新世界訳聖書とは?|改ざん・誤訳、エホバのみ名について論じる


新世界訳聖書とは?|改ざん・誤訳、エホバのみ名について論じる

どんな宗教にも、その宗教の信条の土台となる「正典」があるものです。では、エホバの証人にとっての正典とはなにか、それは間違いなく、『新世界訳聖書』だと言えるでしょう*[1]。この聖書は、ものみの塔の教理の土台となるものであり、全世界のエホバの証人が「最高の聖書」だと信じているものだからです。

そのため、目覚めたエホバの証人や、エホバの証人について関心のある外部の人々にとって、『新世界訳聖書』についてどう考えるかは、とても重要なテーマとなってきます。

今回は、この一つの記事の中で、新世界訳聖書について抑えておくべき重要な情報を網羅しました。特に、新世界訳聖書の最大の特徴である「エホバのみ名」の問題をどう考えるべきかや、どんな聖句に改ざんや誤訳が見いだされるのかについて、適切な資料を添えて明らかにしました。

本記事を通して、エホバの証人という組織の実態について、聖書が実際に教えている事柄について、読者の方々が大きな気づきを得ることができるようお祈りしています。

新世界訳聖書とは

基本概要

新世界訳聖書の発行の背景

かつて、エホバの証人の初期の時代には、彼らはキリスト教世界と同じ聖書を用いていました。しかし、1950年、ものみの塔協会三代目の会長、ネイサン・H・ノアの時代に、協会は独自に翻訳した聖書『新世界訳聖書』(英:New World Translation)の発行を開始しました。以来、世界中のエホバの証人は、「新世界訳聖書こそ最も優れた聖書だ」という組織の主張を信じてきたわけです。

新世界訳聖書の発行へ踏み切った背景には、「神のみ名『エホバ』の復元」という重要な課題があったということが、出版物では述べられています。しかし、エホバの証人が、「神のみ名」だけでなく、他にも多くの独自の教理を有してきたために、組織の教理に合うよう翻訳された聖書が必要となった、という背景もあることでしょう。

新世界訳聖書の翻訳に携わった人々

新世界訳聖書の発行を手がけたとされる「新世界訳委員会」のメンバーは、公的には明らかにされていませんが、実際には、当時の会長のノアの他に、フレデリック・フランズ、アルバート・シュローダー、ジョージ・ギャンギャスがいたようです。そして、これらのメンバーの中で、実際に聖書翻訳のためのギリシャ語やヘブル語の知識があったのは、フレデリック・フランズだけでした*[2]

ただし、フランズ一人が、全ての翻訳作業を行ったとは到底考えられませんので、他にも、ヘブル語やギリシア語に精通している人材を、複数人招集したのではないかと考えられます。いづれにしても、新世界訳の翻訳には、ヘブル語やギリシア語における権威ある学者が携わることはありませんでした。

底本

新世界訳聖書の翻訳において用いられた底本は次の通りです。

ヘブライ語本文:R・キッテルの「ビブリア・ヘブライカ」(BHK),7版,8版,および9版(1951年から1955年)に載せられたレニングラード写本B19A(ソ連邦所蔵)

ギリシャ語本文:ウェストコットとホートによる「ギリシャ語原語による新約聖書」(1881年初刊)。また、ボーベル,メルク,UBS,ネストレ‐アラントなどの,他のギリシャ語本文も参考にされた。

新世界訳聖書が用いている、これらのヘブライ語とギリシア語の本文は、今日、他の多くの代表的な聖書の翻訳でも用いられているものであり、日本語訳であれば、新改訳聖書、新共同訳聖書などとも共通しています*[3]

なお、ウェブサイトの記事「『新世界訳』は正確ですか」の中では、英語圏の代表的な聖書「ジェームズ王欽定訳」(King James Version)で用いられている底本が「正確さに欠ける」と指摘されていますが、どちらの底本が正確であるか、という点については、多くの議論があり、一概に言える問題ではありません*[4]

神のみ名「エホバ」の復元

翻訳の方針: 聖書は宇宙の主権者なる主の神聖なご意志を明らかにするものですから,(YHWH)としてヘブライ語本文に7,000回近くもはっきり示されている,その方の,神としての独特のみ名を省略したり,隠したりすることは,その方の威光また権威に対する非常な不敬,まさに侮辱の行為となります。ですから,この翻訳の最大の特色は,訳文中の正当な箇所に神のみ名を復元していることです。」(参照付新世界訳聖書、6頁)

新世界訳聖書の最大の特徴は、何と言っても、神のみ名「エホバ」(英:Jehovah)の復元です。旧約聖書のヘブル語の写本に、およそ7,000回近く登場する神の御名「YHWH」が、新世界訳聖書では全て「エホバ」と訳されています。

また、新約聖書のギリシャ語写本に登場する「主 (キュリオス)」は、237箇所において「エホバ」に置き換えて訳されています。

なお、「テトラグラマトン」と呼ばれる、神のみ名を表すヘブル語の四文字については、その正確な発音を知る人は今日一人もいなくなっていますが、多くの学者は、「ヤハウェ」「ヤーウェ」だっただろう、見解で一致しています。ものみの塔の場合は、「長く親しまれてきたから」という理由から、「エホバ」を採用しました。

(ただし、「エホバ」という発音は誤読であったという事実が、今日の研究ではすでに明らかになっています。)

意訳・改ざんがなされている

「新世界訳」は,自由訳とは違い,自然さや原文の意味が失われない限り,できるだけ字義どおりに訳しています。聖書の原文を自由に言い換える翻訳では,人間の解釈を加えたり,重要な詳細を切り捨てたりする恐れがあります。―『「新世界訳」は正確ですか』」

上記によれば、新世界訳聖書は、原文の意味をできるだけ字義通りに伝える「逐語訳」のスタイルで翻訳されている、ということです。またそれは、教理に合わせて原文の意味を無視するような「意訳や改ざん」が含まれていない、ということをも意味します。

しかしながら、新世界訳聖書には、エホバの証人の教理を正当化するための、多くの意訳や改ざんが含まれていることが、たくさんの著名な聖書学者から指摘されており、特にその問題は、「イエス・キリスト」に関する聖句に集中しています。

例えば、ものみの塔の出版物でも、権威ある聖書学者として度々引用されているウィリアム・バークレー氏は、ものみの塔による聖書の意図的な改ざんについて、次のように述べています。

「新世界訳聖書には、この宗派による意図的な真理の歪曲が見られる。・・新約聖書をこのように訳すことのできる宗派が不誠実であることは、全く明らかだ。*[5]

問題のある箇所を除けば、普通に訳されている

一般的に、キリスト世界からは「問題のある聖書」と見做される新世界訳聖書ですが、意図的な誤訳・改ざん箇所を除けば、ちゃんと訳されており、普通に読める聖書です。例えばものみの塔は、ウェブサイトの記事「『新世界訳』は正確ですか」の中で、新世界訳聖書の訳出に対して高評価を下している学者のコメントを複数取り上げています。

「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」に関して,著名な聖書翻訳者で聖書学者のエドガー・J・グッドスピードは,1950年12月8日付の手紙の中でこう書いています。「私は皆様の宣教の業およびその世界的な規模に関心を抱いています。そして,この自由で率直な,力強い翻訳に非常に満足を覚えております。膨大な量の慎重で徹底した研究がこの翻訳に表われていることを私は証言できます」。

英国の聖書批評家アレグザンダー・トムソンは,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」についてこう述べました。「明らかにこの翻訳は,熟練した有能な学者たちの手によるものである。彼らは,可能な限りの英語表現を駆使してギリシャ語本文の真の意味をできるだけ正確に伝えようとしてきた」。―ディファレンシエーター誌(英語),1952年4月号,52ページ。

こうした学者たちのコメントは、仮に協会によって多少悪引用されている可能性があるとしても、これに近い事が述べられていたことは、ある程度事実でしょう。また、前に筆者が、あるヘブル語の学者(聖書の翻訳等に携わっている)の方に、新世界訳聖書に対する感想を尋ねたところ、「確かに問題はあるが、それを除けばちゃんと訳されている」とコメントをしてくださったことを覚えています。

※なお、上記で引用した、エドガー・J・グッドスピードによる手紙について、その内容に関する問題点については、本記事の付録部分で説明しています。

神のみ名「エホバ」の復元について

全体の要点

新世界訳聖書における最大の特徴は、何と言っても、神のみ名「エホバ」の復元にある、といえるでしょう。ものみの塔は、旧約聖書において約7000回、新約聖書において237箇所において、「エホバ」を復元したことにより、重要な真理を回復したと主張してはばかりません。

この点について、筆者は、自身のエホバの証人としての経験や、当サイトの活動を通して、この問題に関わる多角的な側面を考察してきましたが、現段階で、次のような結論に達しています。(あくまで現段階において、ということではありますが、この結論が今後覆る可能性はかなり低いと見ています)

旧約聖書における神のみ名の復元について:標準的な聖書のように、神のみ名を「主」と訳すことは全く間違いではなく、むしろ聖書的である。ただし、それによって、新世界訳聖書のように、神のみ名を復元する行為が全く否定されるわけでは無い。

新約聖書における神のみ名の復元について:「イエスはエホバではない」という理解に基づき、主を「エホバ」に置き換えるならば、それは深刻な問題となる。

では、なぜ筆者が上記のような結論に達したのか、その要点を説明していきたいと思います。なお、本論考のより詳細な点については、サイト上で別途記事を用意していますので、合わせてご参照ください。

旧約聖書の時代の神のみ名

エホバの証人が主張する通り、旧約聖書の時代、神の民は、明らかに神の固有名「YHWH」(以下、「エホバ」とします。)を発音し、日常的に呼びかけていました。実に、アダムの息子、セツに息子が生まれた時代から、彼らはエホバの名を呼び求めてきたのです。

「そして,セツにも男の子が生まれて,彼はその名をエノシュと呼んだ。そのときエホバの名を呼び求めることが始まった。」(創世記4:26)

また、旧約時代の信者にとって、「エホバ」は、救いのために呼び求める神の唯一のみ名でした。

「しかし,エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れることになる」(ヨエル2:32)

新約聖書の時代の神のみ名

ものみの塔は、一世紀のクリスチャンが「エホバのみ名」を用いた根拠を色々と取り上げていますが、残念ながら、実際にそのみ名が含まれているギリシア語の写本は、今日一つも発見されていない、という事実があります。

また、「元々は含まれていたが、2~3世紀の背教したクリスチャンが、『エホバ』を『主』に置き換える改ざんを行った」という協会の主張も、本文批評の専門家からは、全く相手にされるようなものではありません。そもそも、新世界訳聖書を含め、今日の聖書の内容が、原典の内容を正確に再現しているという根拠は、「聖書の写本が正確に書き写されてきた」という事実に基づいているからです。未だ、「エホバのみ名の置き換え」という重大な問題が隠れている可能性に同意する権威ある専門家は、一人もいないのです。

ですから、色々な経緯があったにせよ、紀元一世紀のクリスチャンは、結果として、神のみ名「エホバ」を用いることはしなかったのです。しかし、ここで疑問が生じます。「エホバ」というみ名が、セツの時代から連綿と呼び求められてきた救いのみ名なのであれば、そのみ名が不変で重要なみ名なのであれば、なぜ神は、新しい契約が成立した紀元一世紀の重要な時代に、そのみ名を用いることを聖霊によって回復させなかったのでしょうか?

イエスのみ名の登場

その答えの鍵を握るのが、「イエス・キリスト」です。使徒の働きや、新約聖書全体の文脈を考慮すると、かつての旧約聖書の時代に、神の民が「エホバ」を呼び求めていたのと全く同じように、一世紀のクリスチャンは「イエスのみ名」を呼び求めるようになっていたことがわかります。

「2 コリントにある神の会衆,キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ,聖なる者となるために召されたあなた方,ならびに,いたるところでわたしたちの主イエス・キリスト,すなわちその主でありわたしたちの[主]である方の名を呼び求めているすべての人たちへ:」(コリント第一1:2)

ペンテコステ以降、ペテロは、私たちが救いを得るべき唯一の名は、エホバではなく、「イエス」だと証言しました。もしも、「エホバ」が、救いのための不変のみ名なのであれば、ペテロはここで「エホバ」と答えるか、あるいは「エホバとイエス」と言ったことでしょう。

「さらに,ほかのだれにも救いはありません。人々の間に与えられ,わたしたちがそれによって救いを得るべき名は,天の下にほかにないからです」(使徒4:12)

イエスがパウロを改心させた目的は、パウロに「エホバの名」ではなく、「主イエスの名」をふれ告げさせるためでした。そして、パウロは「エホバの名」ではなく、「主イエスの名」によって迫害を受けると予告されました。

「しかしアナニアは答えた,「主よ,わたしは多くの人からこの男について聞いております。エルサレムにいるあなたの聖なる者たちに対し,害となる事をどれほど多く行なったかということを。14 そしてここでは,あなたのみ名を呼び求める者を皆なわめにかけようとして,祭司長たちから権限を受けているのです」。しかし主は彼に言われた,「行きなさい。わたしにとってこの者は,わたしの名を諸国民に,また王たちやイスラエルの子らに携えて行くための選びの器だからです。16 彼がわたしの名のためにいかに多くの苦しみを受けねばならないかを,わたしは彼にはっきり示すのです」(使徒9:13-16)

このような文脈を確認していくと、私たちは、次のような結論へと導かれます。旧約聖書の時代、救いのために「エホバ」が呼び求められていたのと全く同じように、新約聖書の時代、クリスチャンは「イエス」のみ名を呼び求めるようになった、ということです。

なお、イエスという名前は、「エホバは救い」という意味であるため、イエスの名には「エホバ」が含まれています。ですから、私たちがイエスの名を呼び求めるようになったとはいえ、「エホバ」の名が呼ばれなくなった、という事では無いと言えます。

また、このように、重要な時代の転換点、神が人と結ばれる契約が更新されるタイミングで、神がご自身の名前を新たに啓示する、という流れは、聖書全体の文脈からも自然なことです。

例として、将来にキリストが地上へ再臨し、メシア的王国を確立するときに、主イエスは、また新しい名前を啓示する可能性があるのです。

「征服する者 ― わたしはその者をわたしの神の神殿の中の柱とし,彼はもはや[そこから]決して出ないであろう。そしてわたしは,わたしの神の名と,わたしの神の都市,すなわち天のわたしの神のもとから下る新しいエルサレムの名と,わたしの新しい名とをその者の上に書く。」(啓示3:12)

結論

旧約聖書におけるみ名の復元

一連の考察を踏まえ、結論として、次のような事が言えると思います。旧約時代には、神の民は、確かにエホバの名を呼び求めていましたが、新約時代になると、神ご自身の導きにより、「エホバ」ではなく、「イエス」の名を呼び求める時代へと変わりました。そして、一世紀のクリスチャンは、その導きにならい、もはや「エホバのみ名」を用いて旧約聖書を読むことも、あえてそのみ名を回復させることもしませんでした。

ですから、今日の旧約聖書の翻訳作業において、神のみ名「YHWH」が表記されている箇所を「主」と訳すことは、一世紀のクリスチャンの読み方にならったものであり、全く問題は無いと考えられるでしょう。むしろ、イエスのみ名の時代になった以上、その方が、適切であると考えることもできるかもしれません。

ただし、あくまでヘブル語の原典に、「YHWH」という神の固有名が表記されている以上、そのみ名を字義通りに復元させる行為は、決して否定されるべきものではない、とも考えます。

(なお、エホバという発音は、YHWHの誤読である事がすでに判明しているので、み名の回復にこだわるならば、より妥当な発音にもこだわるべきだと私は考えます。)

新約聖書におけるみ名の復元

そして、新約聖書の翻訳においては、もはや「YHWH」がどの写本にも含まれておらず、一世紀のクリスチャンがそのみ名を用いた形跡も無いため、「主」はそのまま「主」と訳すべきであると考えます。

また、新約聖書の時代において、イエスに対する「主」は、旧約時代の「主エホバ」に相当する文脈で多く用いられているために、「イエスはエホバではない」と教えながらその名を置き換えることは、人物のすり替え、という深刻な弊害をもたらすものであり、全く話にならない間違いです。それは、イエスと書いている箇所を、ヨハネに置き換えるのと同じくらいの間違いなのです。

なお、新世界訳聖書以外で、「主」を「エホバ」と訳す聖書も、ものみの塔の出版物の中で複数紹介されていますが、それらの中には、「イエスはエホバである」という理解のもと、そう訳しているものも少なくありません。

また、ものみの塔が置き換えた237箇所を一通りチェックしていくと、他のどの翻訳にも基づかず、完全に協会独自の解釈で「エホバ」に置き換えている箇所が、かなり多くありますので、置き換えの根拠として、他の聖書をリストアップしても、あまり意味が無いと言えるでしょう。

改ざん・誤訳リスト

ここからは、新世界訳聖書の中から、「改ざん」「誤訳」だと考えられる問題のある箇所を、項目別に、一通りリストアップしていきます。全てを取り扱うことはできませんが、筆者から見て、特に抑えべおくべきだと思われた聖句に絞って紹介いたします。

用いる聖書の資料

各聖句の解説においては、比較のために、他の聖書の訳文も紹介しています。参照した聖書の種類は、次の通りです。なぜ、以下の聖書を参照用に用いたのか、その理由についても、下部で説明しています。

  • ギリシャ語王国行間逐語訳(1969)※1
  • Scripture 4 all / Hebrew Interlinear Bible (OT) ※2
  • 新世界訳聖書 日本語訳(1985)|新世界訳
  • 新改訳聖書 第三版(2003)|新改訳 ※3
  • 新世界訳聖書 英語訳(1985)|NWT
  • American Standard Version|ASV ※4

※1 「ギリシャ語聖書 王国行間逐語訳」とは、新世界訳聖書の底本であるギリシャ語原語*[1]と、英語の字義的な逐語訳とを比較できる聖書で、ものみの塔協会が1969年に発行しています。該当の聖句の原語と、それに相当する英単語を直接確認できるので、改ざん問題を調べるには有益なツールです。

※2 「Scripture 4 all」というサイトが提供しているもので、ヘブル語と英語の字義的な逐語訳とを比較できる聖書です。旧約聖書の聖句の場合は、原文の確認用として、こちらを用います。

※3 福音派系の日本の教会でよく用いられている聖書であり、ものみの塔の出版物においても度々用いられています。聖書を神の言葉と信じる学者によって、ヘブル語とギリシャ語の原語から直接訳された聖書であり、原語の意味を正確に知る上で定評があります。

※4 ASV は、エホバの証人の公式ウェブサイトでも紹介されている聖書であり、英語圏でも定評があります。また、新世界訳聖書とほぼ同じ底本を元に翻訳されており、原語の意味を忠実に表現することに注目した「逐語訳」の聖書であるため、本テーマで用いるのに最適です。

その他、原語の意味の確認や、訳文の比較にあたっては、以下で紹介する記事で、有用なツールやサイトが紹介されています。

聖書研究に聖書研究(聖書本文や翻訳の比較等)に役立つウェブサイト・書籍のご紹介

イエス・キリスト

ゼカリヤ12:10|自分たちの突き刺した者であるわたし

ゼカリヤ12:10|自分たちの突き刺した者であるわたし

新世界訳:「またわたしは,ダビデの家とエルサレムに住む者たちの上に恵みと懇願の霊を注ぎ出す。彼らは必ず自分たちが刺し通した者を見つめ,一人[子]について泣き叫ぶかのように彼について泣き叫ぶ。また,初子のための激しい嘆きの時のような激しい嘆きがその者に関してある」

新改訳:「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」

NWT:「And I will pour out upon the house of David and upon the inhabitants of Jerusalem the spirit of favor and entreaties, and they will certainly look to the One whom they pierced through, and they will certainly wail over Him as in the wailing over an only [son]; and there will be a bitter lamentation over him as when there is bitter lamentation over the firstborn [son].」

ASV:「And I will pour upon the house of David, and upon the inhabitants of Jerusalem, the spirit of grace and of supplication; and they shall look unto me whom they have pierced; and they shall mourn for him, as one mourneth for his only son, and shall be in bitterness for him, as one that is in bitterness for his first-born.」

新改訳やASVでは、「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て」という訳出になっているのに対し、新世界訳では、「わたし」が抜けて、「自分たちが刺し通した者を見つめ」となっています。ヘブル語の原文を確認すると、該当箇所には「わたし」という言葉がしっかりと入っていますので、新改訳・ASVの訳出の方が正しいことがわかります。ではなぜ、新世界訳は、「わたし」を省いたのでしょうか?

文脈上、この聖句は、終わりの日のキリストの再臨直前のユダヤ人の状態を表す神からの預言であり、その時には、彼ら(ユダヤ人)が、紀元一世紀の時代に自分たちが突き刺した(十字架に付けた)キリストを仰ぎ見る、という内容となっています。

そして、その文脈の中で、神ご自身が「自分たちが突き刺した者、わたしを」と語っているので、十字架にかけられたイエスは、神ご自身だった、ということになるのです。そのため、キリストの神性を否定するものみの塔は、「わたしを」という語句を省いたのです。

なお、他の多くの聖書においても、この箇所は「わたしを」を含む正しい訳出となっていますが、時々、新世界訳と同じように、それを省いている聖書も見られます。

マタイ21:9|救いたまえ,ダビデの子を!

マタイ21:9|救いたまえ,ダビデの子を!

新世界訳:「群衆は,彼の前を行く者も,あとに従う者も,こう叫びつづけた。「救いたまえ,ダビデの子を! エホバのみ名によって来るのは祝福された者! 彼を救いたまえ,上なる高き所にて!」

新改訳:「そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。『ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。』」

NWT:「As for the crowds, those going ahead of him and those following kept crying out: Save, we pray, the Son of David! Blessed is he that comes in Jehovah’s name! Save him, we pray, in the heights above!」

ASV:「And the multitudes that went before him, and that followed, cried, saying, Hosanna to the son of David: Blessed [is] he that cometh in the name of the Lord; Hosanna in the highest.」

イエスがエルサレムへ入城する際に、群衆が主に向かって叫んでいる場面ですが、まずは、新改訳とASVに表記されている「ホサナ」の意味について確認する必要があります。

この「ホサナ」という語は、ヘブル語の「Hoshia na」(ホーシーアー・ナー)の短縮形であり、「エホバよ、救ってください」という意味です。由来は、旧約聖書の詩篇118:25であり、次のようになっています。

「ああ,どうか,エホバよ,救ってください。お願いです! ああ,どうか,エホバよ,成功させてください。お願いです!26 エホバのみ名によって来る方がほめたたえられるように。わたしたちはエホバの家からあなた方を祝福した。」(新世界訳)

このように、「ホサナ」という言葉は、メシアをたたえ、神に向かって救いを求めるための掛け声として、ユダヤ人の間で用いられてきた表現なのです。では、それ踏まえて、訳文を比較していきます。

新改訳やASVにおいては、「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に」という表現であり、イエスをメシアとしてたたえ、救いを求める表現となっています。一方、新世界訳においては、「救いたまえ,ダビデの子を!」「彼を救いたまえ」となり、「自分たち(群衆)を救ってください」という意味ではなく、「イエスを救ってください」という訳出となっています。これは、全く意味不明な訳出です。

すでに確認してきた通り、詩篇118篇に基づく「ホサナ」の意味とは、神の救いを求め、その救いをもたらすメシアを賛美することにあるのですが、それにもかかわらず、「イエスを救ってください」という意味にすることによって、イエスが「救いをもたらす存在」ではなく、「救われる必要のある存在」へと変えられているのです。

ものみの塔が、このような訳出をしている理由は、おそらく、この聖句に、キリストの神性が示されているからです。つまり群衆は、「神よ、お救いください」という言葉を、詩篇118に基づき、メシアに対して叫んでいるのです。そこで、その事が理解できない協会が、文章の意味を全く変えてしまったものと考えられます。

また、新世界訳における「彼を救いたまえ!」という箇所も、行間逐語訳で確認すると、「Hossana」と表記されているだけで、「彼を」(Him)という語はありませんので、意図的に付加されていることがわかります。キリストの神性を否定するための、極めて問題のある訳出だと言えるでしょう。

※ちなみに、Watch Tower Library で「ホサナ」と検索しても、それを説明する記事が全く出て来ないのは不思議なことです。おそらく、それを説明すると、協会にとって都合の悪いことがあるのだと考えられます。

ヨハネ1:1|ことばは神であった

ヨハネ1:1|ことばは神であった

新世界訳:「初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神であった。」

新改訳:「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

NWT:「In [the] beginning the Word was, and the Word was with God, and the Word was a god.」

ASV:「In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.」

新世界訳聖書における問題のある聖句として、最もよく挙げられるのが、このヨハネ1章1節かもしれません。日本語訳では、他の訳との違いがわかりませんが、英訳を確認すると、ASVでは「Word was God」となっているのに対し、新世界訳では「Word was a god」となっており、不定冠詞の「a」が追加されていることがわかります。

行間逐語訳のギリシア語本文を見ても、そのような不定冠詞は存在しませんので、「a」という不定冠詞は、ものみの塔による、意図的な付加であることがわかります。協会が付加した理由は明らかで、「a」を付けて「神のような」というニュアンスをもたせないと、キリストが神であることを肯定する文章となるからです。しかし、この訳出は、ギリシア語の文法的に全く問題がある、という点は、多くの権威あるギリシア語の専門家から指摘されています。

以下、『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』(ウィリアム・ウッド)から、該当聖句の問題に対する聖書学者からのコメントをご紹介します。

「恐ろしい誤訳である。有害であり、非難すべきものである。もし本気でこの訳を支持するなら、彼らは多神教者である」(ブルース・メツガー博士。メツガー氏は、プリンストン大学の新約聖書言語と文学の教授です)

「このグループは故意に真実を曲解している。“The Word was a god”は、文法的に不可能な訳である。このような訳し方をしているグループは、学問的な正直さを欠いている。」(ウィリアム・バークレー博士。バークレー博士は、スコットランドのグラスゴー大学の教授であり、新約聖書の私訳を出しています)

「『ことばは神であった』の『神』に定冠詞が無いということを問題にする素人の文法学者がいるが、叙述文型の名詞の場合、これはしばしば見られることである。“a god”は、弁護の余地の無い訳である。」(F・Fブルース博士。ブルース氏は、イギリスのマンチェスター大学の教授であり、バークレー氏と同様、新約聖書の翻訳をしている方です。ブルース氏とバークレー氏は、英国の最も権威あるギリシア語学者として知られています。)

―ウィリアム・ウッド『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』(いのちのことば社)98~99頁

なお、信頼性が広く認められている代表的な英訳聖書の中で、ものみの塔と同じように「a god」と訳しているものは、一つもありません。

使徒20:28|神ご自身の血

使徒20:28|神ご自身の血

新世界訳:「あなた方自身と群れのすべてに注意を払いなさい。[]がご自身の[み子]の血をもって買い取られた神の会衆を牧させるため,聖霊があなた方をその[群れの]中に監督として任命したのです。」

新改訳:「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」

NWT:「Pay attention to yourselves and to all the flock, among which the holy spirit has appointed YOU overseers, to shepherd the congregation of God, which he purchased with the blood of his own [Son]

ASV:「Take heed unto yourselves, and to all the flock, in which the Holy Spirit hath made you bishops, to feed the church of the Lord which he purchased with his own blood.

新改訳やASVでは「神がご自分の血をもって」と訳されている箇所が、新世界訳では「[神]がご自身の[み子]の血をもって」とされています。ギリシア語の原文を見ると、「み子」のという語は入っていないことがわかるので、「神がご自分の血をもって」の方が正しい訳出であることがわかります。

ここで述べられている「血」とは、明らかにイエス・キリストの流された血を意味するので、原文では、イエスが「神ご自身でもある方」として描写されていることがわかります。

そこで、イエスが神であることを否定するものみの塔は、「み子の」という原文に無い語句を加えることによって、キリストの神性を覆い隠してしまいました。

なお、他の日本語の聖書においても、新世界訳と同じように、「み子の」という語句を加えているものがありますが、付加の動機は、ものみの塔とは異なることでしょう。(字義通りの訳出を心がけるならば、そのような追加はしない方が良いと思われます。)

ペテロ第一3:15|主要な代理者

ペテロ第一3:15|主要な代理者

新世界訳:「一方では,命の主要な代理者を殺しました。しかし神はこの方を死人の中からよみがえらせたのであり,わたしたちはその事の証人です。」

新改訳:「いのちのを殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」

NWT:「whereas you killed the Chief Agent of life. But God raised him up from the dead, of which fact we are witnesses.」

ASV:「and killed the Prince of life; whom God raised from the dead; whereof we are witnesses.」

新改訳やASVにおいて、「いのちの君」と訳されている箇所が、新世界訳聖書では「命の主要な代理者」とされています。ここで、「君」と訳されているギリシャ語「Archegos」の意味は、辞書では次のようになっています。

archgon Archegosの意味:
①先導者(道を切り開いて)、導く者、導き手、指導者、君主、②開始者、創始者、創立者、元祖。¯織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』教文館、76頁.
1 : the chief leader, prince, of Christ.  2 : one that takes the lead in any thing and thus affords an example, a predecessor in a matter, pioneer.  3 : the author ―“The NAS New Testament Greek Lexicon

このように、「Archegos」というギリシア語の言葉は、基本的に「君主・先導者・創始者」という第一原因を意味する言葉であり、「代理者」という意味は全くありません。これは、「社長」を「社長代理」と書き換えるのと同じレベルの改ざんだと言えるでしょう。さらに、行間逐語訳では、ちゃんと「Chief Leader」と訳されているのに、肝心の新世界訳では、意味を変えてしまっていることがわかります。

ものみの塔の教えでは、神は最初にイエスを創造し、他の命はそのイエスによって創造されたとなっているので、イエスは命の「創始者・君主」ではなく、あくまで被造物であり、「神の代理としての創造者」ということなります。しかしその教えでは、イエスを「命の君主」とするペテロの告白と矛盾しますので、教理に合うように、聖句の意味を変えて訳してしまったのです。

コロサイ1:15~16|[他の]全てのものの創造者

コロサイ1:15~16|[他の]全てのものの創造者

新世界訳:「16 なぜなら,[他の]すべてのものは,天においても地においても,見えるものも見えないものも,王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ,彼によって創造されたからです。[他の]すべてのものは彼を通して,また彼のために創造されているのです。17 また,彼は[他の]すべてのものより前からあり,[他の]すべてのものは彼によって存在するようになりました。」

新改訳:「16なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。17御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」

NWT:「16 because by means of him all other things were created in the heavens and on the earth, the things visible and the things invisible, whether they are thrones or lordships or governments or authorities. All other things have been created through him and for him. 17 Also, he is before all other things, and by means of him all other things were made to exist,」

ASV:「16 for in him were all things created, in the heavens and upon the earth, things visible and things invisible, whether thrones or dominions or principalities or powers; all things have been created through him, and unto him; 17 and he is before all things, and in him all things consist.」

この聖句は、多くの聖書学者が、新世界訳聖書に対して批判している箇所の一つです。

新改訳やASVにおいては、ギリシア語の原文の通り「万物は御子にあって造られた」となっており、イエスが万物の創造者であると訳されています。この場合、イエスは「被造物」には含まれないことになります。(この点は、ヨハネ1章3節とも全く調和します)

一方、新世界訳では、「他のすべてのものは」となっており、イエスによって創造されていないものがあるという訳出になっています。しかも、丁寧に、この短い聖句の中で、四箇所も、ことごとく「他の」が付けられています。この訳出は、イエス自身も被造物であり、神は最初にイエスを創造し、その後、イエスによって「他のすべてのもの」を創造した、というエホバの証人の教理を支持する表現となっています。

しかし、結局のところ、「ほかの」という語句は原文には存在しないので、意図的な付加であることに変わりはありません。ものみの塔による、完全な意訳であり、「字義通りの訳出」というルールへの違反だと言えるでしょう。

なお、日本語版では「他の」という言葉が [ ] で括られており、かろうじて協会側が追加した箇所であることが示されていますが、最新の改訂版では、[ ] が省かれており、意訳を越えた、完全な改ざんになってしまっています。

テトス2:13|偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト

テトス2:13|偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト

新世界訳:「そしてわたしたちは,幸福な希望と,偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光ある顕現とを待っているのです。」

新改訳:「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」

NWT:「while we wait for the happy hope+ and glorious manifestation of the great God and of our Savior, Jesus Christ」

ASV:「looking for the blessed hope and appearing of the glory of the great God and our Saviour Jesus Christ;」

新改訳やASVでは、イエス・キリストが「大いなる神であり私たちの救い主」だという訳出になっていますが、新世界訳では、「偉大な神」と「救い主キリスト」が別々の存在であるかのような訳出になっています。

他の翻訳を確認すると、岩波訳を除く多くの日本語訳聖書、およびあらゆる英訳聖書は、新改訳・ASVの訳出を支持しており、新世界訳だけが異なる訳し方をしていることがわかります。そしてこの事実は、新世界訳聖書の訳出を支持する聖書学者が、ほとんど存在しないことを示しています。

ギリシア語の文法的に、どちらの訳が正しいのかについては、専門的な説明が必要なので、以下に、ものみの塔の出版物でも度々引用されている聖書翻訳の権威、ブルース・メツガー博士のコメントを紹介します。

さらに別の重要な聖句で、新世界訳は原典の意味をぼやかし、イエス・キリストを神と呼ぶことを避けました。テトス2:13には、「偉大な神と救い主イエス・キリストの幸福な希望と栄光の顕現を待っています」と書かれていますが、この「偉大な神」と「救い主キリスト・イエス」を区別するこの翻訳は、1798年にグランビルシャープによって定式化されたギリシャ語の文法の原理を見落としています。

この規則は、簡潔に言えば、接続詞のκαιが、同じケースの2つの名詞を接続する場合、もしその記事が最初の名詞の先に来て、そして二番目の名詞の前で繰り返されないなら、後者は常に、最初の名詞によって表現され、描写される同じ人物を指す、ということです。

したがって、テトスのこの聖句は、改訂標準訳聖書(RSV、1952年)のように、「私たちの祝福の希望、偉大な神であり救い主であるイエス・キリストの栄光の権限を待ち望んでいる」と翻訳しなければなりません。

この翻訳への支持として、ギリシャ新約聖書の著名な文法学者であるP・Wシュミーデル、J・Hモールトン、A・Tロバートソン、ブラス・デブルナーが引用されているかもしれません。これらの学者はみな、テトス2:13が、一人の人物だけを指して、「私たちの偉大な神であり、救い主であるイエス・キリスト」と言わなければならないという判断に同意しています。

―『THE JEHOVAH’S WITNESSES AND JESUS CHRIST: A Biblical and Theological Appraisal』by By Bruce M. Metzger

ヘブライ 1:10|主よ、

新世界訳:「また,『主よ,あなたは初めにこの地の基を据えられました。天はあなたのみ手の業です。』」

新改訳:「またこう言われました。『主よ。あなたははじめに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。』」

NWT:「And: You at [the] beginning, O Lord, laid the foundations of the earth itself, and the heavens are [the] works of your hands.」

ASV:「And, Thou, Lord, in the beginning didst lay the foundation of the earth, And the heavens are the works of thy hands:」

この聖句では、新世界訳聖書は、他の聖書と同じく、冒頭部分を「主よ」と訳していますが、何が問題なのかというと、ものみの塔が新世界訳聖書の翻訳において定めたルールに従えば、該当箇所は、「主よ」ではなく、「エホバよ」と訳さなければならないのです。

ものみの塔は、新世界訳聖書の中で登場する「主」が、旧約聖書からの引用文で、エホバを指していることが明らかな場合、それを「エホバ」に置き換える、というルールを定めていますが、ヘブライ1:10の引用元の詩篇102:25を確認すると、そこでの「主」は、明らかにエホバを意味しているのです。

[神]道の途中でわたしの力を苦しめ,わたしの日数を短くされました。24 わたしは言いはじめました,「わたしの神よ,わたしの日の半ばにわたしを取り去らないでください。あなたの年はすべての代に及びます。

25 あなたは昔,この地の基を据えられました。天はあなたのみ手の業です。26 それらのものは滅びうせますが,あなたご自身は立ちつづけます。それは衣のようにみな古びてしまいます。あなたは衣服のようにそれを取り替えられます。そしてそれは用を終えるのです。27 しかしあなたは同じであり,あなたの年が全うされることはありません。」(詩篇102:23~27、新世界訳)

ペテロ第一 1:11|自分のうちにある霊

ペテロ第一3:15|主要な代理者

新世界訳:「彼らは,自分のうちにあるが,キリストに臨む苦しみとそれに続く栄光についてあらかじめ証しをしていた時,それがキリストに関して特にどの時期あるいはどんな[時節]を示しているかを絶えず調べました。」

新改訳:「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。」

NWT:「They kept on investigating what particular time or what season the spirit within them was indicating concerning Christ as it testified beforehand about the sufferings meant for Christ and about the glory that would follow.」

ASV:「searching what [time] or what manner of time the Spirit of Christ which was in them did point unto, when it testified beforehand the sufferings of Christ, and the glories that should follow them.」

この聖句は、旧約聖書の預言者たちの内にあった聖霊が、やがて到来する救い主について預言したことを説明する内容です。

新改訳やASVでは、「自分たちのうちにおられるキリストの御霊」となっている箇所が、新世界訳では、「自分のうちにある霊」となり、「キリストの」が削除されています。行間逐語訳で原文を確認すると、該当箇所には明らかに「キリストの」(Of Christ)という語句が含まれていますので、ものみの塔による意図的な語句の削除・改ざんであることがわかります。

ここでペテロが、聖霊(エホバの霊)と、「キリストの霊」とを全く同一視していることから、彼が「エホバ」と「キリスト」を同一視していたことがわかります。しかしそれでは、「エホバ」と「キリスト」を別の存在と考えるものみの塔の教えと調和しないので、「キリストの」を意図的に削除したのでしょう。

また、ここでの訳出のもう一つの問題点は、「キリストの」を削除することにより、文脈上、ペテロが「何の霊」のことを言っているのかが、わかりづらくなっていることです。

以上の理由から、この聖句は、どのような視点で見ても、大きな問題のある誤訳・改ざんだと言えるでしょう。

ローマ14:8~9|エホバのために生きる

ローマ14:8~9|エホバのために生きる

「わたしたちは,生きるならエホバに対して生き,死ぬならエホバに対して死ぬからです。それゆえ,生きるにしても死ぬにしても,わたしたちはエホバのものです。9 死んだ者にも生きている者にもとなること,このためにキリストは死に,そして生き返ったからです。」(新世界訳|JW)

「もし生きるなら、のために生き、もし死ぬなら、のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちはのものです。9キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、そのとなるために、死んで、また生きられたのです。」(新改訳)

「For if we live, we live to Jehovah, and if we die, we die to Jehovah. So both if we live and if we die, we belong to Jehovah. 9 For to this end Christ died and came to life again, so that he might be Lord over both the dead and the living.」(NWT|JW)

「For whether we live, we live unto the Lord; or whether we die, we die unto the Lord: whether we live therefore, or die, we are the Lord’s. For to this end Christ died and lived [again], that he might be Lord of both the dead and the living.」(ASV)

ものみの塔は、新約聖書のギリシア語写本の中の「主」と表記された多くの箇所を、「エホバ」というお名前に置き換えましたが、その置き換えがもたらした大きな弊害を示す典型的な例が、ここで紹介している聖句です。

新改訳やASVでは、該当の聖句が、一貫して「主イエス」について語っていることがわかりますが、新世界訳の方では、前半部分が「エホバ」について、後半の9節では「キリスト」について語られる訳出となっています。

両方の訳文を冷静に比較していただくと、多くの方にお気づきいただけると思うのですが、新世界訳の訳出の方は、文章の意味が不自然になっています。

新改訳の文を読むと、「私たちが主イエスのために生き、主のために死ぬのは、キリストが生きている人にとっても死んでいる人にとっても主となったからだ」という意味になっており、内容が自然です。

ところが、新世界訳の方では、「私たちがエホバのために生き、エホバのために死ぬのは、キリストが生きている人にとっても死んでいる人にとっても主となったからだ」となり、前後の文章の意味が繋がっていません。普通に考えて、「キリストが生きている人にも死んでいる人にも主となった」のであれば、私たちは「主キリストのために生きる」ようになっているはずです!

ものみの塔は、キリストの神性の否定によって、「イエスが主となった」ということの本質的な意味が理解できていないので、このような不自然な誤訳をしてしまったのです。

聖霊

創世記1:2|神の活動する力

創世記1:2|神の活動する力

新世界訳:「さて,地は形がなく,荒漠としていて,闇が水の深みの表にあった。そして,神の活動する力が水の表を行きめぐっていた。」

新改訳:「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」

NWT:「Now the earth proved to be formless and waste and there was darkness upon the surface of [the] watery deep; and God’s active force was moving to and fro over the surface of the waters.」

ASV:「And the earth was waste and void; and darkness was upon the face of the deep: and the Spirit of God moved upon the face of the waters.」

創世記の冒頭で、他の聖書において「神の霊」と訳されている箇所が、新世界訳では「神の活動する力」となっています。ヘブル語の原文を確認すると、該当箇所は、ただ「神の霊」とだけ書かれていることがわかりますので、新世界訳の訳出の方に問題があることがわかります。(他のあらゆる聖書も、同様に「神の霊」と訳しています)

新世界訳におけるこの訳の問題点は、まず第一に、翻訳の一貫性に欠けている、というところにあるでしょう。ヘブル語の原文で「神の霊」と書かれている新世界訳の他の箇所で、「神の活動する力」と訳されている箇所は一つも存在しないからです。しかし、なぜかこの創世記1:2においては、組織の解釈を強調したかったのか、一貫性の原則を無視し、大幅な意訳をしています。新世界訳は、字義通りに訳す逐語訳だと協会は述べているので、これはルール違反だと言えます。

コリント第二13:14|聖霊にあずかること

コリント第二13:14|聖霊にあずかること

新世界訳:「主イエス・キリストの過分のご親切と神の愛,ならびに聖霊にあずかることが,あなた方すべてにありますように。」

新改訳:「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」

NWT:「The undeserved kindness of the Lord Jesus Christ and the love of God and the sharing in the holy spirit be with all of you」

ASV:「The grace of the Lord Jesus Christ, and the love of God, and the communion of the Holy Spirit, be with you all.」

他の聖書において、「聖霊の交わり」(英語:communion)となっている箇所が、新世界訳では「あずかる」と訳されています。ここで「あずかる」と訳されているギリシア語は「コイノニア」という言葉で、「パートナーシップ、交わり、交流、通信、性交、分配」等を意味するのに用いられます。つまり、基本的に、「相互の交流」を意図する言葉なのであり、聖霊というお方の人格性が表現される箇所なのです。

そのため、ほとんどの日本語の聖書英訳の聖書は、この箇所を「交わり」という意味合いで訳出しています。

新世界訳における「あずかる」も、全くの誤訳とは言えませんが、聖霊の人格性を否定する意図で、「交わり」というニュアンスの表現を避けていることが伺えます。

霊魂不滅

伝道の書9:5|死んだ者には何の意識も無い

伝道の書9:5|死んだ者には何の意識も無い

新世界訳:「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もなく,彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら,彼らの記憶は忘れ去られたからである。」

新改訳:「生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる。」

NWT:「For the living are conscious that they will die; but as for the dead, they are conscious of nothing at all,」

ASV:「For the living know that they shall die: but the dead know not anything, neither have they any more a reward; for the memory of them is forgotten.」

エホバの証人が、霊魂不滅を否定するために積極的に用いるのがこの聖句です。ここで「意識」と訳されているヘブル語「yada」の基本的な意味とは「知る」であり、「知識」と関連するニュアンスの強い言葉です。(原語で聖書検索

そのため、新世界訳のように「何の意識も無い」と訳すことは不自然であり、同じような訳出をしている他の聖書も全くありません。

興味深いことに、同じ5節の冒頭では、「生きている者は自分が死ぬことを知っている。」(新世界訳)となっていますが、ここで「知っている」と訳されている箇所と、後半の「意識もない」と訳されている箇所は、同じヘブル語が用いられています。つまり、前半は、正しく「知っている」と訳しながら、後半の方は、「意識が無い」と誤訳しているのです。教理を優先し、翻訳の一貫性が欠けてしまったことを示す典型的な例だといえるでしょう。

※なお、新世界訳の伝道者の書において、同じヘブル語が用いられている他の箇所を確認していくと、一貫して「知る」というニュアンスで訳されています。「意識」と誤訳しているのは、この箇所だけなのです。

マタイ25:46|永遠の切断

マタイ25:46|永遠の切断

新世界訳:「これらの者は去って永遠の切断に入り,義なる者たちは永遠の命に入ります。」

新改訳:「この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

NWT:「And these will depart into everlasting cutting-off, but the righteous ones into everlasting life」

ASV:「And these shall go away into eternal punishment: but the righteous into eternal life.」

新世界訳で「切断」と訳されているギリシア語は「コラシン」(名詞)であり、辞書では次のような意味となっています。

◆処罰、刑罰、懲罰、こらしめ。(新約聖書 ギリシア語小事典, 322項)

◆懲らしめ、懲罰、刑罰;(神の)マタ25:46~神の刑罰と関係がある(を予想している):(増補改訂新約ギリシャ語辞典、268項)

このように、ギリシア語のコラシンは、「切断」という意味で訳すことはできないのです。筆者は、図書館をめぐり、色々なギリシア語辞典を調べてみましたが、やはり、切断と説明している辞書は皆無でした。

また、あらゆる英訳の聖書を比較してみても、同じように「切断」と訳すものは皆無であり、ほとんどが「刑罰」(Panishment)という意味合いで訳しています。

地獄の教えを否定するための誤訳であることは明らかです。

ルカ23:43|今日・・パラダイスにいます

ルカ23:43|今日・・パラダイスにいます

新世界訳:「すると[イエス]は彼に言われた,「今日あなたに真実に言いますが,あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう。

新改訳:「イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

NWT:「And he said to him: truly I tell you today, You will be with me in Paradise

ASV:「And he said unto him, Verily I say unto thee, To-day shalt thou be with me in Paradise.」

この聖句で注目すべきは、「今日」という言葉の位置が、新世界訳と他の聖書で異なる点です。他の聖書の場合は、「今日、わたしとともにパラダイスにいます」となり、イエスに語りかけられている罪人が、「今日の内にキリストと共にパラダイスにいるようになる」という意味になります。

一方、新世界訳の場合は、「今日あなたに真実に言います」となり、「今日」という言葉が、イエスの「言います」という言葉にかかっているため、「罪人が今日の内にパラダイスにいる」という意味にはなりません。これは大きな違いです。

行間逐語訳を確認すると、文章の意味を区切る“,”(コンマ)は、「I am saying」(私は言います)と、「Today」(今日)の間にあることがわかります。つまり、「今日」という言葉がかかっているのは、「わたしとともにパラダイスにいます」の方であり、他の聖書の訳出の方が正しいのです。

もしも、その日の内に罪人がイエスと共にパラダイスに行ったのであれば、エホバの証人が頑なに否定する霊魂不滅は、聖書的に正しいことになります。そこで、句読点の位置をすり替えることにより、原文の意味を全く改ざんしてしまったのです。

ヘブル9:27|人がただ一度かぎり死に

ヘブル9:27|人がただ一度かぎり死に

新世界訳:「そして,人がただ一度かぎり死に,そののち裁き[を受けること]が定め置かれているように」

新改訳:「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」

NWT:「And as it is reserved for men to die once for all time, but after this a judgment,」

ASV:「And inasmuch as it is appointed unto men once to die, and after this [cometh] judgment;」

他の聖書では、単に「一度死ぬことと」と訳されている箇所が、新世界訳では「ただ一度限り死に」(英訳:once for all time)となっています。この「ただ・・限り」という語句は、原文のギリシア語には存在せず、その点は、行間逐語訳で「once for all time」という語句が表記されていない事実からもわかります。つまり、原文に存在しない表現を付け加えたのです。

この誤訳の明白な理由は、今いちはっきりとしませんが、以下、筆者による推測です。ものみの塔の教理では、「死」とは基本的に「肉体の死」を意味し、人が死んだら例外なく無になります。プロテスタントの教会のように、「死後の裁き」や、「裁きのための復活」という教えはありません。楽園への復活に値しない人は、再び復活して裁かれて再度肉体的な死を経験する、ということは否定されます。

そこで、人は一度死んだら無になり、裁きのためにもう一度死を経験する、という教えを否定するために、「ただ・・限り」を付け加えたのだと思われます。

※ただし、ものみの塔の教えでは、楽園に復活しても不忠実になる人は、再度裁かれることになっているはずなので、そこまで突き詰めると、やはりこの誤訳の意味はよくわかりません。

ヘブル12:23|全うされた義人の霊的な命

ヘブル12:23|全うされた義人の霊的な命

新世界訳:「[すなわちその]全体集会,天に登録されている初子たちの会衆,すべてのものの裁き主なる神,完全にされた義人たちの霊的な命

新改訳:「天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、」

NWT:「in general assembly, and the congregation of the firstborn who have been enrolled in the heavens, and God the Judge of all, and the spiritual lives of righteous ones who have been made perfect

ASV:「to the general assembly and church of the firstborn who are enrolled in heaven, and to God the Judge of all, and to the spirits of just men made perfect,

行間逐語訳や他の聖書では、「義人たちの霊」となっている箇所が、新世界訳聖書では、「義人たちの霊的な命」となっています。つまり、原文ではただ「霊」となっている箇所を、「霊的な」という形容詞へと変え、「命」という原文に無い語句を加えているのです。これは、明白な改ざんだと言えるでしょう。

ヘブル12章の前後の文脈を確認すると、ここで言及されている「完全な者とされた義人たちの霊」とは、旧約時代の義人の信仰者たちを表していると考えられますが、そうであれば、一世紀の時代、すでに死んで無くなった信仰者たちは天へと挙げられ、そこでの生活を楽しんでいることになります。

しかし、ものみの塔の教理では、天へ行く人数は144000人だけであり、その選ばれた人々であっても、大艱難時代の最後の時まで、死んで無意識の状態で眠っているとされています。そして、やがて天への復活に値するとされた人々の命は、天の神の記憶の中に保たれていると考えられています。

そこで、「義人の霊」ではなく、「義人の霊的な命」へと意味を変え、「命が神の記憶の中で保たれている」というニュアンスにしたのだと思われます。

その他

キリストの臨在

キリストの臨在

新世界訳:「[イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」

新改訳:「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」

NWT:「While he was sitting upon the Mount of Olives, the disciples approached him privately, saying: tell us, When will these things be, and what will be the sign of your presence and of the conclusion of the system of things?」

ASV:「And as he sat on the mount of Olives, the disciples came unto him privately, saying, Tell us, when shall these things be? and what [shall be] the sign of thy coming, and of the end of the world?」

弟子たちが、終末期におけるキリストの再臨の様子を尋ねている箇所ですが、新改訳やASVでは、「来る」(coming)と訳されているのに対し、新世界訳では「臨在」(presence)と訳されていることがわかります。

ここで、「来る・臨在」と訳されている「パルーシア」というギリシア語は、辞書によると、次のような意味となっています。

parousiaV:来ていること、到来、来訪(国王や高官が土地を訪れることも)。①(その場に)来ていること、到着、臨席;不在に対してその場に(一緒に)いること。②終末論用語として、栄光のメシアの到来、来臨、出現  ―織田昭『新約聖書聖書ギリシャ語小事典』教文館、448頁。

ここにある通り、パルーシアは、終末論用語としては、メシアの到来・出現を意味することがわかります。そのため、新改訳・ASVのみならず、他のあらゆる日本語聖書、英語聖書を確認しても、新世界訳のように「臨在」と訳しているものは皆無です。つまり、どの聖書学者も、新世界訳聖書の訳出を支持していないのです。

ではなぜ、ものみの塔だけが、臨在と訳しているのでしょうか?その理由は、「1914年からキリストの臨在が始まった」というエホバの証人独自の教理にあります。エホバの証人は、かつては1914年に世の終わりが来る、という予言を大々的にふれつげていましたが、その予言が実現しないことを受け、それから約30年後の1940年代に、「1914年の予言は外れたのではなく、その年からキリストの臨在が始まったのだ」、と教え始めました。そして、その教理の修正から、かれこれ70年以上経つのです。

ですから、聖書の中で、キリストの「パルーシア」と書いてある箇所は、「到来」という比較的短い期間を想定した表現ではなく、目には見えない「臨在」という、比較的長い期間を想定できるような訳にした方が、都合が良かったのです。

しかし、実際に聖書的文脈から、「臨在」という訳の妥当性を確認していくと、問題点が浮かび上がってきます。中でも特に、その訳出の問題点を明らかにしているのは、次の聖句です。

「では今,子供らよ,彼と結ばれたままでいなさい。彼が現わされる時,その臨在(パルーシア)の際に,わたしたちがはばかりのない言い方ができ,恥を被って彼から退かなくてもよいようにするためです。」(ヨハネ第一 2:28)

ここでヨハネは、「キリストのパルーシア」とは、「彼が現わされる時」だと述べていますが、ここで「現され」と訳されるギリシア語「ファンエロー」には、目に見えるような形で明白に現れる、という意味があり、新約聖書の他の箇所でも、そのような意味合いで訳されています。(例=マルコ4:22、16:12,14など)

ですから、ヨハネが終末論を語る文脈でキリストのパルーシアと語った時、それはキリストの目には見えない臨在のことではなく、目に見える形で現される到来・出現を意味しているのです。以上の理由から、「パルーシア」に対する「臨在」という訳出は、エホバの証人独自の教理を、聖書的文脈より優先してしまった、典型的な誤訳の例だと言えるでしょう。

ペテロ第二2:11|エホバに対する敬意から

ペテロ第二2:11|エホバに対する敬意から

新世界訳:「しかしみ使いたちは,強さと力において勝っていながら,彼らをあしざまに訴えたりはしません。[そうしないのは]エホバに対する敬意からです

新改訳:「御使いたちは勢いも力も彼らにまさっているのに、主の御前で彼らをそしって訴えたりしません。」

NWT:「whereas angels, although they are greater in strength and power, do not bring against them an accusation in abusive terms, [not doing so] out of respect for Jehovah.

ASV:「whereas angels, though greater in might and power, bring not a railing judgment against them before the Lord.」

新改訳やASVでは、ただ「主の御前で」となっている箇所が、新世界訳では、「[そうしないのは]エホバに対する敬意からです」と長々とした文章となってしまっています。行間逐語訳で原文を確認しても、「そうしないのは」や、「敬意」という言葉は一切なく、ただ「主の御前で」(beside Lord)と書いてあるだけです。

なぜ、この聖句で、原文に無い言葉を、あからさま付け加えてしまったのか、意味がわからないのですが、明白な改ざん箇所だと言えるでしょう。

付録:グッドスピードの手紙の論評は信頼できますか

「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」に関して,著名な聖書翻訳者で聖書学者のエドガー・J・グッドスピードは,1950年12月8日付の手紙の中でこう書いています。

「私は皆様の宣教の業およびその世界的な規模に関心を抱いています。そして,この自由で率直な,力強い翻訳に非常に満足を覚えております。膨大な量の慎重で徹底した研究がこの翻訳に表われていることを私は証言できます」

ウェブサイトの記事「『新世界訳』は正確ですか」の中で紹介されている、学者たちによる新世界訳聖書への好意的な論評の中で、実際に考慮に値するものは、おそらく「エドワード・グッドスピードからの手紙」のみだと言えるでしょう。グッドスピード(1871~1962)は、確かにギリシア語に精通した新約聖書の著名な学者であり、協会の過去の出版物でもしばしば引用されていまが、他に紹介されている学者は、ものみの塔の他の出版物にもほとんど引用されておらず、権威ある学者として紹介されてもいないからです。

記事の中でも、グッドスピードだけが顔写真付きであり、またその論評が最上段に来ていることからも、彼の論評が、他の多くの論評よりも高い価値を持つことを、協会自身が認めている様子が伺えます。しかし、このグッドスピードからの手紙の内容には、複数の疑問点があることも事実です。

まず、この論評は「手紙」の内容だと記事の中では述べられていますが、「手紙」である以上、出版物のように公表されたものでは無いので、その内容を知るのは、基本的にはグッドスピード本人と、受け取り手のエホバの証人だけです。となると、引用された手紙の文章が、正確に原文を引用しているかどうかを第三者が確認するためには、少なくとも、グッドスピード本人が生きていた時代に、その手紙が公表されなければなりませんでした。

しかし、Watch Tower Libraryを用いて調査していくと、1950年付だとされるこの手紙が、初めて組織の出版物に公開されたのは、手紙が送付されてから33年後、グッドスピードが亡くなってから20年も後の、1983年のことでした。

聖書翻訳家エドガー・グッドスピードは,クリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳の翻訳に関して一人のエホバの証人に次のように書き送りました。「私は皆様の宣教の業およびその世界的な規模に関心を抱いています。そして,この自由で力強い翻訳に非常に満足を覚えております。膨大な量の慎重で徹底した研究がこの翻訳に現われていることを私は証言できます」―『ものみの塔』1982/6/15,22頁

つまり、手紙が出版物で公開された時、その内容の正確性を確認できる人物は、ものみの塔以外にはいなかった、ということなのです。(ちなみに、上記の紹介文を見ると、手紙の宛先は、組織ではなく、一人のエホバの証人となっています)

ですから、現状、たとえものみの塔が、グッドスピードの手紙の内容を悪引用しているとしても、その事を指摘できる人がおそらく誰もいない、という状態なのです。

せめて、組織が手紙の内容の全文のコピーを、そのまま公開してくれれば、話は変わってきますが、現状は、手紙の内容のある一部分だけを公開しているに過ぎないので、読者の側としては、確証を得るには不十分な状態です。

また、ものみの塔協会は、色々な文献をしばしば悪引用することでも知られていますから、そうした信頼性を考慮しても、手紙の原本の全文のコピーの公開は、必要不可欠です。

以上の様々な背景を考慮していくと、おそらく、グッドスピードによる手紙が実在したこと、また記事で紹介されているような言葉、あるいはそれに近い言葉をグッドスピードが用いたことは事実でしょう。ただし、「手紙の中に、新世界訳聖書に対する批判的な文章も含まれていたのではないか」、という疑念を払拭することは、組織が手紙の全文を公開するまでは不可能です。

参考文献・サイト

聖書の翻訳について

エホバの証人の記事(ウェブサイト)

  • 聖書には改ざんされた箇所がありますか
  • エホバの証人は自分たちの信条に合わせて聖書を変えていますか
  • 聖書の良い翻訳 ― どのように見分けられますか
  • 「新世界訳」は正確ですか
  • エホバの証人はなぜ「新世界訳聖書」を発行しましたか

更新情報

新世界訳聖書に関する新たな情報を、本記事内で更新しましたら、こちらからお伝えいたします。

 

脚注

[1] 第一の正典が『新世界訳聖書』、第二が『ものみの塔』誌、等の出版物です。

[2] フランズは、大学でギリシア語を二年間学び、ヘブル語は独学でした。―レイモンド・フランズ『良心の危機』(せせらぎ出版、2001)68頁、注記16。

[3] 厳密には、新改訳聖書におけるギリシア語本文は「ネストレ版」、新共同訳聖書におけるギリシア語本文は「UBS3」ですが、どちらも、ウェストコットとホートによるギリシア語本文を土台としています。

[4] ジェームズ王欽定訳で用いられた底本は、ヘブライ語が「マソラ本文(ヤコブ・ベン・ハイーム編纂)」、ギリシア語が「TR本文(テクストゥス・レセプトゥス)」です。これらの底本の方が、より神の言葉を忠実に伝えていると信じる人の数も、決して少なくはありません。

[5] ―R. Rhodes, The Challenge of the Cults and New Religions, The Essential Guide to Their History, Their Doctrine, and Our Response, Zondervan, 2001, p. 94


あわせて読みたい

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です