヨハネ1:1−3からもわかります。「初めに、言葉と呼ばれる方がいた。言葉は神と共にいて、言葉は神のようだった。全てのものはこの方を通して存在するようになり、彼を通さずに存在するようになったものは一つもない。」と書かれていています。

『初め』というのは3節からわかるように、創造の業以前という意味です。創造が始まる前からおられた言葉であるイエス・キリストは創造された存在ではなく、永遠から存在するまことの神だと理解出来ます。

コロサイ1:17でも「神の子は他の全てのものよりも前から存在し」とある通り創造が始まる以前からキリストは存在しておられた造り主というのが真実だと気付かされます。

では、なぜイエスは、「父はわたしより偉大だからです。」と言われたのでしょうか。(ヨハネ14:28)
ヘブライ2:17−18には「イエスは全ての点で自分の『兄弟たち』のようにならなければなりませんでした。憐れみ深く忠実な大祭司となって神に奉仕し、人々の罪を償う犠牲を捧げるためです。イエスは自分が試練に遭って苦しんだので、試練に遭っている人たちを助けることが出来ます。」と書かれています。

イエス・キリストは人類に対する愛ゆえに自らを低くしてその地位を捨て、人間として33年間生活し、神として当然持っていた力や特権を使わず、いつも父なる神に頼りながら人間として、私達と同じ苦しみや悩みを味わわれました。それで、私達人間と同様に天におられる父なる神に、いつも頼り導きを求め力をいただく必要があったので「父はわたしよりも偉大だ」と言われたのではないでしょうか。

三位一体について

ここまでのところで、天の父エホバも、子イエスも、聖霊も人格のある神だと聖書が述べていることを見てきました。しかし、聖書は同時に申命記6:4で「私たちの神エホバは、ただひとりのエホバです。」と神は一人、一つであると教えています。

では、どうして天の父エホバと子イエス、聖霊が三つの人格でありながら、ひとりの神になり得るのでしょうか。神がひとりであるという意味は、父も子も聖霊も性質において同一であり、愛においても聖なることにおいても義なることにおいてもいつも一つの思いと目的をもって働かれ、別々に行動するということはないので三人の神がいるのではなくひとりの神のみがおられると、後述する聖句(マタイ28:19−20)から理解出来ます。

三つが同時に一つであり得るということが論理的、合理的にどう可能であるか二つの実例があります。

水は、温度により個体、液体、気体と三つの状態に変化します。いずれの状態もH₂Oという同じ基本物質、性質の表れです。水は固体も液体も気体も水素二個と酸素一個で出来た簡単な物質ですが、それが形に現れた三つの状態でありながら、しかも一つの性質にとどまっています。そうであれば、この物質の創造者は、ご自分でそうしようとお決めになるなら、父、子、聖霊という三つの人格と一つの性質を持った存在でありうるはずです。

もう一つの実例は光の三原色です。光の三原色は、赤・青・緑であり、他の全ての色は、この三つから出来ています。興味深いことに、この三つの色を同じ割合で組み合わせると白い光が出来ます。赤・青・緑の三つの色を重ねると一つの色、白になります。白は一つの色ですが、三つの色からなっています。三つですが、一つ。一つですが、三つ。説明し難い現象ですが、事実です。

ものみの塔では、キリスト教世界で一般に教えられている「三位一体」の教理を否定します。「三位一体」とは前述しましたように、統一体としてのひとりの神が、父・子・聖霊の三つの人格を備えていて、三つの人格でありながら同じ性質と属性を備えているという教理です。「三位一体」という言葉が聖書に出てこなくても、その事実と教えがあるかどうかという事が大切ではないでしょうか。

マタイ28:19−20には「それで、行って、全ての国の人々を弟子としなさい。父と子と聖なる力の名によってバプテスマを施し、私が命令した事柄全てを守るように教えなさい。」と書かれています。この「名」という言葉はギリシャ語では複数形ではなく単数形です。父と子と聖霊がそれぞれ違う名前を持っているのではなく、父も子も聖霊も同じ一つの名前を持っているという事です。

名前というのは性質を表すものであり、父も子も聖霊も本質において一体であるという意味です。つまりこの聖句は「三位一体」の教理を表していると分かります。

別のイエス、別の霊、別の良い知らせ

このように調べていく事により、私は、ものみの塔で学んだ教えが、コリント第二11:4に「実際、誰かが来て、私たちが伝えたのとは別のイエスを伝えたり、皆さんが持つようになったのとは別の精神を持たせようとしたり、皆さんが受け入れたのとは別の良い知らせを告げたりすると、皆さんはすぐに許容してしまいます。」と書かれている、別のイエス、別の精神、別の良い知らせであるという結論に達しました。

救いに関しても、エフェソス2:8−9で「この惜しみない親切のおかげで、皆さんは信仰のゆえに救われました。この救いは皆さん自身によるものではなく、神からの贈り物です。自分の行いによるものではありませんから、誰も誇ることはできません。」とあり、ただキリストを信じることにより義と認められることによると学びました。

生活を改めて、神の律法を守るようになり、伝道してキリストに従って歩んでいるという証拠を示した後に救われるのではなく、罪の中に死んでいた私たちが自分の罪を認めて、キリストの贖いのみわざを信じた瞬間、神は私たちをありのままに受け入れて救ってくださったのだと、理解する事が出来ました。

これこそが罪深くて繰り返し間違いをしてしまう私たちのどうする事も出来ない状況からの唯一の救いの方法であり、真の良いたよりだと思いました。

続く、エフェソス2:10で「私たちは神に造られたのであり、キリスト・イエスと結ばれて善い仕事を行うために創造されました。その仕事は、私たちが行うよう神が前もって決めていたものです。」とパウロは信仰によって、救われた人々に対して語っています。

このことから、行いは救いを得るための手段ではなく、救われた結果であることが分かります。 ですから組織からの指示に忠実に従うことにより、洗礼の資格を得てから、水のバプテスマというのは聖書的ではないと理解出来ました。

エホバの証人ではなく、イエスの証人として生きる

先月、私は組織ではなく、イエス・キリストが創造者、贖い主、人生を導く主であるという信仰に基づいて、イエス・キリストとの一体化を望み、水の洗礼を受け直しました。

私は、「エホバの証人」としてではなく「キリストの証人」として生きる道を選びました。

私は、およそ数十年前に『エホバの証人』としての水のバプテスマを受けていましたので、断絶の意向をお伝えしなければならないと思いました。

同時に、統治体の成員の方々を忠実で思慮深い奴隷であると信頼し、活動しておられる皆さんお一人お一人が、ヨハネ第一5:1「イエスがキリストであることを信じる人は皆、神から生まれました。」という言葉の意味を知り、救いは組織にではなく、イエス・キリストにあることに気付いて下さることを願っています。

「私は道であり、真理であり、命です。私を通してでなければ誰も父のもとに行くことは出来ません。」ヨハネ14:6

長文をお読み下さり感謝します。

兄弟姉妹が一人でも多く、真理を知り、真理によって自由になられますよう、お祈りしています。(ヨハネ8:32)

 

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4件のフィードバック

  1. たかちん より:

    わたしも元JWでしたが彼らの教理に違和感や疑問をもちはじめ、離れました。いまはあなたと同じキリストイエスの証人ですよ。
    ありがとう

  2. 小野田雄二 より:

    主イエス・キリストの御名を讃美します。
    素晴らしい証に感謝です。
    この姉が願っておられるように、救いは組織にではなく、イエス・キリストにあることに気付いて下さる証人の方が、一人でも多く起こされますように。

  3. このサイトがまだ活動されていたことと、そして姉妹の決意に触れることができたことに、なんだか感謝です。
    正直、私には姉妹の論理展開はわたしにはよくわかりませんでしたが、でも何より、姉妹があの重いくびきを課す非情な組織から逃れて、そうやって残りの人生を(私にはよくわかりませんが、たぶんキリストの愛のうちに)歩めることは、何よりの良い便りです。
    姉妹はわたしのブログや私の思いには触れたことはないかと思いますが、姉妹の経験を拝読して、この10年ぐらいの私の活動が報われた気持ちになりました。ありがとうございます。
    Nスぺで「神の子はつぶやく」というドラマが放映されました。自分的には「神の前で、神と共に、神なしに生きる」という言葉が心に響く昨今ですが、それでも姉妹が残りの人生を可能な限り幸せに送られることを願っております。
    かくあれかし!

    • Webmaster-GJW より:

      ももきちさん
      ご無沙汰しております。
      以前に、データを拝借させていただいたと思います。その節は大変ありがとうございました!
      サイトは記事の更新が途絶え気味ではありますが、変わらずこのサイトのコンテンツを必要としている人を神様が導いて下さっていることに感謝です。
      ももきちさんは、今は神様の信じるところから離れ気味なのですね。

      私は組織を出てから、神とイエスが物凄く身近になっていき、今も生きて働かれるイエスを毎日ありありと体験させていただいています。
      ももきちさんにも、神の恵みと祝福が注がれていきますように!

      ※以下の動画に、私の証しを紹介していますので、ご紹介させていただきますね
      https://youtu.be/FjNdkLinMR0?si=-VHX5E03Up7qZsEp

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