エホバの証人の信者は救われていますか?そして神の国(楽園)に入れますか?


エホバの証人の信者は救われていますか?そして神の国(楽園)に入れますか?

当サイトにおいて、何度も論証してきた通り、エホバの証人の組織は、紛れもなく異端であると言えます。そして、キリスト教における一般的な見方としては、異端の中に、あるいはエホバの証人の中に、救いはありません。ただ、私がエホバの証人問題と関わってきた中で思わされたことは、「エホバの証人の中にも、救いを体験した人はいるだろう」ということです。では、「その人たちは神の国に入れるのか」、と考えると、そうとも言えない幾つかの理由が存在します。

今回の記事では、こうした問題や問いについて、単純化し過ぎず、丁寧に考察していきたいと思います。

救いのプロセスの確認

この問題を考えるにあたり、最初に確認すべきことは、聖書が教える救いのプロセスです。聖書の教えによれば、福音を受け入れ、イエスを救い主として信じる人は、その時点で「救われ」ます。これが、救いが始まる最初の段階であり、神から義と認められ(義認)、新しく生まれ変わる「新生」の段階です。

その後、地上生涯において、霊によって歩む生活を通してさらに清められていき(聖化)、地上生涯を終えて神の国に入る時に、完全に罪から解放される「栄化」の段階に到達し、救いが完成します。

このように、聖書が教える救いには、義認〜聖化〜栄化という三つのプロセスがあるわけですが、エホバの証人の救いについて論じる際、これらを分けて考えることが必要だと私は考えています。なぜそうなのかという点については、追って記事を読んでいただく中で、明らかにしていきます。

救いを受けたエホバの証人はいるのか?

まず初めに、エホバの証人の組織の中に、「義認」を受けて、新生を体験している人がいるのだろうか、という点について考えますが、次のような視点を考慮すると、その答えが見えてきます。

例えばある人が、道端に落ちている聖書を拾い、誰の助けもなく、その中の福音書を読み、ヨハネ3:16を読んだ時に神の愛に感動した場合、そしてその人がイエスを救い主として信じた場合、その人は救われるでしょうか?この質問に、私は「YES」と答えます。

たとえ他の人間の助けが無くても、ある人が聖書を開き、福音書を開き、イエスが救い主であることを受け入れるなら、聖霊が働き、その人は新しく生まれ変わることができると、私は考えます。であるならば、ある未信者が、エホバの証人から聖書をもらい、それを読んだとしても、同様の事が起こる可能性は十分にあるでしょう。

この場合、エホバの証人の聖書が、イエスが救い主であることを全く否定するほど改ざんされているのであれば、話は別ですが、実際には、そこまでの改ざんはなされてはいないのです。(もっとも重大な改ざんは多数あるので、彼らの聖書を支持することは到底できません)

例えば、有名なヨハネ3:16は、エホバの証人の聖書では次のようになっており、キリスト教が用いる聖書の内容と全く相違はありません。

「神は,自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。そのようにして,独り子に信仰を抱く人が皆,滅ぼされないで永遠の命を受けられるようにしました」(2019改訂版)

ですので、エホバの証人の研究生の段階で、組織から教えられる種々の事柄とは別に、単純に聖書の中に啓示された福音の本質を聖霊によって理解し、新生を体験するような人は一定数いる可能性がある、と私は考えるのです。

実は、他でもない、当サイトの管理人である私自身が、そのパターンだったのではないかと思うのです。というのは、私の人生において、大きな人格的変化や神への信仰の起点は、間違いなく、エホバの証人の研究生の段階に起こったからです。

ただ、ここからは色々な体験談を聞いてきた上での私の推測ですが、研究生の段階で新生を体験したことのあるエホバの証人は、比率としては多くはないだろうと思います。大抵の場合は、新生をせず、そのまま組織の一員となっていくケースが多数派だと考えられます。

では、研究生の段階で新生を体験した人が、そのままものみの塔の組織にとどまった場合、その人は、神の国に入る事が出来るのでしょうか?

救われたエホバの証人は神の国に入れるのか?

まずこの問題は、「一度救われた人が、救いを失うことはあり得るのか」という問いに対し、どのように考えるかで、ずいぶん答えが変わってきます。もしも、失う事がありえないのであれば、たとえエホバの証人であっても、死後に天国へ行く人が一定数いる、ということになってくるでしょう。(あるいは、全てのエホバの証人は、初めから救いを体験した事がない、とするパターンもあります)

ここでは、この問いに対して細かく論じることはしませんが、管理人の私は、「失う可能性がある」と考えています。そして、この考え方の場合、救いを体験したエホバの証人の状態についても、理に適った説明ができると考えます。

すでに述べた通り、研究生の段階で救いを体験する人は一定数いると見ていますが、いづれにしても、組織の一員になる段階で、エホバの証人のバプテスマを通過することになります。そして、私の見立てでは、この「バプテスマ」が、「霊的な死」への門になっているのではないか、と感じるのです。その理由は、ものみの塔が要求するバプテスマは、「救い主イエスとの一体化」では無く、「ものみの塔、およびエホバの証人との一体化」を宣言するものだからです。つまり、そういう霊的な契約をもたらすものとなっているからです。

参考記事:献身の象徴としてバプテスマを受ける

神の国に入る資格は、いうまでもなく「イエスとの一体化」の関係を前提としますが、エホバの証人の行うバプテスマによって、滅びゆく組織と一体化してしまうなら、組織と共に神の裁きを受ける対象となってしまうのではないでしょうか?

実際に、元エホバの証人の友人は、最初、イエスの姿に感動して「この方についていきたい」と心から思い、組織に献身することを決心したのですが、バプテスマを受けた後から、霊的に問題が生じていった、と証言しています。

また、組織の正式なメンバーとなるプロセスにおいて、「イエスが神ではない」「新しい契約は十四万四千人だけのもの」「キリスト教会はサタンの組織」というような異端的、非聖書的な教理に同意し、かつそれを広めていくことになるので、当然のことながら、「神の国を相続できない罪」の対象となっていく事が想定されるわけです。

「しかし,民の中には偽預言者も現れました。皆さんの中にも偽りを教える人が現れるでしょう+。その人たちは破壊的な分派をひそかにつくり,自分たちを買い取った所有者をさえ否定し,速やかな滅びを身に招きます。」(ペテロ第二2:1、新世界役2019改訂版)

このような理由から、たとえ研究生の段階で新生を体験していても、組織の正式なメンバーになっていく時点で、その人の身には霊的な危険が生じるようになっていく、と私は見ています。

羊は羊飼いの声を聞き分ける

では、新生していながらも、正式なエホバの証人となった人はどうなるのでしょうか?そのような人は、一時的に組織の教えに惑わされるとしても、「主の羊」であることに変わりはないので、どこかの段階で、本当の羊飼いの声と、統治体の声とを聞き分ける時が来るはずです。

またこの点は、新生を経験せずに正式なエホバの証人となりつつも、将来的に救われる可能性がある人にも同様に適用されるはずです。

「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27、新改訳2017)

これは、私の人生で実際に起きたことですし、元エホバの証人の私の友人たちにも、同様に起きてきたことなのです。

羊飼いの声を聞き分けた羊は、次の段階として、勇気と信仰を持って、組織を離れる必要がありますが、その決断は、人生の多くをものみの塔の活動に捧げてきたエホバの証人にとって、決して簡単な決断ではないことがよくあるのです。

しかし神は、そのために必要な力を、必ず羊に与えてくださいます。かつて、ユダヤの著名な教師であったニコデモが、人生で築いてきた地位を全て捨てる覚悟でイエスへの信仰を表明したように、羊の声を聞き分けるエホバの証人も、同様の決断をすることができるのです。

きっと今でも、エホバの証人の中には、主が呼んでおられる羊がいるはずです。彼らが、速やかに羊飼いの声を聞き分け、良い選択をする事ができますように。

 

なお、新生を体験せずに、組織のメンバーとなる人の中にも、その後、組織を離れる前、現役の段階で、新生を体験するようなケースも稀にあります。この点については、以下の姉妹の証が、参考となるでしょう。(この姉妹は、その後、組織を離れています)

アバ、父よ!主イエスと出会い、ものみの塔とうつ病から救われた元開拓者の姉妹の証


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1件の返信

  1. 三島 より:

    証人の輸血拒否はとりわけ過激すぎる教えだと思いますが、それを信じ続ける元証人もいます。
    証人の教えは、格闘技にも反対していてこれは個人的には理解できる気がします。
    詩篇110篇からイエスは霊者として復活されると言う教えも空しく感じ、それは霊的な復活とは思えない他の聖句も沢山あるためです。
    証人がなぜ霊的な復活だと教えるのか、それは1914年問題に絡んでいる事をこちらのサイトで知りなるほどと思いました。

    他にも、大艱難期の前か中頃にイエス様の空中再臨があるのか、それとも艱難期の末期になるのか、そういう事もはっきりと聖書を読んでも分かりません。

    旧約聖書の神様のイメージは怒り、裁き、戦い、排他的な神様ですが、
    新約聖書のイエス様はそれとは正反対で許し、癒し、愛の神のイメージで、
    旧約聖書の神の教えを徹底して記事にする人もいるし、新約聖書の許しの神を優先して教える人もいて、バランスよく両方を考えておくべきなのか、なかなか難しいものがあると思いながらぶろぐや聖書を読んでいます。

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