エホバの証人へ伝道するべきですか?


エホバの証人へ伝道するべきですか

キリスト教の中では、エホバの証人(以下、JWとも略す)へ伝道するべきか、という点において、2つの対象的な立場があります。

一つ目は、彼らへ積極的に伝道すべき、という立場であり、当サイトも、この立場に基づいて運営をしています。二つ目は、エホバの証人へ伝道すべきではない、という立場ですが、この見方をする根拠としてよく用いられるのが、第二ヨハネ10節であり、「この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません」という聖句です。しかし、全世界800万人にも上るエホバの証人の救いに関わる重大な問題であることを踏まえれば、この聖句の適用については、慎重な吟味が求められるでしょう。

そこで今回は、第二ヨハネ10節の解釈と適用の解説も含め、「エホバの証人へ伝道するべきか」という重要な問題について、考えていきたいと思います。

第二ヨハネ10節の解釈とエホバの証人への適用

警告が語られた歴史的背景

 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。8 よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。9 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。10 あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。11 そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。」(第二ヨハネ7~11節)

当時、第二ヨハネ全体の文脈、及び歴史的背景からはっきりとわかることは、「家に受け入れてはいけません」という警告は、キリストの受肉を否定するグノーシス主義の教師たちを警戒したものだった、ということです。

当時、勢いを増していたグノーシス主義は、その教師たちが家々を巡回して、多くのクリスチャンを偽りに引き込んでいました。彼らは、正しいキリストの福音を聞きながらも、それを拒否し、反キリストの教えを説くようになった人々でした。そのためヨハネは、異端であるグノーシス主義の教師たちを厳しく警戒する手紙を書かなければならなかったのです。

では、以上の歴史的背景を念頭に置き、この警告をエホバの証人へ適用すべきかどうかについて、もう少し掘り下げて考えていきます。

「家に受け入れる」は、教えに賛同することを意味した

当時のローマ世界では、教養のある教師たちが教えを説くために、家々を巡回するということが一般的に行われていましたが、そのような教師たちにはグノーシス主義だけでなく、哲学者なども含まれていました*[1]。そして、巡回する教師たちを家に招けば、当然彼らに宿や食事も提供することになりました。

このような背景からわかることは、当時、巡回教師たちを「家に受け入れる」ということは、単に家に迎えて話し合いをする、ということ以上に、巡回する教師たちの教えに賛同し、彼らをサポートする、という意味も含まれていたのです。

ですから、ヨハネが語った「家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません」という警告は、このような歴史的背景の元、彼らを家に招き、その教えを受け入れる態度を示してはならない、ということだったのです。では、訪問してくるエホバの証人を「家に受け入れる」ことは、これと同じレベルで考えることができるでしょうか?

クリスチャンが、エホバの証人へ伝道する目的で家に招く場合、そこには、彼らの教えに賛同したり、サポートしたりする意味は全くありません。彼らを、自分の教師と見做すこともありません。あくまで、対等な立場の元、彼らに福音を伝えるために会話をするのです。

したがって、「家に受け入れてはいけません」というヨハネの警告は、エホバの証人へ伝道することとは状況が異なり、そのまま適用できるものではありません。聖書解釈においては、歴史的背景をよく吟味し、著者の意図を越えた適用をすることが無いよう注意しなければならないのです。

※興味深い点ですが、どのキリスト教の正統派の教会よりも「背教的な教え」に警戒するエホバの証人は、ここでのヨハネの警告を「キリスト教のクリスチャン」に対しては全く適用しません。エホバの証人は「一度正式なエホバの証人の信者となった後、組織を離れた人」にだけ、この警告を厳密に適用するのです。

エホバの証人は、福音を聞けなかった被害者である

既に述べたように、当時勢いを増していたグノーシス主義の巡回教師たちは、キリストの教えを聞いたことの無い人々ではなく、正しいキリストの福音を聞きながらも、それを拒否した人々でした。

エホバの証人の場合、自ら家々を周り、キリストに反する教えを伝道しているが故に、確かにグノーシスの教師たちと同じような側面を持っていることは事実です。実際に、論理武装していないクリスチャンが、エホバの証人に論破され、ものみの塔の組織へ導かれてしまう、ケースも無くはないでしょう。しかし、決定的に異なる点があることも事実です。

それは、ほとんどのエホバの証人は、「正しいキリストの福音を聞きながらあえて退けた人々」ではなく、「初めから聞く機会を奪われ、偽りを信じ込まされてしまった人々」という被害者的な側面を持っている、ということです。彼らは真理を求めた結果、偽りの情報を与えられ、偽りに引き込まれた被害者であり、今もなお、ものみの塔の情報統制により、正しい教えを聞く機会を閉ざされてしまっている人々なのです。ですから、この点において、グノーシス主義の教師たちと、エホバの証人の信者の立場を全く同列に置くことはできないのです。

現に、エホバの証人から救われてクリスチャンとなった多くの人々は、自分が偽りを信じ込まされていたことを理解し、キリスト教徒がJWへ積極的に福音を伝えることを望んでいるのです。その一例として、かつて、17年間エホバの証人だったある姉妹の言葉を、以下に紹介します。

「筆者の教会に、17年間エホバの証人だった一人の姉妹がいる。彼女が証人時代、何度か彼女と対話をしたことがあった。彼女は、『もし、キリスト教会やクリスチャンたちが本当に福音を信じているのなら、どうして、もっと熱心に証人たちにその福音を話そうとしないのか』と、問いただした。筆者は何も答えられなかった。彼女の言葉を、全ての教会、クリスチャン各人は、もっと真剣に考えなければならないのではないだろうか。」*[2]

JWへの伝道が主の御心であると言える根拠

実際に多くのエホバの証人が救出されている

ここで、ベバリィ・ウイリアムズという名の主婦の姉妹の体験をご紹介したいと思います*[3]。彼女は、訪問伝道をしに来たエホバの証人に対して証しをしたいという思いに駆られ、教会の牧師に相談をしたところ、第二ヨハネの警告を示され、「話してはいけない」と助言されました。

しかし、エホバの証人に対する救霊の思いを収まらず、次のように考えるようになりました。

ヨハネの手紙第二において言及されている人は、「一度は真のキリスト教信仰に入ったが、その後背教してしまった人」のことではないだろうか。一方、自分を訪問してくれたエホバの証人は、これまで一度も本当の福音を聞いたことのない人であり、背教者と呼べないのではないか。すると、このみ言葉を、訪問してきたあのエホバの証人にあてはめることは、正しいとは言えないはずだ。あの人もまた、聖書の福音を聞いて、ほんとうの救いにあずかるチャンスを与えられるべきだ。

その結果、ベバリィはエホバの証人への伝道に献身し、多くのJWが、彼女を通してキリストの福音へ導かれるようになった、とのことです。

他にも、エホバの証人への伝道に重荷を負ったクリスチャンたちが、これまでにたくさんのエホバの証人を救出し、彼らをキリストの福音へと導いてきました。そして、エホバの証人への伝道によって、実際に「イエスは主です」と告白するようになる元JWがたくさん起こされてきた事実は、それが主の御心であり、その働きが聖霊に導かれてきた証拠だと考えることができるでしょう。

神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(第一コリント12:3、新改訳)

神はエホバの証人を愛している

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(第二ペテロ3:9)

この聖句にある通り、主は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ」ますが、その中には当然、エホバの証人も含まれています。彼らの救いを最も喜んでいるのは、紛れもなく天の父なのです。ならば、彼らに福音を伝えることは、主の御心であると言えるのです。

そして、エホバの証人が聖書を信じている人々である以上、同じ聖書という共通の土台に沿って会話ができるクリスチャンこそ、彼らを救出する働きにおいて、最適な人々なのです。

結論

エホバの証人への伝道に否定的な立場のクリスチャンがいることも事実ですが、本記事で確認をしてきた通り、紀元一世紀の歴史的背景を踏まえて理解した場合、よく挙げられる第二ヨハネ10節を、エホバの証人へそのまま適用することは困難です。むしろ、主のみ心を考えたときに、彼らへ伝道していくべき積極的な理由の方が多くある、という点を考えなければなりません。

ただし、エホバの証人とまともに会話をした時に、逆に相手に論破され、引き込まれてしまうのではないか?という不安を感じているクリスチャンは決して少なくはありません。確かに、エホバの証人は、多くのキリスト教徒よりも、遥かにしっかりとした伝道訓練を受けているため、まともに聖書の話し合いをした場合、論破されてしまう可能性もあるでしょう。

ですから、事前の備えができていないクリスチャンであれば、訪問伝道に来るエホバの証人と、無理に会話する必要はありません。「結構です」と言って断った方が賢明です。ただし、「教会に通っているので結構です」とは言わないようにするべきです。その理由は、相手のエホバの証人が、組織の教えに対する信仰を深めてしまうからです。(この点に関する詳細はこちら

また、彼らへの伝道を試みる場合は、事前の備えとして、聖書の基本的な教理を理解し、エホバの証人について最低限の知識を持っておくことが望ましいでしょう。当サイトでは「エホバの証人への伝道方法の紹介」として複数の記事を公開していますが、それらを一通り読んでおけば、ものみの塔の教えの弱点を明確に知ることができるので、仮に一時的に論破されたとしても、ものみの塔に引き込まれたりすることは無くなるはずです。(組織の教えに一通り同意していなければ、正式な信者となることはできないからです)

そして、以上の備えができているクリスチャンであれば、様々な機会を捉えて、エホバの証人へ伝道することができるでしょう。神は、エホバの証人を愛しています。私たちも、彼らを愛し、積極的に福音を伝えていくべきではないでしょうか?

脚注

[1] 聖書の中でも、使徒たちが「家から家へとたゆみなく教え」た(使徒5:41)、とありますが、このような巡回伝道する教師たちの型に沿ったものであったと考えられます。

[2] 中澤啓介『パンドラの塔』2000年、227頁.

[3] 中澤啓介『パンドラの塔』2000年、240~241頁.


おすすめ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です