誕生日の否定を論破する方法|エホバの証人への伝道サンプル


誕生日の否定を論破する

誕生日の否定は、聖書だけを用いて簡単に論破できるテーマであり、事前知識があれば誰でも簡単に行うことができます。そして、客観的な重要性がそこまで高くは無いとはいえ、ものみの塔の教えを真理として信じるエホバの証人にとっては決して小さい問題ではなく、組織の教え全体に疑問を持つキッカケとなる可能性は十分にあります。是非多くの方々に、積極的に用いるべきテーマとしてお勧めいたします。

◆難易度:低、
◆重要度:低
◆用いる資料:聖書のみ
◆明らかになること:ものみの塔の教えの誤り

聖書の中には、「誕生日を祝ってはならない」と教えている箇所は存在しません。しかしエホバの証人は誕生日を祝うことが非聖書的な習慣であると信じています。まずは、その理由を簡単に説明します。

エホバの証人が誕生日を祝わない理由

第一の理由として、聖書の中に、神の民が誕生日を祝った記録が無いことが挙げられます。加えて、聖書に記録された2つの誕生祝は、どちらも神の民によるものではなく、悪いことが起きていることが引き合いに出され、「聖書は誕生祝を好ましくないものとして示している」という主張となるのです*[1]。(創世記 40:20‐22。マルコ 6:21‐29)

第二の理由としては、誕生祝いは、多くの場合、異教の習慣と関係している、という点も挙げられます。

以上が、ものみの塔が誕生日を否定する理由なわけですが、もしも聖書の中に、神の民が誕生日を祝った記録が存在するならば、これらの主張は覆されることになります。そして、実際にその記録は存在するのです。

誕生日の否定を聖書から論破する方法

注意点

以下で紹介するサンプルは、1985年版のエホバの証人の新世界訳聖書に基づいています。2019年に出た改訂版では、大きく訳出が変えられてしまっており、サンプルの会話の内容を用いることができなくなっています。対処方法ですが、初めから、スマホ等に、1985年版の新世界訳のアドレスをブックマークで入れておき、実際の会話において、あえて1985年版を用いるようにするのは良いでしょう。

エホバの証人の側も、新しい改訂版が意訳の聖書であり、原文に忠実に訳しているのは旧版であることを理解しているはずなので、聖句の意味を論じる時に、旧版を土台として用いるのには問題無いはずです。

ちなみに、改訂版の方では、ヨブ1:4が、「ヨブの息子たちは,日を決めて順番に自分の家で宴会を開き,」と変更されて「自分の日」という表現が消去されており、3章1~3節との関連性がわからなくされています。

伝道サンプル

以下に、会話のサンプルをご紹介します。あくまでサンプルですので、内容を理解した上で、実際の会話に役立ててください。(CH=キリスト教徒。JW=エホバの証人)

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【CH】エホバの証人は誕生日を祝わないと思いますが、聖書の中にそういう教えはあるんでしょうか?

【JW】聖書の中に、「誕生日を祝わないように」という命令は無いと思いますが、神の民が誕生日を祝った記録は無いと思います。また、記録されている2つの誕生祝では、どちらも悪いことが起きています。ですから、私たちは、「神は誕生祝いを望んでおられない」と信じているんです。

【CH】そうでしたか、では、もしも聖書の中に神の民が誕生日を祝った記録があれば、誕生祝いを否定する理由は無くなりますね?

【JW】えぇ、、もしあれば、ですが。

【CH】よろしければ、ヨブ記1:4を開いて、読んでみていただけますか?

【JW】はい、・・(開く)・・・「そして,その息子たちは行って,自分の日に各々の家で宴会を催し,人をやって,その三人の姉妹をも招いて一緒に食べたり飲んだりした。

【CH】ここで、ヨブの息子たちは、「自分の日」に各々宴会を催していた、とありますが、「自分の日」とは何の日のことだと思いますか?

【JW】えぇ、、と、必ずしも誕生日だとは言えないと思いますが。

【CH】実は、「自分の日」という表現が、何の日を意味するのかについては、ヨブ記の中に明白な答えがあります。ヨブ記3:1~3を開いて読んでみていただけますか?

【JW】はい、・・(開く)・・「ヨブが口を開いて自分の日に災いを呼び求めたのは,その後のことであった。2 さてヨブは答えて言った,「わたしの生まれた日は滅びうせるように。

【CH】ヨブは、「自分の日」に災いを呼び求めていますが、続く3節で「わたしの生まれた日」は滅びうせるように、と言っています。つまり、ヨブ記における「自分の日」が、誕生日を意味することは明らかではないでしょうか?

【JW】、、、そうですね、、この場ではこれ以上お答えできませんので、また後でちゃんと調べてみたいと思います。

【CH】はい、是非後でもう一度、確認をしてみてくださいね。ところで、ヨブの息子たちは、どのような経緯で、「自分の日」を祝うようになったと思いますか?自分たちで勝手に思いついたんでしょうか?

【JW】、ちょっと、すぐにはわかりませんね。

【CH】古代世界では、父親の権威がとても重んじられたので、息子たちが勝手に考えて祝いだしたとは考えにくいですね。つまり、誕生祝いの習慣を息子たちに伝えたのは、他でもない、ヨブ自身だったはずです。ヨブは、当時の世界で最も正しい人だと神から認められていましたので、そのヨブの家族が誕生日を祝っていた、ということは、神がそれを是認している証拠ではないでしょうか?

脚注

[1] 『神の愛』2008年、151~152頁。


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4件のフィードバック

  1. neo より:

    素晴らしいです!早速使ってみたいです。

    • Webmaster-GJW より:

      お読みいただきありがとうございます!改訂版の方では、訳出が変えられているので、記事の中に、注意点を追記しました。どうぞご確認ください!

  2. komatta-san より:

    あちらも自己解釈で武装していますね
    https://wol.jw.org/ja/wol/pc/r7/lp-j/1200270838/18/2
    家族が入信しそうなのでなんとかしたいのですが、一筋縄ではいかないです。

    • Webmaster-GJW より:

      コメントありがとうございます。確かに武装していますが、ちゃんと文章を読める方であれば、騙されることはありません。
      ただ、組織を信じてしまっている人は、この説明でやられてしまうのですよね。。

      「この節の「日」は,ヘブライ語ヨームを訳したもので,日の出から日没までの時間帯を指しています。一方,「誕生日」は,ヨーム(日)とフッレデトという二つのヘブライ語から成る複合語です。「日」と人の誕生日とが区別されていることは,その両方の表現が出て来る創世記 40章20節で認められるでしょう。そこには,「さて,三日[ヨーム]目はファラオの誕生日[字義,「ファラオの誕生(フッレデト)の日(ヨーム)」]であった」とあります。それで,創世記 40章20節の場合に疑いなくそうであるように,ヨブ 1章4節が誕生日のことを述べていないのは確かです。」

      何やら、難しい言葉を並べて、真っ当な見解を提示しているように見えるのですが、実際は、全くそうではありません。簡単にまとめると、「聖書の中では、例えば創世記40:20では、誕生日のことを、「日」ではなく、「誕生日」と説明していて、通常の「日」とは区別されているので、ヨブの記述が誕生日ではないことは明らかです」と言う主張です。

      実際のところは、ヨブ1章で言及されいてる「自分の日」には、「誕生」と言う修飾語がついていないので、それだけでは、「誕生日」と特定できない、と言うだけであって、「誕生日ではない」と断定する根拠はまるでないのです。しかし、同じ書簡内のヨブ3章を読めば、明らかに「自分の日」を「誕生日」だとヨブが説明しているので、書簡の文脈を考慮すれば、「自分の日」が誕生日を意味している可能性がもっとも高いのです。

      ですから、ものみの塔は、この武装する記事の中でも、ヨブ3章の記述については、反論や説明を省いています。反論ができないからですね。

      ご参考になれば幸いです。
      ご家族の方が、入信前に真実に気がつきますように。

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