エホバの証人の輸血拒否は聖書の教えですか


輸血拒否

輸血拒否を示す継続的委任状。全てのエホバの証人が携帯している。

13歳の少女が交通事故のために入院した。医師は、手術をすれば助かると判断して、少女にそのことを話した。ところが少女は、「私はエホバの証人なので、輸血をしないでほしい」と申し出た。医師は「手術をすれば治る。輸血はどうしても必要な時だけしかしない」と話し、少女も納得し、手術を受けることにした。

翌日、手術の準備に入ると事態が変わっていた。昨夜、どこから聞きつけたのか、エホバの証人の仲間が少女のところに来て、輸血を受けないように彼女を説得したのである。少女は輸血を拒んだ。

その日、医師は再び少女の説得をはじめた。少女には身寄りがなかった。医師は、子どもであっても、本人の意志は尊重しなければならないと考え、本人の了解を取ろうと努力した。長い話し合いの末、彼女は必要であれば輸血を受けてもよい、と了承した。ところが、その日もまた、エホバの証人たちが病院に押しかけ、彼女に輸血を受けるのを思いとどまらせてしまった。

医師は、私の友人の宣教師に電話をした。その宣教師はエホバの証人のことをよく知っていたので、少女が輸血を受けるよう説得してほしい、と依頼されたのである。宣教師は、その少女を訪問することを医師に約束した。しかし、その日の夕方、医師から宣教師に再び入った電話は、その少女が先ほど息を引き取った、というものだった。

その医師は、友人の宣教師に言った。「エホバの証人は少女の生きる権利を奪った。13歳の少女に『死ね、死ね』と言ったのだ。あれはどういう信仰なのだ。あなたがたキリスト教の宣教師や牧師は何をしているのか。彼らは、聖書を持ち出して『輸血は禁じられている』と言っているのに、だれもまともに反論しないではないか」

―中澤啓介『輸血拒否の謎』3~4頁。

これは、1996年7月、埼玉県の病院で、実際に起こった出来事です。

ものみの塔協会の主張するとおり、神が本当に、今日のクリスチャンに輸血を拒否するよう求めておられるのであれば、少女の姿は信仰の勇者として称えられるべきものなのかもしれません。しかし、神の意志がその逆なのであれば、この出来事は悲劇以外の何物でもありません。

13歳という若さでこの世を去った少女の命を考える時、また彼女を助けることのできなかった医師の怒りを考える時、この問題の確かな答えを聖書から論じることは、クリスチャンの責務だと言えるのではないでしょうか。

エホバの証人の輸血拒否―その概要

エホバの証人は、他のキリスト教系の団体とは異なる数多くの独特な教理を有していますが、中でも社会的に最も認知度の高い教理が、この「輸血拒否」に関するものです。日本においても、過去に輸血拒否を巡る事件や裁判が起きたことから、メディアでも広く取り上げられ、その認知度は高まりました。

エホバの証人の輸血拒否の具体的な基準とは、全血、あるいは血液の四つの主要成分(赤血球、白血球、血小板、血漿)を避けることを意味します。なお、今日では主要成分をさらに細かく処理した分画が様々な医療行為で用いられますが、分画を受け入れるかどうかは、個々のエホバの証人の「良心の問題」だとされています*[1]

エホバの証人が命をかけて輸血を拒否する理由は、医学的な理由ではなく、宗教的―聖書的な理由によります。旧約聖書には「血を食べてはならない」という禁令がありますが、それを今日の輸血という医療行為に適用したために、「輸血拒否」の教理が生まれることとになったのです。(創世記9:3、レビ記17:10)

エホバの証人の社会において、輸血をすることは、神の命令に対する明確な違反行為と見做されます。そのため、輸血行為は永遠の命を失う可能性のある深刻な罪として信じられ、実際に輸血を行う信者は多くの場合、組織から排斥されます。

かつてイギリスのBBC放送に出演したエホバの証人の証言によれば、一日に三人、年間千人の人が、輸血禁止のために死亡しているとされています*[2]。こうした問題を踏まえ、輸血拒否を巡り、倫理的な観点から、多様な議論がなされてきましたが、エホバの証人が宗教的な理由で輸血を拒否している以上、彼らに対して最も重要で効果的な説得方法は、聖書的な観点から説明することだと言えるでしょう。

医療に関する継続的委任状

医療に関する継続的委任状:全てのエホバの証人は、万が一の時の輸血を拒否するため、この委任状を携帯している。

輸血拒否の歴史と背景

輸血の歴史

輸血拒否の教えの歴史は、実はそう長くはありません。この教えが明確にされたのは、1951年からであり*[3]、それまでの80年間の歴史においては、むしろ輸血は肯定されていたようにも見受けられます。

「大危急の中で、付いていた医者の一人は、1クォート(約1リットル)の自分の血液による輸血を患者に施した。その女性は今、生き延びて、その生涯の中で最も忙しかった23分間について、にこやかに話している」―『慰め』1940年12月25日号、19頁。

しかし、ものみの塔協会の会長がラザフォードからノアに変わった後、組織は輸血を禁止する方向性を徐々に示していきました。そして、1961年には、エホバの証人で輸血を受ける人は、排斥処分の対象となることが明確にされたのです*[4]

ネイサン・H・ノア

輸血禁止を提唱した三代目会長 ネイサン・H・ノア

種痘の解禁―協会が輸血を拒否した本当の理由

協会が、この年代に輸血拒否の教理を打ち出した背景としては、「種痘」*[5]の解禁があると考えられます。種痘とは、天然痘の予防接種のことですが、協会は信者が「種痘」を受けることを、1931年から正式に禁止していました。ところが、その禁令によって被害者が続出した結果、最終的には認めざるを得ない状況になり、解禁となったのです。

その時の経緯と輸血拒否の教えとの関連については、新世界訳研究会発行の『組織が輸血を禁止している』の中で、次のように説明されています。

「むろん、それは、種痘禁止を解除する動きと連動していた。協会が、種痘を禁止したのは、1931年だった。そして、その禁止を撤廃したのは、1952年である。協会が、20年間にわたって禁止してきた種痘を認めなければならない立場に立たされたからである。アメリカ合衆国の連邦政府の査察を受けねばならない状況に追い込まれたのである。協会のリーダーたちは、エホバの証人の間に動揺が起こることを鎮める必要があった。そこで、種痘問題をカモフラージュできる新たな禁止令を考えたのである。それは『輸血禁止』という教えだったのである。この見事な人心掌握術は、さすが、カルト集団のリーダーたちである」(22頁)

種痘の解禁と、輸血拒否の提唱の時期が重なっていることを考えれば、この指摘はあながち間違ってはいないように思われます。協会は、分が悪い教理の訂正をする時には、なるべき目立たないようにことを進めることが多いからです。

いづれにしても、聖書的な理由により輸血を拒否すると公言する一方、その始まりが「組織の体裁的な理由だった」とすれば、それは見過ごすことのできない重大な問題だと言えるでしょう。

ものみの塔の主張

協会が輸血を禁止するにあたり、よく引き合いに出す聖書箇所は、創世記9:3-6(ノア契約)、レビ17:10-12(モーセの律法)、使徒15:20(エルサレム会議の決定事項)の三つです。

「ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。」(創世記9:3)

「だれでもイスラエルの家の者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,いかなるものであれ血を食べる者がいれば,わたしは必ず自分の顔を,血を食べているその魂に敵して向け,その者を民の中からまさに断つであろう肉の魂は血にあるからであり,わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が,[その内にある]魂によって贖罪を行なうからである」(レビ17:10)

「ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。21 モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」(使徒15:20)

これらの聖句から、協会は次のような論理展開で、輸血拒否が聖書の教えであると説明します。

  1. これらの聖句の「血の禁令」は、輸血にも適用される、
    神は 魂 つまり 命 を,血 の 中 に ある もの と みなさ れ  た。そして,魂 は 神 の ものである。この 律法 は,イスラエル 国民 に だけ 与え られ た と は いえ,血 を 食べ て は なら ない と いう 律法 を 神 が どれ ほど 重視 し て おら れ た か を 示し て いる。また、血を食べてはならない、という命令は、人体に他の者の血を摂り入れるべきではない、ということを意味するため、輸血にも適用される。
  2. 旧新訳聖書の全時代を通じて、神は血の禁令を一貫して示してきた。
    旧約時代だけでなく、エルサレム会議の決定事項においても(使徒勅令)、「血を避ける」べきであることが聖書に記録されている。このように、創世記、レビ記、使徒、の三つの書において、血の禁令が一貫して示されてきたという事実は、「血を食べてはならない」という定めが、普遍的な教えであることを意味している。

以上のものみの塔の主張を踏まえ、「血の禁令は輸血にも適用されるべきなのか」「エルサレム会議の決定事項は、普遍的な教えなのか」という二つの点を、聖書的視点で論じていきたいと思います。

なお、公式サイトのJW.ORGでの「聖書は輸血について何と述べていますか」という記事でも、エホバの証人の側の主張の要点が、以下のように簡潔にまとめられています。

聖書 は,だれ    摂取    なら ない,と 命じ て い ます。ですから,全血 を,あるいは どんな 形態  もの  せよ その 主要 成分 を,食物     輸血     受け入れる べき   あり ませ 。以下 の 聖句 に 注目 し て ください。

創世記 9:4神 は ノア と その 家族 に,大 洪水 後,食物 と し て 動物 の 肉 も 食べ て よ い と され まし た が,血 を 食べ て は なら ない と お命じ に なり まし た。神 は ノア に,「ただし,その 魂 つまり その 血 を 伴う 肉 を 食べ て は なら ない」と お告げ に なっ た の です。この 命令 は 全 人類 に 対する もの です。人類 は 皆 ノア の 子孫 だ から です

レビ 記 17:14「あなた方 は いかなる 肉 なる もの の 血 も 食べ て は なら ない。あらゆる 肉 なる もの の 魂 は その 血 だ から で ある。すべて それ を 食べる 者 は 断た れる」。神 は 魂 つまり 命 を,血 の 中 に ある もの と みなさ れ まし た。そして,魂 は 神 の もの です。この 律法 は,イスラエル 国民 に だけ 与え られ た と は いえ,血 を 食べ て は なら ない と いう 律法 を 神 が どれ ほど 重視 し て おら れ た か を 示し て い ます。

使徒 15:20『血 を 避け なさい』。神 は,ノア に 与え た の と 同じ 命令 を クリスチャン に も お与え に なり まし た。歴史 は,初期 クリスチャン が 血 を 飲も う と は せ ず,たとえ 医療 目的 で あっ て も 血 を 用い なかっ た こと を 示し て い ます。

  なぜ わたしたち に,血  避ける よう 命じ  おら れる  です 

輸血 を 避ける こと に は,しっかり し た 医学 的 理由 も あり ます。しかし,より 重要 な こと と し て,神 は,  象徴 する   ご自分  とっ  神聖  もの  ある  ゆえに,血  避ける よう 命じ  おら れる の です。―レビ 記 17:11。コロサイ 1:20

血の禁令は輸血と関係があるのか?

聖書的原則を適用する時の注意点

聖書の中には、輸血の是非に言及している箇所は一つもありません。なぜなら、日本赤十字社の説明によれば、輸血という医療行為が一般的に行われ始めたのは、1900年以降だからです。したがって、聖書に明確に禁止されていない以上、それを禁止事項として断言することには注意が必要です。

しかし一方で、ある事柄が聖書の中で明確に禁止されていないからといって、それを安易に容認することもできません。このような場合、聖書の中で示された原則や命令の本質を理解し、それを該当する事柄に適用できるかどうかを、慎重に考慮しなければなりません。

では、「血の禁令」は、現代の輸血という医療行為に適用すべきなのでしょうか?

血の禁令の本質的な意味

禁令の本質は「血」ではなく「魂」にある

「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。4 ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。」(創世記9:3)

創世記9章における血の禁令は、大洪水の後に、神がノアをはじめとする人類に肉食を許可する文脈で与えられました。それまでの世界では草食が中心でしたが、肉食の許可にともない、食事のために動物の命を断つ必要性が生じたことから、「その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」という禁令が与えられたのです。

この禁令の本質や意図を、もう少し掘下げて説明しているのが、モーセの律法下で語られたレビ記17章の禁令です。

「だれでもイスラエルの家の者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,いかなるものであれ血を食べる者がいれば,わたしは必ず自分の顔を,血を食べているその魂に敵して向け,その者を民の中からまさに断つであろう肉の魂は血にあるからであり,わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が,[その内にある]魂によって贖罪を行なうからである」(レビ17:10)

この聖句によると、神が血を食べないよう禁止した背景として、「肉の魂は血にある」「血が、その内にある魂によって」という理由を挙げています。つまり、血を食べてはならないのは、その内に魂があるからであり、もしも血の中に魂が無いのであれば、血を食べることは禁止されない、ということになります。

ですから、この禁令の本質は、「血を食べてはならない」というよりは、「魂を食べてはならない」という点にあることがわかります。

血が魂を表すのはどんな状況か

では、どういう時に、「血」が魂を表すのでしょうか?ここで、旧約聖書における血の禁令は、全てのその動物の命を断つことと関係していた、という点を考える必要があります。ノアが血の禁令を与えられたのは、肉食によって動物の命を断つ必要が生じたことがその理由でした。

また、レビ記の禁令においても、犠牲の動物の血に宿る命によって、罪人の命を贖うことがその目的でした。ですから、動物の体に少しの傷をつけて、そこから流れる血を祭壇で用いたという事例は聖書中に存在しませんし、そのような行為は贖いとして何の意味も無かったことでしょう。

他にも、血の禁令の本質が、血液にあるのではなく、「命の犠牲」にあることを示す興味深い事例が、第二サムエル記に記録されています。それは、ある時ダビデが「水を一杯飲みたい」と言った時に、その渇望に応えるために、三人の勇者が命がけで水をくみにいった出来事です。

ダビデは自分の渇望を表わして言った,「ああ,門の傍らにあるベツレヘムの水溜めの水を一杯飲めたらよいのだが」。16 そこで,三人の力ある者たちは,フィリスティア人の陣営に無理に突入して,門の傍らにあるベツレヘムの水溜めから水をくみ,それを運んで,ダビデのところに持って来た。彼はそれを飲もうとはせず,それをエホバに注ぎ出した。17 次いで彼は言った,「エホバよ,このようなことをするなど,わたしには考えられないことです! 自分の魂をかけて行った人々の血を[わたしは飲めるでしょうか]」。それで彼はそれを飲もうとはしなかった。(サムエル第二23:15-17)

ダビデが飲もうとしなかったのは「血」ではなく「水」でした。ところが、その水が命がけで得られた水であったことを理解したダビデは、それを「水」ではなく、「血」だと見做したのです。もしも、その水が普通に得られたものだったとしたら、彼はそれを血だとは見做さなかったでしょう。

つまり、血の禁令の本質に関するダビデの理解は、「食べる液体の種類」にあるのではなく、「その液体に命の犠牲が伴っているかどうか」という点にあったのです。

輸血には命の犠牲が伴わない

輸血で用いる血液を用意するために、命の犠牲が伴うことはありません。誰かが輸血をしたとしても、その血液の所有者の魂は、変わらず所有者の元に留まり続けるからです。ですから、旧約聖書で禁止された動物の血の本質的な意味は、輸血という医療行為で用いられる血とは大きく異なります。

ですから協会は、輸血という問題を扱う際に、「血液」という液体に過度に拘る表面的な見方を持つのではなく、より本質的な側面も慎重に考慮して、最終的な判断をしていくべきです。そうしたプロセスを経ずに、「神の霊の導かれる唯一の組織」と主張する団体が、全世界の信者にそれを絶対的な神のご意志だと示すことには、大きな問題があると言えるでしょう。

補足すべき点として、今日でもモーセの律法を守るユダヤ教のグループは世界中に存在していますが、私の知る限り、ものみの塔と同じような解釈を血の禁令に適用し、輸血を拒否するユダヤ教のグループは存在しません。

加えてものみの塔は、血を「食べないこと」の厳格さにおいては、ユダヤ教徒の足元にも及びませんが*[6]、血を「用いないこと」の厳格さにおいては、他の追随を許さないのです。神の命令が「用いないこと」ではなく「食べないこと」だった点を考慮すると、これは実に奇妙なことだと言えるかもしれません。

献血には命の犠牲は伴わない

献血には命の犠牲は伴わない

輸血をする人を排斥するのは正しいのか

死体となっていたものを食べた場合の規定

仮に、輸血に関するものみの塔の解釈が正しいとしても、輸血を「深刻な罪」と見做し、それを行った信者を「排斥」するのは、聖書的に正しい方法なのでしょうか?この点に関するヒントが、レビ記17:15に記されています。

「すでに]死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを食べる魂がいれば,その地で生まれた者であれ外人居留者であれ,その者は自分の衣を洗い,水を浴びなければならない。その者は夕方までは汚れた者とされる。そののち清くなるのである。」(レビ記 17:15)

ここでは、「死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたもの」を食べた場合の規定が記されていますが、ユダヤ人にとって「死んでいた動物」は、汚れをもたらすため、基本的に食べてはならないものでした。

「あなた方は,何にせよ死んでいたものを食べてはならない。あなたの門の内にいる外人居留者にそれを与えてもよい。その者がそれを食べるのである。あるいは,それは異国の者に売られるかもしれない。あなたは,あなたの神エホバにとって聖なる民なのである。」(申命記14:21)

この禁令には、「死体に触れた者は汚れる」という原則が関係していると思われますが、見逃すことのできないもう一つの側面があります。それは、死体となっていた動物を食べる人は、誰でもその肉を血と共に食べることになる、という点です。

動物の体から血を抜くためには、屠殺後に速やかに血抜きの処理をしなければなりません。そうでなければ、血管内で血液が凝固して、血抜きができなくなるからです。しかし、野獣に引き裂かれる等の理由で死んでいた動物の場合は、この血抜きができません。ですから、死んでいた動物の肉を食べることは、その動物の血をも食べることを意味したのです。

しかし、それを食べる人に対するレビ記17章の罰則は実に軽いものであり、自分の衣を洗い、水浴びをして清めをし、夕方まで待てば清い者とされたのです*[7]。では、「死んでいた動物を食べる時の規定」と、「通常の血の禁令」との間に、このような罰則の程度の違いがあるのはなぜでしょうか?

また、このような軽い罰則規定は、輸血を重い罪とし、それを行う信者を排斥してきた協会の対応とも大きく異なりますが、協会はそれについてどんな説明をしているのでしょうか?

なぜ罰則が軽いのか

1983年のものみの塔誌では、協会はその理由について、死体となっていた動物に血が含まれていたことを認めつつ、次のような説明をしています。

「ですから,神を崇拝する者はだれも,自然死した動物の(あるいはその肉に含まれる)血であろうと,人の手で殺された動物の血であろうと,血を食べることはできませんでした。では,レビ記 17章15節に,自然死した動物や獣に殺された動物などの,血の抜かれていない肉を食べても,単に汚れるだけであると述べられているのはなぜでしょうか

レビ記 5章2節に一つのかぎがあります。そこにはこう述べられています。「ある魂が,汚れた野獣の死体であれ……何か汚れたものに触れたなら,そのことが当人からは隠されていたとしても,その者はやはり汚れた者であり,罪科を持つ者となっている」。

このように,神はイスラエル人が不注意から過ちを犯すことがあることを認めておられました。ですから,レビ記 17章15節はそのような過ちのための規定として理解することができます。例えば,あるイスラエル人が自分に出された肉を食べ,食べた後でそれが血の抜かれていないものであることを知る場合,その人は罪のあるものとされます。しかし,それが不注意から起きたものであるゆえに,その人は清くなるための処置を講じることができました。この点で注目に値するのは,当人がそうした処置を取らなかった場合に,「その者は自分のとがに対して責めを負わねばならない」という点です。―レビ記 17:16。」―『ものみの塔』1983年、7月15日号、31頁。

このように、レビ17:15の罰則規定の軽さの理由について、協会は「不注意から生じた過ち」であるとし、具体的な例として、「あるイスラエル人が自分に出された肉を食べ,食べた後でそれが血の抜かれていないものであることを知る場合」という状況を挙げています。このような説明は、レビ記17:15の妥当な解釈といえるのでしょうか?

再度該当の箇所を確認すると、「すでに死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを食べる魂がいれば」となっており、特に「不注意から生じた過ち」であることに言及しているわけではありません。どちらかと言えば、ここでの罰則規定は、文脈上、死体となっていた動物を発見した人がそれを食べた場合の状況を想定していると考えるのが自然な解釈です。ですから、「不注意で知らないで食べた」という特定の状況のみを想定して理解することは、やや不自然な印象が残ります。

また、引き合いに出されたれレビ記 5章2節は、「知っていて死体に触れる場合」も、「知らないで触れる場合」も、どちらも同じ罰則規定が適用されると教えている聖句です。ですから、この聖句を引き合いに出しながら、「知らないで血抜きのされていない肉を食べた場合は罰が軽くされる」とする説明には、十分な説得力がありません。

では、死んでいた動物を食べた場合の罰則はなぜ軽いのでしょうか?その理由について、新世界訳研究会の中澤牧師は次のように説明をしています。

「死体となった動物の肉」を食べることは、ユダヤ人にとっては緊急事態にしか起こらない出来事だったからである。彼らは、その肉がどのような種類の肉か知らなかったわけではない。知っていたが、それを食べる以外、ほかにどうすることもできなかったのである。

普通の状況であれば、ユダヤ人は「死体となった動物の肉」を食べることはない。しかし緊急事態は、予期しないときにやってくる。神は、そのような場合に限って、「死体となった動物の肉」を食べるのを許されたのである。―『輸血拒否の謎』125頁。

軽い罰則規定が、死んだ動物を発見した人が食べた場合を想定したものであることを考慮すれば、この中澤牧師の解釈が、もっとも妥当な説明だと言えるのではないでしょうか。

そして、血の禁令を輸血に適用する協会の解釈が仮に正しいとしても、緊急事態を想定したレビ記の罰則規定の軽さを考えるならば、輸血をする信者を排斥にする協会の対応は、聖書的に正しいものとは言えないでしょう。

エルサレム会議の目的は何か

使徒勅令の解釈

「ですから,わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。21 モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」(使徒15:19-21)

使徒15章に記録されたエルサレム会議にて決定された内容を使徒勅令といいますが、エホバの証人の輸血問題を論じる上で、鍵となる聖句だと言えます。なぜなら、結局のところ、エホバの証人が輸血を禁止する重要な根拠が、この聖句の解釈にかかっているからです。

エホバの証人は、使徒勅令を普遍的定めと解釈し、今日のクリスチャンも「血を避けるよう」にしなければならない、と教えます。もしその解釈が正しいのなら、輸血禁止の聖書的根拠として、この聖句は考慮に値するかもしれません。

しかし、世界中のほとんどの聖書学者は、使徒勅令は普遍的な定めではなく、イエスを信じるユダヤ人信者への配慮として、異邦人クリスチャンに要求したものだと理解します。どちらの主張が聖書的根拠のあるものなのか、文脈に沿って確認をしてみましょう。

エルサレム会議―一世紀の統治体

一世紀の統治体 by JW ORG|ものみの塔はエルサレム会議によって血の禁令の普遍性が確認されたと主張する

歴史的文脈の確認

当時、異邦人世界でたくさんの異邦人が福音によって救われていく一方、エルサレムでも、パリサイ派の中からイエスをメシアとして信じるユダヤ人クリスチャンが起こされていきました。しかし彼らの中には、律法に対する熱心さもあってか、「信仰のみによって救われる」という福音の本質を理解できず、「異邦人も救いのためには割礼を受けるべきだ」と主張する「割礼派」が存在したのです。

こうした背景の中、ある時「割礼派」の人々がアンティオキア教会に下っていき、「異邦人も割礼を受けるべきだ」と主張したことが、問題の発端となったのでした。そしてこの問題は大論争へ発展し、アンティオキア教会は問題解決のために、バルナバとパウロを正式にエルサレムへ派遣します。

彼らがエルサレムへ着いた後、使徒たちとエルサレム教会の長老たちを交えた会議が開かれましたが、その時の争点は「異邦人も救いのために、割礼やモーセの律法を守るべきか」というものでした。激しい論争の後、最後はイエスの弟であるヤコブが話をまとめ、二つの点を重要な決定事項としてまとめました。

「ですから,わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。21 モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」(使徒15:19-21)

使徒勅令の意味

(1)異邦人は救いのために割礼を受ける必要が無い

「諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず」とは、救われる異邦人に対して割礼やモーセの律法を守るよう要求しない、ということです。この決定によって、「救いは信仰と恵みによる」という福音(良いたより)の本質が確認されました。(エフェソス2:8)※新改訳ではエペソ。

(2)異邦人は四つの事項を守る

ヤコブは、異邦人が律法を守る必要が無いとする一方、その律法の要求である「偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血」は避けるよう異邦人クリスチャンに求めました。ここで挙げられた四つの事項は、おおよそ「在留異国人」に求められた聖潔の定めに該当するもので、当時ユダヤ教に帰依した人々に、最低限の要求として課せられていたものと考えられます。(レビ記17~18章)

「偶像によって汚された物」とは主に、偶像の神殿で犠牲として捧げられた食べ物のことです。そのような肉を食べるかどうかは、クリスチャンの良心に委ねられていましたが(コリント第一8章)、ユダヤ人はそれを偶像礼拝の一部とみなしました。

「淫行」とは、文脈上、性的不道徳全般を指すというよりは、「近親婚」を表しています*[8]

「絞め殺されたもの」とは、血が残った肉のことであり、「血を避ける」の意味も、血を食べてはならない、という血の禁令に関するものです。

これら四つの事項を挙げた後、ヤコブはその要求事項を異邦人信者に求める理由として、「モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいる」と加えています。

すでに確認した通り、ものみの塔協会は、これらの決定事項を、「クリスチャンが守るべき普遍的な定め」と理解し、その結果「血を避けるように」という命令を今でも有効なものと理解します。しかし、当時の歴史的背景や文脈を考慮すると、その解釈には問題があることがわかります。

偶像によって汚された物

エルサレム会議で採択された四つの禁止事項が、時代を越えた普遍的定めだとしたら、クリスチャンはいかなる理由においても「偶像によって汚された物」を食べてはならないはずです。しかしパウロは、コリント人への手紙の中で、偶像に捧げられた食物を食べるかどうかは個人の良心の問題であるとし、その自由は他の人の良心に配慮して用いるべきだと伝えています。

「さて,偶像にささげられた食物を食べることについてですが,わたしたちは,偶像が世にあって無きに等しいものであること,また,神はただひとりのほかにはいないことを知っています。・・・食物がわたしたちを神に推賞するのではありません。食べなくても後れをとるわけではなく,食べたからといって誉れになるわけでもありません。9 しかし,あなた方のこの権限が,弱い人たちを何かのことでつまずかせるものとならないよういつも見守っていなさい。」(コリント第一8:4~9)

ですから、使徒勅令における四つの事項は、普遍的定めとして語られたのではなく、四つの事項に抵抗のあるユダヤ人信者への配慮として、異邦人信者に求められたものだったのです。

モーセを宣べ伝える者がどの都市にもいるから

さらにヤコブは「血を避けるように」と語った後、その理由として「モーセ・・を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるから」と加えました。つまり、「宣べ伝える者がいるから」それを守る必要があるのであり、「宣べ伝える者」がいない場所では、それを守る必要はない、ということになります。では、ヤコブがここで言及した理由には、どんな意味があるのでしょうか?

紀元一世紀には、ユダヤだけでなく、異邦人世界全体の都市にユダヤ人の共同体とシナゴーグ(会堂)があり、そこで安息日ごとにモーセの律法が朗読されていました。そして、使徒たちが未開拓の地に福音を伝える時はいつでも、まずその都市の会堂へ行き、ユダヤ人にキリストを宣べ伝えました。

ですから、当時のほとんどのクリスチャン会衆の中には、ユダヤ人信者と異邦人信者の両方がいたのです。しかし、週ごとに律法の朗読を聞き、伝統的にその教えを守ってきたユダヤ人にとっては、いくらキリストの恵みによって救われたとはいえ、律法で禁じられた血の入った肉を自分で食べたり、それを食べる異邦人と食事をすることには抵抗がありました。

そこでヤコブは、教会の平和と一致のために、ユダヤ人信者への配慮として、最低限の事項を守るよう異邦人信者にお願いしたのです。これが、「モーセを宣べ伝える者がどの都市にもいるから」という理由を考慮した時に明らかとなる、使徒勅令の正確な意味です。(なお、あらゆる聖書学者の見解は、四つの禁止事項の目的がユダヤ人信者への配慮であった、という点において一致しています。)

今日、一部の地域を除いて、教会の中にユダヤ人信者が含まれていることはほとんどありません。また、ユダヤ人信者が教会に居たとしても、異邦人信者に律法への配慮を求めることはほぼありません。したがって、エルサレム会議の決定事項は、今日のクリスチャンが気にする必要のあるものとは考えられません。

ある聖書教師の優れた注解

最後に、エルサレム会議に関する優れた注解を残している、ある聖書教師のコメントをご紹介させていただきます。

「それから、彼らは、律法としてではなく、『必要なこと』としてまとめあげた。・・これらのものを避けるようにというアドバイスには、ユダヤ人たちが、そのような肉を食べることが異教徒の偶像礼拝に参加することであると考えたからである。偶像なるものは木や金属や石に過ぎない、という物事にとらわれない見方をすれば、偶像は食物を益したり、害したりするものではない。にもかかわらず、異邦人クリスチャンは、これらのことを行う自由を捨て、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、弱い兄弟たちの良心を傷つけないのは懸命なことである。と考えた。

血の使用の禁止についても同じことである。これらの禁止事項は律法のもとで生活していなかった異邦人にとっては無縁なものだった。しかし、ユダヤ人の思いには深く根ざしていた。したがって、教会の平和を保つためには、異邦人がこれらのことを守る必要があった。・・・もし、彼らが争いを好まず、分裂を避けようとするのであれば、これらのことに関する事由を喜んで犠牲にしたであろう。」*[9]

この優れた注解を残したのは、他でも無い、ものみの塔協会の創始者チャールズ・テイズ・ラッセルです。彼は、エルサレム会議の決定事項の意味については、それを正しく理解していたようです。ところが、後のものみの塔協会が文脈を無視した解釈を適用したことによって、組織はますます真理から後退してしまったのです。

結論

これまでに考察してきた点をまとめると、次のようになります。

まず、「血をたべてはならない」という旧約聖書の命令は、血を流す動物の命の犠牲が伴っている、という前提があるため、それを安易に輸血に適用することはできません。

また、「死んでいた動物を食べた人」に対する軽い罰則は、輸血をした人を排斥にする協会の対応とは大きく異なることから、その対応に聖書的根拠があるとは言えません。

最後に、エルサレム会議の決定事項は、「普遍的定め」ではなく、「ユダヤ人信者への配慮」であったことは、歴史的文脈を考慮した時に明らかです。

以上の点から、今日のクリスチャンが、「血を避けるように」という聖書の教えを、「輸血拒否」に適用する聖書的な根拠は無い、と結論できます。

ものみの塔協会は、今でも変わらず輸血拒否を主張し続けており、毎年多くの信者が命を失っています。このような悲劇が繰り返されないためにも、本記事が多くの方々―とりわけ現役のエホバの証人の方々に読まれるよう心よりお祈り致します。

脚注

[1] 『ものみの塔』2000年6月15日号、29-31頁「読者からの質問」。

[2] 中澤啓介『輸血拒否の謎』(いのちのことば社)38頁。

[3] 『エホバの証人の年間』1976年、223頁。

[4] 『ものみの塔』1961年5月1日号。

[5] 種痘とは、天然痘を予防するため、痘苗(とうびよう)を人体の皮膚に接種すること。1796年、ジェンナーが牛痘ウイルスによる人工的免疫法を発見。植え疱瘡。―『大辞林 第三版』

[6] 敬虔なユダヤ教徒は、「コーシェル」と呼ばれるユダヤ教の食物規定に沿った食事しか食べることはありませんが、そこで用いられる全ての肉からは、入念に血が取り除かれているため、日本で普通に食べれる肉と比べると、パサパサしている、と言われます。

[7] ただし、たとえ食べたのが「死んでいた動物」であったとしても、必要な清めを行わなければ、その人は自分の罪に対する責めを負う必要がありました。「しかし,それを洗わず,その身に水を浴びないのであれば,その者は自分のとがに対して責めを負わねばならない」(レビ17:16)

[8] 一般的に意味での性的不道徳が良くないことは、異邦人信者の目にも明らかだったため、そのような意味で「淫行」にわざわざ言及する必要は無かったでしょう。

[9] 中澤啓介『輸血拒否の謎』144~145頁


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2件のフィードバック

  1. おかもと より:

    教会に通いだしてからも輸血の恐怖はありました。
    しかしこの記事を読んでから輸血そのものに恐怖を感じなくなりました。
    ここまで詳しく説明しているサイトは知りません。
    本当に勉強になります。
    機会があればお会いしたいと思っています。

    • Webmaster-GJW より:

      コメントありがとうございます!
      この記事が、輸血に関する誤解を解くものとなって本当に嬉しく思います。
      関東に来る時があれば、どうぞ御連絡下さいね。
      引き続き当サイトを宜しくお願い致します。

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