「囲いの羊」と「ほかの羊」とは誰のことですか?

「囲いの羊」と「ほかの羊」とは誰のことですか?

エホバの証人は、天的な希望を抱く「十四万四千人」のグループと、地的な希望を抱く「大群衆」のグループに分かれるわけですが、この大群衆を表す他の呼び名としてよく用いられるのが、「ほかの羊」です。

ヨハネ10章を読むと、イエスが「囲いの羊」と「ほかの羊」に言及される場面がありますが、ここでの「ほかの羊」と、啓示(黙示録)7章における「大群衆」とが、ものみの塔の教えでは同じだと理解されているわけです。

今回の記事では、「囲いの羊」と「他の羊」の正しい定義を聖書から明らかにし、ものみの塔が、この点をどのようにややこしくしてしまったのかを示していきたいと思います。

「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります。」(ヨハネ10:16)

聖句の確認―ヨハネ10章

まずは、該当の聖書箇所を一通り確認しながら、文脈を考慮し、本テーマに関係のある要点を抑えていきたいと思います。というのは、流れを正確につかむことによって、囲いの羊と他の羊の正確な定義を明らかにしていくことができるからです。

「『きわめて真実にあなた方に言いますが,羊の囲いに戸口を通って入らず,どこかほかの場所からよじ登る者,その者は盗人であり,強奪者です。2 しかし,戸口を通って入る者は羊の羊飼いです。3 戸口番はこの者に対して[戸を]開け,羊はその声を聴き,彼は自分の羊の名を呼んで導き出します。4 自分のものをみな外に出すと,彼はその前を行き,羊はあとに付いて行きます。彼の声を知っているからです。5 よその者には決して付いて行かず,むしろその者からは逃げるのです。よその者たちの声を知らないからです』。6 イエスはこの比喩を彼らに話された。しかし彼らは,自分たちに話されていることがどういう意味なのか分からなかった。」

まず、1~6節の部分では、次の点が明らかにされています。

  1. 「囲いの中の羊」が存在している。
  2. イエスがその囲いの正当な羊の羊飼いである。
  3. 羊飼いは、羊を呼んで、囲いから外へ導き出す。

続けて、7節~15節を確認します。

7 それゆえイエスは再び言われた,『きわめて真実にあなた方に言いますが,わたしは羊の戸口です。8 わたしに代わって来た者はみな盗人であり,強奪者です。しかし羊は彼ら[の言うこと]を聴きませんでした。9 わたしは戸口です。だれでもわたしを通って入る者は救われ,その人は出入りして,牧草地を見つけるのです。10 盗人は,盗み,打ち殺し,滅ぼすためでなければやって来ません。わたしは,彼らが命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得るために来ました。11 わたしはりっぱな羊飼いです。りっぱな羊飼いは羊のために自分の魂をなげうちます。12 雇われ人は,おおよそ羊飼いとは異なり,その羊も自分のものではないので,おおかみが来るのを見ると,羊たちを見捨てて逃げます ― そして,おおかみは彼らをさらい,また散らします ― 13 彼は雇われ人であって,羊のことを気にかけないからです。14 わたしはりっぱな羊飼いであり,自分の羊を知り,わたしの羊もわたしを知っています。15 ちょうど父がわたしを知っておられ,わたしが父を知っているのと同じです。そしてわたしは羊のために自分の魂をなげうちます。

7節~15節でのイエスに関する要点は次の通りです。

  1. イエスは羊の戸口であり、誰でもこの戸口を通って入る者は救われる。
  2. イエスはりっぱな羊飼いであり、羊のために自分の魂をなげうつ。

※後で説明しますが、「わたしは戸口です。だれでもわたしを通って入る者は救われ」は、エホバの証人の教えを理解する上で重要な箇所です。ここでイエスは、ご自分が救いへの唯一の道であることを強調していますが、ものみの塔では、この箇所が、元の囲いから、イエスを戸口とするもう一つの囲いへ羊が導かれると解釈されます。

最後に、「ほかの羊」に言及している16~18節を確認します。

16 「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありませんそれらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります。17 このゆえに父はわたしを愛してくださいます。すなわち,わたしが自分の魂をなげうつからです。それは,わたしがそれを再び受けるようになるためです。18 だれもわたしからそれを取り去ったわけではなく,わたしはそれを自分からなげうつのです。わたしはそれをなげうつ権限があり,またそれを再び受ける権限があります。このことに関するおきてをわたしは自分の父から受けました」。

要点は次の通りです。

  1. イエスを羊飼いとする「この囲い」に属さない「ほかの羊」が存在する。
  2. イエスに連れ出される「ほかの羊」は、「囲い」から連れ出された羊と一つの群れとなる。
  3. 羊が一つの群れとなることは、イエスが自分の命をなげうつことと関係している。

3についてですが、イエスは、羊について説明するこの文脈で、繰り返し自分が命を投げうつことを語り、その点を強調しています。ですから、羊が囲いから連れ出され、ほかの羊とともに一つの群れとなることと、キリストの犠牲とは重要な関係があることがわかります。

一通りの要点を全て並べると、次のようになります。

  1. 「囲いの中の羊」が存在している。
  2. イエスがその囲いの正当な羊の羊飼いである。
  3. 羊飼いは、羊を呼んで、囲いから外へ導き出す。
  4. イエスは羊の戸口であり、誰でもこの戸口を通って入る者は救われる。
  5. イエスはりっぱな羊飼いであり、羊のために自分の魂をなげうつ。
  6. イエスを羊飼いとする「この囲い」に属さない「ほかの羊」が存在する。
  7. イエスに連れ出される「ほかの羊」は、「囲い」から連れ出された羊と一つの群れとなる。
  8. 羊が一つの群れとなることは、イエスが自分の命をなげうつことと関係している。

そして、上記の要点を、ざっくりとまとめると、次のようになります。

  1. イエスは「囲いの中の羊」を外に連れ出す。
  2. イエスは、囲いに属さない「ほかの羊」をも連れ出す。
  3. 「囲いの羊」と「ほかの羊」は、イエスを羊飼いとして「一つの群れ」となる。
  4. 「一つの群れ」となることは、キリストの犠牲と関係がある。

このように、囲いの羊と、ほかの羊についてイエスが語った教えは、決して難しいものではありません。そして、これらの要点をイラストで表すと、次のようになります。

「囲いの羊」と「ほかの羊」とは誰のことですか?

「囲い」とは何か?

では、「囲い」とは何でしょうか?それがわかると、これらの三つのグループの羊の実体が明らかになります。

ものみの塔の出版物である『イエス、道・真理・命』の80章では、羊の囲いが何であるかについて、次のような説明がなされています。

あるイスラエルモーセ律法契約いう囲い生ままし律法ようなり,律法契約ない人々汚れ慣行からイスラエル保護まし。しかし,彼ら​の​中​に​は​神​の​羊​の​群れ​を​優しく​扱わ​ない​人​たち​も​い​まし​た。それ​で​イエス​は​こう​言い​ます。「はっきり​言っ​て​おき​ます。羊​の​囲い​に,戸口​を​通っ​て​で​は​なく​ほか​の​所​を​乗り越え​て​入る​人​は,泥棒​や​強盗​です。一方,羊飼い​は​戸口​を​通っ​て​入り​ます」。(ヨハネ 10:1,2)」

この通り、「囲い」の正体は「モーセの律法契約」であり、その中の羊とは「イスラエル人」だとされていますが、聖書的に正しい見解であり、キリスト教のあらゆる神学者も、同じように考えています。そして、以上の定義を踏まえれば、羊の実体は自ずと明らかになります。

「囲いの羊」と「ほかの羊」の実体

まず、囲いの中の羊とは、律法契約に守られてきたイスラエル人です。イエスは彼らのために命をなげうち、律法を成就させ、囲いである律法の外へ羊を連れ出します。

そして、囲いの中にいない「ほかの羊」とは、明らかに、律法契約の外にいた「異邦人」を意味していることがわかります。

キリストは、その贖いの死によって、イスラエル人と異邦人との隔ての壁であった律法を取り壊し、彼を信じる「囲いにいた羊」と「ほかの羊」を、「一つの群れ」に結び合わせました。ですから、「一つの群れ」とは、イスラエル人と異邦人によって構成される「クリスチャン」のことなのです。

この解釈は、新約聖書全体の教えと完全に調和しますが、特にその点を明白に説明しているのが、以下の聖句です。

「[キリスト]はわたしたちの平和であり,二者を一つにし,その間にあって隔てていた壁を取り壊した方なのです。15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されましたそれは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。16 またそれは,両方の民を一つの体とし,苦しみの杭を通して神と十分に和解させるためでした。彼は自分自身によってその敵意を抹殺したからです。17 そして彼は来て,遠く離れた者であったあなた方に平和の良いたよりを,また近い者たちにも平和を宣明したのです。18 この方を通してわたしたち両方の民は,一つの霊のもとに父に近づくことができるからです。」(エフェソス2:14~18

このように、囲いの羊であるイスラエルと、ほかの羊である異邦人は、既にキリストの十字架によって「新しい一人の人」とされており、「一つの霊」のもとに、同じ希望を持って父に近づくことができるのです。エホバの証人が考えるような、天的級と地的級、という霊的な区分は全く存在していないのです。

「囲いの羊」と「ほかの羊」とは誰のことですか?

ものみの塔の教え

本記事では、先に正しい聖書の教えを確認しましたが、最後に、ものみの塔の教えと、その間違いの理由について確認していきます。

まず、囲いの羊とほかの羊に関する聖書的な理解は、次のようなものであることを一連の説明から明らかにしました。

【聖書の教え】
・「囲いの羊」=イスラエル人。
・「ほかの羊」=異邦人
・「一つの群れ」=クリスチャン(ユダヤ人と異邦人からなる)

しかし、ものみの塔の教えでは、次のような定義となっています。

【ものみの塔の教え】
・「囲いの羊」(囲いA)=イスラエル人。
・「別の囲いの羊」(囲いB)=144000人 ※囲いBは聖書に出てこない
・「ほかの羊」(囲いC)=大群衆
・「一つの群れ」=144000人と大群衆からなるエホバの証人

聖書的な定義との大きな違いは、聖書には無い「囲いB」と「囲いC」が登場していることであり、特に、「囲いB」の不自然な登場によって、全体の定義がずれてしまっていることです。なぜこのようになったのでしょうか?その理由は、次の記事を確認するとわかります。

「最初の羊の囲いの「戸口番」はバプテスマを施す人ヨハネでした。ヨハネは戸口番として,イエスを見分けることにより,イエスに対して「戸を開け」,イエスが牧場に導き出すことになるそれら象徴的な羊のもとに導きました。イエスが名を呼んで導き出すそれらの羊は,「きわめて真実にあなた方に言いますが,わたしは羊の戸口[すなわち,新しい羊の囲いの戸口]です」とイエスが説明しておられるように,ついには別の羊の囲いに入れられます。イエスが弟子たちとの新しい契約を制定し,続くペンテコステの時に彼らの上に天から聖霊を注がれると,弟子たちはこの新しい羊の囲いに入ることを許されます。」―『最も偉大な人』80章*[1]

ポイントは、「イエスが名を呼んで導き出すそれらの羊は,・・わたしは羊の戸口[すなわち,新しい羊の囲いの戸口]です』とイエスが説明しておられるように,ついには別の羊の囲いに入れられます。」という部分であり、囲いから連れ出される羊が、次に「別の囲い」(囲いB)に導かれる、という考えです。しかし、本文をよく読むと、イエスはただ、囲いの羊を外に連れ出して、「ほかの羊」と一つにさせる、と述べただけであり、もう一つの囲いに言及しているわけではありません。

そして、別の囲いに関する明白な言及が無い以上、この文脈における「囲い」(囲いA)とは、常に律法契約のことを意味するはずです。すると、イエスが「この囲いのものではないほかの羊」と言ったならば、律法契約の外にいた異邦人となるのです。

しかし、ものみの塔は、聖書に無い新たな「囲いB」を作って、それを144000人とすることによって、「この囲い」の定義を、律法契約(囲いA)から、「144000人の囲い」(囲いB)にずらしてしまったのです。

そして、せっかくキリストがその死によって「囲い」を取り壊し、羊を囲いの外に連れ出してくださったのに、ものみの塔は、多くの羊を再び囲いの中に閉じ込めてしまったのです。

「囲いの羊」と「ほかの羊」 エホバの証人の教え

聖書に無い「別の囲いB」を作ることにより、「ほかの羊」をイスラエル人と対称させる「異邦人」ではなく、144000人と対称させる「大群衆」としてしまった。

キリストが、その贖いの死によって律法を成就された以上、もはや、神を信じる全ての人々にとって、隔ての壁も、囲いも存在しません。誰でも、イエス・キリストを救い主として、唯一の主として信じる人は、その罪を完全に赦され、神の子供とされ、父なる神の前に大胆に近づくことができるのです。

「この方を通してわたしたち両方の民は,一つの霊のもとに父に近づくことができるからです。」(エフェソス2:18)

脚注

[1] 『ものみの塔』1988年11月1日号、8頁 にも同様の記述があります。

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3件のフィードバック

  1. ヨベルの角笛 より:

    こんにちわ。初めてコメントします。偶然にこちらのサイトを拝見しました。
    「羊の囲い」とはに関して、思い当たることがありまして、コメントさせていただければとと思います。
    以下はもう10年近くの私の記事からの抜粋ですが、もし、詳しくお読みになりたければ以下のページからご覧下さい。
    http://yoberu-t.com/file94.html

    ※以下一部抜粋ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    これまで、この「羊の囲い」とは「律法契約」であると考えて来ました。
    しかし、律法が廃されたのは、キリストの贖いが成されたときです。

    「…[キリスト]はわたしたちの平和であり,二者を一つにし,その間にあって隔てていた壁を取り壊した方なのです。この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[ 数々の] 定めから成るおきての律法を廃棄されました」(エフェソス 2:14)

    「羊の囲い」が「律法契約」を表しているならそれ以降、「羊の囲い」は存在しなくなったことになります。
    囲いが存在しない以上、この例え話の「囲いから導き出される」ことは、それまでに終了したことになります。
    キリスト存命中も、少なからぬ人々がキリストの弟子になりましたが、大々的に成されたのは、ペンテコステ以降です。
    キリスト没後に非ユダヤ人に対して、王また祭司となる道が開かれました。
    もちろん、その後も引き続き生来のユダヤ人もクリスチャンとなりました。

    そうなると、モーセを通しての律法契約が廃された後のユダヤ人クリスチャンは、「この囲い」の羊ではなく「ほかの羊」ということになってしまいます。
    具体例を挙げれば、パウロは、キリスト後の弟子です。
    つまりパウロがクリスチャンになったとき、すでに律法は破棄されていました。
    ということは、パウロも、すでに「この囲いの羊」ではなく「ほかの羊」のひとりということになるのでしょうか。

    それはあり得ないと考えられるので、調整すべきなのは「囲い」は律法契約を表しているという解釈の方でしょう。
    では、「羊の囲い」は何を表しているのでしょうか。
    基本的に、王また祭司を選出することは、「アブラハム契約」と関係があり、それ故に、異邦人クリスチャンも「アブラハムの胤」と呼ばれます。

    それで、アブラハムの胤は、当初もくろまれた、文字通りのアブラハムの子孫と、「その他」からの異邦人クリスチャンが霊的に養子にされ、アブラハムの子孫とみなされることにより、成り立つことになります。

    ですから、「この囲い」からと「ほか」からの2グループがキリストの元に連れて来られて「1つの群れ」になるということですから、「この囲い」というのは生来のユダヤ民族、「ほか」はそれ以外の民族ということになります。

    • Webmaster-GJW より:

      はじめまして、コメントありがとうございます。「ヨベルの角笛」は、以前に拝見させていただいたことがあります。直近は、サイトの新しい働きで忙しくなっているため、落ち着いたら、もう一つのコメントの内容も合わせてご返信させていただきます。

    • Webmaster-GJW より:

      情報を整理しますと、「囲い」と「囲いの中の羊」は別々で定義される必要があるように思えました。
      そうなると、
      「囲い」= ??
      「囲いの中の羊」がユダヤ民族であることは間違いないと思うのですが、では彼らを囲っていて囲いとは何かと問われると、やはり律法契約ではないかと思います。

      この考えが否定される理由として、パウロの事例を挙げられていますが、このたとえ話において、前後関係を厳密に考慮して考察するよりは、本質的な部分でイエス様が言葉を解釈した方が、整合性が取れると思いました。

      もっとも、このテーマについては、お互いに「この囲いが144000人ではない」、という明白な真実に気づくことができたので、そこは主に感謝であります。

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