三位一体は聖書の教えですか?―キリストの神性と聖霊の人格性について


三位一体は聖書の教えですか?―キリストの神性と聖霊の人格性について

三位一体―この教えは私にとって、実に思い入れ深い教理です。かつて私は、1914年の教理をきっかけに、エホバの証人の誤りに気づき、組織の活動から離れましたが、教会に通うようになった後も、私の頭を最も悩ませ、受け入れるのに時間のかかった教理が、この「三位一体」だったからです。

エホバの証人が主張する教理の中で、またキリスト教との論争において、最も重要なものが「三位一体」に関するものです。既に「エホバの証人の教え」でも確認をしてきた通り、ものみの塔協会の歴史は、かつてラッセルが三位一体の教えと共に、キリスト教を否定したとこから始まっているからです。

エホバの証人から見れば、キリスト教は「三位一体を教えているがゆえに異端」だとされる一方、キリスト教から見れば、エホバの証人は「三位一体を退けたがゆえに異端」なのです。こうした教理上の論争を眺めている内に、かつて私は、「神はこの教理を巡って、クリスチャンが分裂することを望んではいない」と考えるようになり、三位一体に関連する聖句を一つ一つ詳しく解説するブログを作成するにまで至りました。

ところが、はじめの内は、「三位一体の相対化」を掲げてはいたものの、記事の作成を進めていく内に、聖書の言葉は私を、「イエスは間違いなく神だ」という結論へと導いていったのです。

たとえエホバの証人を離れても、かつての私と同じように、三位一体の教えを受け入れ辛く感じる人は、決して少なくは無いはずです。実際に、ブログなどで情報発信をしている元JWを観察していても、三位一体の教えを肯定する記事を書いている人はかなりの少数派だからです。(1914年や輸血拒否などを論駁する記事は比較的たくさんある)

そこで本記事では、私自身の経験も活かしつつ、三位一体の教理が確かに聖書的な教えであることを論証していきたいと思います。

三位一体論とは

三位一体論の定義

本記事を進めていくにあたり、はじめに三位一体という教理の定義をしっかりと抑えておく必要があります。

三位一体の教えは、カトリック教会・聖公会・プロテスタント・正教会・東方諸教会といった大半の教派が「正統的な教理」として共有している教理であり、公式には次のような定義となっています。

「神は、一つの実体(サブスタンティア)と、「父なる神」「子なる神」「聖霊」の三つの位格(ペルソナ)において、永遠に存在する」

『日本大百科全書』では、三位一体の定義を、もう少しわかりやすく次のようにまとめています。

「三位一体とは簡潔に表現すると、聖書の神は、父と子と聖霊であることにおいては三つのペルソナ(位格)をもつが、神であること(本質)においては一つの実体として存在するということである。つまり、一なる神が父と子と聖霊という三つのペルソナにおいて啓示されたことを、人間言語の制約下で示すものである。」

聖書は明らかに、神が唯一であることを教えています(申命記6:4)。したがって、通常であれば、唯一の神の人格的な主体は、父なる神ただ一人でなければなりません。しかし、聖書全体を精読していくと、父だけではなく、その子であるイエス・キリストにも、父と同様の神性が明確に啓示されている箇所が多数見つかります。(イザヤ9:6、ヨハネ1:18、黙示録5:14など)

また「神の霊」とされる「聖霊」にも、単なる「活動力」としての側面だけでなく、「人格的な主体」があることが多数の箇所によって啓示されています(ヨハネ14:16、使徒5:32、ローマ 8:27など)。

また、父・子・聖霊の三者の神としての一体性は、天地創造における記述や(創世記1章)、父・子・聖霊の名(単数形)によるバプテスマの記述などからも示されています(マタイ28:19)。

以上に挙げた視点から、キリスト教の歴史において「三位一体」という概念と教理が生まれ、定式化されていった理由は最大の理由は、聖書そのものが、その教えを明確に示しているからだと言えるでしょう。(とはいえ、たとえ聖書が三位一体の教えを明確に示しているとしても、そこには人間の理性では理解し切れない難解さがあるため、結果として、その教えを否定するグループが、歴史上常に存在してきました)

三位一体を論じる重要性

三位一体の教えが、世界中のキリスト教の公式の教理として定まっている以上、この教えを聖書的に論じることは、あまりにも重要です。なぜなら、三位一体が正統教理として掲げられている以上、エホバの証人を含む三位一体を否定するキリスト教グループは、全て「異端」に分類されることになるからです。

一方、エホバの証人から見れば、キリスト教は三位一体を信じるがゆえに「背教した偽りの宗教」だとされているのです。

また、三位一体の教えは、礼拝や信仰生活にも重要な意味を持っています。なぜなら、もしも三位一体の教えが聖書的に正しく、イエスが礼拝されるべき神だと言えるならば、キリストに属する者であるクリスチャンは、日々イエスを礼拝し、イエスを賛美し、イエスを信仰生活の中心におかなければなりません

しかし、もしも三位一体が誤りで、イエスが神でないのなら、クリスチャンはイエスを礼拝してはならず、イエスを中心に置くべきでもありません。なぜなら、神でない存在を礼拝することは、偶像礼拝になるからです。

父・子・聖霊の関係と役割

序列について

三位一体の教えにおいて、父と子と聖霊との間に優劣は無いとされています。その理由は、三位格が、共に神としての本質を完全に共有しているからです(ヨハネ1:1、14:16)。とはいえ、その教えは、三位格の間に序列があることを否定するものではありません。三位一体の神には、父→子→聖霊の順の序列があり、基本的にはこの秩序に従って調和して行動され、多様な業を進めておられます。

人類の救いにおいて

神による人類救済の業は、一つのチームとしての三位格の調和した働きを抜きに説明することはできません。父なる神は堕落した人間の救済を計画され、御子イエスはその計画を実行するために、人として生まれ、契約の仲介者として、贖い主として、王として働きます。聖霊は、預言者たちに言葉を与え、イエスの昇天後に弟子たちを導き、彼らを聖め、救いの業を完成させるのです。

三位一体論に関する歴史

父だけでなく、イエスや聖霊をも神と見做す信仰は、使徒たちの時代から存在しています。(ただし、エホバの証人は、その歴史的背景を否定しています。)聖書においては、特にヨハネの福音書からは、その信仰が顕著に見られます。

その後、紀元二世紀~三世紀においても、複数の著名な教父たちによって、その信仰は継承されていきました。

宇宙の父には、御子がある。それは神のことばなるひとり子であり、彼は神ご自身である。昔、彼は火の形やみ使いの形をとられて、モーセや他の預言者にお現れになった」―ユスティヌス(AD100-162)

「キリスト・イエスは、私たちの主であり、神であり、救い主であり、王であられる。」―エイレナイオス(AD130-202)

「キリストは明らかに神性を備えたお方である。その御子として、宇宙の主と同等であられる」―クレメンス(AD150-215)

とはいえ、キリストの神性を巡るテーマは、当時から神学的な議論の対象でした。紀元四世期になる頃には、イエスが神であることを否定する「アリウス派」と呼ばれるグループ*[1]が、それなりの数に上っていたようです。

しかし、紀元325年のニケア公会議において、アタナシウスはアリウスの教えに反論し、キリストが神と同質の存在であることを主張しました。結果として、その会議ではキリストの神性が認められ、アリウス派は退けられ、その信条が正統教理として定められました。

そして、紀元381年のコンスタンティノポリス公会議において、聖霊の神性も公に認められ、「ひとりの神は、同時に三つの異なる「存在の様態」、つまり父・子・聖霊、という形で存在する、という教理が明確になりました。

以降も、様々な議論を経ながら、三位一体論はキリスト教の正統教理として連綿と継承され、今日に至っています。

キリスト教とエホバの証人の教理の比較

本題に入る前の最後の確認事項として、三位一体に関するキリスト教とエホバの証人の教理の違いを確認しておきたいと思います。

イエス・キリストについて:

キリスト教との共通点:イエスは神の子であり、救い主であり、罪の贖い主であり、神の王国の王であり、御父と共にこの世界を創造されたお方である。

相違点(キリスト教):イエスは全知全能の神であり、礼拝されるべきお方である。また受肉以降のイエスは、完全な人であると同時に、完全な神でもある。

相違点(エホバの証人):キリストは唯一の神ではないため、崇拝の対象ではない。(神そのものではなく、神のようなお方である)天においては天使の長であり、その名はミカエルである。

JWの参考記事:エホバの証人はイエスを信じていますか

聖霊について

キリスト教との共通点:聖霊には、創造、奇跡、啓示、清めなどの神の業を行う役割がある。

相違点(キリスト教):聖霊は、人格的な主体を持つ神である。

相違点(エホバの証人):聖霊は、人格的な主体を持つ神ではなく、あくまで神の活動力である。したがって、聖書の中で聖霊の人格性を示す箇所は、全て擬人法だと理解される。

JWの参考記事:聖霊とは何ですか

三者の一体性について

キリスト教との共通点:父・子・聖霊は、意志や目的において完全に一致しており、救いの計画において調和して働く。

相違点(キリスト教):父・子・聖霊の三位格は、それぞれに人格的な主体を持ちながら、実体においては一人の神となっている。

相違点(エホバの証人):唯一の神として実体を持つのは父なる神だけである。三が一であるという三位一体の教えは明らかに非論理的な矛盾であり、神の名を汚すものだと理解される。

JW参考記事:神は三位一体ですか

三位一体―教理の比較表

両派の共通点 キリスト教(肯定派) エホバの証人(否定派)
神の子
イエス
イエスは神の子であり、救い主であり、罪の贖い主であり、神の王国の王であり、御父と共にこの世界を創造されたお方である。 イエスは全知全能の神であり、礼拝されるべきお方である。また受肉以降のイエスは、完全な人であると同時に、完全な神でもある。 キリストは唯一の神ではないため、崇拝の対象ではない。天においては天使の長であり、その名はミカエルである。
聖霊
神の霊
聖霊には、父なる神の業(創造、奇跡、啓示、清め)を行う役割がある。 聖霊は人格的主体を持つ神である。 聖霊は神の活動力であり、人格的主体を持たない。
三者の
一体性
父・子・聖霊は、意志や目的において完全に一致しており、救いの計画において調和して働く。 父・子・聖霊の三位格は、それぞれに人格的な主体を持ちながら、実体においては一人の神となっている。 唯一の神として実体を持つのは父なる神だけである。

論点の考察

三つの論点

以上に挙げた教理の比較を踏まえれば、三位一体論に関するエホバの証人との議論の要点は、次の三つに集約されると言えます。

  1. イエスは唯一の神か?
  2. 聖霊は人格的主体を持つ神か?
  3. 三者はどのような意味で一体なのか?

そして、この中でも最も重要なテーマが「キリスト論」であり、「イエスが唯一の神かどうか」という点にあります。なぜなら、キリストの神性に関わるキリスト論は、キリスト教の神学的・歴史的に重要な位置を占めてきたもだからです。

また、聖書が確かに「イエスが唯一の神」であることを啓示しているのであれば、自ずと唯一の神には複数の位格が存在するという答えにも導かれるからです。

人間の理性を中心とした神の捉え方

そして、教理全体の重要な論点は、ものみの塔の「人間の理性を中心とした神の捉え方」にあります。

「イエスとみ父はひとりの神であると言う人々は,矛盾と混乱の甚だしい無秩序の中に捕らわれている。もし,イエスとみ父がひとりの神であるのなら,我らの主イエスは地上にいた時に偽善者のように振る舞い,自分自身が神であるのに,祈りによって神に話している振りをしていたにすぎないということになってしまう。」―『ふれ告げる』126頁、チャールズ・テイズ・ラッセル」

かつてラッセルは、三位一体の非論理性を問題にした結果、その教えを退けましたが、その主張は今日のものみの塔においても変わることはありません。

確かに三位一体の教えは人間の理性で十分に理解することのできないテーマですが、聖書がキリストの神性を明瞭に啓示しているなら、結果的にその考え方は、神の言葉の否定へとつながっていくことになるのです。つまり、私たちの理解を遥かに越えた無限の神の実体を、人間の有限な知性で測ろうとするべきなのか、というところに、この問題の本質があるのです。

以上の点を踏まえ、(1)キリストについて、(2)聖霊について、(3)三者の一体性について、という順番で、本テーマの考察を進めていきたいと思います。また、キリストと聖霊の神性についての聖書的根拠の解説は、本記事では要点を抑えるに留めます。それらのテーマのより詳しい解説は、後日また別の記事を作成する予定です。

1:キリストの神性―イエスは神ですか?

イエスは神ですか

イエスは神ですか|Photo by JW.ORG

かつて、三位一体に関するブログを作成していた時、キリストの神性に関する多くの議論に目を通しましたが、その経験を通して感じたことは、エホバの証人にキリストの神性を証明するために用いられる多くの聖句は、この種の論争の場においてあまり有効ではない、ということです。感触としては、10個の聖句が挙げられていたら、実際に有効なのは、2~3程度、という印象です。

その理由は、ものみの塔側が、既に過去の出版物の中で、その聖句に対する反論記事を用意していたりする場合が多く、また該当の聖句が、言葉そのものがキリストの神性を示している、というよりは、「イエスは神である」という前提に基づいて解釈されているもの多々あるからです。

こうした点を踏まえ、特に有効だと思える聖句(私の経験上、イエスが神であることを否定できなくなったもの)を厳選して、取り上げていきたいと思います。

力ある神―イザヤ9章6節

「君としての支配がその肩に置かれる。そして彼の名は,“くすしい助言者”,“力ある神”,“とこしえの父”,“平和の君”と呼ばれるであろう。」(新世界訳)

この聖句では、イエスが明確に「力ある神」として預言されており、キリストが直接的に「神」として定義されています。ものみの塔は、あくまでイエスは「力ある神」と呼ばれているのであって、「全能の神」とは呼ばれていないのだから、この聖句によってイエスが神であることにはならない、と説明しています。

しかし協会は、イザヤ10:21において、エホバも全く同様の称号で啓示されている点を見逃しています。

「ほんの残りの者,ヤコブの残りの者が力ある神のもとに帰る。」(イザヤ10:21、新世界訳)

エホバの証人は、イザヤ10章における「力ある神」を、当然「エホバ」だと理解しますが、エホバとイエスに対して全く同じ「力ある神」という称号が用いられている以上、イエスも神であると結論せざるを得ないことになります。

※なお、他にもイエスが旧約聖書のエホバと全く同等の称号で呼ばれている例は数多く挙げることができます。救い主、贖い主、主、初めであり終わりである方、アーメンなる者、などです。

イザヤはイエスの栄光を見た―ヨハネ12章41節

「イエスはこれらのことを話して去って行き,彼らから身を隠された。37 しかし,彼らの前で非常に多くのしるしを行なってこられたのに,彼らが[イエス]に信仰を持たなかったので,38 預言者イザヤの言ったこの言葉が成就した。

・・・「彼は彼らの目を盲目にし,彼らの心をかたくなにした。彼らが自分の目で見,心で考えをつかみ,身を転じ,そしてわたしが彼らをいやす,ということがないためである」。41 イザヤは彼の栄光を見たのでこれらのことを述べ,彼について語ったのである

42 とはいえ,実際には,支配者たちでさえその多くの者が彼に信仰を持ったのである。しかしパリサイ人たちのてまえ,[彼について]告白しようとはしなかった。それは,会堂から追放されないようにするためであった。43 彼らは,神の栄光よりも人の栄光を愛したのである。」(12:36-43、新世界訳)

この聖句は、イエスが唯一の神「エホバ」であることを示す、決定的な箇所の一つです。ここでヨハネが引用しているのは、イザヤ6章におけるエホバの栄光の幻の場面ですが、ヨハネ6章の聖句とどのように関係しているのか、文脈を確認していきましょう。

この聖句は、イエスの公生涯の終わり、最後の祭りの期間での出来事ですが、それまでにたくさんのしるしがなされたにも関わらず、ユダヤ人の多くがイエスに信仰を持たなかったことから、ヨハネはその状況が、預言者イザヤの預言の成就だと説明しているのです。ですので、繰り返し出てくる「彼」とは、イエス・キリストを意味しています。

ここでヨハネが引用しているのは、イザヤ6章ですが、重要な点として、イザヤの預言が引用された後、41節では「イザヤは彼(イエス)の栄光を見たのでこれらのことを述べ,彼(イエス)について語った」と説明されています。では、イザヤ6章では、イザヤは「誰の栄光」を見て、また「誰について」語ったのでしょうか?

しかしながら,ウジヤ王の死んだ年に,わたしはエホバを見た。高大で,高く上げられた王座に座しておられ,そのすそは神殿に満ちていた。2 セラフたちがその上の方に立っていた。各々六つの翼を持っていた。二つで顔を覆い,二つで足を覆い,二つで飛び回るのであった。3 そして,この者がかの者に呼びかけて言った,「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,万軍のエホバ。全地に満ちるものはその栄光である」。4 すると,呼んでいる者の声で敷居の軸が震え,家もしだいに煙で満たされるようになった。

5 それから,わたしは言った,「わたしは災いだ! 沈黙に陥れられたも同然だからだ。わたしは唇の清くない人間であり,唇の清くない民の中に住んでいるからだ。わたしの目は王を,万軍のエホバご自身を見たからだ」。

明らかに、イザヤが見たものは「エホバの栄光」であり、彼が語ったのは「エホバについて」でした。つまり、使徒ヨハネは、イエスとエホバを完全に同一視していたのです。

自分たちが刺し通した者「わたし」を見つめる―ゼカリヤ12:10

「またわたしは,ダビデの家とエルサレムに住む者たちの上に恵みと懇願の霊を注ぎ出す。彼らは必ず自分たちが刺し通した者*を見つめ,一人[子]について泣き叫ぶかのように彼について泣き叫ぶ。また,初子のための激しい嘆きの時のような激しい嘆きがその者に関してある。(ゼカリヤ12:10、新世界訳)
*「者を」,テオ訳およびヨハ 19:37; マソ本,ウル訳,「わたしを」

「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」(新共同訳)

「And I will pour upon the house of David, and upon the inhabitants of Jerusalem, the spirit of grace and of supplications: and they shall look upon me whom they have pierced, and they shall mourn for him, as one mourneth for his only son, and shall be in bitterness for him, as one that is in bitterness for his firstborn.」(King James Version)

この聖句は、終わりの日にエホバがユダヤ人の上に聖霊を注ぎ、彼らが自分たちの刺し通した者・キリストを見つめ、民族的回心が起こることを預言した聖句です。新世界訳では「自分たちが刺し通した者*を見つめ」となっていますが、新共同訳やKing James Versionでは、「刺し貫いた者であるわたしを見つめ」となっています。つまり、贖いの死を遂げたキリストは、エホバご自身だったのです。

King James Versionは、エホバの証人の公式サイトでも紹介されている定評のある英語訳聖書で、原典を忠実に訳す「逐語訳」のタイプの聖書です。他にも、多数の逐語訳の英語訳聖書を確認しましたが、全て「刺し貫いた者であるわたしを見つめ」を意味する訳となっています。

一括比較はこちら ⇒ Bible Study Tool

※逐語訳の聖書として一般的に抑えておくべきなのは、King James Version(KJV)、New King James Version(NKJV)、New American Standard Version(NASV)、English Standard Version(ESV)などが挙げられます。

また、以下のヘブル語の底本を確認しても、「刺し貫いた者であるわたしを見つめ」という意味の文章になっていることがわかります。

ゼカリヤ書

このように、エホバは明らかに、ユダヤ人に突き刺された者が「わたし」であると述べています。つまり、ここでゼカリヤに言葉を与えた預言の与え主は、第二位格の神、受肉前のメシアだったのです。

長老たちは子羊を崇拝した―啓示5:14(黙示録)

「13そして,天と地と地の下と海の上とにいるあらゆる被造物,およびそこにあるすべてのものがこう言うのが聞こえた。「み座に座しておられる方と子羊とに祝福と誉れと栄光と偉力が限りなく永久にありますように」。14すると,四つの生き物は「アーメン!」と言い,長老たちはひれ伏して崇拝した」(啓示5:13-14、新世界訳)

「And I heard every creature in heaven and on earth and underneath the earth+ and on the sea, and all the things in them, saying: “To the One sitting on the throne+ and to the Lamb+ be the blessing and the honor+ and the glory and the might forever and ever.”+ 14  The four living creatures were saying: “Amen!” and the elders fell down and worshipped.」(New World Translation by JW)

啓示5:14は、キリストの神性が全面に表現されている素晴らしい聖句であり、ただ三位一体の論争で取り上げるというだけでなく、個人的にも感動を覚える大好きな箇所です。

14節の後半で、「長老たちはひれ伏して崇拝した」とありますが、文脈を確認すると、その崇拝の対象は、明らかに「み座に座しておられる方と子羊」となっています。聖書的には「ひれ伏して崇拝する」という表現は、明白に神に対する崇拝行為を表しており、逆に神以外の存在には崇拝してはならないのです。

「そこでわたしは,彼の足もとにひれ伏して彼を崇拝しようとした。しかし彼はわたしに言う,「気をつけなさい! そうしてはなりません! わたしは,あなた,また,イエスについての証しの業を持つあなたの兄弟たちの仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい。イエスについて証しすることが預言に霊感を与えるものなのです」。(啓示19:10)

地上においては、キリストの神性について人間同士の議論がありますが、天においてはそのようなものはありません。ですから、天に挙げられた24人の長老たちが、イエスに「ひれ伏して崇拝している」のであれば、議論の余地はありません。キリストは神であり、崇拝の対象なのです。

2:聖霊の人格性―聖霊は神ですか

聖霊は神ですか

聖霊に関する議論の争点は、「聖霊は人格的主体を持つ神か、もしくは人格の無い神の活動力か」となります。キリスト教が聖霊を神と理解する根拠は、聖霊の人格性を示す聖書箇所が多岐に渡るからです。一方、エホバの証人が聖霊を活動力と理解する根拠は、聖書が聖霊について「満たす・注ぐ」などの表現を用い、液体やエネルギーのような性質を持つ存在として描写しているからです。

しかし、問題の本質はキリストの神性に関する議論と同じであり、それはエホバの証人が人智を越えた神の存在を、人間の理性で理解可能な範囲に閉じ込めようとする点にあると言えます。その結果、どちらの場合においても、神の言葉が明白にしている教えを退けることになっているのです。

もう一人の助け主(別の助け手)―ヨハネ14章6節

「そしてわたしは父にお願いし,[父]は別の助け手を与えて,それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます。17 それは真理の霊であり,世はそれを受けることができません。」(新世界訳)

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(新改訳)

「And I will ask the Father and he will give you another helper* to be with you forever,」(NWT:エホバの証人)

助け主:パラクレートス

ここでイエスは、自分が天へ戻る代わりに「もうひとりの助け主」(別の助け手)を遣わすという約束を、弟子たちに対して与えました。

「助け主」と訳されるギリシャ語は「パラクレートス」であり、「慰め主、助言者、助け主、とりなす者、弁護者」などの意味があり、聖霊の人格性を明瞭に示す表現となっています。

もうひとり:アロス

さらに重要な点は、「もうひとりの助け主」の「もうひとり」(別の)という言葉であり、ギリシャ語の原文では「アロス」という言葉が用いられています。

ギリシャ語の「別の・もうひとつの」という言葉には、二通りの言い方があります。一つ目は「アロス」で、「同じ種類あるいは同質の、もう一つ」という意味があります。二つ目は、「ヘテロス」で、「質の違う、もう一つ」という意味となります。

たとえば、カフェで店員さんに水のおかわりを頼む時に「もう一杯」という場合には、全く同じ水のことを意味しますので「アロス」となります。しかし、「別の」ドリンクを注文する場合には「ヘテロス」が用いられるのです。

以上の言語的な背景を念頭に置けば、イエスが聖霊に対して「アロス」を用いたという事実は、聖霊がイエスと全くの同質の「人格的な存在」であることを、はっきりと示しています。

聖霊にはあらゆる人格的な特徴がある

ものみの塔は、聖書にある聖霊の人格性を示す全ての箇所を「擬人法」だと理解します。確かに、聖書の中で、人格の無い存在に「擬人法」が用いられているケースは多々あります。しかし、聖霊の人格性を示す聖句を丁寧にリストアップしていくと、その数があまりにも多く、またあらゆる角度から表現されていることに気づくのです。以下に紹介する聖句は、その一部です。

聖霊は知性を持つ

「それでも,心を探る方は,霊の意味するところが何かを知っておられます。それは神にしたがいつつ聖なる者たちのために願い出ているからです。」(ローマ 8:26-27)

「神はそれを,ご自分の霊によって,このわたしたちに啓示されたのであり,霊がすべての事,神の奥深い事柄までも究めるのです。」(コリント第一 2:10)

聖霊は悲しむ

「しかし,彼らは反逆し,その聖霊に痛みを覚えさせた。そこで,[神]は彼らの敵に変じ,自ら彼らと戦われた。」(イザヤ 63:10)

「また,神の聖霊を悲しませることのないようにしなさい。贖いによる釈放の日のために,あなた方はそれをもって証印を押されたのです。」(エフェソス 4:30)

聖霊には意志がある

「また,彼らはフリギアとガラテア地方を回った。アジア[地区]でみ言葉を語ることを聖霊によって禁じられたからである。」(使徒 16:6)

「さらにある人には強力な業の働き,ある人には預言すること,ある人には霊感のことばを識別する力,ある人には種々の異言,そしてある人には異言を解釈する力が与えられています。しかし,これらのすべての働きを同一の霊が行なうのであり,その欲するとおりに各々に分配するのです。」(コリント第一 12:10-11)

聖霊は真理を教える

「しかし,その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。彼は自分の衝動で話すのではなく,すべて自分が聞く事柄を話し,来たらんとする事柄をあなた方に告げ知らせるからです。」(ヨハネ 16:13)

「というのは,聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。」(使徒 15:28)

「わたしたちはそれらの事も,人間の知恵に教えられた言葉ではなく,霊に教えられた[言葉]で話します。わたしたちは霊的な[こと]に霊的な[言葉]を結び合わせるのです。」(コリント第一 2:13)

聖霊は証言する

「わたしが父のもとからあなた方に遣わす助け手,すなわち父から出る真理の霊が到来するとき,その者がわたしについて証しするでしょう。」(ヨハネ 15:26)

「そして,わたしたちはこれらの事の証人であり,聖霊もまたそうです。神はそれを,支配者としてのご自分に従う者たちにお与えになりました」(使徒 5:32)

「私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」(使徒 5:32、新改訳)

聖霊は導く

「そこで霊がフィリポに言った,『近づいて,この兵車と一緒になりなさい』」(使徒 8:29)

「また,彼らはフリギアとガラテア地方を回った。アジア[地区]でみ言葉を語ることを聖霊によって禁じられたからである。」(使徒 16:6)

聖霊は執りなしをする

「26 同じように,霊もまたわたしたちの弱さのために助けに加わります。[祈る]べきときに何を祈り求めればよいのかをわたしたちは知りませんが,霊そのものがことばとならないうめきと共にわたしたちのために願い出てくれるからです。27 それでも,心を探る方は,霊の意味するところが何かを知っておられます。それは神にしたがいつつ聖なる者たちのために願い出ているからです。」(ローマ 8:26-27)

聖霊は冒涜され欺かれる

「このようなわけであなた方に言いますが,人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されますが,霊に対する冒とくは許されません。」(マタイ 12:31)

「しかしペテロは言った,「アナニアよ,なぜサタンはあなたを厚顔にならせて,聖霊に対して虚偽の振る舞いをさせ,畑の代価の幾らかをひそかに取っておくようなことをさせたのですか。」(使徒 5:3)

考察

このように、聖霊には「知性・感情・意志」があり、真理を教え、導き、証しし、執りなしをされます。つまり、その人格性が、あらゆる角度から表現されているのです。これらを全て「擬人法」だとして片付けることは、困難であると言えるでしょう。

3:父・子・聖霊の一体性

最後に取り上げたいのは、父・子・聖霊の三位格の一体性についてです。三者の間に一体性があることは、エホバの証人も認めている事実ですが、そこに神としての一体性があるかどうかが、本テーマの争点となります。

初めに神は天と地を創造された―創世記1章

「1 初めに神は天と地を創造された。2 さて,地は形がなく,荒漠としていて,闇が水の深みの表にあった。そして,神の活動する力が水の表を行きめぐっていた。3 それから神は言われた,「光が生じるように」。すると光があるようになった。」

天地創造が神の業であることは明らかですが、創造に関する1章の記述において、三位一体の神の一体性と役割が啓示されていることは、有名な話です。

二節では、「神の活動力(神の霊)が水の表を行きめぐっていた」とあり、聖霊が創造の業に関わっていたことが示されています。

またイエスは「神の言葉」だと言われていますが、天地創造の記録では、神は「ことば」によって世界を創造されています。

ここで再度確認しますが、天地創造は「神の業」です。したがって、その当事者である子なる神と聖霊は、創造主なる「神の側」に位置する存在であり、「被造物の側」では無いことになります。つまり、父と子と聖霊は、創造主なる神としての一体性を有しているのです。

父と子と聖霊との名―マタイ28章19節

「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊とのにおいて彼らにバプテスマを施し,」(新世界訳)

「Go, therefore, and make disciples of people of all the nations,o baptizing themp in the name of the Father and of the Son and of the holy spirit,」(NWT by JW)

大宣教命令に関する有名な聖句ですが、上記の新世界訳(NWT)の英文で示されている通り、「父と子と聖霊との名」における「名」は、ギリシャ語の原文において複数形ではなく、単数形「the name」となっています。

ギリシャ語の文法では、複数形と単数形は明確に分けて用いられます。例えば、同じマタイの福音書で、「十二使徒の名」と記述する時は、その「名」が複数形「the names」となっています。

十二使徒のは次のとおりである。まず,ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ,ゼベダイの[子]ヤコブとその兄弟ヨハネ」(マタイ10:2、新世界訳)

The names of the 12 apostles are these: First, Simon, the one called Peter, and Andrew his brother; James the son of Zebエeキdee and John his brother;」(New World Translation by JW)

以上の点から、聖書は、父・子・聖霊が共に「一つの名」を共有する存在であることを啓示しているのです。ではその名とは何でしょうか?

本記事で確認してきたことを踏まえれば、その名が「エホバ」(YHWH)であることは明らかです。つまり、父・子・聖霊は、唯一の神の名「エホバ」を共有する存在であることが、この聖句からわかるのです。

人智を超越した三者の一体性をどう理解すべきか

かつてラッセルが、そしてものみの塔が歴史的に三位一体を否定してきた重要な理由として、「三位一体の教えが人間の視点から見た時に非論理的で矛盾しているかのように見える」という点が挙げられます。つまり、三つの人格的主体が、一人の神を構成しているのはおかしい、ということです。

しかし、この点について私たちが理解しておかなければならないことは、これを矛盾だと考えるならば、矛盾しているのは「三位一体という教理」というよりも、「聖書の言葉そのもの」の方だということです。

実際に、聖書の中には、神とイエスを区別して表現している箇所が、とても多くあります。

「もしわたしを愛するなら,わたしが父のもとに行こうとしていることを歓ぶはずです。父はわたしより偉大な方だからです。」(ヨハネ14:28)

「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。」(ヨハネ17:3)

「その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。」(ローマ10:9)

しかし、既に本記事で確認をしてきた通り、イエスを唯一の神・エホバとして、また崇拝の対象として明確に描いている聖句もまた、多数存在するのです。(イザヤ9:6、ゼカリヤ12:10、ヨハネ12:41、啓示5:14、など)つまり、これを矛盾だと考えるのであれば、矛盾しているのは、「聖書自身」なのです。

では、それは神が矛盾したお方であることを示しているのでしょうか?断じてそうではありません!(ローマ9:14)聖書が明白に示す通り、神は偉大な方であり、私たち人間の有限な知性では決して測り切ることのできないお方です。

「あなたは神の深い事柄を見いだすことができようか。 あるいは,全能者の極限までも見いだすことができようか。」(ヨブ 11:7)

「エホバは大いなる方,大いに賛美されるべき方。その偉大さは探りがたい。」(詩篇145:3)

「ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は[何と]たどりがたいものなのでしょう。」(ローマ8:33)

聖書は神に関する真理を啓示していますが、それはあくまで、無限の神の実体を、人間の言語と知性の制約下で示したものであると言えます。つまり、神の実体について、たとえ人から見て矛盾に思えるようなことも、神の側では矛盾ではなく、調和した真理となっているのです。

この点を踏まえず、三位一体の教えを矛盾だと捉え、キリストの神性を退けてしまうなら、結局は聖書の言葉を否定する教えへとつながっていってしまうのです。事実、ものみの塔は、三位一体の教えを否定するために、多くの誤訳・改ざんを行っていますが、もしも本当に三位一体の否定が真理ならば、そのようなことをする必要など無かったはずです。

ですから、たとえ聖書の中に相反するように見える教えがあるとしても、聖書がそのどちらも明白に啓示しているなら、私たちは人間の有限性を謙遜に認め、素直に書かれている通りに理解する必要があるのではないでしょうか。

結論

本記事で考察してきた通り、聖書は明らかに、キリストの神性、聖霊の人格性、そして父・子・聖霊の神としての一体性を啓示しています。キリスト教の数多の神学者たちが、歴史的にこの教えを正統教理として認めてきたのには、それなりの理由があるのです。

ものみの塔はラッセルの時代から、一貫してキリストの神性を否定し、三位一体を教えるキリスト教を「偽りの宗教」として糾弾してきましたが、真実は真逆だったのです。全てのエホバの証人は、協会の真の歴史と向き合い、改ざんされた新世界訳聖書と、統治体の教えを脇に置き、何が聖書の真理であるかを自分で考える必要があります。

この記事が、この問題に関わる多くの人々を、キリストの真理へと導くものとなるようお祈りいたします。

※なお、本記事の内容は、三位一体の聖書的根拠の全てを記したものでは到底ありません。キリストの神性と、聖霊の人格性については、後日改めて追加の記事を作成予定です。また、このテーマに関するより詳しい情報として、以下の本やコンテンツをお勧めいたします。

  • ウィリアム・ウッド「『エホバの証人』の反三位一体論に答える」(書籍)
  • ハーベストタイムミニストリーズ「三位一体とは何か」(音声DL,CD)

脚注

[1] この点に関するより厳密な説明としては、アレクサンドリアの長老アリウスは、キリストの神性は認めつつも、その神性は父なる神と同質なものではない、としました。そして、キリストが被造物であるとしました。


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