霊魂不滅・地獄は聖書の教えですか?


霊魂不滅・地獄は聖書の教えですか?

「聖書が実際に,とこしえの責め苦こそ聖徒たちを除くすべての人の運命であると教えているのであれば,そのことを宣べ伝えるべきである。しかも屋根の上から,毎週,毎日,毎時,大声で叫ぶべきである。しかし,もし聖書がそのようなことを教えていないのであれば,その事実を知らせ,神の聖なるみ名を汚す醜い汚点を取り除かなければならない」―チャールズ・テイズ・ラッセル、『ふれ告げる』126頁。

この言葉は、かつてラッセルが語った言葉としてエホバの証人の出版物で紹介されていますが、大変筋の通った主張だと言えるかもしれません。確かに、永遠の苦しみの場所が本当に存在するのであれば、その真理を知るクリスチャンは、それをしっかりと警告しなければなりません。しかし、もしもそれが偽りの教えであれば、その偽りを大胆に暴露していかなければならないはずです。

今日のエホバの証人は、地獄の存在は愛の神のご性質と調和しないし、それは神の御名を汚す教えであると、大々的にふれ告げています。しかし、かつてラッセルが語ったように、もっとも重要なことは「地獄の存在が真実かどうか」だと言えるでしょう。なぜなら、地獄の存在が神の愛のご性質と反するように思えたとしても、聖書が実際に地獄の存在を教えているなら、私たちは自分の感情ではなく、明らかにされた真理に沿って、神の義を理解していく必要があるからです。

以上のことを念頭に置き、本記事では、霊魂不滅・地獄の教えの正当性について、聖書からしっかり論じていきたいと思います。

霊魂不滅・地獄に関する教理の比較

まずは、霊魂不滅や天国・地獄に関する、エホバの証人とキリスト教との教理の違いを確認します。

エホバの証人の信条

人は肉体的に死んだ時点で誰でも無になるのであり、霊魂も消滅する。そのため、死後も何らかの意識が残り続けることは一切無い。そして、霊魂が消滅する以上、永遠の苦しみの場所である地獄も実際には存在しない。(ただし、天国の存在は信じている。)

過去に死んだ人々の情報は、神の記憶に中に保たれ、やがて千年王国の期間中、地上の楽園に復活してくる。*[1]

キリスト教の信条

人が肉体的に死んでも、霊魂は消滅しないとされ、主体的な人格や意識も存続する*[2]。そして、救われて死んだ人は天国へ行き、救われずに死んだ人は地獄へ行く。

将来、イエスが再臨する時には、救われて亡くなった全ての信者の霊は、栄光の体を与えられることによって復活し、永遠に生きることになる。救われずに死んだ人々は、千年王国後の最後の審判で、裁きのために復活し、永遠の運命が決定される*[3]

主要な論点

ものみの塔は、ラッセルの時代から、霊魂不滅・地獄の教えが非聖書的な偽りであると、一貫して主張してきましたが、今日でも全く変わることはありません。ですから、この教えの聖書的な根拠は、エホバの証人にとって、極めて重要なテーマだと言えます。

霊魂不滅と地獄の教えは互い切り離せない関係にあります。もしも霊魂不滅が聖書から証明されるなら、それと同時に地獄の存在も証明されますし、もしも地獄の存在が証明されれば、それに伴って霊魂不滅の教えも証明されることになるのです。

以上の前提を踏まえ、霊魂不滅・地獄の教えについて、聖書が実際に何と述べているのかを確認していきたいと思います。

ユダヤ的視点―歴史的背景を理解する

霊魂不滅・地獄の教えの聖書的根拠を考える上で、鍵となるのはヘブル的な視点です。つまり、紀元一世紀のユダヤ人が、死後の世界についてどんな考えを持っていたのかを考慮して聖書を読む必要がある、ということです。

『ものみの塔』2017年No.4には「生と死について聖書は何と言っているか」という特集記事が掲載されましたが、そこには紀元一世紀のユダヤ人の歴史的背景として、次のような文章がありました。

「西暦​1​世紀​に​は,ユダヤ​教​の​二​大​教派​で​ある​エッセネ​派​と​パリサイ​派​が,肉体​が​死ん​で​も​魂​は​生き残る,と​教え​て​い​まし​た。」

ものみの塔 2017年 No.4

ものみの塔 2017年 No.4

当時のユダヤ教パリサイ派とエッセネ派が、霊魂不滅を教えていたとするこの文章の内容は事実です。実際に、ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスは、当時のパリサイ人の教えについて、次のように述べているからです。

彼らは,魂が不死の力を持つこと,また有徳あるいは悪徳の生活を送った者たちには,地下においてよき応報なり刑罰なりがあることを信じている。すなわち,邪悪な魂にはとこしえの投獄が定められており,善良な魂は新しい命に通じる平易な道筋をたどる。さて、こうした見解のため、パリサイ人は一般大衆に大きく訴えるものをもっており、その影響力は甚大で、その結果、神に捧げる祈りや、もろもろの聖なる務めは、すべてパリサイ人の指示にしたがってなされたが、それは、自分自身の生活態度においても、また人々にたいする講話においても、最高の理想を実践するパリサイ人にたいする、市井の人々が示す大きな敬意のしるしでもあると考えられた。」―『ユダヤ古代誌,XVIII』」14-15。※『洞察二巻』563頁も参照

確かに当時のパリサイ人は、霊魂不滅・天国と地獄の教えを民衆に教えていました。さらに、「こうした見解のため、パリサイ人は一般大衆に大きく訴えるものをもっており」という表現から、当時のユダヤ人の民衆全体は、霊魂不滅に関するパリサイ人の教えを、好意を持って受け入れていたことが伺えます。

さて、霊魂不滅の教えが、もし非聖書的な偽りの教えなのであれば、当時のユダヤ人は国民的に偽りを信じていたことになり、極めて深刻な状態だったと言わざるを得ません。ですから、メシアであるイエスが、そのような状況を正さなかったとは考えられません。実際にイエスは、その宣教期間の開始から、パリサイ人やサドカイ人の偽りの教えを、堂々と暴露していました。ですから当然、霊魂不滅が偽りであったのであれば、イエスはその教えを公然と正したはずです。

イエスは霊魂不滅・地獄の偽りを正したか

イエスはどの箇所で正したのか?

では、福音書の記録の中で、イエスが霊魂不滅の偽りを暴き、パリサイ人と論争している箇所はどれくらいあるでしょうか?実は、それが「一つも無い」のです。

福音書全体を通して、イエスはモーセの律法の解釈に関して、パリサイ派の教えに関して、かなり多様な議論を展開しています。福音書が、イエスとパリサイ人との全ての論争を記録しているとは到底言えませんが、それでも福音書の筆者たちは、聖書的に重要だと考えられる一通りの論争を書き留めています。しかし、イエスが霊魂不滅の偽りを正している箇所は、一つも見出すことはできないのです

※パリサイ派との論争を除き、イエスが霊魂消滅を示唆しているように見える聖句はあります。その点については後述します。

では逆に、イエスが霊魂不滅・地獄の教えを肯定している箇所はどれくらいあるでしょうか?実は、それが「たくさんある」のです

金持ちとラザロ

金持ちとラザロ

Painting by Chris Dare

「また,富んだ人も死んで葬られました。23 そして,ハデスの中で目を上げると,自分は責め苦のうちにありましたが,はるか離れた所にアブラハムがおり,ラザロがその懐[の位置]にいるのが見えました。24 それで彼は呼びかけて言いました,『父アブラハムよ,わたしに憐れみをおかけになり,ラザロを遣わして,その指の先を水に浸してわたしの舌を冷やすようにさせてください。わたしはこの燃えさかる火の中で苦もんしているからです』。

25 しかしアブラハムは言いました,『子よ,あなたが自分の生きている間に,自分の良い物を全部受け,それに対してラザロが良くない物を[受けた]ことを思い出しなさい。しかし今,彼はここで慰めを得,あなたは苦もんのうちにある。26 そして,これらすべてに加えて,わたしたちとあなた方との間には大きくて深い裂け目が定められており,そのため,ここからあなた方のもとに行きたいと思う者たちもそれができず,人々がそこからわたしたちのところに渡って来ることもできない』。

27 すると彼は言いました,『それなら,お願いです,父よ,彼をわたしの父の家に遣わしてください。28 わたしには五人の兄弟がいますから。こうして彼が徹底的な証しをし,彼らもこの責め苦の場所に入ることがないようにするのです』。29 しかしアブラハムは言いました,『彼らにはモーセと預言者たちがある。それに聴き従えばよい』。30 すると彼は言いました,『いいえ,そうではありません,父アブラハムよ,だれかが死人の中から行けば,彼らは悔い改めることでしょう』。31 しかし[アブラハム]は彼に言いました,『モーセや預言者たちに聴き従わないなら,だれかが死人の中からよみがえっても,やはり説得に応じないであろう』」。(ルカ16章)

文脈の確認

ルカ16章でイエスが語られた「金持ちとラザロ」の話は、新約聖書中、死後の世界について最も詳しく説明されている箇所です。まず、文脈を確認します。

当時のパリサイ人の神学では、金持ちは神に祝福されている証拠であり、それゆえに、金持ちであればあるほど、その人は神の国に近い、と考えられていました。そこでイエスは、お金に関するパリサイ派の教えを正すために、この話を語られたのです。

この話は、議論の余地なく、霊魂不滅・地獄の教えをベースに語られています。つまりイエスは、お金についてのパリサイ人の教えは正しましたが、一方で霊魂不滅に関する彼らの教えについては、それを否定されなかったことがわかります。

偽りの教えをベースに語られたのか

この点について想定される反論の一つは、当時のパリサイ人が霊魂不滅を信じていたから、彼らにとって理解しやすいように、それが偽りだと知りつつも、あえて霊魂不滅の教えをベースに、イエスは語られたのだ、というものです。しかし、この解釈には大きな問題があります。もしもイエスが、偽りだとわかっている教えをベースに話しを組み立て、あたかもその偽りを肯定しているかのような印象を与えるなら、結局イエスはその偽りに加担することになってしまうからです。

さらに、福音書全体を通して、イエスは間違っていること対しては「間違っている」と、どんな時にも公然と語られました。「道であり真理であり命である」イエスが、そのような動機で話を組み立てたとはとても考えられません。実際に協会の出版物でも、その点について、以下のような説明があります。

「しかしイエスは,パリサイ人の教理をも含め偽りの教理をきっぱりと退けました。(マタ 23章)したがって,イエスが冥界に関するラビの偽りの概念の要点に従って富んだ人とラザロの例えを組み立てたとしたら矛盾していることになるでしょう。ですからイエスは,例えの成就を念頭に置き,非聖書的な教えに従ってではなく,成就の事実に調和して例えの詳細や進展を組み立てられたと結論しなければなりません。」―『洞察二巻』1159頁

実話ではなく、たとえ話なのか

この話に対するエホバの証人の基本的な主張は、これが実話ではなく「たとえ話」だというものです。

「その点に関連して,例えは生活や自然界の事柄を題材にしてはいても,必ずしも実際に起こった出来事ではないという点にも注目できるでしょう。中には,「昔」,「ある人に……がいました」,『ある人がいました』,『ある人がいて』,その他同様な表現で始まる例えがありますが,それらは話し手が神の霊の影響力のもとに考案したもので,いわゆる例え,もしくはたとえ話でした。(裁 9:8; マタ 21:28,33; ルカ 16:1,19)」―『洞察二巻』126頁。

イエスのたとえ話には、二つの基本的な特徴がありました。一つ目は、「生活や自然界の事柄を題材にすること」、二つ目は、「実名を用いないこと」です。

金持ちとラザロの話の場合、三人の登場人物の内、二名の実名が明らかにされています。したがって、この話を、安易に他のたとえ話と同列に扱うことはできません。

次に、ものみの塔は、たとえ話が実際に起こった出来事ではないことを示すために、ルカ16章と合わせて、裁き人9:8(士師記)、マタイ21:28、を挙げています。

「昔,木々が自分たちを治める王に油をそそぐために出かけて行った。そうして彼らはオリーブの木にこう言った。『是非ともわたしたちを治める王になってください』裁き人9:8(士師記)

「あなた方はどう考えますか。ある人に二人の子供がいました。彼は一番目の者のところに行って,『子供よ,今日,ぶどう園に行って働きなさい』と言いました。」(マタイ21:28)

しかしどちらの聖句においても、その話の中に実名は登場しません。ですから、やはりルカ16章と、これらの話を同列に扱うことはできません。さらに、裁き人9章の話は「寓話」ですが、そこに登場する「王」や「オリーブ木」は、どれも現実的に存在します。また、マタイ21章の話は「たとえ話」ですが、そこに登場する「父親」と「二人の子供」も、現実的に存在します。

ですから、仮にルカ16章がたとえ話だとしても、そこに登場する「金持ち」や「地獄の火」は、現実的に存在する、と考えるのが筋の通った結論となります。

話の内容が具体的過ぎる

金持ちとラザロの話は、死後の世界の描写があまりにも具体的であり、たとえ話として片付けるには無理があります。たとえば、この話しでは、単に地獄の「火」が描写されているだけではなく、火の中に落ちた金持ちが「どう感じ」「何を考え」「誰と」「何を語ったのか」までが、詳しく語られているからです。

この話が実話であるということがしっくり来ない方は、一度先入観を捨てて、7回くらい繰り返し読んでみて下さい。きっと、この話が実話であることに、自然と気付くことができるようになるはずです。

ゲヘナ、永遠の火

「しかし,わたしはあなた方に言います。自分の兄弟に対して憤りを抱き続ける者はみな法廷で言い開きをすることになり,だれでも言うまじき侮べつの言葉で自分の兄弟に呼びかける者は最高法廷で言い開きをすることになります。また,だれでも,『卑しむべき愚か者よ!』と言う者は,火の燃えるゲヘナに処せられることになるでしょう。」(マタイ5:22)

「蛇よ,まむしらの子孫よ,どうしてあなた方はゲヘナの裁きを逃れられるでしょうか。」(マタイ 23:33)

「また,もしあなたの目があなたをつまずかせるなら,それを捨て去りなさい。あなたにとっては,片目で神の王国に入るほうが,二つの目をつけてゲヘナに投げ込まれるよりは良いのです。48 そこでは,うじは死なず,火は消されないのです。」(マルコ 9:47)

「ついで彼は自分の左にいる者たちにこう言います。『のろわれた者たちよ,わたしから離れ,悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入りなさい。』(マタイ 25:41)

イエスは繰り返し、悪行者が「ゲヘナの火」に処せられる、と語りました。ものみの塔は、イエスが語った「ゲヘナの火」を、実際の火ではなく、「滅びを意味する象徴的な表現」だと理解しています。

「イエスは最後に,人がだれかに「卑しむべき愚か者よ!」と呼びかけるなら,その人は火の燃えるゲヘナに処せられることになる,と述べました。「ゲヘナ」という言葉は,ヘブライ語のゲー ヒンノームという言葉に由来しており,このヘブライ語には「ヒンノムの谷」という意味があります。その谷は古代エルサレムの西方と南方に位置していました。イエスの時代に,その谷はごみを燃やす場所になっており,きちんと埋葬されるに値しないとみなされた極悪な犯罪者の死体もそこで焼かれました。それで,「ゲヘナ」という言葉は,完全な滅びの適切な象徴でした。」―『ものみの塔』2006年2月15日号、31頁。

「永遠の裁きはない」という神学的な枠組みを前提とすれば、このような説明も一つの解釈とは言えるでしょう。しかし、ここでも私たちは、イエスが「ゲヘナの火」という言葉を用いた時に、それを「当時のユダヤ人がどう理解したか」というヘブル的な視点を考える必要があります。

明らかに当時のユダヤ人は、悪行者が受けることになる「火」について聞いた時、それをパリサイ人の霊魂不滅の教えと結びつけて理解したはずです。なぜなら、彼らにとって「悪行者が火の燃える地獄へ行く」という教えは、馴染み深い常識的なものだったからです。

ではなぜイエスは、それを知っていながら、あえて「火」について語ったのでしょうか?考えられる結論は一つ、イエスが霊魂不滅の教えを肯定していたからです

山上の垂訓―イエスはゲヘナの火について繰り返し警告した

永遠の刑罰(マタイ25:46)

「そして,これらの者は去って永遠の切断に入り,義なる者たちは永遠の命に入ります」(新世界訳)

「こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」(新改訳)

kai apeleusontai outoi eiV kolasin aiwnion oi de dikaioi eiV zwhn aiwnion」 ( Hort and Westcott )

この聖句は、マタイ25章の「羊と山羊の裁き」において、山羊の側に分けられた人々が受ける裁きを表していますが、エホバの証人の新世界訳では「永遠の切断」と訳されており、新改訳では「永遠の刑罰」となっています。

ここで「切断・刑罰」と訳されているギリシャ語の原語は「コラシン」(kolasin)ですが、エホバの証人の「参照資料付新世界訳」では、該当の聖句の補足説明として、次のような解説が加えられています。

「切断」。字義,「切り取ること; 刈り込み」。ギ語,コラシン。ヨハ一 4:18の脚注参照。

しかし、この解説と翻訳には大きな問題があります。なぜなら、どのギリシャ語辞典を確認しても、「コラシン」の意味は、「刑罰・懲罰」となっており、「切断」と解説している辞書を見つけることができないからです。

  • 処罰、刑罰、懲罰、こらしめ。(新約聖書 ギリシア語小事典, 322項)
  • 懲らしめ、懲罰、刑罰;(神の)マタ25:46~神の刑罰と関係がある(を予想している):(岩隈直『増補改訂新約ギリシャ語辞典』268項)
  • 矯正、懲戒、刑罰、抑制(大学書林『ギリシャ語辞典』630頁)

調べていくと、新世界訳が解説しているような「切り取ること; 刈り込み」という意味があるのは、名詞形の「コラシン」ではなく、その動詞形の「コラゾー」(kolazo)の方なのです。コラゾーの場合は、「刈り込み(懲罰を前提とした)」というニュアンスが出てくるのですが、名詞形のコラシンでは、そのような意味合いにはならないのです。

さらに、数十に上る英語訳聖書を比較してみても、同じように訳している聖書を一つも見つけることができません。つまり、「切断」という訳を指示する聖書学者は、全く存在しない、ということなのです。
Bible Study Tool

以上の点から、新世界訳における「永遠の切断」という表現は、ギリシア語の原語の意味を、エホバの証人の教理に合わせて変更した「誤訳」だと言わざるを得ません。ものみの塔が、この聖句で「永遠の刑罰」という訳を避けた理由は明らかです。イエスが語った、永遠の「刑罰」という表現は、霊魂不滅・地獄の教えを明確に肯定する表現であり、象徴的に解釈することが難しいからです。

イエスの弟子たちの証言

イエスの弟子たちは霊魂不滅を否定したか

イエスが公生涯の間、実際には弟子たちに霊魂不滅が偽りであることを教えたのであれば、その弟子たちは、後の活動を通して、そのことを主張したはずです。しかし、使徒行伝以降の全ての書簡においても、霊魂不滅を明確に否定する箇所は存在しません。

重要な点として、使徒たちは、当時のユダヤ人が誤解していた教えについては、しっかりとそれを正す必要がありました。ですから、霊魂不滅が偽りだったのであれば、それは彼らが真っ先に正さなければならなかった深刻な教えだったはずです。しかし、弟子たちはそうはせず、むしろ所々で、霊魂不滅を肯定するような発言を繰り返しています。

霊魂不滅・天国を示す聖句

「それでもわたしたちには勇気があり,むしろこの体から離れて主のもとに自分の住まいを定めることを大いに喜んでいます。」(コリント第二 5:8)

「わたしはこれら二つのものに迫られています。しかし,わたしがほんとうに願っているのは,解き放たれること,そしてキリストと共になることです。言うまでもなく,このほうがはるかに良いからです。」(フィリピ1:23)

霊魂不滅・地獄・ハデスでの裁きを示す聖句

「実にこれらの者たちは,主のみ前から,またその力の栄光から[離れて]永遠の滅びという司法上の処罰を受けます。」(テサロニケ第二 1:9)

「さまざまなバプテスマについての教えや手を置くこと,死人の復活や永遠の裁きなどの土台を再び据えるのではなく,円熟に向かって進んでゆきましょう。」(ヘブライ 6:2)

「同様に,ソドムとゴモラおよびその周りの都市も,ここに述べた者たちと同じように甚だしい淫行を犯し,不自然な用のために飽くことなく肉を追い求めたのち,永遠の火による司法上の処罰を受け,[警告の]例として[わたしたちの]前に置かれています。」(ユダ 7)

「当然エホバは,敬虔な専心を保つ人々をどのように試練から救い出すか,一方,不義の人々,10 わけても,肉を汚そうとの欲望を抱いてそれに従い,主たる者の地位を見下す者を,切り断つ目的で裁きの日のためにどのように留め置くかを知っておられるのです。 向こう見ずで片意地な彼らは,栄光ある者たちにおののかず,かえってあしざまに言います。」(ペテロ第二 2:9-10)※「切り断つ」は他の訳では「懲罰・罰」となっています。

「そして,彼らの責め苦の煙は限りなく永久に上り,彼ら,すなわち,野獣とその像を崇拝する者,まただれでもその名の印を受ける者には,昼も夜も休みがない。」(啓示 14:11)

「そして,彼らを惑わしていた悪魔は火と硫黄との湖に投げ込まれた。そこは野獣と偽預言者の両方が[すでにいる]ところであった。そして彼らは昼も夜も限りなく永久に責め苦に遭うのである。」(啓示20:10)

以上に挙げた聖句の通り、イエスの弟子たちが霊魂不滅の教えを正そうとした形跡はありません。むしろ彼らは、その教えを肯定するかのような表現を、随所で用いていました。

旧約聖書の証言

協会の主張:霊魂不滅の起源は異教なのか

ものみの塔の主張によれば、霊魂不滅の教えは、エジプトやバビロンに起源を持つ異教の教えであり、後にギリシャ文化の普及と共に、ユダヤ人にもその教えの影響が及んだ、というものです。ですから、この主張が正しければ、旧約聖書が書かれた時代には、ユダヤ人の間に霊魂不滅の教えは存在しなかったはずです。

「西暦​前​5​世紀​の​ギリシャ​の​歴史​家​ヘロドトス​は,「人類​で​最初​に​霊魂​の​不滅​を​擁護​し​た」の​は​エジプト​人​だっ​た​と​述べ​て​い​ます。他​に​古代​バビロニア​人​も,霊魂​は​不滅​だ​と​考える​よう​に​なり​まし​た。アレクサンドロス​大王​が​西暦​前​332​年​に​中東​を​征服​し​た​時​まで​に,その​教え​は​ギリシャ​の​哲学​者​たち​に​よっ​て​広め​られ​て​おり,ま​も​なく​ギリシャ​帝国​中​に​普及​し​まし​た。

西暦​1​世紀​に​は,ユダヤ​教​の​二​大​教派​で​ある​エッセネ​派​と​パリサイ​派​が,肉体​が​死ん​で​も​魂​は​生き残る,と​教え​て​い​まし​た。「ユダヤ​百科​事典」(英語)は​こう​述べ​て​い​ます。「魂​の​不滅​に​関する​信条​は,ギリシャ​思想​と​の​接触​から​ユダヤ​人​に​もたらさ​れ​た。それ​は​主​に,……プラトン​の​哲学​を​通し​て​で​あっ​た」。同様​に,1​世紀​の​ユダヤ​人​の​歴史​家​ヨセフス​も​その​教え​を,聖書​で​は​なく「ギリシャ​の​子​ら​の​信条」に​よる​もの,つまり​神話​や​伝説​を​集め​た​もの​と​みなし​て​い​まし​た。」―『ものみの塔』2017年No.4「生と死について聖書は何と言っているか

霊魂不滅・永遠の裁きを明白に示す聖句

しかし実際には、旧約聖書の中にも、霊魂不滅の教えは十分に示されています。以下のイザヤ14章の聖句は、バビロンの王に対する宣告となっていますが、王が裁かれてシェオルに下った後に、どんな状況に直面するのかが、実に詳細に語られています。

「下のシェオルも,あなたが入って来るのを迎えるため,あなたを見て動揺した。それはあなたを見て,死んだ無力な者たちを,地のやぎのような指導者すべてを目覚めさせた。それは諸国民のすべての王をその王座から立ち上がらせた。10 彼らはみな話しはじめ,あなたに言う,『あなたまでもわたしたちと同じように弱くされたのか。あなたはこのわたしたちに比べられる者とされたのか。11 あなたの誇り,あなたの弦楽器のさざめきはシェオルに下ろされた。あなたの下には,うじが寝いすとして広げられている。虫があなたの覆いなのだ』。」(イザヤ14:9-11)

このイザヤの聖句で注目すべきは、シェオルにいるバビロンの王や死んだ無力な人々に意識があるというだけでなく、彼らがそこでどんな話をするのかが明白に示されている、ということです。(この点は、ルカ16章も同様です)

また、以下のダニエル12章の聖句も、「かの者は恥辱に,[また]定めなく続く憎悪に[至る]」という表現によって、永遠の刑罰の様子がはっきりと表現されています。このような永遠の裁きの預言は、イエスの言葉や黙示録の預言と、実によく調和するものです。

「また,塵の地に眠る者のうち目を覚ます者が多くいる。この者は定めなく続く命に,かの者は恥辱に,[また]定めなく続く憎悪に[至る]。」(ダニエル 12:2)

結論

これまでに、霊魂不滅の教えに関する紀元一世紀の歴史的背景と、聖書全体で霊魂不滅を明瞭に示す聖句を取り上げてきましたが、結論として、聖書は確かに霊魂が不滅であること、地獄が存在することを明白に教えています。

霊魂不滅を否定する聖書箇所

解釈学の確認

次に、エホバの証人がよく引き合いに出す、霊魂不滅や地獄の教えを否定する聖句を取り上げ、それぞれの意味について確認をしていきたいと思いますが、ここで解釈学の原則を振り返りたいと思います。

こちらの記事でも書いたように、解釈のルールの一つに「明瞭な聖句は不明瞭な聖句に優先する」という原則あります。

霊魂不滅の教えが、聖書の中で「明瞭に示されている」以上、本テーマに関して議論となる他の聖句は、明瞭に示された聖句に基づいて解釈をしなければなりません。もしも、霊魂不滅の教えを他の聖句から覆すなら、霊魂の「消滅」を示す、さらに明瞭な聖句が求められるでしょう。

死んだ者には何の意識も無い

訳文の比較

「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もなく,彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら,彼らの記憶は忘れ去られたからである。6 また,その愛も憎しみもねたみも既に滅びうせ,彼らは日の下で行なわれるどんなことにも,定めのない時に至るまでもはや何の分も持たない。」(伝道の書9:5-6)※新改訳では「コヘレトの言葉」

「生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。6 彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせ、日の下で行なわれるすべての事において、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。」(新改訳)

この聖句は、エホバの証人が霊魂不滅の教えを批判する際に、実によく用いる聖句です。JWの新世界訳聖書では「何の『意識』もなく」となっており、死者に「意識が無い状態」、つまり霊魂不滅が誤りであることを示す訳となっています。それに対し、新改訳では「何も知らない」となっていますが、「知らない」という表現であれば、単に死者が地上の出来事を知らない、というニュアンスとなり、霊魂不滅を否定する意味とはなりません。では、どちらの訳が正しいのでしょうか?

新世界訳聖書の改ざん―「知る」の誤訳

「意識・知る」と訳される原語のヘブライ語は、「ヤダー」(Yada’)ですが、この語の基本的な意味は「知る」であり、他の表現で訳される場合も、常に知るという行為に関連して訳されます。事実、この語は、同じ伝道の書だけで30回使われていますが、エホバの証人の新世界訳では、その内の29回が全て知ることと関係した表現で訳されており「知る」「気付く」「賢い」となっています。(調べてみたい方は、こちらのツールをお使い下さい。)

そして唯一、原語の意味を改変し、別の意味に置換えているのが、9章5節の「意識もなく」という箇所なのです。

「生きている者は自分が死ぬことを知っている(Yada’。しかし,死んだ者には何の意識もなくYada’)」

「KY HChYYM YVD’yYM ShYMThV VHMThYM ‘aYNM YVD’yYM M’aVMH V’aYN-‘yVD LHM ShKUr KY NShKCh ZKUrM.」(Hebrew Transliterated)

※最初の「Yada’」では「知っている」と訳しているのに、次の箇所では、「意識もない」となっており、明らかに不自然な訳となっている。

「知る」を「意識」とする誤訳―by scripture4all.org

結論として、伝道の書9:5は、単に死者が地上の出来事を何も知らない、という意味であり、霊魂不滅の教えとは何の関係もありません。そして、ものみの塔は、自分たちの主張する教理を正当化するために、意図的に聖書を改ざんしているのです。

伝道の書―著者の世界観について

「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もなく,彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら,彼らの記憶は忘れ去られたからである。6 また,その愛も憎しみもねたみも既に滅びうせ,彼らは日の下で行なわれるどんなことにも,定めのない時に至るまでもはや何の分も持たない

7 行って,歓びをもってあなたの食物を食べ,良い心をもってあなたのぶどう酒を飲め。[まことの]神は既にあなたの業に楽しみを見いだされたからである。8 どんな時にもあなたの衣は白くあるべきであり,あなたの頭に油を絶やしてはならない。9 日の下で[神]があなたにお与えになったあなたのむなしい命の日の限り,そのむなしい日の限り,自分の愛する妻と共に命を見よ。それが,命と,あなたが日の下で骨折って働いているその骨折りとにおける,あなたの分だからである。10 あなたの手のなし得るすべてのことを力の限りを尽くして行なえ。シェオル,すなわちあなたの行こうとしている場所には,業も企ても知識も知恵もないからである」(伝道の書9:5-10)

伝道の書での表現について、もうひとつ抑えておくべきは、著者の世界観です。この書の著者は、ソロモンの可能性が最も高いですが、丁寧に読み解いていくと、旧約聖書の他の書とは明らかに異なる、著者の世界観が垣間見えます。今回取り上げる9章においては「地上の生活が全てであり、死んだら全てが終わる」という世界観がはっきりと表されています。

ですから、もしも9章の聖句を引き合いに出し、人が死んだら無になるということを普遍的な真理として主張するなら、死んだら無になり、もはや何の希望も無い―つまり死後の裁きも復活の希望も無い、ということも、普遍的な真理として主張しなければなりません。

しかし、そのような世界観は、死者の復活と永遠の裁きを明確に示すダニエル書や、全ての行いには死後に必ず報いがあるとするイエスの教えとは対照的です。

伝道の書には、著者が人生の意義を神なしで追求した時に感じたことや考えたことが含まれており、全ての言葉に、霊的・普遍的真理が反映されていると考えるべきではありません。したがって、あくまで9章の言葉は、地上の人間から見た死者の状態を述べたに過ぎないものだと言えるでしょう。

その日に彼の考えは滅び失せる

「その霊は出て行き,彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる。」(詩篇146:4、新世界訳)

「その息が絶えると、その者はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。」(新改訳)

この聖句も、霊魂不滅の教えを論駁するために、エホバの証人がよく用いる聖句です。新世界訳では「彼の考えは滅び失せる」となっていますが、新改訳を含める他の多くの訳では「彼の計画は滅びうせる」ともなっています。
英語訳聖書比較

また、この聖句は文脈も考慮する必要があります。

「わたしは生きている限りエホバを賛美します。わたしのある限りわたしのに調べを奏でます。
高貴な者にも,地の人の子にも、信頼を置いてはならない。彼らに救いはない。
その霊は出て行き,彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる。
ヤコブのを自分の助けとする者は幸いだ。彼の望みはそのエホバにある。」

人の一生は短く、死ねばその人の計画は終わります。死んだ人には、もはや地上で生きている人間を救うことはできなくなります。そのような地の人の子を信頼してはならず、むしろ永遠の救い主である神を信頼しよう、というのが、この詩篇作者の言わんとしていることです。ですから、ここで著者が述べることは、死者の状態を描写することとは、あまり関係が無いのです。

死は眠りにたとえられている

「イエス​・​キリスト​も​死者​の​状態​に​つい​て​述べ​て​い​ます。親しく​し​て​い​た​人​ラザロ​が​死ん​だ​時​の​こと​です。イエス​は​弟子​たち​に,「わたしたち​の​友​ラザロ​は​休ん​で​い​ます」と​言い​まし​た。・・(ヨハネ 11:11‐14)死​を​眠り​や​休み​に​例え​られ​た​点​に​注目​し​て​ください。・・夢​を​見る​こと​の​ない​深い​眠り​に​つい​た​か​の​よう​に,死ん​で​休ん​で​い​た​の​です。別​の​聖句​で​も,死​が​眠り​に​例え​られ​て​い​ます。例えば,弟子​で​ある​ステファノ​が​石打ち​に​され​て​死ん​だ​時,ステファノ​は​死​の「眠り​に​つい​た」と​記さ​れ​て​い​ます。(使徒 7:60)同様​に​使徒​パウロ​も,死​の「眠り​に​つい​た」当時​の​人​たち​に​つい​て​書き​まし​た。―コリント​第​一 15:6。」―『聖書は実際に何を教えていますか』第6章7節

聖書が死者の状態を「眠り」にたとえている箇所は他にもありますが、これはあくまで肉体の状態に言及したユダヤ的な表現の一つです。

事実、ラザロの死を眠りにたとえたイエスは、別の箇所で死後の霊魂に意識があり、会話をしたりできることも明白に示しています。(ルカ16章『金持ちとラザロ』)

また、既に亡くなったクリスチャンを「眠りについた」と表現したパウロ自身も、別の箇所では「この体から離れて主のもとに自分の住まいを定めることを大いに喜んでいる」と語り、肉体の死後に霊魂が天の主の元へ行く信仰を告白しています。(コリント第二 5:8)

罪の報いは死である

エホバの証人の主張

創世記2章でアダムは「善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」とエホバから警告されました。しかしアダムが違反を犯したために、神は彼に「あなたは塵だから塵に帰る」と宣告され、人は死ぬようになりました。

この創世記2~3章の経緯から、エホバの証人は「アダムが罪を犯したため、人はその罰として死ぬようになり、塵に帰る存在となった。だから、罪の報いである死とは消滅のことである」と主張します。

「聖書​に​ある​よう​に,死​は​確か​に「すべて​の​人​に​広​が」り​ま​し​た。では,魂​と​呼ば​れる​もの​は​死後​も​生き​続ける​の​でしょ​う​か。多く​の​人​は,そう​だ​と​答える​こと​でしょ​う。霊魂は​不滅​だ​と​言う​の​です。と​は​いえ,もし​そう​で​あれ​ば,神様​が​アダム​に​うそ​を​つい​た​こと​に​なり​ます。どうして​でしょ​う​か。魂​が​死後​も​どこ​か​で​生き​続ける​と​すれ​ば,死​は​罪​に​対する​罰​と​は​なら​ない​から​です。」―『ものみの塔』2017年No.4「生と死について聖書は何と言っているか

アダムは塵に帰った|聖書は実際に何を教えていますか、62頁。

「肉体の死」と「霊的な死」の違い

エホバの証人の教えでは、「死」とは例外なく「肉体・霊魂の消滅」を意味しますが、聖書は死について、「霊的な死」と「肉体の死」の両方の意味を使い分けて説明していることに注目する必要があります。

創世記2:17で神は「しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」と語りましたが、文脈上、アダムは「いつ」死ぬことになっていたのでしょうか?その答えは「それから食べる日」です。English Standard Version (ESV)では、「in the day」となっており、まさに罪を犯す「その日」に死ぬ、と神が警告されたことがわかります[4]

アダムは「その日」、肉体的には死にませんでした。彼が塵に帰ったのは、それからおよそ1000年後です。では神は嘘をついたのでしょうか?そうではありません。アダムは確かにその日、「霊的に死んだ」のです。霊的な死とは、神との関係の断裂を意味します。それまでアダムは、エデンの園で、神の臨在の中で暮らしていましたが、罪を犯したため、神の臨在から切り離されてしまったのです。そして以降の時代、全ての人は肉体的には生きていても、霊的には死んでいたのです。

しかし、キリストの贖いによって、罪が取り除かれることにより、彼を信じる全ての人は、再び「霊的に生きるように」なりました。以下の聖句はそのことを示しています。

「一人の人がすべての人のために死んだ,だからすべての人は死んでいたのである」(コリント第二5:14)

「わたしに信仰を働かせる者は,たとえ死んでも,生き返るのです。26 そして,生きていてわたしに信仰を働かせる者はみな決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:26)

つまり、聖書が教える「命」の本質とは「神の臨在の中で生きる」ことであり、「死」の本質とは「霊魂や意識の消滅」ではなく、「神の臨在から断裂すること」なのです。

地獄の存在は神の愛と矛盾する

エホバの証人の主張

「すでに​学ん​だ​よう​に,ある​宗教​で​は,悪い​こと​ばかり​し​た​人​は​死ん​で​火​の​燃える​責め苦​の​場所​に​行き,永久​に​苦しめ​られる​と​教え​ます。しかし,この​教え​は​神​を​辱める​もの​です。エホバ​は​愛​の​神​で​あり,その​よう​に​人​を​苦しめる​こと​は​決して​ない​から​です。(ヨハネ​第​一 4:8)親​に​従わ​ない​子ども​を​罰する​ため,その​両手​を​火​の​中​に​入れ​て​押さえつける​人​が​いる​と​し​たら,どう​思わ​れ​ます​か。・・何​と​残酷​な​人​だ,と​思う​でしょ​う。しかし​わたしたち​が,エホバ​は​人間​を​火​の​中​で​永久​に​責めさいなむ​と​考え​て​しまう​なら,それ​こそ​サタン​の​思うつぼ​な​の​です。」―『聖書は実際に何を教えていますか』第6章17節

確かに、愛の神が、罪人を永遠の苦しみの場所へ送るという教えは、人間の理性で理解しきることは難しいかもしれません。エホバの証人の創始者であるラッセルが地獄を否定した動機も「愛の神が人を地獄へ送るはずがない」というものであったようです。

人の感情や常識ではなく神の言葉に基づいて考える

実を言うと、この記事を書いている私自身、地獄の存在を信じたいわけではありません。しかし、聖書の言葉が明らかに地獄の存在を警告しているのに、「地獄を信じたくない」という個人的な感情を優先して、その存在を否定するなら、結局のところ「神よりも自分の方が正しい」と考えていることになります。

ですから私たちは、神の義を人間の基準で考える前に、「何が真理なのか」を正確に確認し、その真理に基づいて神の義を考えなければなりません。

聖書が実際に,とこしえの責め苦こそ聖徒たちを除くすべての人の運命であると教えているのであれば,そのことを宣べ伝えるべきである。しかも屋根の上から,毎週,毎日,毎時,大声で叫ぶべきである。しかし,もし聖書がそのようなことを教えていないのであれば,その事実を知らせ,神の聖なるみ名を汚す醜い汚点を取り除かなければならない」―チャールズ・テイズ・ラッセル、『ふれ告げる』126頁。

なぜ地獄が存在するのか

この理由について、聖書は多くのことを述べてはいませんが、幾つかの原則にしたがって、推論することは可能です。

「しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」(創世記 2:17)

一つ目は「自由意志」の原則です。地獄があるとしても、全ての人にはその場所を避け、神を信じる道が開かれています。しかし、最終的に人が神を拒絶し、地獄へ行くことを選択するのなら、神はその決定を尊重されるのです。つまり、地獄へ行く人は、実際にはその場所へ行くことを「自ら選んでいる」のです。

二つ目の点は、「全ての良い贈り物は神から来る」というものです。

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」(ヤコブ1:17)

全ての良い贈り物が神から来ている以上、その神を拒絶するならば、その先には悪いものしかありません。したがって、神に属する光・愛・喜びを拒絶するなら、その先にある地獄では、暗闇・憎しみ・苦しみが現実的なものとなるのです。

聖書は確かに、神が愛であると教えていますが、神が義でもあり、「焼き尽くす火」でもあるとも教えているのです(ヘブライ12:29)。私たちは、何が真理かを考える上で、神のご性質をトータルで捉えなければなりません。

そして、たとえこの地上の人生において、地獄の存在の理由が十分に納得できないとしても、いずれ神の元へ行き、真理の全貌を知る時に、神のみ使いたちの次の言葉に、心から「アーメン」と言うことができるでしょう。

「全能者なるエホバ神,あなたのみ業は偉大で,驚くべきものです。とこしえの王よ,あなたの道は義にかない,真実です」(啓示15:3)

※地上のどんな人間よりも聖さにおいて完全な天のみ使いたちは、罪人の運命が地獄にあることを熟知していながら、それでも神の義を称えています。この事実は、やがて人が神の前で完全にされた時に、地獄の存在も踏まえて、神が義であることを理解するようになる、ということを証明しています。

 

脚注

[1]  黙示録7・14章に登場する144000人のクリスチャンについては、地上の楽園では無く、天的な命へと復活する、と信じられている。また、地上の復活に値しない悪人もおり、その人々は永遠に霊魂消滅の状態にあると信じられている。

[2]  一部の教派では、復活までの間、霊魂は眠った状態のままだと教えられています。

[3]  キリストの再臨~復活~千年王国~最後の審判などに関わる終末論は、教派によって理解の違いが多いテーマです。

[4]  英語の新世界訳聖書、New World Translationでも、該当の箇所は、「In the day」となっています。ESVを引用したのは、逐語訳として定評のある聖書だからです。


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