イエスに祈るべきですか?聖書からその答えを確認します


イエスに祈るべきですか?聖書からその答えを確認します

エホバの証人は、イエスが神では無いと信じているので、「イエスに祈る」という発想自体がそもそもありません。一方、イエスの神性を認めるキリスト教の中では、イエスに祈りを捧げている人が多く見受けられます。(イエスを基本的な祈りの対象とは見做さない立場も存在します。)

当サイトの管理人は、聖書を改めて読み直していく中で、イエスへの祈りも全然ありだということに気づきましたが、なぜそのような結論になったのか、イエスへの祈りの是非について、本記事で説明していきたいと思います。

祈りの基本形は、父なる神に対して

まずは、このテーマについてのエホバの証人の立場を確認してみます。

誰に祈るか イエスは,「天におられる私たちの父」に祈りなさいと教えました。(マタイ 6:9)「私は道であり,真理であり,命です。私を通してでなければ,誰も父のもとに行くことはできません」とも言いました。(ヨハネ 14:6)それで,イエスを通してエホバに祈るべきです。」(神は祈りを聞いてくださる

確かに聖書は、マタイ6章で、「天の父に祈りなさい」と言っています。

「今この時まで,あなた方は何一つわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなた方の喜びが満ちるためです」。―ヨハネ 14:6,13,14; 16:24。・・・これらの言葉は非常に印象的です。ある参考文献は上述の最後の言葉について,「祈りの歴史における転換点」と述べています。イエスは,今後は神ではなく自分に向かって祈るべきだと言っていたのではありません。エホバ神に近づく新たな道を開いていたのです。」(イエスの名によって祈るのはなぜですか

キリスト以降の時代において、信者は「イエスの名によってエホバ神に祈るようになった」とされていますが、引用されているヨハネの聖句の文脈を考慮すると、確かにこの約束は、イエスの名によって、父なる神に祈ることを想定して語られた様子が伺えます。根拠は、次の聖句です。

「あなた方がわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選び,あなた方が進んで行って実を結びつづけ+,しかもその実が残るようにと,わたしがあなた方を任命したのです。それは,あなた方がわたしの名によって父に何を求めても,[父]がそれをあなた方に与えてくださるためです+。」(ヨハネ15:17)

「またその日には,あなた方はわたしに何の質問もしないでしょう。きわめて真実にあなた方に言いますが,あなた方が父に何か求めるなら+,[父]はそれをわたしの名によって与えてくださるのです。」(ヨハネ16:23)

また、使徒の働き以降の書簡を確認していくと、祈りに関する聖句では、基本的に、イエスに対してではなく、父なる神に対して捧げるよう促す内容が多くあります。

「何事も思い煩ってはなりません。ただ,事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい。」(フィリピ4:6)

以上に挙げた聖句を考慮していくと、確かに、エホバの証人の主張する通り、聖書が教える祈りの基本形は、イエスではなく、父なる神に対してであることが伺えます。

イエスへ祈ることはできるのか

主イエスへの祈りの事例

では、祈りの基本形が父なる神に対してだとはいえ、イエスへ祈ることは間違いなのでしょうか?まず、新約聖書の中では、いくつかの聖句において、イエスへの祈りが捧げられていると見られる場面が登場します。

「そこで彼らは二人の者,つまりバルサバと呼ばれ,またの名をユストというヨセフとマッテヤとを立てた。24 そして彼らは祈って言った,「すべての者の心を知っておられるエホバ,これら二人のうちどちらの者を選んで,25 この奉仕の務めと使徒職の地位をお取らせになるのか明らかにお示しください。自らの所へ行こうとしてユダはそれから外れたのです」(使徒1:23〜25)

ここで新世界訳が「エホバ」と訳している箇所は、原文では「主」(キュリオス)ですが、使徒の働き以降の文脈上、「主」という称号は基本的にイエスに対して用いられるようになっており、同じ使徒の働き1章内でも、「主」はイエスに対して用いられています。加えて、この場面は、十二使徒の新メンバーの選びを祈り求めている箇所ですから、そうした文脈を考慮しても、ここでの「主」はイエスを表していると判断して問題はないでしょう。

「「それで,この悪い行いを悔い改め,あなたの悪い考えをできれば許してもらえるようエホバに祈願しなさい。 23 私は,あなたが苦い毒,不正の奴隷であることが分かります」。 24 それでシモンは言った。「あなた方が言ったことが何も私に起きないよう,私のためにエホバに祈願をしてください」」(使徒8:22〜24)

魔術師シモンの偽善が、ペテロに暴露されている場面ですが、「エホバに祈願しなさい」における「エホバ」は、原文では「主」なので、「主イエスに祈願しなさい」という意味である可能性が濃厚です。

主イエスの名を呼び求める

「コリント+にある神の会衆,キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ+,聖なる者+となるために召されたあなた方,ならびに,いたるところでわたしたちの主イエス・キリスト,すなわちその主でありわたしたちの[主]である方+の名+を呼び求めているすべての人たちへ:」(コリント第一1:2)

1世紀のクリスチャンたちは、例外なく、「主イエスの名」を呼び求めていました。旧約時代、神の民は「エホバの名」を呼び求めていましたが、新約時代は「イエスの名」を呼び求める時代へと移行したわけです。では、「呼び求める」とはどういうことでしょうか?それは、救い主イエスに対して「主よ、お救いください!」と語りかけることです。

ですから今の時代は、主イエスは、クリスチャンから「救い主」として語りかけられるべき、呼び求められるべき存在であることがわかります。そして、クリスチャンが何かのことで神に語りかけるならば、それは祈りともいえるでしょう。

主イエスと交わる

「見よ,わたしは戸口に立ってたたいている。わたしの声を聞いて戸を開けるなら,わたしはその者の[家]に入って彼と,そして彼はわたしと晩さんを共にするであろう。」(啓示3:21)

主イエスは、ご自分を救い主としてお迎えする人の元へ行き、「晩さんを共にする」と書かれています。ユダヤ的な文脈では、食事は人との交わりを表す重要な行為であり、お互いの平和な関係を確認するものともなります。

復活のイエスが、弟子たちと食事をする場面が、新約聖書の中には何度か登場しますが、その食事は、イエスを見捨てて逃げた弟子たちを、主が赦し、受け入れたことの証明ともなるわけです。(ちなみに、現代においても、この感覚はユダヤ人の間に残っており、彼らは、嫌いな人とは食事をしたがらないことで知られています。)

では、クリスチャンがイエスと交わりをもつ、ということは何を意味しているのでしょうか?それは、クリスチャンがイエスと語り合うことを意味しているのではないでしょうか?!「主よ、この病から私を救ってください」「主よ、この問題に立ち向かう強さを与えてください」「主よ、今日は、どこへ伝道に行くのが、あなたの御心ですか?」という風に、語りかけることができるのではないでしょうか?

そして、聖霊〜イエスの霊によって、その答えを受ける取れる神の子供としての特権を、クリスチャンは与えられているのではないでしょうか、ハレルヤ!

結論

以上の考察をまとめると、次のようになると思います。

  • 聖書が教える祈りの基本形は、父なる神に対し、主イエスの名によって祈ることである。イエスは、父と私たちとの間に平和な関係をもたらすために十字架にかかったのだから、これは当然のことである。
  • 一方、新約以降の時代において、イエスは、「唯一の主・救い主」となり、私たちが呼び求めるべき、交わりを持つべき対象となった。だから、神の子供とされたクリスチャンは、日常的に、イエスに対し「主よ」と語りかけ、祈ることができる。

最後に、父なる神と、主イエスへの祈りを持って、この記事を閉じたいと思います。

「アバ、父よ(天のお父さん)、罪深い私たちとの和解のために、最愛の独り子を送ってくださり、心からありがとうございます。あなたの永遠の愛と恵みによって、私たちの罪は赦され、あなたの子供となることができました。今、あなたのことを「お父さん」と呼び、その懐に大胆に飛び込むことができる恵みを、主イエスの名によって感謝します。

主イエスよ、あなたが、全ての栄光を犠牲にし、私たちのために苦しみを通り、完全な贖いを成し遂げてくださったこと、心からありがとうございます。あなたは私たちの救い主であり、また心から信頼できる友でもあります。あなたに語りかける時、あなたに願いを伝える時、いつも私に語りかけ、あなたの声を聞かせてください。あなたとの交わりによって、私がいつも喜びを得るようにさせてください。アーメン」


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