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エホバの証人の集会レポート:久々の集会で意味深な注解をした管理人の感想 – エホバの証人への福音

エホバの証人の集会レポート:久々の集会で意味深な注解をした管理人の感想

エホバの証人の集会レポート:久々の集会で意味深な注解をした管理人の感想

先日、かなり久しぶりに、エホバの証人の集会に出てみた。行った先は、数年前に属していたD会衆だ。会衆の雰囲気はとても良かったし、長老兄弟もとても立派な人格者が多かったので、私としては、良い思い出と感謝しかない。

そして、だからこそ、その感謝を表すために、私にできる最大のことを果たすために、私はその会衆へ足を運んだ。私が、どのように、組織の教理に疑問を持ち、どんなことを発見したのか、その一部始終をまとめたレポートを、お世話になった長老兄弟数名に渡すためだ。

色々な身の回りの状況があったので、前の会衆の方々にこれをやるのは、ずっと差し控えていた。しかし、今はもう時は満ちたので、実行に移すことにした。

集会に行くまで

D会衆が集会をやる王国会館は、急行が停まる駅ではないのだが、電車で向かうのは初めてだったので、私は珍しく、二回も乗る電車を間違えた。各駅停車に乗る必要のあるところを、間違えて二度も急行に乗り、行ったり来たりした。

駅についてからも、タクシーが来るまでの待ち時間があり、徒歩数十分の道のりを歩いていくのか、このままタクシーを待つべきか悩んだが、「〇〇分までにタクシーが来なければ、私は歩いていきます」と祈ったら、その時間までにタクシーが来たので、私はそれに乗って向かった。

タクシーに乗ると、運ちゃんに伝道するのが常である。

「タクシーの運転者をやっていると、腰とか悪くすることは無いですか?」

こんな感じの会話から、私は、キリストによる病の癒やしの経験談を語りだした。

「実は僕は、ボランティアで、色々な病の治療をしたりするんです。腰とか、白内障とか、強迫性障害とか、色々な病が癒やされています。」

最初から「キリスト」とは言わないことも多い。多くの日本人は懐疑的になるからだ。しかし、運転者さんは、びっくりして聞き入っており、「本当ですか?!すごいです。友達になりたいです」という感じだった。

正直、病の癒やしの証をして、ここまで興味を持ってくれた人は初めてだ。別れ際に、TRUE ARKの紹介カードを渡し、祈りが必要な時があれば、いつでも連絡をください、と伝えた。そして、神が私達を愛している、ということを知ってほしい、と伝えた。

電車を何度も間違えて、集会には大遅刻したが、きっと、この人に伝道をするために、神は私が遅刻するようにしたのでは、と思えてきた。

エホバの証人は、現代に神がいやしの奇跡を行うことを一切否定している。私は、(彼らから見て)背教的な伝道をし終えた後、王国会館の近くでタクシーを降り、エホバの証人のふりをしながら、集会へ足を運んでいった。

集会で感じた違和感

とても、懐かしい雰囲気だった。数年ぶりとはいえ、当時の仲間達の多くが、変わらずここに来ており、活発な注解をしていた。注解を聞きながら、過去に交わりをした時のこととか、一緒に伝道をした時のことを思い出した。

かつて、エホバの証人の活動から離れた後、キリスト教の教会に行きだしてから、真っ先に感じた違和感の一つとして、「エホバ」の名が用いられない、ということがあった。教会では、いつも「主イエス」が賛美され、礼拝されているので、「エホバ」を常に崇拝してきた私としては、違和感があったのだ。

しかし、それから数年の月日が経ち、久々にエホバの証人の集会に出た時に、私は全く逆の違和感を感じた。彼らの信仰の中心にいるのは、常に「エホバ」であり、「イエス」ではないのだ。彼らにとって、イエスはあくまで「救いの主要な代理者」であって、「主」ではないのである。少なくとも、聖書が言う通りの主ではなく、彼らの心の中にいる存在では、決してないのである。私は、集会に参加しながら、その雰囲気を正確に理解した。

新約聖書を読むと、当時のクリスチャンたちが、常にイエスを主と崇め、主イエスの名を呼び求め、「イエスは主である」という告白を大切にしていたことが、はっきりとわかる。

しかし、ものみの塔協会は、新約聖書の中で、イエスが「主の中の主」として占めている聖句を、「エホバ」に置き換え、そしてエホバとイエスは別の存在だと教えてしまっている。このようにして、協会は、世界中の信者が、「イエスは主である」ということがわからないようにしてしまったのだ。

だから、エホバの証人が、「イエスは主である!」という救いに至る宣言を公にしないのは、また、普段の会話の中で、イエスを「主」と呼ばないのは、決して偶然ではないのだ。

意味深な注解をするよう導かれる

この日の会衆の書籍研究では、『イエス、道・真理・命』の80章が扱われた。その本文には、次のような箇所があった。

「羊”で​ある​イスラエル​人​は​モーセ​の​律法​契約​と​いう“羊​の​囲い”の​中​で​生ま​れ​まし​た。律法​は​柵​の​よう​に​なり,律法​契約​の​下​に​い​ない​人々​の​汚れ​た​慣行​から​イスラエル​人​を​保護​し​まし​た。しかし,彼ら​の​中​に​は​神​の​羊​の​群れ​を​優しく​扱わ​ない​人​たち​も​い​まし​た。それ​で​イエス​は​こう​言い​ます。「はっきり​言っ​て​おき​ます。羊​の​囲い​に,戸口​を​通っ​て​で​は​なく​ほか​の​所​を​乗り越え​て​入る​人​は,泥棒​や​強盗​です。一方,羊飼い​は​戸口​を​通っ​て​入り​ます」。(ヨハネ 10:1,2)」

注目すべきは、「イスラエル​人​は​モーセ​の​律法​契約​と​いう“羊​の​囲い”の​中​で​生ま​れ​まし​た」という部分だ。協会は、イエスが語られた「羊の囲い」が律法契約を意味していることを理解している。だとすると、普通に考えて、その囲いの中に属する小さな群れは、イスラエル人のことである。すると、イエスがその後の文脈で、この囲いのものではない「他の羊」と言われたのは、律法契約という囲いの中に存在しなかった「異邦人」のこととなる。

「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります。」(ヨハネ10:16)

このように、「囲い」が律法契約のことだと理解できれば、他の羊は、大群衆ではなく、異邦人のことであることが、簡単にわかる。

さて、この書籍研究の最後の質問は、次のようなものであった。

「イエス​に​付い​て​いく​2​つ​の​囲い​の​羊​に​は​違い​が​あり​ます。どんな​違い​です​か?」

書籍研究の本文では、「囲いとは律法契約のことである」とはっきり説明されている。だから、2つの囲いの羊の違いとは、律法契約の元にあったかどうか、つまりイスラエル人か、異邦人かの違いである。しかし、ものみの塔としては、ここで「天に行く144000人と地上で生きる大群衆です」と言わせたい。喉から手が出るほど真実を伝えたいが、あまりはっきり言い過ぎると、速攻で背教者扱いとなり、渡せるものも渡せなくなってしまう。

悩んだ末、わかる人にはわかるよう、表現を工夫した、意味深な感じにしようと思いだしたが、久しぶりに参加する集会の注解で、組織の誤りを公言しかねない意味深な注解をするのは勇気がいるものだ。

多少緊張したが、もし手を挙げて注解できれば、それはエホバのご意志。もしも指されなくて注解できなくても、それもエホバのご意志、と考え、手を挙げてみた。(私が「エホバ」という場合、それは三位一体の神を意味している。)

すると、司会者の兄弟は、多少躊躇しながらも、私を指してくれた。※躊躇したのは、久しぶり過ぎて、私の名前を忘れていたからだったっぽい。私は、次のように注解した。

「本文の内容では、羊の囲いとは、律法契約のことだとされています。ですから、2つの囲い羊の違いとは、その律法契約の中にいた人と、外にいた人の違いだと思いました。」

神の助けによって、出版物の内容を忠実に交えながら、さりげなく組織の教理の誤りに触れる、いい感じの注解になった感じがした。

そして、司会者の兄弟は、にっこりしながら、「はい、良いですね」と返答してくれた(笑)どうやら、その注解の意味に気づかなかったようである。

終わりは近いですね!

集会が終わると、私が久々に集会に来たことに気づいた兄弟姉妹たちは、次々と笑顔で話かけてきてれ、喜んで歓迎してくれた。どうやら、私が背教的な注解をしたことに、あまり気づかなかったようだ(笑)。

実は、その注解の話とは別に、私が外部で背教的な行動をしていることを、一部のエホバの証人は知っているので、その事がD会衆にも知られ、否定的な態度に出られることもある程度想定してはいた。しかし、幸いなことに、私が背教的な人間であることは、まだ感づかれていなかったようである。

すぐに話しかけてきてくれた姉妹が、目を丸くしながら、私に向かって放った第一声は、これであった。

「兄弟、終わりは近いですね!」

・・「出た!このフレーズ(笑)」と心の中で思った。まさに、エホバの証人との交わりでよく出現するキーワードである。ただ、彼らのほとんどは、エホバの証人が、ラッセルの時代から休むことなく「終わりが近い!」と言い続けてきたことを知らない。実に、150年くらい前から、ずっと、同じ切迫感を持って、そう言い続けてきているのだ。

ざっくり言うと、ものみの塔は、歴史的に偽予言を繰り返しながら「終わりが近い!だから犠牲を払って伝道しなさい」と信者を煽って拡大してきた宗教である。しかし、それらの予言や預言解釈は、いつでも神からのものではないので、それが実現しなかった時に、いつでも世界中の信者の心を疲弊させてきたのだ。

延期される期待は心を病ませる。しかし,望みのものが到来すると,それは命の木となる。」(箴言13:12)

ラブシャワー

「また、いつでも来てね!」
「また、引っ越してこっち来ちゃいなよ!」

集会後の交わりを通して、色々な暖かな言葉をいただいた。

私としても、前の会衆で共に時間を過ごした仲間たちを愛しているので、素直に交わりの時を持てて、嬉しかったし、楽しかった。

一方、こういうことがあるので、ものみの塔の誤りに気づきつつ、まだ未練があり、心がゆらゆら揺れ動いているような人には、集会に行くことをお勧めはしない。集会に行き、周りに優しくされた時に、情に流されてしまうからだ。

情に流されやすい傾向を持っている人は、少なくとも一定期間、エホバの証人の交わりから離れ、何が間違いであったかを見つめ直し、その誤りに確信を持てるようになってほしい。

私の親族も、かつて、揺れ動いている時期に、集会に出てしまい、「やっぱエホバの証人の方が正しい」と言い始めたことがあるのだ。

一番大事なのは、集会に来ている仲間たちが優しいかどうかでは無い。元々、エホバの証人の信者の人格に問題があるから、組織を離れた方が良いのではないからだ。組織を統括する統治体が、偽善者であり、神からの経路では無いため、組織を離れるべきなのである。

長老に手紙を渡す

この日は、アポ無しで突然行ったわけだが、長老兄弟に「渡すものがある」と言ったら、集会後に、わざわざ時間を取ってくれた。そして、第ニ会場で、私と、現役時代によくお世話になった長老兄弟二人を交え、少し話をした。

私のスタンスは、持ってきた資料の内容を元に、継続した話し合いをしたい、というものでは無かった。資料の内容は、追ってサイト上で公開するが、ものみの塔の偽善や間違いについて、自分の経験を交えながら、かなり突っ込んで明らかにするものだった。また、その資料は、自分が、イエスを主とする信仰によって、既に神の子供とされており、聖霊によって確信が与えられている、ということを告白するものであった。そして、イエスを信じるなら、144,000人だけでなく、誰でも神の子供とされることに気づいた、という内容も含まれていた。

だから、これを渡す時点で、私は、いつ背教者の認定を受けても構わない、という気持ちなのだ。

また、経験上、この手のテーマをやり取りしだすと、互いにかなりの労力を消費することを理解していたので、「もし時間があれば、これを読んでいただき、兄弟たちの側で私に何か助言されることがあれば、教えていただきたい」というスタンスであることを説明した。

渡した上で、背教者の認定をされようと、レスポンス無しで無視されようと、あるいは何かの助言をいただくことになろうと、全てを主イエスのご意志に委ねようと考えていたのだ。そして、私にとって最大の目的は、この明らかな証拠を見ていただき、兄弟たちの目が開かれ、彼らが本当に神との平和を持てるようになることだった。

後日、資料に目を通してみる、ということで話は片付き、その場は平和に終わった。合計、三部を印刷してきたが、話し合いの後、もうひとり、大変お世話になった長老兄弟にも渡すことができ、無事、渡すべき人に渡し終えることができた。

帰り際に

なんだかんだ、王国会館が閉まるギリギリまで残り、兄弟姉妹たちとの会話を楽しんだが、帰り際に駅まで送ると申し出てくださる兄弟が居て、感謝だった。現役時代は、あまり深い付き合いをした方では無かったが、私と再会できたことをとても喜んでくださった。

車で話をしていると、せっかくの機会だから、駅までではなく、何と家まで送ってくださるという言ってくれた。さすがに、駅までとは違い、20分くらいはさらにかかるので、最初は躊躇したが、伝道のチャンスを神が与えてくれたと理解し、その申し出をありがたく受けた。

あまり、突っ込んだ話はしなかったが、紀元一世紀の時代のクリスチャンが、主に呼び求めていたのは、エホバではなく、イエスだということに、最近気づいた、と幾つかの聖句を挙げながら、話してみた。

また、パウロがローマ10章で、救われるためには、「イエスは主である!」と告白する必要があると明白に語っている、と気づいた、という話もしてみた。そして、そのような告白をするようになってから、もっと神を身近に感じるようになり、「アバ、父よ!」といえるような感じを以前よりも持っている、という話もした。

どの話も、その兄弟にとっては、全く考えもしなかったことのようであった。それ以上、あまり深くは突っ込まなかったが、これらの点について、後で聖書を開いてじっくり考えてみるよう勧めた。携帯の連絡先も交換することができたので、御心であれば、兄弟の目が開かれて、再び会う機会を持てることを期待したい。

振り返ると、好意的なタクシーの運転者に伝道をすることができ、注解では意味深な注解ができ、お世話になった長老兄弟にわたすべきものを渡し、一人の兄弟に主イエスの名の重要性を証しすることができた。

全てを、御心のままに導いて下さった神に、そして私達の主イエスに、心からの感謝と賛美を捧げます。ハレルヤ!

 

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2件のフィードバック

  1. まさる より:

    いつも素晴らしい情報をありがとうございます。
    管理人さんの勇気ある行動に、とても励まされました。
    ハレルヤ!主をほめたたえます。

  2. Webmaster-GJW より:

    いつもご購読いただきありがとうございます。まさるさんの学びと歩みを主が祝福してくださいますように!ハレルヤ!

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