エホバの証人のバプテスマは聖書的ですか?
バプテスマとは、議論の余地なく、キリストを信じる全ての人が行うべき重要な儀式です。ですから、誠実に神を信じる人なら誰でも、聖書的に正しい方法でバプテスマを受けたいと願うはずです。
筆者の場合、教会に通い出し、イエスに対する正しい信仰を持つようになった後も、バプテスマを受け直すことを考えていませんでした。しかし、聖書研究を通し、バプテスマの聖書的な意味を学び直すようになってから、再洗礼への思いへと導かれ、正しい方法で受け直すことができました。
残念ながら、ものみの塔が教えるバプテスマには、多くの非聖書的な間違いがあり、その間違いは決して容認できるものではありません。そこで本記事では、『聖書は実際に何を教えていますか』の第18章、「バプテスマ、そして神とあなたとの関係」から多くを引用し、その教えの何が正しく、何が聖書的に間違いなのかを丁寧に説明しました。
多くのエホバの証人がこの記事を読み、目が開かれることを願っています。
序文―イエスの命令とバプテスマの方法
「では,神に仕えたいという願いを,どのように示せるでしょうか。イエスはご自分に従う人々に,『行って,すべての国の人々を弟子とし,彼らにバプテスマを施しなさい』と言われました。(マタイ 28:19)イエスご自身,水のバプテスマを受けることによって手本を残されました。」(3節)
本文の通り、マタイ28章に記された大宣教命令、および水のバプテスマに関する命令は、イエスの全ての弟子に対する命令であり、重要です。キリスト教のあらゆる教会も、この命令が重要であることを認識しており、信じた人にバプテスマを施すことを実行しています。
イエスご自身,水のバプテスマを受けることによって手本を残されました。水を振り掛けられたのではありません。頭に幾らか水を注いでもらったのでもありません。(マタイ 3:16)「バプテスマを施す」という語は,「浸す」という意味のギリシャ語の訳ですから,クリスチャンのバプテスマは,水の中に完全に浸される,という意味です。(3節)
ここでは、バプテスマの正しい方法が、「水の中に完全に浸される」(全浸礼)ことだとされていますが、聖書的に正しい見方であると言えます。「バプテスマ」と訳されるギリシア語「バプティゾー」には、「浸して漬ける、水没する、完全に濡れる」という意味があるからです。
また、新約聖書において登場するバプテスマの記録は全て、全身を水に浸す「全浸礼」の方式で行われています。つまり、聖書時代のイエスの弟子たちにとって、バプテスマとは、「全浸礼」以外にはあり得なかったのです*[1]。
知識と信仰が必要
「知識を取り入れる」ではなく「知る」
「あなたはすでに第一段階を踏み始めておられます。どのようにしてでしょうか。系統的な聖書の研究などを通してエホバ神とイエス・キリストに関する知識を取り入れることによってです。(ヨハネ 17:3)ー(5節)
引用されている聖句は、ヨハネ17:3ですが、ここで、ものみの塔の聖書解釈の重大な問題が登場します。「知識を取り入れる」と訳されている箇所は、通常「知る」*[2]と訳される箇所であり、ユダヤ的文脈において、ある人格的な存在を「知る」と表現される場合、それは普通、単にその人についての知識を取り入れること以上に、その人との人格的な交流を通して体験的に知ることを意味します。
「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。」(ヨハネ 17:3)
実際に、この聖句の文脈を考慮しても、「知識を取り入れる」という訳出に問題があることは明らかにわかります。なぜなら、「知識を取り入れる」だけでは、「永遠の命」を持つことは無いからです。もし、知識だけで救われるなら、もっとも救われているのは、悪霊であるはずです!
「あなたは,ただひとりの神がおられることを信じているというのですね。なるほどそれはりっぱです。ですが,悪霊たちも信じておののいているのです。」(ヤコブ2:19)
ですから、ここでイエスが言っておられるのは、父なる神と、イエス・キリストというお方を、人格的な交わりを通して、体験的に「知る」ということなのです。
もっとも、ものみの塔自身も、「知識を取り入れる」だけで永遠の命を持てると教えているわけではありません。しかし、それならばなぜ、「知識を取り入れる」としなければならなかったのでしょうか。おそらくその理由は、イエス・キリストとの交わりを持つことを信者に教えたくない、という組織の意図が反映されているのでしょう。統治体は、「父なる神とイエスとの交わり」ではなく、組織の出版物を通して、「父なる神と統治体との交わり」を教えたいのです。
洗礼前に理解すべき基本的な教えとは
もちろん,聖書のすべてを知らなければ資格が得られないというわけではありません。エチオピアの役人はある程度の知識を持っていましたが,聖書の特定の部分を理解するには援助が必要でした。(使徒 8:30,31)・・・バプテスマを受ける前に,少なくとも聖書の基本的な教えを知り,受け入れている必要があります。(ヘブライ 5:12)そうした教えの中には,死者の状態に関する真理や,神のみ名と神の王国の重要性が含まれています。(6節)
確かに、バプテスマを受ける前に知る必要のある聖書の教えは、決して多くはありませんが、ものみの塔は、洗礼前に知るべき基本的な教えの中に、「死者の状態に関する真理や,神のみ名」を含めています。ですから、エホバの証人の教えによれば、バプテスマを受けて救われる条件には、協会の「霊魂消滅説」や、「エホバの御名の重要性」を受けいれている必要があるとしています。
しかし、まず第一に問題となるのは、ものみの塔が主張するこれらの教理が、聖書的に問題がある、という事実です。実際に、参照されているヘブライ 5:12の文脈においては、初歩の教理として、「永遠の裁き」がリストアップされており、使徒以降のどの書簡を読んでも、「霊魂の消滅」が教えられている形跡がありません。
「このようなわけで,キリストに関する初歩の教理を離れたわたしたちは,死んだ業からの悔い改め,また神に対する信仰,2 [さまざまな]バプテスマについての教えや手を置くこと,死人の復活や永遠の裁きなどの土台を再び据えるのではなく,円熟に向かって進んでゆきましょう。」(ヘブライ6:1~2)
加えて、上記の聖句で挙げられている「手を置くこと」については、バプテスマを受けた後であっても、ものみの塔では教えられません。ですから、バプテスマの前に理解すべき初歩の教理として、ヘブライ5章12節を挙げるなら、協会の見解に一貫性が無いことが明らかになるのです。
※エホバの御名の重要性については、こちらの記事をご参照ください。
第二の問題点は、人々が「イエス・キリストの良い知らせ(福音)」を知り、その福音を信じることが、救われてバプテスマを受ける条件だと、聖書が教えている事実です。実際に、使徒の働きの中のバプテスマに関する記録を確認していくと、ほとんどの場合、福音を信じた時点で、その日の内にバプテスマを受けています。こうした歴史記録は、「イエス・キリストの福音を信じること」が、当時のバプテスマを受ける前に必要とされた重要事項であったことを物語っています。
エホバの証人のように、死後の霊魂の状態がどうであるとか、144,000人が誰であるとか、1914年がどうであるとかは、聖書的には、バプテスマの条件にはされていないのです。
では、聖書時代のクリスチャンが信じ、告白した福音とは何だったのでしょうか?それを明らかにしているのが、次の聖句です。
福音(良いたより)とは何か?
「15 さて,兄弟たち,わたしはあなた方に良いたよりを知らせます。それはわたしがあなた方に宣明したもの,またあなた方が受け入れたものであり,あなた方はまたその中に立ち,2 それにより,わたしがあなた方に良いたよりを宣明したそのことばをもって救われつつあります。もしあなた方がそれをしっかりと守っているなら,実際,いたずらに信者となったのでなければですが。3 というのは,わたしは,最初の事柄の中で,[次の]ことをあなた方に伝えたからです。それは自分もまた受けたことなのですが,キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった,ということです。4 そして,葬られたこと,そうです,聖書にしたがって三日目によみがえらされたこと,5 さらに,ケファに現われ,次いで十二人に[現われた]ことです。」(コリント第一15:)
「その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。」(ローマ10:9)
上記で紹介した2つの聖句はどちらも、良いたよりとは何か、また人は何を信じることによって救われるのかをはっきりと示している重要な箇所です。そして、二つの聖句から、重要な点を三つ抜き出すと、次のようになります。
- キリストが私たちの罪のために死んでくださったこと
- 三日目によみがえらされたこと
- イエス・キリストが主である、ということ。
ですから、使徒パウロが、バプテスマを授ける条件として考えていた教えとは、上記の三つの内容を中心とした「キリストの福音」であったことがわかります。
なお、今日の多くの教会でも、洗礼を授ける条件として、上に示されたキリストの福音を信じることを掲げており、聖書的に正しい方法となっています。
聖書の真理を他の人に伝える
「長老たちが,あなたは聖書の基本的な教えを理解し,それを信じているだけでなく,聖書の原則と調和した生活を送り,エホバの証人になりたいと本当に願っているという結論に達するなら,バプテスマを受けていない良いたよりの伝道者として公の宣教奉仕に参加する資格がある,ということがあなたに知らされます。」(10節)
ものみの塔は、研究生がバプテスマを受ける前に、伝道者となり、公の宣教奉仕に参加するよう求めます。つまり、公の伝道に参加することが、バプテスマを受ける条件とされているのです。
しかし、聖書のどこにも、バプテスマを受ける条件として、伝道活動が先にくることを示す聖句はありません。前の項目で、既に明らかにしたように、一世紀のクリスチャンたちは、基本的に、福音を信じたら、その日の内に水のバプテスマを受けていたからです。
例えば、エチオピアの宦官は、伝道者フィリポから、「イエスについての良いたより」を聞いた時、心から主イエスを信じ、すぐにバプテスマを受けることを願い出ました。
「宦官は答えてフィリポに言った,『お願いします,預言者はだれについてこう言っているのでしょうか。・・フィリポは口を開き,聖書のこのところから始めて,イエスについての良いたよりを彼に告げ知らせた。36 さて,彼らが道を進んで行くと,水のあるところに来た。すると宦官は言った,『ご覧なさい,水があります。わたしがバプテスマを受けることに何の妨げがあるでしょうか』。37 ―― 38 そうして彼は,兵車に,止まるように命令し,ふたりは共に,フィリポも宦官も水の中に下りて行った。そして[フィリポ]は彼にバプテスマを施した。」(使徒8:34~38)
もしも、伝道活動を行っていることがバプテスマの条件なのだとすれば、フィリポはその宦官に「いや、待ってください。まずあなたは、しばらくの間、聖書の原則に調和した生活を送り、伝道活動をしなければ、バプテスマを受けることはできません。」と答えたはずです!
もっとも、筆者が言いたいのは、あくまで伝道をバプテスマを受ける前の条件とすることに問題があるということであって、学びの早い段階から、伝道者としての意識をもたせること自体は、良いことだと考えています。実際に、ものみの塔は、多くのキリスト教の教会よりも、一人一人の信者に、自立した伝道者としての認識をもたせることに成功しているのです。
悔い改めと転向
「12 バプテスマの資格を得る前に踏むべき段階はほかにもあります。使徒ペテロは,「あなた方の罪を塗り消していただくために,悔い改めて身を転じなさい」と述べました。(使徒 3:19)悔い改めるとは,自分が行なってきた事柄を誠実に悔いることです。・・・
13 悔い改めの次に転向,つまり『身を転じる』ことが求められます。悔いる以上のことを行なわなければなりません。以前の生き方を退け,これからは正しいことを行なうという固い決意を抱く必要があります。バプテスマの前に,悔い改めと転向という段階を踏まなければなりません。」(12~13節)
ものみの塔は、バプテスマを受ける前に「悔い改め」と「転向」、つまり過去の罪を誠実に悔い、これからは正しいことを行っていくという固い決意を抱く必要があるとしています。この点は、聖書が実際に教えている事柄と、大きな相違はありませんが、以下の点について、補足して抑えておく必要があります。
まず第一に、聖書の中で、神から罪の赦しを受けるために、「悔い改める」ことを条件としている聖句が複数ありますので、悔い改めは重要なポイントであることがわかります。(使徒2:38、8:22、17:30、26:20、黙示録2:5、3:3等)
そして、「悔い改める」と訳されているギリシア語の「メタノエオー」の基本的な意味とは、「過去の罪を悔いる」ことではなく、「考え方を変える」ことにあります。ですから、「悔い改めなさい」と命じられている聖句の正しい意味とは、「過去の罪を後悔しなさい」ではなく、「考え方を改めなさい(変えなさい)」という意味なのです。
もっとも、正しく悔い改める人は、必然的に過去の罪を後悔するようにもなりますが、過去の罪を後悔したからと言って、必ずしも悔い改める(考えを改める)とは限りません。
典型的な例としては、イエスが捕縛された夜、ペテロもユダも共にイエスを裏切りましたが、ユダの方は、後悔しただけで悔い改めなかったので、自分の罪から逃げ、自殺をしてしまいました。一方、ペテロの方は、後悔しただけでなく、悔い改めたので、再び主の僕として用いられるようになったのです。
結論として、ものみの塔が説明する通り、バプテスマの前に、罪に対して後悔するだけでなく、悔い改める(考えを改める)ことはとても大切です。
個人として献身する
「バプテスマを受ける前に踏むべき大切な段階がもう一つあります。それは,エホバ神に献身することです。15 人は真剣な祈りのうちにエホバ神に献身する時,エホバへの全き専心の思いを永遠に保つことを約束します。(申命記 6:15)・・・神のみ子イエス・キリストに従うことを願う人はだれでも,「自分を捨て」なければなりません。(マルコ 8:34)個人的な欲求や目標が決して神への全き従順を妨げないようにするという意味で,自分を捨てるのです。ですから,バプテスマを受ける前に,エホバ神のご意志を行なうことが生きる主要な目的となっていなければなりません。―ペテロ第一 4:2。(14~15節)
ここでものみの塔は、バプテスマを受けることと、エホバへの献身とを結びつけていますが、第一に問題となるのは、献身の必要性を訴える14~16節の文章の中で、バプテスマと献身を直接的に結びつける聖句が一つも挙げられていないことです。
では、「献身」という表現は適切なのでしょうか?大辞林 第三版では、「献身」という言葉に次のような意味があると説明されています。
① 自分の身をささげて尽くすこと。ある物事や人のために、自分を犠牲にして力を尽くすこと。 「独立運動に-する」
② キリスト教で、聖職者となること。
上記の通り、「献身」という表現は、キリスト教において「聖職者」となるという意味合いがありますが、エホバの証人の発祥と中心がキリスト教文化圏のアメリカであることを踏まえれば、彼らが「献身」という表現を用いる時に、「『聖職者』のように全人生を捧げる」という意味合いを含ませている事はほぼ間違い無いでしょう。
確かに、バプテスマの前に、神のご意志に従って生きる、という決意をすることはとても重要です。なぜなら、バプテスマとは、神に対する誓約を意味するものだからです。
「この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。」(21節、新改訳2017)
またイエスは、大宣教命令で「弟子」を作るよう命令をされましたが、イエスの弟子は誰でも自分を捨てなければならない、とはっきりと語りました。
「次いで[イエス]は群衆を弟子たちと一緒に自分のもとに呼んで,こう言われた。『わたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい。』」(マルコ 8:34)
しかしそれらの命令は、あくまで「神のご意志に従って生きる覚悟を持つよう」励ますものであって、全ての人が、フルタイムの聖職者や、エホバの証人で言う「開拓者」になるよう必ずしも求めるものではありません。
もっとも、そのように身を捧げることができるのは素晴らしいことですが、神は、それぞれに応じて、色々な働きへの召しを与えるものであり、ある人は、フルタイムの世俗の仕事をしながら、神の栄光を表すこともあるのです。
参考記事:仕事に対して聖書的な見方を持つ
ですから、神に従うことに関する原則と、「献身」という言葉が持つ意味合いとを考慮すると、ものみの塔がバプテスマと「献身」を直接結びつけていることには違和感を覚えます*[3]。
献身の象徴としてバプテスマを受ける
一つ前の見出しの「失敗を恐れる気持ちに打ち勝つ」は、良い励ましの内容であり、問題は無いと思われますので、解説は飛ばします。
救いのための公の宣言とは
ここで検討してきた事柄を考慮することは,祈りのうちに個人としてエホバに献身する助けになるでしょう。本当に神を愛する人はだれでも,『救いのための公の宣言』をしなければなりません。(ローマ 10:10)どのようにするのでしょうか。・・・(20節)
ここで、本当に神を愛する人は「救いのための公の宣言」をしなければならないとありますが、ここで「公の宣言」と訳されているギリシア語「ホモロゲオ」には、「告白する、誓う、認める」等の意味があります。多くの日本語の聖書で「告白」と訳されていますが、ものみの塔の訳出も問題はありません*[4]。
では、そのことの根拠として参照されているローマ10章には、どんな事が書いてあるのでしょうか?文脈を理解するために、9節から引用します。
「その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。人は,義のために心で信仰を働かせ,救いのために口で公の宣言をするからです。」(ローマ10:9~10)
このように、救いのために「公に宣言する」ことは正しいことですが、その根拠とされているローマ10章9~10節を確認すると、その宣言の内容とは、「イエスは主である」という告白であることがわかります。
二つの質問(公の宣言)
バプテスマが施される時には,たいていバプテスマの意味を復習する話が行なわれます。その際に話し手は,バプテスマ希望者全員に,二つの簡潔な質問に答えるよう勧めます。それらの質問に答えることは,口頭で信仰の「公の宣言」をする一つの方法です。(21~22節)
では、ものみの塔が、バプテスマの前に、全てのバプテスマ希望者に公に宣言させる二つの簡潔な質問とは何でしょうか?それは次のようなものです。
(1)あなたは,イエス・キリストの犠牲に基づいて自分の罪を悔い改め,エホバのご意志を行なうため,エホバに献身しましたか。
(2)あなたは,献身してバプテスマを受けることにより,自分が,神の霊に導かれている組織と交わるエホバの証人の一人になることを理解していますか。
このように、公の宣言の根拠としてローマ10章を引用しながら、肝心な「イエスは主である」という宣言が消されているのです!また、「二つの簡潔な質問に」ついても、重大な問題があります。
一番目の「キリストの犠牲に基づいて・・」ですが、キリストの犠牲に基づいて悔い改めることは大切ですが、その結果としての「罪の赦しを受け取りました」という告白が無いのです。イエスキリストの福音とは、主の贖いの犠牲を信じる者が義とされ神の赦しを受ける、というものであり、それらはセットで切り離すことのできないものです。ですから、犠牲を認めて悔い改めて終わるのであれば、聖書的な福音ではないのです。
そして二番目に来るのは、「イエスは主である!」ではなく、「ものみの塔に属するエホバの証人になる!」という宣言です。この宣言によって、全てのエホバの証人は「キリストとの一体化」ではなく、「ものみの塔という組織との一体化」の契約に入り、「救いのための公の宣言」から遠く離されてしまいます。ですから、エホバの証人の行うバプテスマとは、「新しいいのちへの復活に至るバプテスマ」ではなく、「復活のいのちを持たない霊的な死へのバプテスマ」なのです。
あなたのバプテスマの意味
父と子と聖霊の名によるバプテスマ
弟子たちは「父と子と聖霊との名において」バプテスマを受ける,とイエスは述べました。(マタイ 28:19)これは,バプテスマ希望者がエホバ神とイエス・キリストの権威を認めるという意味です。(詩編 83:18。マタイ 28:18)また,神の聖霊,つまり活動する力の機能と働きも認めます。―ガラテア 5:22,23。ペテロ第二 1:21。(23節)
ここでものみの塔は、父と子と聖霊の名の意味を、それぞれ分けて説明をしていますが、ここで「名」と訳されているギリシア語の「オノマ」は、複数形ではなく、「単数形」となっていることに注目する必要があります。以下に引用する英語の新世界訳でも、複数形の「Names」ではなく、単数形の「Name」となっていることが確認できるはずです。
「Go, therefore, and make disciples of people of all the nations, baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the holy spirit,」(新世界訳2013、英語)
つまり、ここでイエスは、「父の名、子の名、聖霊の名・・・」という別々の名前について言及しているのではなく、「父・子・聖霊」によって表される、「一つの名」について述べているのです。そしてその名とは、唯一の神の名であるに違いありません。
なお、使徒の記録を確認していくと、彼らが実際に行っていたバプテスマは、「イエスの名によるバプテスマ」と表現されていますが、これは彼らが「父と子と聖霊の名によるバプテスマ」を行わなかったという意味ではなく、表現方法の違いであって、実質の違いでは無いと考えられます*[5]。
バプテスマはキリストとの一体化を表す
しかし,バプテスマは単に水の中に入ることではありません。非常に重要な事柄の象徴なのです。水の下に沈むということは,自分の以前の生き方に関して死んだことを象徴しています。水から上げられるということは,神のご意志を行なうため生きるようになったことを示します。(24節)
さて、聖書的なバプテスマにどんな意味があるのかは、本記事の中で最も重要な部分であり、筆者が最もエホバの証人に伝えたい部分でもあります。
上記の説明の通り、協会は、バプテスマの意味を、以前の生き方に死に、神のご意志を行うために生きるようになることを象徴するものだと言っていますが、その事を裏付ける聖句の参照が無いのは不自然ではないでしょうか?
実際に、それを裏付ける聖句が確かにあるのですが(ローマ6章)、ものみの塔の教理にとって都合が悪いので、あえて省いているとしか考えられません。ですから、上記の24節の説明の中でも、バプテスマの意味についての重要な部分が省かれているのです。
それでは、実際にローマ6章を引用し、その真相を明らかにしていきましょう。
「それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです。4 ですから,彼の死へのバプテスマ[を受けたこと]によって,わたしたちは彼と共に葬られたのです。それは,キリストが父の栄光によって死人の中からよみがえらされたのと同じように,わたしたちも命の新たな状態の中を歩むためです。5 彼の死と似た様になって彼と結ばれたのであれば,わたしたちは必ず,彼の復活と[似た様になって]やはり[彼と結ばれる]のです。6 わたしたちが知るとおり,わたしたちの古い人格は[彼]と共に杭につけられたのであり,それは,罪深い体が無活動にされて,もはや罪に対する奴隷とはならないためです。7 死んだ者は[自分の]罪から放免されているのです。
8 さらに,キリストと共に死んだのであれば,彼と共に生きるようになることをもわたしたちは信じています。9 死人の中からよみがえらされた今,キリストはもはや死なないということを,わたしたちは知っているからです。死はもはや彼に対して主人ではありません。10 彼の遂げた死,それは罪に関してただ一度かぎり遂げた死であったからです。また,[いま]生きておられる[命],それは神に関して生きておられる[命]なのです。11 あなた方も同様です。自分を,罪に関してはまさしく死んだもの,しかし,神に関してはキリスト・イエスによって生きているものとみなしなさい。」(ローマ6章)
少し長い引用になりましたが、バプテスマの意味を丁寧に明らかにしている、とても重要な箇所です。アンダーラインを引いた箇所を見ていくと、イエスの名によるバプテスマには、「キリストと共に葬られ、共に蘇ることによって、キリストと結ばれ(一つになる)、新しい命に生きる」という意味があることがわかります。
「現にあなた方は皆,キリスト・イエスに対する信仰によって神の子なのです。27 キリストへのバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを身に着けたからです。28 ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男性も女性もありません。あなた方は皆キリスト・イエスと結ばれて一人の[人]となっているからです。」(ガラテア3:26~28)
また、上記のガラテア3章では、「あなた方は皆・・イエスに対する信仰によって神の子なのです」と言える理由として、「バプテスマによってキリストを身に着けた」「イエスと結ばれて一人の人となっている」からだとしています。
他にも、新約聖書の中で、バプテスマの意味について説明している箇所を見ていくと、全て同じような意味において一貫して説明されていることがわかります。
「まさしくわたしたちは,ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと,奴隷であろうと自由であろうと,みな一つの霊によって一つの体へのバプテスマを受け,みな一つの霊を飲むようにされたからです。」(コリント第一12:13)
「あなた方は彼と共にそのバプテスマのうちに葬られ,また彼との関係のもとに,彼を死人の中からよみがえらせた神の働きに対する信仰によって,共によみがえらされたのです。」(コロサイ2:12)
このように、イエスの名によるバプテスマとは、それを受ける全ての信者が、キリストと共に死に、共に復活することを通して、キリスト・イエスと一体化し、神の子供とされることを表すものなのです。
ですから誰でも、聖書的なバプテスマを受けていながら、「私はまだキリストと一体化していない・神の子供となっていない」と言う事はありえないのです。
そして、このような理由から、ものみの塔が全ての信者に行っているバプテスマは、使徒たちが教えた聖書的バプテスマではなく、組織が作り出した「別のバプテスマ」である事がはっきりとわかります。
「主は一つ,信仰は一つ,バプテスマは一つです。」(エフェソス4:5)
では聖書的なバプテスマとは何ですか
最後に、一連の考察を踏まえた、聖書的なバプテスマについて説明をしていきたいと思います。
誰でも、バプテスマを受ける前に、まずキリストの福音を信じる必要があります。その福音とは、キリストが私たちの罪のために死に、葬られ、三日後に蘇られたことです。そして、復活したイエスを、救い主、唯一の主として信じる必要があります。
「3 というのは,わたしは,最初の事柄の中で,[次の]ことをあなた方に伝えたからです。それは自分もまた受けたことなのですが,キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった,ということです。4 そして,葬られたこと,そうです,聖書にしたがって三日目によみがえらされたこと,5 さらに,ケファに現われ,次いで十二人に[現われた]ことです。」(コリント第一15:3~5)
「その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。」(ローマ10:9)
「その理由は,聖書によりずっと以前からこの裁きに定められていたある人々が忍び込み,[その]不敬虔な者たちが,わたしたちの神の過分のご親切をみだらな行ないの口実に変え,わたしたちの唯一の所有者また主であるイエス・キリストに不実な者となっているからです。」(ユダ 4)
その他参照記事:三位一体は聖書の教えですか② イエス・キリストの神性について
また、キリストをそのようなお方として心から信じるならば、あなたは必ず過去の罪を悔い改めるようになるでしょう。エホバの証人であるならば、信者としての活動を通して、聖書の誤った教えを広めてきた事も、悔い改めの内容に含まれてくるはずです。
そして、これからの人生を、自分のために死んでくださったキリストを主とし、この方のために生きようと願うはずです。そして、誠実な祈りによって、その思いを固めたなら、次のように祈ってください。
「主イエスよ、あなたが私の罪のために死に、葬られ、よみがえられた事を信じます。私は今、心の扉を開き、あなたを私の救い主、唯一の主としてお迎えします。私のすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださりありがとうございます。私はこれからの人生を、あなたのために歩んでいきます。どうか、私を導き、あなたが望むような者に、私を変えてください。」
なお、イエスへ祈ることに抵抗を覚えるエホバの証人も多くいらっしゃると思います。詳しくは、また今度別の記事で取り上げる予定ですが、聖書時代の弟子たちが、救いのために主イエスの名を呼び求めていた、という点を考えれば、主であるイエスに対し、「主よ、私をお救いください!」と呼びかけることは、実に自然なことであることがわかるはずです。
また、イエスに祈ってみたら、超自然的な平安が与えられた、と証言する複数の元のエホバの証人の証も聞いたことがあります。
参考記事:エホバとイエス、真のクリスチャンが呼び求めるべきみ名はどちらですか?
そして、主イエスを救い主としてお迎えする祈りができたなら、あなたがバプテスマを受けるにあたり、差し控えるものは何もありません。
「さて,彼らが道を進んで行くと,水のあるところに来た。すると宦官は言った,『ご覧なさい,水があります。わたしがバプテスマを受けることに何の妨げがあるでしょうか』」(使徒8:36)
なお、実際に誰からバプテスマを受けることができるか、という点については、所属を検討している教会があればそこで受けることをお勧めします。無い場合は、地域教会への所属に関係なく洗礼を授けてくれる団体や牧師に依頼することもできますので、必要な場合はご相談ください。
参考記事:目ざめたエホバの証人へのアドバイス⑥|バプテスマ(洗礼)を受け直す
脚注
[1] キリスト教の教会では、水を数滴垂らして洗礼とする「滴礼」の方式を採用している教会も多数あります。そのような方式を採用する教会を批判する意図はありませんし、今通われている教会が、その方式を採用するならば、基本的には教会の方式に従うことをお勧めします。ただ、洗礼の希望者の方が、あくまで全浸礼を希望するならば、牧師先生に相談したり、所属に関係なく全浸礼で授けてくれる方に相談することができます。お問い合わせいただければ、当サイトでも全浸礼を授けれる方や団体を紹介できます。
[2] ギリシア語では「ギノスコー」という言葉が用いられています。
[3] ものみの塔を導く「カルトの霊」の狙いは、エホバの組織に「献身」させることによって、組織に依存する人間を作り出していくことにあると言えます。
[4] 「新共同訳」では、「公に言い表し」となっています。
[5] 特に、新約以降の時代においては、父・子・聖霊の中でも、救い主として掲げられた「主イエス」に彼らの信仰の中心があったため、「イエスの名によるバプテスマ」と表現されていたものと思われます。
いつもご解説ありがとうございます。
JWライブの記事に「キリストの贖いは等価のもの」を読みました。これは聖書の教えなのでしょうか?
身代金を払って奴隷を自由にすることや人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すことなど旧約時代の実生活においての贖いは、律法に準拠して公正で等価で贖う(買い戻し)ことは理解できますが、新約聖書にある霊的な意味での贖いと旧約の律法に記された贖いとは全く同じ概念でしょうか?公正で等価でなければならない根拠として詩編49:7,8、コリント第一6:20などが記されています。
返信遅れて申し訳ありません。贖いが等価でなければならない、というのは、贖いを考える上で、大前提だと思います。もし、等価で無くても良かったのであれば、神は、旧約時代の動物の犠牲を持って、人間の罪を完全に赦すことができたはずです。しかし、動物では、人の命と等価ではなく、不十分だったので、メシアの血が要求されました。ですので、この点の教えについては、聖書の通りだと考えています。