十四万四千人と大群衆③「囲いの羊」と「ほかの羊」とは誰のことですか?
エホバの証人の教えによれば、クリスチャンは「天的な希望を抱く十四万四千人」のグループと、「地的な希望を抱く大群衆」のグループに分かれるわけですが、この大群衆を表す他の呼び名としてよく用いられるのが、「ほかの羊」です。
ヨハネ10章を読むと、イエスが「囲いの羊」と「ほかの羊」に言及される場面がありますが、ここでの「囲いの羊」と「ほかの羊」が、啓示(黙示録)7章における「十四万四千人」「大群衆」に対応していると教えられているわけです。
今回の記事では、「囲いの羊」と「他の羊」の正しい定義を聖書から明らかにし、ものみの塔がこの点をどのようにややこしくしてしまったのかを示していきたいと思います。
「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります。」(ヨハネ10:16)
※本記事は2019年に執筆したものですが、この度よりわかりやすい内容に更新しました。(2026年2月)
「囲いの羊」と「ほかの羊」―ヨハネ10章の文脈を理解する
まずは、該当の聖書箇所を一通り確認しながら、文脈を考慮し、本テーマに関係のある要点を抑えていきたいと思います。というのは、流れを正確につかむことによって、囲いの羊と他の羊の正確な定義を理解していくことができるからです。
「『きわめて真実にあなた方に言いますが,羊の囲いに戸口を通って入らず,どこかほかの場所からよじ登る者,その者は盗人であり,強奪者です。2 しかし,戸口を通って入る者は羊の羊飼いです。3 戸口番はこの者に対して[戸を]開け,羊はその声を聴き,彼は自分の羊の名を呼んで導き出します。4 自分のものをみな外に出すと,彼はその前を行き,羊はあとに付いて行きます。彼の声を知っているからです。
まず、1~4節の部分では次の点が明らかにされています。
- 「囲いの中の羊」が存在している。
- イエスがその囲いの正当な羊の羊飼いである。
- 羊飼いは羊を呼んで、囲いから外へ導き出す。
続けて、本テーマに関係のある14節~17節を確認します。
14 わたしはりっぱな羊飼いであり,自分の羊を知り,わたしの羊もわたしを知っています。15 ちょうど父がわたしを知っておられ,わたしが父を知っているのと同じです。そしてわたしは羊のために自分の魂をなげうちます。16「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります。17 このゆえに父はわたしを愛してくださいます。すなわち,わたしが自分の魂をなげうつからです。それは,わたしがそれを再び受けるようになるためです。
要点は次の通りです。
- イエスを羊飼いとする「この囲い」に属さない「ほかの羊」が存在する。
- イエスに連れ出される「ほかの羊」は、「囲い」から連れ出された羊と一つの群れとなる。
- 羊が一つの群れとなることは、イエスが自分の命をなげうつことと関係している。
3についてですが、イエスは羊について説明するこの文脈で、繰り返し自分が命を投げうつことを語り、その点を強調しています。ですから、羊が囲いから連れ出され、ほかの羊とともに一つの群れとなることと、キリストの犠牲とは重要な関係があることがわかります。
以上の要点をまとめると、次のようになります。
- イエスは「囲いの中の羊」を外に連れ出す。
- イエスは、囲いに属さない「ほかの羊」をも連れ出す。
- 「囲いにいた羊」と「ほかの羊」は、イエスを羊飼いとして「一つの群れ」となる。
- 「一つの群れ」となることは、キリストの犠牲と関係がある。
このように、囲いの羊と、ほかの羊についてイエスが語った教えは、決して難しいものではありません。

「囲いの羊」と「ほかの羊」の正体
では、「囲い」とは何でしょうか?それがわかると、これらの三つのグループの羊の実体が明らかになります。
ものみの塔の出版物である『イエス、道・真理・命』の80章では、羊の囲いが何であるかについて、次のような説明がなされています。
「羊であるイスラエル人はモーセの律法契約という“羊の囲い”の中で生まれました。律法は柵のようになり,律法契約の下にいない人々の汚れた慣行からイスラエル人を保護しました。しかし,彼らの中には神の羊の群れを優しく扱わない人たちもいました。それでイエスはこう言います。「はっきり言っておきます。羊の囲いに,戸口を通ってではなくほかの所を乗り越えて入る人は,泥棒や強盗です。一方,羊飼いは戸口を通って入ります」。(ヨハネ 10:1,2)」
なんと、「囲い」の正体は「モーセの律法契約」であり、その中の羊とは「イスラエル人」だとものみの塔は答えています。(これは聖書的に正しい理解であり、キリスト教のあらゆる神学者も同じように考えています。)
ということは、「囲い」という律法契約に属さない「ほかの羊」の正体とは、律法契約の外側にいる「異邦人」だということがわかります!なんと簡単なテーマでしょうか。ものみの塔自身が、囲いの羊がイスラエルだと言ってしまったわけですから、その答えは異邦人以外にはあり得ないのです。
「囲いの羊」と「ほかの羊」は「一つの群れ」となる
では、囲いの羊とほかの羊は、どのように連れ出され、一つの群れとなったのでしょうか?すでにイエスの言葉から、このテーマの重要な要点として「『一つの群れ』となることは、キリストの犠牲と関係がある。」ということを挙げました。
聖書によれば、キリストはその贖いの死によって、イスラエル人と異邦人とを隔てていた「律法契約」という壁を取り壊し、彼を信じる「囲いにいた羊」と「ほかの羊」を「一つの群れ」に結び合わせました。ですから「一つの群れ」とは、イスラエル人と異邦人によって構成される「クリスチャン」のことなのです。
この解釈は、新約聖書全体の教えと完全に調和しますが、特にその点を明白に説明しているのが以下の聖句です。
「[キリスト]はわたしたちの平和であり,二者を一つにし,その間にあって隔てていた壁を取り壊した方なのです。15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。16 またそれは,両方の民を一つの体とし,苦しみの杭を通して神と十分に和解させるためでした。彼は自分自身によってその敵意を抹殺したからです。17 そして彼は来て,遠く離れた者であったあなた方に平和の良いたよりを,また近い者たちにも平和を宣明したのです。18 この方を通してわたしたち両方の民は,一つの霊のもとに父に近づくことができるからです。」(エフェソス2:14~18)
このように、囲いの羊であるイスラエルと、ほかの羊である異邦人は、既にキリストの十字架によって「新しい一人の人」とされており、「一つの霊」のもとに、同じ希望を持って父に近づくことができるのです。
もはやそこには、エホバの証人が考えるような「天的級と地的級」という霊的な区分や、いかなる囲いも存在していないのです。

ものみの塔の教え
2番目の囲い:十四万四千人
本記事では、先に正しい聖書の教えを確認しましたが、最後にものみの塔によるこのテーマの説明を確認し、どんな問題があるのかを考えてみたいと思います。
組織の出版物『これまでに生存した最も偉大な人』の80章「羊の囲いと羊飼い」の中に一通りの説明がありますので、要点となる箇所をご紹介していきます。
「さてイエスは一つの例えを用い,三つの羊の囲いと,りっぱな羊飼いとしてのご自分の役割に言及されます。イエスが話される最初の羊の囲いは,モーセの律法契約の取り決めであることが分かります。」
はじめから、大変気になる表現が出てきます。それは「三つの羊の囲い」です。すでに聖書から確認してきたように、イエスは律法契約を表す「一つの羊の囲い」にしか言及していないのですが、なんとものみの塔は囲いの数を勝手に三つに増やしています。。
「最初の羊の囲いの「戸口番」はバプテスマを施す人ヨハネでした。ヨハネは戸口番として,イエスを見分けることにより,イエスに対して「戸を開け」,イエスが牧場に導き出すことになるそれら象徴的な羊のもとに導きました。イエスが名を呼んで導き出すそれらの羊は,「きわめて真実にあなた方に言いますが,わたしは羊の戸口[すなわち,新しい羊の囲いの戸口]です」とイエスが説明しておられるように,ついには別の羊の囲いに入れられます。イエスが弟子たちとの新しい契約を制定し,続くペンテコステの時に彼らの上に天から聖霊を注がれると,弟子たちはこの新しい羊の囲いに入ることを許されます。」―『最も偉大な人』80章*[1]
ポイントは、次の箇所であり、囲いから連れ出される羊が、次に「別の2番目の囲い」に導かれる、という考えです。
「イエスが名を呼んで導き出すそれらの羊は,・・わたしは羊の戸口[すなわち,新しい羊の囲いの戸口]です」とイエスが説明しておられるように,ついには別の羊の囲いに入れられます。」
しかし、本文をよく読むと、イエスはただ、囲いの羊を外に連れ出して、「ほかの羊」と一つにさせる、と述べただけであり、もう一つの囲いには言及していません。[2]
ちなみに、組織が作ったこの2番目の囲いに入っているのが、十四万四千人だとされています。
「イエスはその少し前に,「恐れることはありません,小さな群れよ。あなた方の父は,あなた方に王国を与えることをよしとされたからです」と述べて,ご自分の追随者たちを慰められました。ついには14万4,000人という数になるこの小さな群れは,この新しい2番目の羊の囲いの中に入ります。」
3番目の囲い:大群衆
続けてこの文脈で、組織はほかの羊についても説明を続けます。
「しかし,イエスはさらにこう言われます。『わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります』」
「ほかの羊」は『この囲いのものではない』ので,彼らは別の囲い,つまり3番目の囲いのものに違いありません。これらあとの二つの囲い,つまり羊のおりの定めは異なっています。一つの囲いの中の「小さな群れ」は天でキリストと共に支配し,もう一つの囲いの中の「ほかの羊」は楽園となった地上で暮らします。しかし,二つの囲いの中にいても,彼らがねたんだり,差別を感じたりすることはありません。イエスが言われるように,羊は「一人の羊飼い」のもとで『一つの群れとなる』からです。
ここで、ヨハネ十章でイエスが全く言及していない「3番目の囲い」が登場しますが、この3番目の囲いに入るのが地上の楽園で永遠に生きる大群衆だということです。少々ややこしいので、組織の教えをイラストで表してみます。

囲いの増殖と時系列の混乱
イラストを見て頂くと聖書の教えとの違いがわかると思いますが、最初に注目して頂きたいポイントは時系列です。イエスの話によれば、「囲いの羊」と「ほかの羊」という状態は、両者が連れ出される前の状態ですから、時系列的には旧約時代で考えなければなりません。ということは、囲いの羊がイスラエルであれば、ほかの羊は異邦人という答えにしかならないのです。
ところがものみの塔は、ほかの羊の実体を考えるにあたり、時系列を勝手に新しい契約の時代へ移行させて定義してしまったのです。
もう一つは、やはり囲いの増殖です。ヨハネ10章をどれだけ読んでも全く出てこない2番目と3番目の囲いを勝手に作り、その中に十四万四千人と大群衆を無理やり入れてしまったことが大きな問題です。キリストが贖いの死を遂げたのは一体何のためだったのでしょうか?聖書が言うように、「囲い」を取り除き、イスラエルと異邦人を一つの群れとするためではなかったのではないでしょうか?
神がせっかくキリストの死によって「囲い」を取り壊し、羊を囲いの外に連れ出してくださったのに、ものみの塔は、新たな複数の囲いを作り、羊たちをその中に閉じ込めてしまったのです。
最後に改めて確認しますが、キリストが、その贖いの死によって律法を成就された以上、もはや、神を信じる全ての人々にとって、隔ての壁も、囲いも存在しません。誰でも、イエス・キリストを救い主として、唯一の主として信じる人は、その罪を完全に赦され、神の子供とされ、父なる神の前に大胆に近づくことができるのです。ハレルヤ!
脚注
[1] 『ものみの塔』1988年11月1日号、8頁 にも同様の記述があります。
[2] イエスはご自分のことを「羊の戸口」だと言いましたが、羊が戸口を通って出入りするからといって、2・3番目の別の囲いがあるとは言っていません。







こんにちわ。初めてコメントします。偶然にこちらのサイトを拝見しました。
「羊の囲い」とはに関して、思い当たることがありまして、コメントさせていただければとと思います。
以下はもう10年近くの私の記事からの抜粋ですが、もし、詳しくお読みになりたければ以下のページからご覧下さい。
http://yoberu-t.com/file94.html
※以下一部抜粋ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これまで、この「羊の囲い」とは「律法契約」であると考えて来ました。
しかし、律法が廃されたのは、キリストの贖いが成されたときです。
「…[キリスト]はわたしたちの平和であり,二者を一つにし,その間にあって隔てていた壁を取り壊した方なのです。この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[ 数々の] 定めから成るおきての律法を廃棄されました」(エフェソス 2:14)
「羊の囲い」が「律法契約」を表しているならそれ以降、「羊の囲い」は存在しなくなったことになります。
囲いが存在しない以上、この例え話の「囲いから導き出される」ことは、それまでに終了したことになります。
キリスト存命中も、少なからぬ人々がキリストの弟子になりましたが、大々的に成されたのは、ペンテコステ以降です。
キリスト没後に非ユダヤ人に対して、王また祭司となる道が開かれました。
もちろん、その後も引き続き生来のユダヤ人もクリスチャンとなりました。
そうなると、モーセを通しての律法契約が廃された後のユダヤ人クリスチャンは、「この囲い」の羊ではなく「ほかの羊」ということになってしまいます。
具体例を挙げれば、パウロは、キリスト後の弟子です。
つまりパウロがクリスチャンになったとき、すでに律法は破棄されていました。
ということは、パウロも、すでに「この囲いの羊」ではなく「ほかの羊」のひとりということになるのでしょうか。
それはあり得ないと考えられるので、調整すべきなのは「囲い」は律法契約を表しているという解釈の方でしょう。
では、「羊の囲い」は何を表しているのでしょうか。
基本的に、王また祭司を選出することは、「アブラハム契約」と関係があり、それ故に、異邦人クリスチャンも「アブラハムの胤」と呼ばれます。
それで、アブラハムの胤は、当初もくろまれた、文字通りのアブラハムの子孫と、「その他」からの異邦人クリスチャンが霊的に養子にされ、アブラハムの子孫とみなされることにより、成り立つことになります。
ですから、「この囲い」からと「ほか」からの2グループがキリストの元に連れて来られて「1つの群れ」になるということですから、「この囲い」というのは生来のユダヤ民族、「ほか」はそれ以外の民族ということになります。
はじめまして、コメントありがとうございます。「ヨベルの角笛」は、以前に拝見させていただいたことがあります。直近は、サイトの新しい働きで忙しくなっているため、落ち着いたら、もう一つのコメントの内容も合わせてご返信させていただきます。
情報を整理しますと、「囲い」と「囲いの中の羊」は別々で定義される必要があるように思えました。
そうなると、
「囲い」= ??
「囲いの中の羊」がユダヤ民族であることは間違いないと思うのですが、では彼らを囲っていて囲いとは何かと問われると、やはり律法契約ではないかと思います。
この考えが否定される理由として、パウロの事例を挙げられていますが、このたとえ話において、前後関係を厳密に考慮して考察するよりは、本質的な部分でイエス様が言葉を解釈した方が、整合性が取れると思いました。
もっとも、このテーマについては、お互いに「この囲いが144000人ではない」、という明白な真実に気づくことができたので、そこは主に感謝であります。