イエスはどのような意味で「主」ですか?キリストの神性への聖書的考察


イエスはどのような意味で「主」ですか?キリストの神性への聖書的考察

聖書には、「イエスは主であるという公に宣言」が、救いのために重要であることがはっきりと示されています*[1]。しかし、残念ながら、全てのエホバの証人は、「イエスは主である」という宣言をしたことがなく、そのような明白な信仰もありません。

「その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。10 人は,義のために心で信仰を働かせ,救いのために口で公の宣言をするからです。」(ローマ10:9~10)

もっとも、全てのエホバの証人は、イエス・キリストが「ある意味において主」だとは認めており、イエスに対して敬意を持ってはいます。しかし、そのようなイエスへの理解が、「イエスは主である!」という明白な信仰へと結びつくことは無いのです。

では、イエスはどのような意味で「主」なのでしょうか?そして、どのような意味において「主」と認めれば、「イエスは主である」という明白な信仰告白へと導かれるのでしょうか?

本記事では、この重要なテーマを、確かな聖書的根拠をもって、明らかにしていきたいと思います。

記事の全体の流れ

先に結論を申し上げると、筆者は現在、イエスの「主」の意味を、「主なる神」という意味で理解しており、その事を確信していますが、なぜそのような理解に至ったのか、まずは全体の流れを簡潔に説明したいと思います。

ものみの塔は、新約聖書の翻訳において、237箇所に渡り「主」を「エホバ」に置き換えましたが、この置き換え問題と、「イエスはエホバではない」という教えを組み合わせることによって、「イエスの本当の姿に覆いをかける」という、深刻な間違いを生じさせています。

まず、新約聖書のギリシア語の原典に「エホバ」が表記されていた証拠は全く無く、ものみの塔が「エホバ」と置き換えた部分は、実際には「主」と記されていたのです。

次に、新約聖書、特に使徒の働き以降の文脈において、「主」という称号が、基本的に誰を意味していたのかを確定する必要がありますが、その答えは明らかに「イエス・キリスト」となるのです。

ここでなぜ、ものみの塔が、237にも上る箇所で、「主」を「エホバ」に置き換えなければならなかったのかを振り返る必要がありますが、その最大の理由は、彼らが「この箇所には、神の御名エホバが来るべきだ」と考えたからです。つまり、その聖句に充てられた「主」という称号に、神的な地位が適用されていたために、「イエスは神ではない」と理解するものみの塔は、そこを「エホバ」とせざるを得なかったわけです。

しかし、既に確認した通り、原文では「主」となっており、文脈上、「主」はイエス・キリストを意味するので、協会が「エホバ」だと考えている箇所は、実際にはイエス・キリストを意味しているのです。

このような理由から、イエス・キリストは、旧約時代において、エホバが「主権者なる主」と呼ばれていたのと同じような意味で「主」と呼ばれるべき存在なのです。そしてこの事実は、先入観を除いて、「エホバへの置き換え」がなされていない普通の聖書を読めば、自ずと理解できることなのです。

以上が、イエスの「主」という称号について、筆者がこれまでの探求を通して気づいてきた事柄の要約です。

それではここからは、一連の説明の根拠を証明するために、以下の4つのポイントについて、より具体的な解説へと進んでいきたいと思います。

  1. 聖書の中で「主」はどのように用いられてきたか?
  2. 新約聖書の「主」を「エホバ」に置き換えるべきなのか?
  3. 新約聖書において「主」は基本的にイエスを表す
  4. キリストはどのような意味で「主」なのか

「主」はどのように用いられてきたか

重要な信仰告白

「その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。」(ローマ10:9)

この聖句が示す通り、「イエスは主である!」という信仰告白は、一世紀のクリスチャンにとって重要なものでした。ですから、イエスがどんな意味で「主」と呼ばれていたのかを正しく理解することは、全時代のクリスチャンにとって不可欠なテーマです。

聖書の中で、「主」という表現が用いられる場合、唯一の神を表す時もあれば、王や主人を指す場合もあります。ですから、「主」という称号が誰に対して用いられているのか、その文脈を考慮して、「主」の意味を考察する必要があります。

旧約時代

旧約聖書の時代において、神に対する主という称号で最も多いのが、「主権者なる主エホバ」(新世界訳)という表現です。(新改訳では、「主なる神」)

「それに対しアブラムは言った,『主権者なる主エホバよ,わたしに何をお与えくださるのでしょうか。わたしは子供のないままでおり,わたしの家を所有することになるのはダマスカスの人エリエゼルなのです』」(創世記 15:2)

「そこでダビデ王は入って,エホバの前に座って言った,『主権者なる主エホバよ,私は何者なのでしょう。また,私の家は何でしょう。あなたがここまで私を導かれるとは。』」(サムエル第ニ7:12)

また、王や、夫、御使いたちに対しても、「主」という称号が用いられる時がありました。

「そのためサラは自分のうちで笑いだしてこう言った。『すっかり衰えた後のわたしに果たして楽しみがあるでしょうか。それに,わたしの主も年老いていますのに』」(創世記 18:12)

「それで,ダビデはその後,立ち上がり,洞くつから出て行き,サウルの後ろから呼ばわって,『我が主なる王よ!』と言った。そこでサウルが後ろを見ると,ダビデは地に顔を伏せて身を低くかがめて平伏した。」(サムエル第一24:8)

新約時代

歴史的な背景として、紀元一世紀になる前から、ユダヤ人は神の御名を口にすることを恐れるようになったため、代わりに、神に対して「アドナイ」(「我が主」という意味)と呼びかけるようになっていました。ですから、新約時代のユダヤ人にとって、「主」(アドナイ)は、神を表す称号として定着していたのです。

そして、新約聖書を確認していくと、実際に、モーセの律法が機能していた福音書の時代には、父なる神に対して、しばしば「主」という称号が用いられています。

「その時,イエスはこたえ応じて言われた,『天地の主なる父よ,わたしはあなたを公に賛美します。あなたはこれらのことを賢くて知能のたけた者たちから隠し,それをみどりごたちに啓示されたからです。』」(マタイ11:25)

※他にもたくさんありますが、新世界訳聖書の場合は、他の事例をことごとく「エホバ」に置き換えてしまっていますので、ここでは上記の聖句のみをご紹介いたします。

しかし、使徒の働き以降になると、「主」はほとんどの場合、キリストを表して用いられるようになっています。(この点は、追ってもう少し詳しく解説します。)

「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストからの過分のご親切と平和があなた方にありますように。」(ローマ1:7)

さて、新世界訳に慣れ親しんできたエホバの証人が、イエスがどのような意味で主と呼ばれてきたのかを正しく理解していくためには、幾つかの重要なステップを踏まなければなりません。最初の鍵となるのは、新世界訳の新約聖書部分における「エホバ」の置き換え問題です。

「主」を「エホバ」に置き換えるべきなのか

新約聖書における「エホバ」への置き換え問題と、神の御名に関わるテーマについては、当サイトの別の記事「神の御名「エホバ」を用いるべきですか?」にて詳しく取り上げているので、ここでは詳細を省き、ざっと要点のみを説明します。

まずこの問題について、ものみの塔が出版物を通して主張している内容を要約すると、次のようになります。

【1】一世紀のユダヤ人及びクリスチャンは、次の二つの理由により、「エホバの御名」を発音し、用いたと考えられる。(1)七十人訳において神の御名を用いた写本が発見されている。(2)死海写本には、神の御名が表記されている。

【2】現存するギリシア語の写本には、神の御名を含んでいるものは無いが、それは2~3世紀の背教したキリスト教徒が改ざんしたのであって、実際の新約聖書の原典には、エホバの御名が含まれていたはずである。

まず、一番目の点についてですが、ミシュナー等のユダヤ教の伝承によれば、当時のユダヤ人が、既に神の御名を発音しなくなっていた事は明らかになっています。また、その主張の根拠として挙げられる七十人訳や死海写本はどれも、旧約聖書であり、本テーマの焦点である新約聖書では無いのです。

次に二番目の点についてですが、ものみの塔の主張の最大の問題点は、現存する数千に上るギリシア語の写本の中で、実際に神の御名「エホバ」を含むものが存在しないという事実です。さらに、写本の比較研究を行う専門家たちは、現代の新約聖書の翻訳に用いられているギリシア語のテキストが、99.9%程度のレベルで原典の内容を回復させていると一貫して述べており、未だ「神の御名の改ざん」という重大な問題が残されている可能性は考慮されていないのです。

ですから、2~3世紀のキリスト教徒が神の御名を除く改ざんを行った、というものみの塔の主張は、写本による証拠や根拠が無いばかりか、現代の著名な聖書学者たちの考えに真っ向から反対するものであり、加えて、聖書の信頼性そのものを攻撃するものなのです。

ですから、新世界訳聖書に親しんできたエホバの証人は、その聖書の新約部分で「エホバ」と表記されている箇所が、原文では「主」となっていた事を踏まえ、聖書を読み直す必要があります。そして、読み直す際は、原文の通りに「主」と訳出している新世界訳以外の聖書を読み、それらの「主」が文脈上誰を表しているのかを確認していくことをお勧めします。

新約聖書において「主」は基本的にイエスを表す

旧約聖書の時代においては、父なる神が、多くの箇所で「主権者なる主エホバ」(「主なる神」新改訳)として登場します。しかし、新約聖書の時代になると、父なる神に対して「主」という称号が用いられることはとても少なくなり、その代わりに、イエス・キリストに対して「主」という称号が用いられるようになっています。この点は、ほとんどのエホバの証人が気づいていないとても重要な事実です。

まず、使徒2章において、父なる神ご自身が、復活したイエスを、「主」とされた、とあります。

「ですから,イスラエルの全家は,神がこの方を,あなた方が杭につけたこのイエスを,主とも,キリストともされたことをはっきりと知ってください」(使徒2:36)

パウロ書簡の多くでは、冒頭で「父なる神と主イエス・キリストからの」という言い回しが用いられており、「主」という称号が、父なる神ではなく、イエス・キリストに対して用いられるようになっています。また、パウロ書簡だけでなく、他の使徒たちの書簡においても、それと同様の表現が一貫して用いられています。

「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストからの過分のご親切と平和があなた方にありますように。」(ローマ1:7)

「2 コリントにある神の会衆,キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ,聖なる者となるために召されたあなた方,ならびに,いたるところでわたしたちの主イエス・キリスト,すなわちその主でありわたしたちの[主]である方の名を呼び求めているすべての人たちへ:」(コリント第一1:2)

「イエス・キリストの奴隷また使徒であるシモン・ペテロから,わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義により,わたしたちと同じ特権としての信仰を得ている人々へ:2 過分のご親切と平和が,神およびわたしたちの主イエスについての正確な知識によってあなた方に増し加えられますように」(ペテロ第二1:1~2)

「神および主イエス・キリストの奴隷ヤコブから,各地に散っている十二部族へ:あいさつを送ります。」(ヤコブ1:1)

ユダの手紙では、イエス・キリストは「唯一の主」とまで言われています。

「その理由は,聖書によりずっと以前からこの裁きに定められていたある人々が忍び込み,[その]不敬虔な者たちが,わたしたちの神の過分のご親切をみだらな行ないの口実に変え,わたしたちの唯一の所有者また主であるイエス・キリストに不実な者となっているからです。(ユダ4節)

これらの聖句から、はっきりとわかることは、新約時代において、超越的な存在に対して「主」という称号が用いられている場合、それは基本的に「父なる神」ではなく、「イエス・キリスト」を表している、ということです。

しかしそれは、父なる神が「唯一の主」では無くなった、という意味ではなく、「唯一の主」という神だけが持つ称号を、み子イエスと共有するようになった、という事なのです。父と子とは一つだからです。(ヨハネ10:33)だからこそ、ユダの手紙では、イエスに対しても「唯一の主」という称号が用いられているのです。

そして、父なる神は、復活したイエスに天と地の全ての権威を与えることにより、旧約時代にご自身が座していた「主の主」という地位にみ子を引き上げ、その全権を委ねられたのです。ですから、旧約時代に父なる神が「主の主」として働いておられたのと同じように、新約時代においては、イエス・キリストが「主の主」として働いておられるのです。

「すると,イエスは近づいて来て,彼らにこう話された。『わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。』」(マタイ28:18)

「しかし[イエス]は彼らにこう答えられた。『わたしの父はずっと今まで働いてこられました。ですからわたしも働きつづけるのです』。18 まさにこれがもとで,ユダヤ人たちはいよいよ彼を殺そうとするようになった。彼が安息日を破っているだけでなく,神を自分の父と呼んで,自分を神に等しい者としているという理由であった。」(ヨハネ4:17~19)

「まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,[他の]あらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです。10 それは,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名によってかがみ,11 すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰するためでした。」(フィリピ2:9~11)

こうして、新約聖書の文脈では、「主」とは基本的にイエスの称号として用いられるようになったわけですが、その事を理解した上で、ものみの塔以外の出版による通常の聖書を読み進めていくと、メシアであるイエスに、神的な地位が与えられていることが明らかになっていきます。

しかし、ものみの塔としては、キリストの神性を否定したかったために、キリストの神性を匂わす「主」という表現を、ことごとく「エホバ」に置き換え、キリストでは無いものとしてしまったのです。

では、一連の考察を踏まえ、新約聖書に記された「主」という表現を、文脈に沿って「イエスを表す称号」として見た場合、キリストの実体について、どんな真実が浮かび上がってくるのか、順を追って確認していきたいと思います。

キリストはどのような意味で「主」なのか

旧約と新約の主の称号の比較

まずは、旧約時代の「主なる神」と、新約聖書の時代の「主イエス」を比較しながら、イエスがどのような意味で「主」と呼ばれるようになったのかを確認していきます。なお、引用は全て新世界訳となるため、「エホバ」という表現が多く登場しますが、原文では全て「主」となっているので、その事を踏まえた上で、確認を進めて下さい。

主の中の主

「あなた方の神エホバは神の神,主の主,偉大で力強く,畏怖の念を抱かせる神であり,だれに対しても不公平な扱いをせず,まいないを受け取ることもされず,」(申命記10:17)

「これらの者は子羊と戦うであろう。しかし子羊は,主の主,王の王であるので,彼らを征服する。また,召され,選ばれた忠実な者たちも彼と共に[征服する]」(啓示17:14)

旧約時代のエホバ神は、「主の主」と呼ばれていましたが、新約時代の子羊イエスにも、「主の主」という同じ称号が適用されています。

創造主なる神

「24 わたしは言いはじめました,「わたしの神よ,わたしの日の半ばにわたしを取り去らないでください。あなたの年はすべての代に及びます。25 あなたは昔,この地の基を据えられました。天はあなたのみ手の業です。26 それらのものは滅びうせますが,あなたご自身は立ちつづけます。それは衣のようにみな古びてしまいます。」(詩篇102:24~26)

「しかしみ子についてはこうです。・・・『主よ,あなたは初めにこの地の基を据えられました。天はあなたのみ手の業です。』」(ヘブライ1:8~10)

旧約時代において、創造主なる神に対して語られた賛美が、新約時代には、み子イエスに対して適用されています。ものみの塔は、この聖句がイエスの神性を肯定するものではないと解釈し、「なぜなら、エホバがみ子を用いて世界を創造されたからです」と説明しています。

しかし、冷静にこれらの聖句を読んでいくと、詩篇作者は、神では無い存在ではなく、「創造主なる神」を賛美しているので、その賛美がみ子に適用されている時点で、イエスが創造主である事は否定できないはずです。

救いのために呼び求める主

「26 そして,セツにも男の子が生まれて,彼はその名をエノシュと呼んだ。そのときエホバの名を呼び求めることが始まった。」(創世記4:26)

「しかし,エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れることになる。」(ヨエル2:32)

セツの息子のエノシュが生まれた時期から、救いのために「エホバの名」を呼び求めることが始まり、その流れは、旧約時代全体を通して続いていきました。

「その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。」(ローマ10:9)

「ユダヤ人とギリシャ人の間に差別はないからです。すべての者の上に同じ主がおられ,この方はご自分を呼び求めるすべての者に対して豊かなのです。13 「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」のです。」(ローマ10:12~13)

「2 コリントにある神の会衆,キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ,聖なる者となるために召されたあなた方,ならびに,いたるところでわたしたちの主イエス・キリスト,すなわちその主でありわたしたちの[主]である方の名を呼び求めているすべての人たちへ:」(コリント第一1:2)

しかし、新約時代になり、イエスが主とされ始めると、「エホバの御名を呼び求める時代」から、「イエスのみ名を呼び求める時代」へと進展していった事がわかります。

救い主(救いの主)

旧約時代においては、エホバだけが「唯一の救い主」であることが明白に啓示されていました。

「あなた方は報告し,提出せよ。そうだ,彼らは一緒に協議するがよい。だれがこれを昔から聞かせたか。[だれが]まさにその時からこれを報告したか。それはわたし,エホバではないか。[わたし]を別にしてほかに神はいない。義なる神,救い主はわたしを別にしてはいない。」(イザヤ45:21)

「そして,あなたは実際に諸国民の乳を吸い,王たちの乳房を吸うのである。あなたは必ず,わたし,エホバがあなたの救い主であり,ヤコブの強力な者があなたを買い戻す者であることを知るであろう。」(イザヤ60:16)

しかし、新約時代になると、エホバだけに適用されるべき「救い主」という称号が、キリストに対して適用されています。

「しかしわたしたちについて言えば,わたしたちの市民権は天にあり,わたしたちはまた,そこから救い主,主イエス・キリスト[が来られるの]を切に待っています。」(ピリピ3:20)

「3 [神]はご自身の定めの時に,宣べ伝える業によってみ言葉を明らかにされました。わたしは,わたしたちの救い主なる神の命令のもとに,その[業]を託されたのです ― 4 共にあずかる信仰によって真実の子であるテトスへ:父なる神とわたしたちの救い主キリスト・イエスから,過分のご親切と平和がありますように。」(テトス1:3~4)

全ての者がひざをかがめる主

「地の果て[にいる]すべての者よ,わたしの方を向き,救われよ。わたしは神であり,ほかにはいない。23 わたしは自分自身にかけて誓った ― わたしの口から,義のうちに言葉が出て行った。それゆえに,それは帰って来ない。―すなわち,すべてのひざはわたしに向かってかがみ,すべての舌は誓って,24 言うであろう,」(イザヤ45:22~24)

「まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,[他の]あらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです。10 それは,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名によってかがみ,11 すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰するためでした。」(ピリピ1:9~10)

旧約時代において、エホバは「すべてのひざはわたしに向かってかがみ」と言いましたが、新約時代には、全ての者がひざをかがめるべきお方は、「イエス・キリスト」へと更新されています。

神の言葉=主の言葉

使徒の働きでは、「神の言葉」と「主の言葉」が、丁度10回ずつ、全く同じ意味で用いられています。もちろん、新約時代の文脈において、「主」は基本的にイエスを表しているので、「主の言葉」と書かれている場合、それは「主イエスの言葉」という意味となります。

つまり、「神の言葉」と「主イエスの言葉」という双方の表現が、全く同列に扱われているのです。当然のことながら、この事実はものみの塔の教えにとって都合が悪いので、新世界訳聖書では全て「エホバの言葉」に置き換えられてしまっています。以下に、幾つかの事例をご紹介します。

エルサレム周辺で

「その結果,神の言葉は盛んになり,弟子の数はエルサレムにおいて大いに殖えつづけた。そして,非常に大勢の祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るようになった。」(使徒6:7)

「しかしエホバの言葉は盛んになり,広まっていった。」(使徒12:24)

サマリアで

「サマリアが神の言葉を受け入れたことを聞くと,エルサレムにいる使徒たちはペテロとヨハネを彼らのもとに派遣した。」(使徒8:14)

「こうして,徹底的に証しをしてエホバの言葉を語ってから,彼らはエルサレムに引き返したが,サマリア人の多くの村に良いたよりを宣明していった。」(使徒8:25)

異邦人の地で

「こうして,これらの人は聖霊に送り出されてセレウキアに下り,そこからキプロスに向けて出帆した。5 そしてサラミスに着くと,彼らはユダヤ人の諸会堂で神の言葉を広めはじめた。彼らは付き添いとしてヨハネも連れていた。」(使徒13:4)

「次の安息日には,ほとんど全市[の人々]がエホバの言葉を聞きに集まった。」(使徒13:44)

聖霊 = 主(キリスト)の霊

新約聖書には、「聖霊・神の霊」を「主の霊」と表現している箇所が複数あります。ここでも、「主」とはキリストを表すので、「主の霊」とは、「主イエスの霊」という意味であることがわかります。その事実をはっきりと示すのが、以下の聖句です。(訳文の比較のため、新改訳2017も引用します)

「彼らは,自分のうちにある霊が,キリストに臨む苦しみとそれに続く栄光についてあらかじめ証しをしていた時,それがキリストに関して特にどの時期あるいはどんな[時節]を示しているかを絶えず調べました。」(ペテロ第一 1:11、新世界訳)

「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。」(第一ペテロ1:11、新改訳2017)

新改訳2017の方を確認すると、ペテロは明白に、聖霊のことを「キリストの霊」と呼んでいます。つまり、「主の霊」(キリストの霊)とは、聖霊の呼び名の一つなのです。この事実が、キリストの神性を否定するものみの塔にとって都合が悪いので、上記の新世界訳の聖句では、「キリスト」の削除、というあからさまな改ざんがなされるまでに至っています。

ですから、以下の聖句で、「エホバの霊」と訳されている全ての箇所は、「主イエスの霊」という意味なのです。このように、新約時代における「主イエスの名」は、神と同列に扱われるようになっているのです。

「そこでペテロは彼女に[言った],「あなた方[二人]が示し合わせてエホバの霊を試すとはどうしたことですか。見よ,あなたの夫を葬った者たちの足が戸口にありますが,彼らはあなたを運び出すでしょう」(使徒5:9)

「彼らが水から上がって来ると,エホバの霊がフィリポを急いで連れ去り,宦官はもう彼を見なかったが,歓びながら自分の道を進んで行った。」(使徒8:39)

「さて,エホバは霊です。そしてエホバの霊のある所には自由があります。18 そして,わたしたちすべては,ベールをしていない顔で,エホバの栄光を鏡のように反映させながら,霊なるエホバのなさるそのとおりに,栄光から栄光へと,同じ像に造り変えられてゆくのです。」(コリント第二3:17~18)

神のみ使い=主イエスのみ使い

使徒の働きを確認していくと、み使いたちを表す表現として、「神のみ使い」が二箇所、「主のみ使い」が四箇所あります。ここでも、使徒の働きの文脈で、「主」とは「主イエス」を表しているので、神と主イエスが同列に置かれていることがわかります。

「その日のちょうど第九時ごろ,彼は幻の中で,神のみ使いが自分のところに入って来て,『コルネリオ!』と言うのをはっきり見た。」(使徒10:3)

「というのは,この夜,わたしが属し,わたしが神聖な奉仕をささげている神のみ使いがわたしの近くに立ち,」(使徒27:23)

「しかし,夜中にエホバのみ使いが獄の戸を開き,彼らを連れ出して,こう言った。」(使徒5:19)

「7 しかし,見よ,エホバのみ使いがそばに立ち,光が獄房内を照らした。彼はペテロの脇腹をたたいて起こし,『早く立ちなさい!』と言った。すると,鎖は彼の両手から落ちた。」(使徒12:7)

ものみの塔は、イエスをみ使いの頭だと教えているので、ここでは「エホバ」とせざるを得なかったのでしょう。しかし、新約時代において、主イエスには、み使いたちを奉仕のために遣わす権限と役割があるのです。

その他:キリストの地位を格下げする改ざん

新世界訳を読んでいくと、他にも、主イエスの本来の役割を失わせ、唯一の主であるイエスの地位を格下げしている箇所を多く見つけることができます。

主イエスは人を救いへ導く

「神を賛美し,民のすべてから好意を受けた。同時にエホバは,救われてゆく者たちを日ごとに彼らに加えてゆかれた。」(使徒2:47)

新約時代において、救われてゆく者たちを導くのは、主イエスです。しかし、ものみの塔にとっては、救いへ導くのが「主イエス」であってはならないようです。

主は、罪を取り除く権限を持つ

「しかし彼は聖霊に満ち,天を見つめて,神の栄光およびイエスが神の右に立っておられるのを目にし,56 こう言った。「ご覧なさい,天が開けて,人の子が神の右に立っているのが見えます」。・・・そして,訴えながら,「主イエスよ,わたしの霊をお受けください」と言うステファノに向かって,彼らは石を投げつづけた。60 それから彼はひざをかがめ,強い声で,「エホバよ,この罪を彼らに負わせないでください」と叫んだ。そして,そう言ってから,[死の]眠りについた。」(使徒7:55~60)

ステファノは、神の右に立っておられる主イエスを見て、「主イエスよ、」と語りかけています。ですから、その流れからすると、「この罪を彼らに負わせないでください」と叫んだときも、語りかけた対象は主イエスだったはずです。

ものみの塔は、イエスに罪を取り除く権限があることを認めたくないでしょうか?

主に祈願することができる

「それゆえ,あなたのこの悪を悔い改め,できることならあなたの心のたくらみが許されるようにとエホバに祈願しなさい。23 わたしは,あなたが有毒な胆汁,また不義のほだしであることが分かるのです」。24 それに答えてシモンは言った,「あなた方の言ったことが何もわたしの身に起こらないよう,皆さん,わたしのためにエホバに祈願をしてください」(使徒8:22~24)

ここでペテロは、魔術師のシモンに対して、「主に祈願しなさい」と勧めています。つまり、主イエスを祈りの対象とすることが可能であることが示されています*[2]。当然のことながら、ものみの塔はイエスへの祈りを否定したいので、この箇所を「エホバ」と書き換えてしまいました。

私たちは主に対して生きる

「8 わたしたちは,生きるならエホバに対して生き,死ぬならエホバに対して死ぬからです。それゆえ,生きるにしても死ぬにしても,わたしたちはエホバのものです。9 死んだ者にも生きている者にも主となること,このためにキリストは死に,そして生き返ったからです。」(ローマ14:8~9)

この聖句では、原文の「主」を「エホバ」に書き換えることによって、ものすごく文章の意味がおかしくなっていることがわかるでしょうか?以下に、この聖句の意味をわかりやすく要約しつつ、主を「エホバ」に置き換えた場合と、そうでない場合とを比較してみます。

(1)「私たちが、生きるならエホバに対して生き、死ぬならエホバに対して死ぬ理由とは、死んだ者にも生きている者にも主となるために、キリストが死んでよみがえったからです。」

(2)「私たちが、生きるなら主に対して生き、死ぬなら主に対して死ぬ理由とは、死んだ者にも生きている者にも主となるために、キリストが死んでよみがえったからです。」

一番目のものみの塔の訳だと、前半はエホバについて述べ、後半からいきなりキリストに焦点が変わっていますので、文章の意味がつながっていません。しかし、二番目のように「エホバ」とされた箇所を「主」と正しく表記すると、意味が自然になり、主がイエスを表していることが一目瞭然でわかります。

主は時間を超越し、永遠性を持つお方である

まず、ペテロ第ニの手紙の冒頭は次のようになっており、イエスが「主」だと定義されています。

「イエス・キリストの奴隷また使徒であるシモン・ペテロから,わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義により,わたしたちと同じ特権としての信仰を得ている人々へ: 2 過分のご親切と平和が,神およびわたしたちの主イエスについての正確な知識によってあなた方に増し加えられますように」

ですから、以下で「エホバ」に置き換えられている部分は、全て「主イエス」を表しています。

「8 しかし,愛する者たちよ,この一事を見過ごしてはなりません。エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようであるということです。9 エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。10 しかし,エホバの日は盗人のように来ます。そのとき天は鋭い音とともに過ぎ去り,諸要素は極度に熱して溶解し,地とその中の業とはあらわにされるでしょう。」(ペテロ第二3:8~10)

「一日は千年のよう・・」は、主イエスが時間を超越した神性を持つお方であることを表しており、10節の「主の日は盗人のように」は、旧約聖書で何度も預言されてきた「エホバの日」と、「主イエスの日」をペテロが重ね合わせたものなので、やはり主の神性を表しています。

こうして、ものみの塔は、主イエスに適用された神性表現を、ことごとく「エホバ」に置き換えることにより、イエスの実体に覆いをかけてしまっているのです。

他にも、「エホバへの置き換え」により、キリストの地位を格下げしている箇所は多数に上りますが、本テーマに関心のある読者に方は、ぜひご自身でも、新世界訳聖書に目を通しながら、その点の確認をしてみてください。

「置き換え」を正当化するための参照資料

22種類の参照資料

なお、ものみの塔は、新約聖書の「主」を「エホバ」に置き換えたことの正当性を補足するために、同じような訳出をしている他の22種類の聖書をリストアップしていますが、それらの詳細は、『参照資料付聖書』9~10頁に、「エ」という表記にて説明されています。

しかし、それらの資料の一つ一つを実際に確認していくと、補足資料として用いるには、かなりの問題があることがわかります。この点についての詳しい解説は、「中澤啓介『「エホバ」という神のみ名について考える』、第二章『エホバはどのようにして復元されたのか』」にてなされているので、本記事では割愛しますが、次の点は、ぜひ抑えておきたい要点として説明します。

キリストを主として神聖なものとし・・

「むしろ,あなた方の心の中でキリストを主として神聖なものとし,だれでもあなた方のうちにある希望の理由を問う人に対し,その前で弁明できるよう常に備えをしていなさい。しかし温和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい。」(ペテロ第一 3:15)

ここで、「キリストを主として」と訳されている箇所の参照資料を確認すると、合わせて8つの資料(エ7,8,11‐14,16,17,24)において、「エホバ神を」と訳されていることがわかります。つまり、補足資料の3分の1以上に上るこれら8つの資料は、イエスを「エホバ神」と理解する前提で、新約聖書の「主」を「エホバ」と訳しているのです。

しかし、ものみの塔が、「主」を「エホバ」に置き換える理由は、エホバとイエスが別の存在であることを主張するためです。ということは「エホバへの置き換え」という同じ訳出をするとしても、その訳出の理由が、これら8つの資料では全く正反対なのです。

ですから、エホバとイエスが別の存在であることを主張する翻訳を正当化する上で、これら8つの資料を用いることは、全く不適切なのです。

ものみの塔独自の置き換えが非常に多い

筆者が気づいた二つ目の重大な問題は、237箇所の置き換え箇所の内、ものみの塔独自の解釈によって置き換えられた箇所が、実際には非常に多い、ということです。この点は、新約聖書の中で「エホバ」と表記されている箇所に、参照資料が載せられているかどうかで簡単にわかります。

今回試しに、78の置き換え箇所を含む「使徒の働き」の中で、ものみの塔が独自に置き換えた箇所がどれくらいに上るかを計算してみました。(78は、237の置き換え箇所の約3分の1を占めます。)

すると、参照資料が載せられた箇所は、わずか14箇所であり、全体のわずか18%であることがわかります。さらに、これらの14箇所の内、イエスをエホバ神と解釈する聖書の参照を含むものは、10箇所にも上ります。

ですから、実際に参照資料を挙げるのに全く適切だと思われる聖句は、78箇所中、わずか4箇所であり、全体のわずか5%です*[3]

このように見ていくと、ものみの塔による新約聖書の「エホバのへの置き換え」について、その正当性を補足できる聖句も、それを支持する資料も、実際にはかなり少ないことがわかります。

なお、今回の記事で紹介した、キリストの神性を示す多くの「主」の称号については、ほとんどの場合、参照資料の掲載はなく、ものみの塔が独自の解釈で「エホバ」に置き換えたことが明らかになっています。

結論

本テーマの研究を通して、筆者が気づいてきた事は、新約時代においてイエスに適用された「主」という称号には、キリストの神性が非常にはっきりと啓示されている、ということです。ですから、キリストが神であることを否定したいものみの塔協会が、主をことごとくエホバに置き換えたのは必然的なことなのです。

しかし、そのような置き換えと独自の聖書の発行を通して、ものみの塔協会は、決して踏み入れてはならない一歩を踏み出している、と筆者は感じます。なぜなら、新約時代の神の命令が、「エホバの証人」ではなく、「キリストの証人」となることである以上、キリストの真の姿を宣べ伝えることは、クリスチャンにとって極めて重要な責務となっているからです。

最後に、筆者のこれまでの信仰生活を通して実感してきたことは、聖霊によって「イエスは主である!」と告白するためには、キリストが唯一の主であるという信仰を持つ必要があるということです。実際に、これまでに複数のエホバの証人に、「イエスは主です」と告白できますか?と聞いてきましたが、その告白を心からその場で言える人は誰もいませんでした。

本記事を通して、たくさんのエホバの証人が、主イエス・キリストの本当の姿を知り、聖霊により、心から「イエスは主です!」と公に宣言できるようになることを願っています。

※三位一体については、以下の記事も合わせてお勧めいたします。
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三位一体は聖書の教えですか① キリストの神性・聖霊の人格性・一体性について
三位一体は聖書の教えですか② イエス・キリストの神性について
三位一体は聖書の教えですか③ 神の一体性と複数性について
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脚注

[1] プロテスタント諸教会の中で、「告白」そのものが救いの条件となるのか、という議論がありますが、どちらにしても、真の信仰を持つ人は、必ず「イエスは主です」という明瞭な告白へと導かれます。

[2] プロテスタントの中でも、ここでの「主」はイエスではなく、「父なる神」だと理解する立場もあります。筆者から見て、この箇所を「主イエスへの祈願」と見ることは十分に可能ですが、そうでない立場の方も考えも尊重します。

[3] 該当の聖句によって、どの資料がどの程度参照されているのかはバラバラなので、どの聖句が、参照する上でどの程度適切なのかは、人によって解釈が分かれるところでしょう。いづれにしても、はっきりと言えることは、ものみの塔協会が独自に「エホバ」に置き換えている箇所の方が、圧倒的に多い、ということです。


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