地獄・霊魂不滅① 聖書は地獄の存在を本当に教えていますか?エホバの証人への反論
聖書研究者のその小さなグループは,魂の不滅と関係のある他の教理も,人々の考えを混乱させる偽りであることを知りました。例えば,善人はすべて天に行くという教えや,神は悪人の不滅の魂を火の燃える地獄で永遠に苦しめる,という教えがあります。ラッセルとその親しい仲間たちは,たくさんの記事,書籍,パンフレット,小冊子,さらには寄稿した訓話の中で,それらの教えの偽りを暴きました。(『神の王国は支配している』14頁)
「地獄は存在せず、霊魂は不滅ではない」この地獄の否定の教えは、1914年・三位一体の否定と共に、ラッセルの時代からものみの塔が掲げてきた重要な三本柱の一つであり、「キリスト教の偽りを暴いた」ものとして、エホバの証人が絶対に譲れないテーマの一つです。
しかし、「偽りを暴いた」と豪語するこの教えは、果たして本当に聖書が教えていることなのでしょうか?本記事を通して、その答えを明らかにしていきます。
※公開中の本記事は、2018年3月22日に公開した内容の書き直しです。コンテンツの内容を改善すると共に、地獄の教えに対する様々な疑問に対する答えを、これから公開する複数の記事に分割して読みやすくしていきます。また、これまでに書かなかったハデスの詳細や臨死体験の証言等も加え、より良いものにアップデートしますので、本テーマに関心のある方は是非お読み頂ければ幸いです。
目次
地獄は存在するか?答えを知る上で大切なこと
エホバの証人の創始者ラッセルは、そもそもなぜ地獄の教えを否定するようになったのでしょうか?そこには、彼の幼少期の苦悩が関係しています。
チャールズの両親はキリスト教世界の諸教会の信条を心から信じており,彼にもそれを受け入れてもらうことを目標に子育てを行ないました。そのため,チャールズ少年は,神は愛であると教えられましたが,同時に,神は人間を元々不滅のものとして創造し,救いが予定されている人々以外の全員をとこしえの責め苦に遭わせるために火の燃える場所を準備されたと教えられました。そのような考えは,十代のチャールズ少年の誠実な心を不快にさせました。「自分の力を使って人間を創造しておきながら,その人間がとこしえの責め苦に遭うのを予知し,予定しているような神には知恵も公正も愛もあるはずがない。その規準は多くの人間の規準よりも低いことになる」と,チャールズは考えました。(神の王国をふれ告げる人々)
このような経緯で、ラッセルは「愛の神が人間を地獄で苦しめるはずがない」と考え、地獄を否定する一連の聖書解釈を築き上げていきました。
エホバの証人以外でも、ラッセルの気持ちに共感する人はきっとある程度いるでしょうし、その気持ちや考えは理解できます。しかし、聖書の真理を探究する上では、この解釈のプロセスには大きな問題があります。それはこの解釈が、「愛の神が地獄を作るはずがない」という人間の倫理観に基づいており、「実際に聖書に何と書いてあるか」という聖書の言葉そのものに土台を置いてはいないからです。つまり、「聖書に何と書いてあるか」という事実を探究する前に、先に「地獄があるはずがない」と人間の考えで答えを決め、その答えに沿って解釈を築いてしまっているのです。このプロセスでは、たとえ聖書に地獄の存在が明白に書かれていても、その真理に気づくことはできないでしょう。
私はどのように地獄の存在を信じるようになったのか?
1914年の問題を通し、エホバの証人の教えの間違いに気づき始めてからは、その後は芋づる式に色々な間違いに気づいていきました。最終的に最も大きなハードルとなったのが三位一体でしたが、地獄の存在や霊魂不滅については、スムーズに受け入れていくことができました。
なぜなら、改めて聖書を読み直す中で、霊魂不滅・地獄の教えを肯定する箇所をたくさん見つけることができたからです。ですから、私から見て地獄の存在を受け入れることができるどうかは、聖書の解釈というよりは、「地獄はあるはずがない」という先入観を取り除けるかどうかにかかっているように思えます。
また、今日世界中で証言されている臨死体験の話も、霊魂不滅・地獄の存在を受け入れる上で、かなりの助けになりました。それらの体験談の中には、聖書の言葉通り、人間の霊魂が死後に消滅しないことを客観的に証明するようなものも多数あり、その信憑性は霊魂不滅を受け入れるには十分なものでした。
それらの臨死体験の証言についても、本シリーズの中で追って紹介していきたいと思いますが、まず今回の記事では、地獄の存在について実際に聖書が何と述べているのかに注目していきたいと思います。
霊魂不滅・地獄に関する教理の比較
地獄についての聖書的根拠を見ていく前に、このテーマに関するエホバの証人とキリスト教との教理の違いを確認します。
エホバの証人の信条
人は肉体的に死んだ時点で誰でも無になり、霊魂も消滅する。そのため、死後も何らかの意識が残り続けることは一切無い。霊魂が消滅する以上、永遠の苦しみの場所である地獄も実際には存在しない。(ただし、天国の存在は信じている。)
過去に死んだ人々の情報は、神の記憶に中に保たれ、やがて千年王国の期間中、地上の楽園に復活してくる。[1]
キリスト教の信条
人が肉体的に死んでも、霊魂は消滅しないとされ、主体的な人格や意識も存続する*[2]。そして、救われて死んだ人は天国へ行き、救われずに死んだ人は地獄へ行く。
将来、イエスが再臨する時には、救われて亡くなった全ての信者は、復活を通して栄光の体を与えられ、救いが完成し、永遠に生きることになる。救われずに死んだ人々は、千年王国後の最後の審判で、裁きのために復活し、永遠の運命が決定される*[3]。
主要な論点
死後の世界についてのエホバの証人とキリスト教との主要な論点は、「霊魂の不滅性」と「地獄の存在」ですが、両者は切り離せない関係にあり、地獄が存在するのなら、自動的に霊魂の不滅性も証明されることとなります。
そこで本記事では、エホバの証人にとって特に重要な「地獄の存在の有無」に焦点を合わせ、聖書から明らかにしていきます。
ユダヤ的視点―歴史的背景を理解する
一世紀のユダヤ人は地獄の存在を信じていた
霊魂不滅・地獄の教えの聖書的根拠を考える上で鍵となるのは、聖書時代の歴史的背景を理解し、ヘブル的な視点で読み解くことです。つまり、紀元一世紀のユダヤ人が、死後の世界についてどんな考えを持っていたのかを理解した上で聖書を読むと、その答えが自ずとはっきりと浮かび上がってくるのです。
『ものみの塔』2017年No.4には「生と死について聖書は何と言っているか」という特集記事が掲載されましたが、そこには紀元一世紀のユダヤ人の信仰的背景として、次のような説明がありました。
「西暦1世紀には,ユダヤ教の二大教派であるエッセネ派とパリサイ派が,肉体が死んでも魂は生き残る,と教えていました。」

ものみの塔 2017年 No.4
当時のユダヤ教パリサイ派とエッセネ派が、霊魂不滅を教えていたとするこの文章の内容は事実です。実際に、ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスは、当時のパリサイ人の教えについて、次のように述べているからです。
彼らは,魂が不死の力を持つこと,また有徳あるいは悪徳の生活を送った者たちには,地下においてよき応報なり刑罰なりがあることを信じている。すなわち,邪悪な魂にはとこしえの投獄が定められており,善良な魂は新しい命に通じる平易な道筋をたどる。さて、こうした見解のため、パリサイ人は一般大衆に大きく訴えるものをもっており、その影響力は甚大で、その結果、神に捧げる祈りや、もろもろの聖なる務めは、すべてパリサイ人の指示にしたがってなされたが、それは、自分自身の生活態度においても、また人々にたいする講話においても、最高の理想を実践するパリサイ人にたいする、市井の人々が示す大きな敬意のしるしでもあると考えられた。(『ユダヤ古代誌,XVIII』」14-15頁) ※『洞察二巻』563頁も参照
このように当時のパリサイ人は、霊魂不滅・天国と地獄の教えを確かに民衆に教えていました。さらに「こうした見解のため、パリサイ人は一般大衆に大きく訴えるものをもっており」という表現から、当時のユダヤ人の民衆全体は、霊魂不滅に関するパリサイ人の教えを、好意を持って受け入れていたことがわかります。
イエスは霊魂不滅・地獄の偽りを正したか
イエスは地獄の教えの偽りを暴いたか?
さて、地獄・霊魂不滅の教えがもしも偽りなのであれば、当時のユダヤ人は深刻な民族的偽りに陥っていたことになりますから、メシアであるイエスなら当然のごとく、その偽りを公然と暴いたことでしょう。実際にイエスはその宣教期間全体を通して、パリサイ人やサドカイ人の教えの偽りを大胆に公然と暴きましたから、地獄の存在が偽りだったとしたら、今日のエホバの証人が熱心に行なっているのと同様に、間違いなくその過ちも暴いたはずです。
では、福音書の記録の中で、イエスが地獄・霊魂不滅の偽りを暴き、パリサイ人と論争している箇所はどれくらいあるでしょうか?実は、それが「一つも無い」のです。福音書全体を通して、イエスは安息日などのモーセの律法の解釈に関する多様な議論を宗教指導者たちと繰り広げていますが、霊魂不滅の教えを偽りとして正している箇所は、一つも見出すことはできないのです。
さらに同様のことが、イエスの弟子たちにも言えます。使徒の働き以降の全ての書簡においても、当時の民衆が信じていたとされる地獄・霊魂不滅の教えを使徒たちや弟子たちが正す場面も、一度も見当たらないのです。
この事実は、イエスや弟子たちが、霊魂不滅・地獄の教えを肯定していたことを間接的に示す重要な証拠です。
では逆に、イエスが地獄の教えを肯定している箇所はあるのでしょうか?調べてみると、「たくさんある」のです。
アブラハムの子孫は地獄に行くことはない
イエスが地獄の教えを肯定している聖書箇所を紹介する前に、当時のユダヤ人が死後の世界について信じていた、興味深い教えを紹介します。
実は、一世紀当時のパリサイ派の教えでは、「割礼を受けたアブラハムの子孫であれば、最終的には地獄から救い出される」とされており、その理解は民衆に広く浸透していました。彼らは、先祖のアブラハム・イサク・ヤコブの功徳によって、その子孫であるイスラエルには特別な守りと祝福があると考えていたのです。
リシュ・ラキシュは言った。「ゲヘナ(地獄)の火は、イスラエルの罪人たちを支配することはない。それは、アブラハムがやって来て、彼らを(地獄から)引き上げてくださるからである。ただし、異邦人の女性と通じた者(割礼の契約を汚した者)は除外される」(バビロニア・タルムードの『エルビン(Eruvin)19a』)
アブラハムは地獄の入り口に座っており、割礼を受けたイスラエル人がそこへ下っていくのを許さない。(ミドラシュ、『タンフマ(Midrash Tanchuma)』)
以上の信仰的な背景をベースに、ルカ16章の「金持ちとラザロ」の記述を確認していきましょう。
金持ちとラザロ
聖句と文脈の確認
イエスは弟子たちに、富の扱いについてのたとえ話を教えており、「神と富とに奴隷となることはできません」と語りましたが、それを聞いていたパリサイ人はイエスを冷笑し始めました。なぜなら、当時のパリサイ人の教えでは、金持ちは神に祝福されている証拠であり、金持ちであればあるほど、その人は神の国に近い、と考えられていたからです。
そこでイエスは、彼らの考えの誤りを暴くために、「金持ちとラザロ」の話を始めます。
「また,富んだ人も死んで葬られました。23 そして,ハデスの中で目を上げると,自分は責め苦のうちにありましたが,はるか離れた所にアブラハムがおり,ラザロがその懐[の位置]にいるのが見えました。24 それで彼は呼びかけて言いました,『父アブラハムよ,わたしに憐れみをおかけになり,ラザロを遣わして,その指の先を水に浸してわたしの舌を冷やすようにさせてください。わたしはこの燃えさかる火の中で苦もんしているからです』。
25 しかしアブラハムは言いました,『子よ,あなたが自分の生きている間に,自分の良い物を全部受け,それに対してラザロが良くない物を[受けた]ことを思い出しなさい。しかし今,彼はここで慰めを得,あなたは苦もんのうちにある。26 そして,これらすべてに加えて,わたしたちとあなた方との間には大きくて深い裂け目が定められており,そのため,ここからあなた方のもとに行きたいと思う者たちもそれができず,人々がそこからわたしたちのところに渡って来ることもできない』。
27 すると彼は言いました,『それなら,お願いです,父よ,彼をわたしの父の家に遣わしてください。28 わたしには五人の兄弟がいますから。こうして彼が徹底的な証しをし,彼らもこの責め苦の場所に入ることがないようにするのです』。29 しかしアブラハムは言いました,『彼らにはモーセと預言者たちがある。それに聴き従えばよい』。30 すると彼は言いました,『いいえ,そうではありません,父アブラハムよ,だれかが死人の中から行けば,彼らは悔い改めることでしょう』。31 しかし[アブラハム]は彼に言いました,『モーセや預言者たちに聴き従わないなら,だれかが死人の中からよみがえっても,やはり説得に応じないであろう』」(ルカ16:22〜31)

Painting by Chris Dare
イエスは何を否定し、何を肯定されたのか
この話が語られた文脈と歴史的背景を踏まえると、イエスがパリサイ人の教えの何を否定し、何を肯定したのかがはっきりと見えていきます。
(1)金持ちであることは神の国に入ることの保証とはならない:パリサイ人は、金持ちは祝福の証拠であり、神の国に近いと信じていましたが、イエスの話の中では、金持ちが地獄の火で焼かれ、貧しかったラザロが慰めの場所へ行っています。イエスは「金持ちは神の国に近い」というパリサイ派の教えを公然と否定されたのです。
(2)アブラハムの子孫であることは、死後の裁きを逃れる保証とはならない:本テーマの考察において大変重要なポイントです。すでに確認した通り、パリサイ派の教えでは、アブラハムの子孫は、たとえ地獄に行っても、アブラハムがその人を守り追い返してくれる、と信じていました。ところがイエスの話では、アブラハムの子孫、という血統そのものは何の保証にもならず、むしろ死後の世界では、アブラハムが金持ちに下された火の裁きを確証しています。
実は、このパリサイ派の教えに対する同様の糾弾を、バプテスマのヨハネもしています。
「パリサイ人とサドカイ人が数多くバプテスマに来るのを見かけた時,[ヨハネ]は彼らにこう言った。「まむしらの子孫よ,来ようとしている憤りから逃れるべきことを,だれがあなた方に暗示したのですか。 8 それなら,悔い改めにふさわしい実を生み出しなさい。 9 そして,『わたしたちの父にアブラハムがいる』などと自分に言ってはなりません。あなた方に言っておきますが,神はこれらの石からアブラハムに子供たちを起こすことができるのです。 10 すでに斧は木の根もとに置かれています。それで,りっぱな実を生み出さない木はみな切り倒されて火に投げ込まれるのです。」(マタイ3:7~10)
(3)イエスは地獄の火の裁きを肯定した
イエスは、アブラハムの子孫であっても金持ちであっても「不信仰な者はハデスで火の裁きにあう」と言うことによって、「アブラハムの子孫は地獄に行くことはない」というパリサイ派の教えの偽りを暴きつつ、地獄の裁きは一切否定しませんでした。むしろ、その教えが真理であることを前提に金持ちとラザロの話をすることによって、死後の世界における「燃える火の裁き」の存在を完全に肯定されたのです。
実話ではなく、たとえ話なのか
この話に対するエホバの証人の基本的な主張は、これが実話ではなく「たとえ話」だというものです。
その点に関連して,例えは生活や自然界の事柄を題材にしてはいても,必ずしも実際に起こった出来事ではないという点にも注目できるでしょう。中には,「昔」,「ある人に……がいました」,「ある人がいました」,「ある人がいて」,その他同様な表現で始まる例えがありますが,それらは話し手が神の霊の影響力のもとに考案したもので,いわゆる例え,もしくはたとえ話でした。(裁 9:8; マタ 21:28,33; ルカ 16:1,19)(『洞察二巻』126頁。)
イエスのたとえ話には、二つの基本的な特徴がありました。一つ目は、「身近な生活や自然界の事柄を題材にすること」、二つ目は、「実名を用いないこと」です。金持ちとラザロの話の場合、三人の登場人物の内、二名の実名が明らかにされていることから、この話がたとえ話の特徴を有していないことがわかります。
さらに、イエスのたとえ話とは、「身近な題材」を通して真理を語るものです。もしも「金持ちとラザロ」の話がたとえ話である場合、そこで用いられている「身近な題材」とは何でしょうか?それは「ハデスでの火の裁き」です。もしもその裁きが偽りであれば、そのような題材をイエスが用いることは無かったことでしょう。
ですから、たとえ「金持ちとラザロ」の話がたとえ話であっても、地獄の存在を否定する根拠にはならないのです。
新約聖書:地獄・霊魂不滅を示すイエスの証言
ゲヘナ、永遠の火
「しかし,わたしはあなた方に言います。自分の兄弟に対して憤りを抱き続ける者はみな法廷で言い開きをすることになり,だれでも言うまじき侮べつの言葉で自分の兄弟に呼びかける者は最高法廷で言い開きをすることになります。また,だれでも,『卑しむべき愚か者よ!』と言う者は,火の燃えるゲヘナに処せられることになるでしょう。」(マタイ5:22)
「蛇よ,まむしらの子孫よ,どうしてあなた方はゲヘナの裁きを逃れられるでしょうか。」(マタイ 23:33)
「また,もしあなたの目があなたをつまずかせるなら,それを捨て去りなさい。あなたにとっては,片目で神の王国に入るほうが,二つの目をつけてゲヘナに投げ込まれるよりは良いのです。48 そこでは,うじは死なず,火は消されないのです。」(マルコ 9:47)
「ついで彼は自分の左にいる者たちにこう言います。『のろわれた者たちよ,わたしから離れ,悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入りなさい。』」(マタイ 25:41)
イエスは繰り返し、悪行者が「ゲヘナの火」に処せられる、と語りました。ものみの塔は、イエスが語った「ゲヘナの火」を、実際の火ではなく、「滅びを意味する象徴的な表現」だと理解しています。
イエスは最後に,人がだれかに「卑しむべき愚か者よ!」と呼びかけるなら,その人は火の燃えるゲヘナに処せられることになる,と述べました。「ゲヘナ」という言葉は,ヘブライ語のゲー ヒンノームという言葉に由来しており,このヘブライ語には「ヒンノムの谷」という意味があります。その谷は古代エルサレムの西方と南方に位置していました。イエスの時代に,その谷はごみを燃やす場所になっており,きちんと埋葬されるに値しないとみなされた極悪な犯罪者の死体もそこで焼かれました。それで,「ゲヘナ」という言葉は,完全な滅びの適切な象徴でした。(『ものみの塔』2006年2月15日号、31頁)
「永遠の裁きはない」という枠組みを前提とすれば、このような説明も一つの解釈とは言えるでしょう。しかし、イエスが「ゲヘナの火」という言葉を用いた時に、それを「当時のユダヤ人がどう理解したか」という歴史的文脈で理解することが重要です。
明らかに当時のユダヤ人は、悪行者が受けることになる「火」について聞いた時、それをパリサイ人の霊魂不滅の教えと結びつけて理解したはずです。なぜなら、彼らにとって「悪行者が火の燃える地獄へ行く」という教えは、馴染み深い常識的なものだったからです。
ではなぜイエスは、それを知っていながら、あえて「火の裁き」について語ったのでしょうか?考えられる結論は一つ、イエスが地獄の火の裁きの教えを肯定していたからです。
永遠の刑罰(マタイ25:46)
「そして,これらの者は去って永遠の切断に入り,義なる者たちは永遠の命に入ります」(新世界訳)
「こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」(新改訳)
「kai apeleusontai outoi eiV kolasin aiwnion oi de dikaioi eiV zwhn aiwnion」 ( Hort and Westcott )
この聖句は、マタイ25章の「羊と山羊の裁き」において、山羊の側に分けられた人々が受ける裁きを表していますが、エホバの証人の新世界訳では「永遠の切断」と訳されており、新改訳では「永遠の刑罰」となっています。
ここで「切断・刑罰」と訳されているギリシャ語の原語は「コラシン」(kolasin)ですが、エホバの証人の「参照資料付新世界訳」では、該当の聖句の補足説明として、次のような解説が加えられています。
「切断」。字義,「切り取ること; 刈り込み」。ギ語,コラシン。ヨハ一 4:18の脚注参照。
しかし、この解説と翻訳には大きな問題があります。なぜなら、どのギリシャ語辞典を確認しても、「コラシン」の意味は、「刑罰・懲罰」となっており、「切断」と解説している辞書を見つけることができないからです。
- 処罰、刑罰、懲罰、こらしめ。(新約聖書 ギリシア語小事典, 322項)
- 懲らしめ、懲罰、刑罰;(神の)マタ25:46~神の刑罰と関係がある(を予想している):(岩隈直『増補改訂新約ギリシャ語辞典』268項)
- 矯正、懲戒、刑罰、抑制(大学書林『ギリシャ語辞典』630頁)
調べていくと、新世界訳が解説しているような「切り取ること; 刈り込み」という意味があるのは、名詞形の「コラシン」ではなく、その動詞形の「コラゾー」(kolazo)の方なのです。コラゾーの場合は、「刈り込み(懲罰を前提とした)」というニュアンスが出てくるのですが、名詞形のコラシンでは、そのような意味合いにはならないのです。
さらに、数十に上る英語訳聖書を比較してみても、同じように訳している聖書を一つも見つけることができません。つまり、「切断」という訳を指示する聖書学者は「全く存在しない」ということです。
→ Bible Study Tool
ですから、新世界訳における「永遠の切断」という表現は、エホバの証人の教理に合わせて原語の意味を変更した「誤訳」であり「改ざん」に近いものです。イエスは確かに「永遠の刑罰」と語り、死後の世界における裁きがあることを確証されたのです。
新約聖書:地獄・霊魂不滅を示す弟子たちの証言
イエスの弟子たちは霊魂不滅を否定したか
イエスが公生涯の間、弟子たちに霊魂不滅・地獄が偽りであることを教えたのであれば、その弟子たちは、後の活動を通してそのことを主張したはずです。しかし、使徒行伝以降の全ての書簡においても、霊魂不滅を明確に否定する箇所は存在しません。
重要な点として、使徒たちは、当時のユダヤ人が誤解していた教えについては、しっかりとそれを正す必要がありました。ですから、霊魂不滅が偽りだったのであれば、それは彼らが真っ先に正さなければならなかった深刻な教えだったはずです。しかし、弟子たちはそうはせず、むしろ様々な箇所で、霊魂不滅を肯定するような発言を繰り返しています。
霊魂不滅・天国を示す聖句
「それでもわたしたちには勇気があり,むしろこの体から離れて主のもとに自分の住まいを定めることを大いに喜んでいます。」(コリント第二 5:8)
「わたしはこれら二つのものに迫られています。しかし,わたしがほんとうに願っているのは,解き放たれること,そしてキリストと共になることです。言うまでもなく,このほうがはるかに良いからです。」(フィリピ1:23)
霊魂不滅・地獄・ハデスでの裁きを示す聖句
「実にこれらの者たちは,主のみ前から,またその力の栄光から[離れて]永遠の滅びという司法上の処罰を受けます。」(テサロニケ第二 1:9)
「さまざまなバプテスマについての教えや手を置くこと,死人の復活や永遠の裁きなどの土台を再び据えるのではなく,円熟に向かって進んでゆきましょう。」(ヘブライ 6:2)
「同様に,ソドムとゴモラおよびその周りの都市も,ここに述べた者たちと同じように甚だしい淫行を犯し,不自然な用のために飽くことなく肉を追い求めたのち,永遠の火による司法上の処罰を受け,[警告の]例として[わたしたちの]前に置かれています。」(ユダ 7)
「そして,彼らの責め苦の煙は限りなく永久に上り,彼ら,すなわち,野獣とその像を崇拝する者,まただれでもその名の印を受ける者には,昼も夜も休みがない。」(啓示 14:11)
「そして,彼らを惑わしていた悪魔は火と硫黄との湖に投げ込まれた。そこは野獣と偽預言者の両方が[すでにいる]ところであった。そして彼らは昼も夜も限りなく永久に責め苦に遭うのである。」(啓示20:10)
以上に挙げた聖句の通り、イエスの弟子たちが霊魂不滅の教えを正そうとした形跡はありません。むしろ彼らは、その教えを肯定するかのような表現を、繰り返し用いていました。
旧約聖書の証言
協会の主張:霊魂不滅の起源は異教である
ものみの塔の主張によれば、霊魂不滅の教えは、エジプトやバビロンに起源を持つ異教の教えであり、後にギリシャ文化の普及と共に、ユダヤ人にもその教えの影響が及んだ、というものです。
西暦前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスは,「人類で最初に霊魂の不滅を擁護した」のはエジプト人だったと述べています。他に古代バビロニア人も,霊魂は不滅だと考えるようになりました。アレクサンドロス大王が西暦前332年に中東を征服した時までに,その教えはギリシャの哲学者たちによって広められており,まもなくギリシャ帝国中に普及しました。
西暦1世紀には,ユダヤ教の二大教派であるエッセネ派とパリサイ派が,肉体が死んでも魂は生き残る,と教えていました。「ユダヤ百科事典」(英語)はこう述べています。「魂の不滅に関する信条は,ギリシャ思想との接触からユダヤ人にもたらされた。それは主に,……プラトンの哲学を通してであった」。同様に,1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスもその教えを,聖書ではなく「ギリシャの子らの信条」によるもの,つまり神話や伝説を集めたものとみなしていました。(『ものみの塔』2017年No.4「生と死について聖書は何と言っているか」)
最も重要なのは起源ではない
霊魂の不滅性についての議論において最も重要なことは、その起源ではなく、実際にどうなっているかです。すでに前の記事で説明した通り、イエスは霊魂不滅・地獄の教えを否定せず、むしろ肯定しました。ですから、起源や影響がどうであれ、イエスが認めたのであれば、それは真理なのです。加えて、霊魂不滅が真理なのであれば、その教えの究極的な起源は神ご自身だということになるでしょう。
霊魂不滅・永遠の裁きを明白に示す聖句
また、霊魂不滅についての教えがギリシャ文化の普及と共にもたらされた、という点ですが、ギリシア文化の影響がなくても、旧約聖書の中に、すでに霊魂不滅や永遠の裁きを表す言葉が複数存在しています。
例えば、以下のイザヤ14章の聖句は、バビロンの王に対する宣告となっていますが、王が裁かれてシェオルに下った後に、どんな状況に直面するのかが、実に詳細に語られています。
「下のシェオルも,あなたが入って来るのを迎えるため,あなたを見て動揺した。それはあなたを見て,死んだ無力な者たちを,地のやぎのような指導者すべてを目覚めさせた。それは諸国民のすべての王をその王座から立ち上がらせた。10 彼らはみな話しはじめ,あなたに言う,『あなたまでもわたしたちと同じように弱くされたのか。あなたはこのわたしたちに比べられる者とされたのか。11 あなたの誇り,あなたの弦楽器のさざめきはシェオルに下ろされた。あなたの下には,うじが寝いすとして広げられている。虫があなたの覆いなのだ』。」(イザヤ14:9〜11)
このイザヤの聖句で注目すべきは、シェオルにいるバビロンの王や死んだ無力な人々に意識があるというだけでなく、彼らがそこでどんな話をするのかが明白に示されている、ということです。(この点は、ルカ16章も同様です)
また、以下のダニエル12章の聖句も、「かの者は恥辱に,[また]定めなく続く憎悪に[至る]」という表現によって、永遠の刑罰の様子がはっきりと表現されています。このような永遠の裁きの預言は、イエスの言葉や黙示録の預言と、実によく調和するものです。
「また,塵の地に眠る者のうち目を覚ます者が多くいる。この者は定めなく続く命に,かの者は恥辱に,[また]定めなく続く憎悪に[至る]。」(ダニエル 12:2)
結論
一世紀当時、ユダヤ人の多くが地獄の存在を信じている中で、イエスや弟子たちはそれを否定せず、むしろ肯定する教えを多く語りました。その事実は、聖書が地獄の存在を真理として示していることの強力な証拠です。ですから、死後の世界での永遠の裁きは、現実的に存在するのです。
この現実は、多くのエホバの証人にとって、感情的に受け入れ難いものでしょう。しかし、もしもあなたが霊と真理を持って神を礼拝することを願う人なら、イエスに従う弟子であるならば、自分の感情や人の感覚ではなく、唯一の神の真理と考えに、自分を合わせる必要があります。神は確かに愛であり、地獄は確かに存在するのです。
では、「愛の神が、人間に地獄での苦しみを許すはずがない」という反論に対してどのように答えることができるでしょうか?次の記事では、ラッセルに始まり多くのエホバの証人が投げかけてきたこの疑問に答えたいと思います。
脚注
[1] 黙示録7・14章に登場する144000人のクリスチャンについては、地上の楽園では無く、天的な命へと復活する、と信じられています。また、地上の復活に値しない悪人もおり、その人々は永遠に霊魂消滅の状態にあると信じられています。
[2] 一部の教派では、復活までの間、霊魂は眠った状態のままだと教えられています。
[3] キリストの再臨~復活~千年王国~最後の審判などに関わる終末論は、キリスト教内でも、教派によって理解の違いが多いテーマです。







初めまして 僕はエホバの証人の教えを30じゅうねん近く信じていたものです
とはいえエホバの証人の教えが僕には厳しすぎて
クリスチャンに至ることはできませんでした。
それでも霊的に渇いています
聖書研究を再開したのですが
結局
なにも変わらないままでした
結局 全ては虚しい
助けてほしいです
どうぞ
祈ってください
僕は今神を見失っています
だから 代わりにお願いします
コメントありがとうございます、今、ひろしさんのために祈りました。
ひろしさんが、神の命の水で満たされますように。
エホバの証人の教えは、宗教的欺瞞の霊の影響を受けており、一世紀のパリサイ派に似ており、そこには命がありません。
霊的な束縛から自由にされ、イエス・キリストの命に触れ、満たされる必要があります。
以下の方へ、問い合わせていただければ、直接会話してお祈りすることも可能ですので、どうぞご検討ください。
https://gospel-jw.com/contact/
エゼキエル18:4に関してはどう説明しますか?聖書には魂(ネフェシュ)は死ぬとはっきり書かれていますが?
コメントありがとうございます。
聖書全体を読むと、必ずしも、死=消滅 という意味ではないことがわかります。
ここでの「死」とは、その魂が裁きによって地上の人生を終えることを意味しているようですが、その後の状態については何も言及していないようです。
返信ありがとうございます。感謝します。
では魂が本来の意味に一番忠実なはずのヘブライ語でネフェシュつまり呼吸するものを意味することはどう思われますか?
呼吸器管も循環器管もない不滅の魂が呼吸するものと表現されていることに矛盾を感じるのですが?教えて下さい。
ちなみに私は元JW1世であり、今は中立な立場でございます。
よろしくお願い致します。
コメントありがとうございます。
「呼吸器管も循環器管もない不滅の魂が呼吸するものと表現されていることに矛盾を感じる」とのことですが、
実は、魂には「呼吸器管も循環器管もない」というところに、先入観がおありと見受けられます。
私たちの霊魂は、体を離れた状態においても、肉体が持つのとほぼ同様の機能を備えています。
聖書において、魂が「ネフェシュ」と言われているのには、そのような特徴を示唆しているのかもしれません。
では、なぜ私が「霊魂は、体を離れた状態においても、肉体が持つのとほぼ同様の機能を備えています。」と言えるのかと言うと、
肉体を離れて魂の状態となり、幽体離脱をする人や、死後の世界を体験した人々の証言をとても多く調べてきたからです。
私もJWの教理を離れて、死後の世界について興味を持って調べてきましたが、臨死体験の証言や悪魔崇拝者による対外離脱体験の証言を聞くにあたり、
死後は無になる、という考えは完全に消滅しました。死後の意識の存在は、実に多くの証言によって、客観性を持って証明することが可能です。
例えば、完全に盲目の人が、臨死体験中に部屋の中を見て、生還した後に部屋の様子を細部を証言する、という事例が多くあります。
死後、無意識であればあり得ないことです。
ぜひ、こうした点について、一度調査してみて下さい。聖書の証言とも一致してくると思います。
個人的にお勧めな書籍は、ハワードストーム死の臨死体験です。
彼は、危篤状態になる前は完全に無神論者だったのに、生還した後はクリスチャンになっていました。
死後、無意識なのであれば、それは不可能です。
https://true-ark.com/lifestory-howard-storm/ 動画も本も、かなりお勧めです。
ジョンラミレス氏の証言もお勧めです。地獄を体験していると共に、幽体離脱も何度も行っています。
追記させていただきます。
私はJWの教えを100%信用しているわけではありませんが、今でも「魂は不滅ではない」とゆう教えは合理的で納得のいくものだと考えています。
中立的な立場だと考えられる聖書を研究している専門家の方々もJWと同じ見解を示しています。
例えば最近見つけた興味深い論文があります。
【息の宗教的人間学 心身二元論人間観を超えた身体論的宗教学の可能性に向けて】
これは阿部善彦さんとゆう方が書いたものです。一度読んでみて下さいませ。
私は真実を知りたいです。JWのこともキリスト教会のことも両方よくご存じの管理人さんのご意見を聞きたいと考えています。
誠実なご回答ありがとうございます。
なるほど。先入観で決めるのは良く無いですね。参考にさせていただきます。
また疑問に思うことがあったらお尋ねしますね。
アドヴェンチストの教会でも地獄を否定されていますが、その根拠は同じく伝道の書の第9章の処ですが。アドヴェンチストの教義は第一と第二の復活があり、第一は生命の復活で在り天に行くと言う、第二の復活は正しい裁きを受けるために刑の罰せられるために復活させられると言うものですが、此処の難点は「何故に罰せられるべきために復活を第二でもしなければならないか」ですが。罰せられる為で在ったら復活もする必要も無いはずですが。第二の復活、1,000年期後では無くして、正しい命の生命は賜物ですので、1,000年期中に復活させられ、正(たゞ)されるんだったら実際に道徳的な行いを学ばせて、どうしても宜(む)べがわ無い人間を滅ぼした方が善いでしょうが。そっちの方の教義を取って、わたくしは1,000年期中の復活をする方を見解として採っている者ですが、絶対に霊魂は不滅ではありませんが。其処は『霊魂消滅説』と言われて居る、ウィキペディアと同じ結論の信者ですので。アルミニウス主義ですが、絶滅説の信者ですが、それ位です、その位です。
エゼキエル書の第18章の聖句でもあり、伝道の書の第9章の聖句でもあり、アドヴェンチストの教義でもあり、絶対に霊魂は不滅ではありませんが。そこを信ずるものですが。アルミニウス主義でもあって、会衆から断絶している者ですが、それでもアルミニウス主義は正しいとも確信を持ってゐる者ですが。それ位です、その位です。
会衆の予定説を信じてい無い者です。そこは絶対に譲れないので、二重予定説決定論を信じてい無い者ですが。そこはカトリックでも同じ者ですが。カトリックのトリエント公会議でも同じ者ですが。上智大学にも予定説を聴きに行っている者ではありませんが??イエズス協会の非予定説の教義も好きな者ですが。それ位です、その位です。
カトリック教会がヱホバの証人は『煉獄だ』と言えば、そうですか?などとかに成って受け入れて仕舞う者ですが。であるから『論じる』の本に「煉獄」が書かれているものと思いますが。煉獄であっても救われる方が善いです、それに今の生命において罰を受けて将来に後罪を残さない方を選ぶ者ですが、「苦しみは贖罪では『無く』」して『死が贖罪である』と強く主張されるものであれば、そっちのほうも受け入れて仕舞う者ですが。そっちの方の信者でもあります。ですから「『ものみの塔協会』に奴隷意志論もする者」ですが。
アルミニウス主義とイエズス協会の教義は一致していて、「同じで一致してゐる」と評価する者です。ですからアルミニヤンでもあり、キリシタンでもある者ですが。ただし「聖書のみ!」の改革派の日本基督公会主義の者ですが。ツヴィングリの再洗礼派であれば「再洗礼派の杖派の方」ですが。ですから「ペーター・ヴァルポットの『剣について』」を支持する者ですが。それ位です、その位です。
質問です。
神が悪を裁くのは理解できますが、何故わざわざ“永遠の責苦”というシステムをお作りになられたのですか?そもそも直ちにその存在を抹殺すれば愛と平和の世界は訪れるはずなのに…です。私がもし我が子が極悪非道な人間になったとしても、それを懲らしめるのに「火の中に放り込む」事や永遠に責苦に合わせる事はできないと考えます。それを納得して受け入れる教会の教えを普通の人間の感覚や感性でお教え頂ければ幸甚です。
「私がもし我が子が極悪非道な人間になったとしても、それを懲らしめるのに「火の中に放り込む」事や永遠に責苦に合わせる事はできないと考えます」
私個人の感覚からすると、このお考えに同意します。確かに、永遠の火の責め苦に愛する子が行ってしまう、というのは考えられません。
かの、チャールズ・ラッセルもそうでしたね。それが、かれが地獄の教理を否定する根拠となっていました。
アリウスさんに質問をさせて下さい。
「私だったら、愛する人間を火の中に入れることはできない」という感覚を持っているとしても、聖書の言葉に、火の燃える地獄で責め苦に遭う、という言葉がはっきり書かれていたら、それを信じますか? それとも、自分の感覚では納得できないから、という理由で、その言葉を否定しますか?
また、万が一、地獄が実在する領域であるなら、「私にとっては火の責め苦は愛と矛盾する、理解できない」と考え、神の存在や、神が愛であることを否定しますか?
否定します。もしそのような性質や計画を持っているのが神ならキリスト教はやめます。
感覚として到底普通の人間には受け入れられるものではないでしょう。むしろそれでも「神は愛である」というなら異常な愛です。人間を苦しめることを創造のご計画に含める訳です。
実は以前に教会の牧師の方と共に聖書を研究したことがあります。人間的に尊敬すべき善良な方だったからです。共通の認識として「何が聖書的か」で話し合いは進んでいきました。
しかしそのような研究も長くは続きませんでした。それが地獄の有無が原因でした。彼は私の事をヒューマニズムで聖書を理解しようとしていると言いましたが、私は日本人にキリスト教が受け入れられない理由はここにあると申しました。頼んでもいないのに自分の知らないところで勝手に犠牲を捧げられて、それを認めないから永遠に苦しめる…というのはエゴイズムの極みではないでしょうか。寓話や例えとしてなら理解できますが、もし本当にあるとしたら人間として生まれてきたことを呪います。そのような神を愛することなどできないからです。
私はヨハネ8章の姦淫を犯した女を赦すイエスやルカ15章の放蕩息子の父親の愛が好きですが、そのような慈愛に満ちた神が「人間を永遠に苦しめる地獄を作る」という事が理解できません。それが共に受け入れられる整合性のある説明を伺いたいと思います。
アリウスさん、あなたの熱心さに胸が打たれます。
私も元エホバの証人として20年過ごしてきました。
今はプロテスタントの信仰を持っているものです。
アリウスさんのお気持ちになることも痛いほど良く分かります。
もし神が地獄を創るような存在であるのなら全部を否定したくなってしまうというのは人間的感情としてはとても理解できます。
もし可能であるならば、以下の様に考察してみてはいかがでしょうか。
地獄は、もともと天地創造の時からあるのではなく、サタンが堕天使になってしまったから存在したようになったという設定です。
永遠の存在であるサタンが堕天使になってしまったからと言って、サタンが地獄に落ちることに関してはどのように感じるでしょうか。
もし「サタンなら仕方ない。だけど人間は別」だと捉えているとしたらその考えに矛盾は生じないでしょうか。
逆に、「サタンでさえ永遠に苦しむのは可哀そうだ。だから地獄は絶対にない方が良い」となるとしたら、
そもそも神とサタンの存在そのものを信じることすら無意味になるのではないでしょうか。
もしアリウスさんが、サタンが地獄に行くことについては認めているとしたら、地獄が存在することそのものは認められることになります。
天使は永遠の存在ですから、永遠の居場所が必要です。
サタンのための地獄があることが前提で話を進めることができるとしたら、次に、人間が死後も霊魂が永遠の存在であることは認めていらっしゃるでしょうか。
もしそうであるとしたら、永遠の時間をどこで過ごすことになるのかを考えることが可能になると思います。
霊魂不滅であることが前提ではありますが、
もし地獄がサタンのために存在することになったとしたら、サタンに着いて行った悪霊たちはいかがでしょうか。
さらに時系列的観点から考えるとすると、
サタンが存在しているのが、仮に6000年ちょっと前からだったとします。
人間が存在している期間が、長くて900年、今の寿命で120年。
6000年の存在のサタンは、悪魔になった結果、永遠にゲヘナで苦しむことが妥当であると考えることはできるのに、120年の人間が永遠に苦しむことは許せないとしたら、それは公平な判断だとは言えないのではないでしょうか。
永遠という観点で観たら、何千億年、何兆年、もっと生きることができる訳なのに、
わずか何千年か、もしくは100年の霧のようなわずかな行いの時間にどの程度の差があるでしょうか。
その期間に天国か地獄かが別れることについてはサタンも人間も同等だと、私なら考えます。
千年王国の期間でも真理を受け入れられない人もいるとしたら生きてる年数でもないのかも?と・・・
イエス・キリストを知って救いを得ることのできるチャンスは一瞬でやってきます。
生きている間にイエスを救い主だと受け入れたらそれで救われる。そのすごさを味わい知ることもとても重要なことだと考えます。
使徒17:27では、「もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」
ローマ1:20「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから、被造物を通して知られ、はっきりと認められる」
とあるように、神を見出すチャンスは聖書を手にする以前からすべての人にずっと開かれていました。
と、私は考えます。
熱心なる証しに感謝致します。
何故愛ある神が「永遠の切断」ではなく「永遠の責苦」という苦しみを意識的にお与えになるのかお教えください。
アリウスさん
正直なご返答、ありがとうございます。
地獄の教えを否定する上での、根底にあるアリウスさんのお考えや思いがよく伝わりました。
◆まず、アリウスさんのこの地獄の教えに対する感覚は、人類共通の普遍的なものではない、ということをお伝えしたいと思います。
というのは、紀元一世紀のパリサイ人は、霊魂不滅の教えを信じ、それを民衆に教えていました。(この点については、おそらくものみの塔の資料にも出てくると思いますが、ヨセフスの古代誌にも記録されています。)
一世紀当時の民衆の多くは、基本的にはパリサイ人の教えを信じていたので、ユダヤ人にとっては、霊魂不滅の教えや、悪人が死後に永遠の責め苦を受けることについては、当たり前の常識・感覚となっていました。(パリサイ人とあれだけ論争をしたイエス様が、地獄の教理を論破しようとは一度もしなかったことは、大変興味深いところです)
つまり、神は地獄の存在を許さない、という感覚は、人類共通の普遍的なものではない、ということです。
◆もう一つ、大切な質問をさせて下さい。
アリウスさんは、どう思いますか?
神の愛について、その聖さについて、その裁きについて、また罪の恐ろしさについて
アリウスさんと聖なる天使たちとでは、どちらの方がより深く理解していると思いますか?悟っていると思いますか?
また、アリウスさんとイエスとでは、どちらの方がより深く理解していると思いますか?悟っていると思いますか?
「実にイエスの行われた事は他にも多くあるが、仮にそれが事細かに記されるとすれば、世界そのものといえども、その書かれた巻物を収めることはできないであろうと思う」(ヨハネ21:25)
主イエスが仰られた記録が無いから…という推論の仕方は残念ながらこの言葉から適切ではないのが分かります。
イエスの語られた例えや説明は当時の信者達の習慣や文化的背景を考慮し話されたのは広く知られていることかと思います。よって地獄の存在の概念を既に宗教指導者に植え付けられていたユダヤ人達に対してその地獄を引き合いに出して説かれたというのはなんら比嘉様のご説明に異論はありません。
キリスト教(宗教全般)が近世において衰退していった原因の一つに宗教的強迫観念に人類が嫌気が差したという事はよくご存知かと思います。つまりキリスト教会は地獄の教理を用いて教区民を脅してきた訳です。世に言う暗黒時代はその一例です。よって近代科学によって宗教的迷信から逃れたいという様々な動きが文明社会に生じた訳です。よって現代人にとって地獄の存在を信じていないというのは多数派となっているのではないでしょうか。
最後のご質問の意図が解りかねますが、イエスも天使も神を自身の目で見ている訳ですから一介の人間と比べるのは如何なものでしょう?つまり人間の頭で理解できないものもあるのだ…という事を仰りたいのでしょうか。その点は全く同意できますが、逆に「地獄は例えとしてではなく実際にあるのだ」と結論付けるのも人間の脳の働きではないかと思うのですが…。
◆福音書の記述について
「実にイエスの行われた事は他にも多くあるが、仮にそれが事細かに記されるとすれば、世界そのものといえども、その書かれた巻物を収めることはできないであろうと思う」(ヨハネ21:25)
主イエスが仰られた記録が無いから…という推論の仕方は残念ながらこの言葉から適切ではないのが分かります。
>>イエスの行われたすべてが記されずとも、後世の読者にとって大切な内容が、聖霊によって絞られて書き記されたことは認めておられるでしょう。安息日論争が、なぜたくさん書き記されているのでしょうか?それは、イエスがよく論破した話題であり、重要だったからです。
したがって、霊魂不滅の教えの是非が、もし神にとって大事なテーマだったのであれば、福音書の中に、その論争が記されたのではないでしょうか?しかし、論争が記されていないということは、(1)神にとって地獄や霊魂不滅はどちらでもよい軽いテーマか、(2)イエスは霊魂不滅が真理であることを認めていた、のどちらかになります。
(1)であるならば、そもそもエホバの証人が、地獄の教理を偽りとし、盛んにキリスト教を偽りとしている活動そのものが無意味となり、ここで議論する意味もないことになります。しかし、ラッセルも、統治体も、アリウスさんも、そして私もそうは思っていません。それは大事なテーマであり、そこには一致があります。
(2)であるならば、辻褄が合います。福音書をよく読んでいくと、イエスの言葉の多くは、論破するどころか、地獄と霊魂不滅の教理を多くの個所で肯定しているからです。
◆地獄と神の愛の調和
イエスや天使たちが、天の父のことを「善いお方」と証言し、神のことを「公正な裁き主」としてたたえている様子は、聖書の中の至るところにあります。もし、地獄が真理であれば、なぜイエスや天使たちは、天の父が良いお方であると証言しているのでしょうか?
一方、なぜアリウスさんや私は、地獄と神の愛がどう調和するのかについて、十分に理解できていないのでしょうか?その理由はただ一つ、地上で神の栄光を目の当たりにしていない人間と、天において神を目の当たりにした天使やイエスとでは、神の愛や義に対する理解の深さに圧倒的な差があるからです。
つまり、地上の人間が、永遠の地獄について理解できないと考えるのは、「神が愛ではないから」ではなく、地上にいる罪人の理解不足に原因があるのです。たとえ地獄があるからと言って、私たちはどのようにして、神が不義であると訴えれるのでしょうか?神よりも、私たちの道の方が高いとでも言うのでしょうか?
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。
──主のことば──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55章8~9節)
しかし、イエスの贖いを通して、私たちは神がどれほど私たちを愛しているか知ったのではないでしょうか?そうであれば、今はたとえ理解できずとも、やがて私たちが神の子供として完成し、イエスや神と顔と顔を合わせてすべてを知り得る時には、全てを理解した上で、天使たちと同じように、神をほめたたえるはずです。
「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」第一コリント13章12節
ですから私は信じています。地獄は実在しますが、やがて天に挙げられ、真理をより深く理解する時には、その裁きの公正さをはっきりと理解するようになることをです。ぜひ、これらの点について、思いめぐらして頂ければ幸いです。
なお、何年も前に、同じ疑問を抱いた友人がいたので、こちらの記事を書きました。同じようなことを書いていますが、念のため合わせてご紹介させていただきますね
https://true-ark.com/bible-faq-hell-suffering-reason/
質問2です。
このような実験がありました。アメリカで催眠術の試験があり、対象者を深く眠らせ記憶を辿るという実験です。その被験者は過去の自らの経験を語り出しその記憶は幼い時代にまで遡る事ができました。更に記憶を辿らせようと親の乳を吸う乳児の記憶からそれ以前の記憶へと進みました。参加者全員の関心の中、彼女は不思議な事を語り出したのです!自分は150年前にイギリスの片田舎で暮らしており、夫は郵便局の局長で名前は〇〇だ…と語ったのです。そしてスタッフが調べたところその人物は実在しており女性の名前までもが一致したという実験でした。このことによって輪廻転生が証明されたという実しやかな出来事だったのですが、さて貴殿の教会は輪廻転生を認めておられるのでしょうか?
管理人様
非常に美しく感性された貴殿のサイトを汚すようで申し訳ないのですが…「偽預言ー予言の失敗」という点について共に推察してみませんか?
なんかKAN様と比嘉様のおかげで久しぶりにアドレナリンが出始めたようで嬉しいです!最近のJWのダッチロールにゲンナリしていたのですが、だんだん21世紀のアリウス派としてまた精力的に宣教活動をしてみようかという気分になってきました。
お二人にとっては不本意かもしれませんが、私にとっては嘗ての同志、愛する兄弟達なんです。できれば同じ会衆で信仰を語り合いたかったですね!(でも偽預言者からこんな事言われたら嫌ですよね?)笑
アリウスさんの真理を追い求める熱心さに敬意を表します。
そして地獄の教理について私の主張をアリウスさんに押し通すつもりもありませんので、もしよろしければ私の考え方にもう少しお付き合いくださいませ。
永遠の責め苦という観点で考えてみたいと思います。
仮に、そこが実際にずっと火で焼かれているような苦しみではなかったとします。
しかし、もし霊魂不滅なのであれば神と共に生きるか、神から離されて生きるかになります。
そのどちらかで永遠の時間を過ごすことに変わりはないと思います。
では、神から離されて生きるという状態を想像してみるのはいかがでしょうか。
そこは明るく快適で何不自由ない場所でしょうか。
それとも暗く寂しい場所でしょうか。
黙示録にあるように、新天新地では小羊(イエス)が都の光です。
イエスのもとにいるのであれば明かりのもとで永遠を過ごせます。
しかし、イエスを拒否するならば永遠に明かりがともされていない場所で過ごすことになります。
では、明かりがなく神から切り離された場所はどういう場所だと想像できるでしょうか。
文字通り火で焼かれているような苦しみが仮になかったとしても、神から離されている状態というのはそれだけでどれだけの苦しみを経験することでしょう。
この地上においても新天新地においても、「主イエスと共に生きられる。」これこそが人間にとって最上級の喜びだと私は個人的に確信しています。
なぜなら、わたしはイエスと共にいる喜びに今現在満たされているからです。
そこから切り離されることそのものが苦痛なのです。
地獄の理解は正直それだけでも十分ではないかと思います。
主イエスのいる光で過ごしたいか、イエスに近づくことができない闇なのか。
もし、闇ですら存在していなくて、人がイエスを信じていてもいなくても天国に行けるとしたら、新天新地で永遠の命を得られるとしたら、伝道は無意味になります。
悪魔の存在を知っていることも無意味になります。
そして、悪魔もみじんも苦しまないことになります。
さらに、それは悪魔の存在意義がなくなってしまうことにつながるかと思います。
聖書を読むことも、それに従うのも無意味になります。
まさに、今地上にある「すべてがむなしい」ものになります。
人は、すでに永遠の命を持っていて、その命を誰と過ごすのかの選択ができるのではないでしょうか。
イエスが光であれば、その反対は闇(悪魔)です。
伝道する際、「あなたはどちらを選びますか?」
と、これだけでも十分伝道は可能だと考えていますし、火の燃える地獄を想像させて脅迫するような伝道はする必要がありません。
おそらく今後もゲヘナについて聖書に書かれていることについて紹介はしますが、それ以上にイエスのすばらしさを宣べ伝えると思います。
以上が私の見解です。
もしわずかでも参考にしていただけるのであれば幸いです。
アリウスさんとの出会いに心から感謝いたします。
本当に神から愛されているお方だと信じています。
今後ともどうぞ末永くよろしくお願いします。
観念論的考察…まるで玄義ですね。興味深く拝読させて頂きました。尚、前半のご説明の「神の光が届かない霊的な闇」はペテロⅡ2:4のタルタロスの事であると推察致しましたが、もともとの意味としては「神の光の届かない霊的な闇の状態であり、精神的に卑しめられた状態」という意味があります。
さて、私が演壇で神とイエスの愛を説いているとしましょう。傷ついた羊達を懐に抱き、彼らを心から憐れみ、ラザロの死に涙を流し、十字架(刑柱)の上で「父よ、彼らを許したまえ…」と呻く愛する主の事をです。その時、聴衆の中から小さな声が聞こえます…「でも、地獄を作ったんですよね…」
私はその言葉でそれ以上話すことができず演壇から下りることでしょう。
そのお考えでいいと思います。
極論、地獄の存在を信じようが信じまいが、それが永遠の救いを左右するものではないと考えます。
プロテスタントでも聖書解釈は異なります。
カルバン主義かアルメニウス主義か。
現在でも異言はあるかないか。
癒しは起きるか起きないか。
預言者はいるかいなか。
大患難は7年かそうじゃないか。
携挙はあるかないか。
大患難前に携挙があるのか。
大患難後に携挙があるのか。
様々です。
これで意見が割れているからといって、救われる救われないに影響があるものではありません。
であれば、地獄が存在するしないで意見が割れているからと言って救いには影響しないはずだと考えます。
パウロが最も重要な福音として伝えたコリント第一15章1-5をしっかりと自分の口で告白(ローマ10:8-10)できることこそが救いに重要な要素だと思います。
イエスが自分の心の中で住んでおられること(エフェソス3:17)によって聖霊による証印が押されていること(コリント第二1:22)以上に大きな喜びは存在しません。
はじめまして。
元JW2世でyooと申します。
私は「JW完全論破ブログ(https://jwoff.org/)」と「全ての宗教2世に捧ぐ答え(https://wisesheep.org/clues/)」という2つのブログを運営しつつ、宗教2世被害者のための活動をしております。
それで、もし私のブログに興味を持って頂けたら私のブログに対するご感想、あるいはご批評を管理人様のこちらのブログにて紹介して頂けないでしょうか??
どちらか一方で構いませんので、、。
ご感想あるいはご批評を頂けたらその内容をしっかりと読ませて頂き今後の執筆や活動に活かしたいと思います。
可能であれば私のXのDMにてご連絡頂ければ嬉しいです。よろしくお願い致します。
はじめまして、コメントありがとうございます!
精力的に、JWのために活動をされているのですね。共感できます。
追って、感想を書く時間を取りたいと思いますが、せっかくですから、ぜひこちらの記事に対する感想やコメントもお書き頂ければ幸いです。
なお、普段はXは使用していないため、bjworg から始まるメールアドレスへ、後日連絡を差し上げても宜しいでしょうか?
今回もありがとうございました、毎回読ませていただいています、40年近く研究生でした、信じて信じて学び行動していましたが、パプデスマは許されず…伝導に出た際に聖句からすぐ答えが出ないことが理由でした。どんな質問も聖句からの説明ができなければならない、と。いろいろいろいろたくさんの決まり事にこれはおかしい。おかしいと気づき始めました。その1番のきっかけは聖書の書き換えでした。そこから不審に思い調べ始めました。世との交流を持ってはいけない。インターネットもいけない。決まり事はたくさんありましたが不審に思い始めた時から調べ始め 40年続いた研究を辞めました。今は他のところでバプテスマも受け聖書を学んでいます。いつもこのメッセージが楽しみです。私は深い知識はないですが、エホバの証人を抜けてよかったと、今回のお話も今のところでは同じように学んでいます。教えられています。毎回この配信楽しみで読ませていただいています。ありがとうございます。
ハレルヤ!
当サイトのご購読ありがとうございます。最初のきっかけは聖書の改ざんだったのですね。一つ疑問を感じることができれば、そのあとは芋づる式に見えてきますね。石黒さんの主との歩みが、これからも聖霊に導かれ祝福されていきますように。
石黒さん、40年近くも研究されていたんですね。驚きです。
また、エホバの証人のバプテスマに至るまでの過程が修行そのものであることも相変わらずですね。神を信じて救われるというのは本来は一日で起こるものです。真理の福音を聞き、それを信じることができるのであればその場で救われます。
何か良い行いで実証できたから救われるというものではありません。それだとキリストの贖いを無にしてしまうことになり、贖いが必要なかったと言っているようなものです。
無条件の神の愛と憐れみによって救われる恵みを感謝して受け取りましょう。