神の御名「エホバ」を用いるべきですか?
エホバの証人は、その名称からもわかる通り「エホバ」という神の御名(みな)を重要視します。実際に、「エホバ」の名を負い、その御名をふれ告げることこそ「真のクリスチャン」の証拠であるとし、その御名を負わないキリスト教世界は背教していると主張しています。
そのため、ものみの塔の間違いに気づいた信者でも、「エホバ」の御名の重要性に対する認識が残っているため、教会に行った時にその御名が全く用いられず、「イエス」だけが強調されていることに、大きな抵抗を感じたりするものです。一方、キリスト教徒が、エホバの証人の集会に参加するならば、「エホバ」だけが重視され、「イエス」が全く称えられていないことに違和感を覚えることでしょう。(実際には、エホバは三位一体の神のお名前です)
以上のような点を踏まえれば、「エホバ」の御名の問題は、エホバの証人問題において無視することのできない重大なテーマであることがご理解いただけるはずです。
御名の表記と発音について
神の御名についての考察を進めていく前に、この御名に関する基本的な点について触れておきます。新世界訳聖書で「エホバ」と訳される神の御名は、ヘブル語の四つの子音「ヨード」「ヘー」「ヴァヴ」「ヘー」で表記され、旧約聖書全体に約7000回登場します。この四文字語は、「テトラグラマトン」とも呼ばれますが、アルファベットの表記では、「YHWH」となります。
ユダヤ人がその御名を発音しなくなったという経緯から現在はその正確な発音を特定することが不可能になっていますが、学者の間では「ヤハウェ」もしくは「ヤーウェ」であっただろう、というおおまかな見解の一致があります。
「エホバ」という発音は、テトラグラマトンを「アドナイ」(主)と読ませるためにマソラ学者が付した振り仮名を、後代の学者が、御名の正確な発音のための振り仮名と誤解して発音してしまったものであり、誤読であることが明らかになっています。
なぜ「エホバ」を重視するのか
では、ものみの塔協会はなぜ「エホバの御名」だけにこだわり、「イエスの御名」を過小評価するのでしょうか?鍵となるのは次の聖句です。
「シメオンは,神が初めて諸国民に注意を向け,その中からご自分のみ名のための民を取り出された次第を十分に話してくれました。」(使徒15:14)
ユダヤ的な文脈を考慮すると、ここでの「ご自分のみ名」とは、おそらく神の固有名のことではなく、神ご自身のことを述べていると考えられます。しかしものみの塔は、このような場合にはいつでも、それが「エホバ」のような「神の固有名」を意味すると解釈しますので、ここではあえてその解釈を採用した上で、話を進めていきます*[1]。
ヤコブが言及した、「神がご自分のみ名のために諸国民から取り出された民」とは、クリスチャンのことです。ということは、もしもクリスチャンが、「イエスの御名」によって知られた民だったのであれば、「イエス」は神のみ名であることになり、「エホバ」だけを神とするエホバの証人は不利な立場に立たされることになります。
ものみの塔という組織の最も重要な土台は、「キリストの神性の否定」にあります。ですから、エホバの証人にとっては、ここでヤコブが言及した「神のみ名」は、イエスではなく、絶対にエホバでなければならないのです。このような事情から、ものみの塔の指導者及び、組織を背後で導く霊的な存在が、「エホバ」を過剰に重視する最大の理由は、キリストの神性を否定することにあると考えられます。
しかし現実的には、協会の主張とは裏腹に、新約聖書の時代のユダヤ人及び弟子たちが、「エホバ」の御名を用いておらず、クリスチャンが常に「イエスの御名」を用いていたことを示す複数の強力な証拠が存在します。そこで協会は、それらの事実を捻じ曲げるために、以下の二つのことを主張しています。
【1】一世紀のユダヤ人及びクリスチャンは「エホバの御名」を発音し、用いた。
根拠としては次の点が挙げられます。(1)七十人訳において神の御名を用いた写本が発見されている。(2)死海写本には、神の御名が表記されている。
【2】新約聖書の筆者たちはエホバの御名を書簡に含めたはずである。(そうでなければ不自然)
根拠とされる主張は次の通りです。(1)2~3世紀の背教したクリスチャンが、その名を除く改ざんを行った。つまり、現存する写本の中には、未だ重大な改ざん箇所が含まれている。(2)新約聖書の時代になって、突然その御名が用いられなくなるのは不自然である、
そこで本章では、続く一連の考察を通して、これらの協会の主張の問題点を明らかにしていきたいと思います。
一世紀のユダヤ人や弟子たちは「エホバ」を発音したのか
ミシュナの記録からの考察
実は、この点に関する重要な情報は、ものみの塔の出版物に見出すことができます。
律法学者の教説や伝承を集大成したユダヤ教のミシュナは,多少ながら問題をもっとはっきりさせています。その編さん者は西暦2‐3世紀に生存した僧正ラビ・ユダとされています。ミシュナには西暦70年におけるエルサレムとその神殿の崩壊以前の事情と明らに関係のある資料が幾らか含まれています。しかしながら,ミシュナに収録されている伝承の歴史的な価値が疑わしいものであることは認めねばなりません。とはいえ,ミシュナの伝承のあるものは,神のお名前の発音に対するユダヤ人の態度とされるものを洞察するのに役だちます。
例年のあがないの日に関連してヨマ 6:2はこう述べています。「また,神殿の中庭に立っていた祭司たちや民は,大祭司の口からその名前が述べられるのを聞くと,ひざまずいて身をかがめ,地にひれ伏して,『その王国の栄光に輝く御名がとわにあがめられんことを!』と言うのが常であった」。
祭司たちがささげる日ごとの祝福の祈りについて,ソタ 7:6はこう述べます。「神殿の中では彼らは御名を,書きしるされているとおりに発音したが,地方においてはそれに代わることばをもって発音した」
サンヘドリン 10:1は,「きたるべき世にあずからない」者たちを列挙して,「アバ・サウロいわく,御名をその固有の文字を用いて発音する者もその一人である」としるしています。
ところが,これら後者二つの否定的な見解がしるされているにもかかわらず,ミシュナの最初の箇所には,「人は[神の]御名[を用いて]仲間とあいさつすべきである」という積極的な命令のことばが出ており,ついでボアズの例(ルツ 2:4)があげられています。―ベラコス 9:5。」―『ものみの塔』1971年10月1日号、581~583項「崇拝にさいして神のお名前を用いておられますか」
このようにミシュナの記録を見ていくと、神殿崩壊以前のユダヤにおいて、大祭司や祭司が神殿の中にいる時以外の状況においては、その御名を「その固有の文字を用いて発音する」ことは許されていなかったことがわかります。つまり、新約聖書が書かれた紀元一世紀当時、既にその地域では御名を発音することが禁じられていたのです。
このようなミシュナの記録が、エホバの証人にとって不利なものであることから、協会はミシュナの伝承の歴史的な価値を「疑わしいもの」であると主張しています。そしてその根拠として、「ミシュナは一方では御名の発音を禁じておきながら、最初の箇所では御名を用いるよう命じているという点において矛盾している」と主張していますが、この主張には二つの問題点があります。
これら後者二つの否定的な見解がしるされているにもかかわらず,ミシュナの最初の箇所には,「人は[神の]御名[を用いて]仲間とあいさつすべきである」という積極的な命令のことばが出ており,ついでボアズの例(ルツ 2:4)があげられています。―ベラコス 9:5。
(1)実際にベラコスの該当の箇所を確認すると、引用されているボアズの挨拶(ルツ2:4)では「エホバが共におられるように」ではなく、「神が共におられるように」となっており、「エホバ」が「神」に置き換えられています。つまり、「人は御名を用いて挨拶すべきである」という命令は、「神の御名を発音するように」という意味ではなく、「挨拶の時に神による祝福の言葉を添えるように」という意味であることがわかります。
(2)ものみの塔は、紀元一世紀の歴史的背景を説明するために、度々ミシュナの記録を引用・参照していますが、その際に「ミシュナの伝承の価値は疑わしい」といちいち加えることはしていません。この事実は、協会がミシュナの伝承について、ある程度の信頼性を承認していることを示すものです。自説に合わない時だけその信憑性を疑問視するのは、一貫性のある態度とは言えません。
結論として、この点に関する協会の主張は根拠の欠いたものであり*[2]、御名を発音することに関するミシュナの伝承を疑うべき十分な理由は存在しません。
七十人訳と死海写本におけるテトラグラマトン
先に結論を申し上げると、七十人訳や死海写本に神の御名テトラグラマトンがどれだけ出てきたとしても、そのことと、当時のユダヤ人が神の御名を「発音」したかどうかは、全く別の問題です。なぜなら、紀元一世紀当時も、それ以降の時代においても、ユダヤ人が用いるヘブル語聖書には、神の御名テトラグラマトンが普通に表記されてきたからです。
上記でも引用しましたが、ここでミシュナの記録を再度確認します。
サンヘドリン 10:1は,「きたるべき世にあずからない」者たちを列挙して,「アバ・サウロいわく,御名をその固有の文字を用いて発音する者もその一人である」としるしています。
この伝承の記録は、(1)当時のヘブル語聖書の巻物に、依然として「その御名の固有の文字」が含まれていたこと、(2)しかし、その御名の発音は許されていなかったこと、を示しています。
また、より後代のマソラ学者たちは、ヘブル語聖書の正確な発音を保持するために、ニグダーという振り仮名を付けましたが、神の御名の箇所だけには、その御名を正確に発音させるための振り仮名ではなく、「アドナイ」(主)と読ませるための振り仮名を付しました。このような歴史的背景からも、紀元一世紀だけでなくより後代においても、ヘブル語聖書に御名が保持され続けてきたことがわかります。
このような点を考慮すると、聖書に御名が表記されていたかどうかと、その御名が発音されていたかどうかは全く別の問題であったことがわかります。証拠は、ヘブル語聖書にテトラグラマトンが保持されてきたこと、ユダヤ人がそれを「主」と読み替えてきたことを明らかにしているのです。
新約聖書の筆者たちは、エホバを含めたのか?
ものみの塔の主張
まず、数万点に上る現存する新約聖書の写本の中で、テトラグラマトンを含むものは、一つも存在しません。そのことを理解した上で、この点に関するものみの塔の主張を再度確認しておきます。
新約聖書の筆者たちは、エホバの名を書簡に含めたはずである。しかし、2~3世紀の背教したクリスチャンが、その名を除く改ざんを行った。つまり、現存する写本の中には、未だ重大な改ざんが含まれている。そのように考える理由は、新約聖書の時代になって、突然その御名が用いられなくなるのは不自然だからである。
この主張の正当性を吟味するためには、現代の聖書の信頼性の根拠について、しっかりと理解する必要があります。
原典の回復作業―下等批評学の成果について
エホバの証人の新世界訳聖書が、原典の内容を正確に反映しているとする根拠はどこにあるのでしょうか?新約聖書の部分において、その底本として用いられているのは、ウェストコットとホートによる「ギリシャ語原語による新約聖書」(1881年初刊)です。したがって、新世界訳聖書の正確性は、基本的にウェストコットとホートによるギリシア語本文の正確性に依存していることがわかります。
では、そのギリシア語本文が正確であるとする根拠とは何でしょうか?それは、下等批評学と呼ばれる本文研究の分野において、膨大な写本の比較が行われた結果、今日の聖書で底本として用いられるギリシア語本文が、原典の内容を99.9%以上正確に再現していると結論づけられていることによります。そして、残りの0.1%の部分で議論されている箇所も、句読点をどこに打つか、という程度の問題であり、重要な教理に関わる部分では無いことが明らかになっています。
そして、ものみの塔協会が、この本文研究の成果を土台とし、新約聖書の正確性を主張していることは、次の出版物の説明からも明らかです。
「クリスチャン・ギリシャ語聖書に関して,フレデリック・ケニヨン卿は次のように述べました。『したがって,原文がまとめられた年代と現存する最初期の証拠の年代との隔たりは,事実上無視できるほど小さくなっており,聖書は実質的には書かれたとおりに我々のもとに伝わってきた,ということに対する疑いの最後の根拠は今や取り除かれた。新約聖書の各書の信ぴょう性も全体として元のままの形を保っている点も最終的に確証されたとみなすことができるであろう』」―『洞察二巻』10項
さて、ものみの塔が主張する通り、現存するどの写本にも見出されない「エホバの御名の改ざん」が事実だとすれば、それは重大な改ざんであり、「聖書の原典は今日まで正確に伝えられてきた」とする協会自身の主張と決定的に矛盾することになります。
さらにその場合、「エホバの御名」だけでなく、未だ発見されていない他の改ざん箇所が存在する可能性も同時に浮上することになります。すると、エホバの証人がその底本として使用するギリシア語本文の信頼性は、根底から覆ることになり、そのギリシア語本文に依存している新世界訳聖書の信頼性も台無しになるのです。
つまり、「未だ重大な改ざんがある」と主張しながら、「新世界訳聖書は信頼できる」と説明することは不可能であり、矛盾しています。エホバの証人の聖書が信頼に値すると主張するならば、「エホバの御名の改ざん」も無かったとしなければ、辻褄が合わないのです。
結局のところ、神の御名を勝手に書き換えているのは、2~3世紀のクリスチャンではなく、現代のものみの塔協会の方だと言えるでしょう。
一世紀のクリスチャンは誰の名によって知られていたか
そもそも、クリスチャンという名称に「キリストに属する者」という意味があることからも、クリスチャンが「イエスの御名」によって知られてきたことは明らかです。しかし、十分な答えを明らかにするため、使徒の働きから順を追って確認を進めていきたいと思います。
「しかし,聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」(使徒1:8)
イエスは、聖霊の傾注によって、弟子たちが「私の証人」となる、と予告されました。つまり、「エホバの証人」ではなく、「イエス・キリストの証人」となることが、クリスチャンに与えられた使命となったのです。
「この方こそ,『あなた方建築者たちにより取るに足りないものとして扱われたのに隅の頭となった石』です。12 さらに,ほかのだれにも救いはありません。人々の間に与えられ,わたしたちがそれによって救いを得るべき名は,天の下にほかにないからです」。さらに,ほかのだれにも救いはありません。人々の間に与えられ,わたしたちがそれによって救いを得るべき名は,天の下にほかにないからです」(使徒4:11-12)
救いを得るべき唯一の御名は、「イエス」であるとペテロは証言しています。彼は「エホバ」ではなく、「イエス」だと宣言したのです。
「そのため,これらの者は,彼の名のために辱められるに足る者とされたことを歓びつつ,サンヘドリンの前から出て行った。42 そして彼らは毎日神殿で,また家から家へとたゆみなく教え,キリスト,イエスについての良いたよりを宣明し続けた。」(使徒5:41-42)
もしもクリスチャンにとって最重要な御名が「エホバ」だったのであれば、彼らは命がけでその御名を発音したはずです。しかし、彼らが命をかけたのは、「エホバの御名」ではなく、「イエスの御名」に対してでした。また、彼らが宣べ伝えたのは、「キリスト,イエスについての良いたより」でした。
「しかしアナニアは答えた,「主よ,わたしは多くの人からこの男について聞いております。エルサレムにいるあなたの聖なる者たちに対し,害となる事をどれほど多く行なったかということを。14 そしてここでは,あなたのみ名を呼び求める者を皆なわめにかけようとして,祭司長たちから権限を受けているのです」。しかし主は彼に言われた,「行きなさい。わたしにとってこの者は,わたしの名を諸国民に,また王たちやイスラエルの子らに携えて行くための選びの器だからです。16 彼がわたしの名のためにいかに多くの苦しみを受けねばならないかを,わたしは彼にはっきり示すのです」(使徒9:15-16)
エルサレムにいた弟子たちは、「イエスの聖なる者」と呼ばれており、「イエスの御名」を呼び求めていました。「エホバ」という御名によって知られてはいませんでした。
またイエスは、パウロを使徒として召命する目的は、「エホバの名」ではなく、「イエスの御名」を諸国民に伝えるためであり、パウロが「イエスの名」のために苦しみを受けると語りました。
結論
一連の考察から明らかになったのは、次のような点です。
(1)紀元一世紀のユダヤ人が用いる聖書には神の御名が依然として含まれていたが、彼らはその御名を発音せず、「アドナイ」と読み替えていた。したがって、七十人訳の写本や死海写本に神の御名が含まれていても、それは当時のユダヤ人がその御名を文字通りに発音した証拠とはならない。
(2)新世界訳聖書の底本として用いられているギリシア語本文は原典の内容を正確に再現しており、その事実はものみの塔協会も認めている。つまり、未だに「御名の改ざん」という重大な問題が残されている可能性は無い。
(3)新約聖書は、初期のクリスチャンたちが、「エホバ」ではなく、「イエス」の御名を呼び求め、その名によって知られていたことを証明している。
つまり、使徒15:14でヤコブが言及した神の御名とは、「エホバ」ではなく、「イエス」だったのです。
「シメオンは,神が初めて諸国民に注意を向け,その中からご自分のみ名のための民を取り出された次第を十分に話してくれました。」(使徒15:14)
彼らは、神の御名「イエス・キリスト」をふれ告げ、その名を「救いを得るために知るべき唯一の御名」として掲げていたのです。
「ほかのだれにも救いはありません。人々の間に与えられ,わたしたちがそれによって救いを得るべき名は,天の下にほかにないからです」(使徒15:12)
なお、筆者としては、クリスチャンが最も用いるべき御名が「イエスの御名」であるとしつつも、各人の判断によって「YHWH」で表される神の御名を用いることは全く問題無いと考えています。実際に、聖書の神を表現する際に、固有名を用いた方が良い場合もあるからです。ただし、筆者の場合は、「エホバ」という呼び名が誤読である可能性が高いことから、その御名を用いる際は、「ヤハウェ」と呼ぶことが多いです。
脚注
[1] この聖句の解釈に関係なく、一世紀のクリスチャンが「イエスの御名」を呼び求めていたという事実は、結果的にはキリストの神性を証明するものとなります。
[2] ここで引用した『ものみの塔』の記事は、1971年発行の大分古いものですが、その後の出版物の中では、神の御名に関する同様のミシュナーの記録を紹介している記事を見つけることができません。推測ですが、協会側が、掲載後に自説の問題点に気付いた可能性が考えられます。
わたしの想像なんですが、ものみの塔の組織ははじめ比較的まともで、あとで入った羊の皮をかぶった背教者のせいで今のわけわからん団体になったのかもしれません。
統治体や組織や成員をけちょんけちょんにけなしてもいいと思うのですが彼らを導く霊的な存在については用心したほうがいいと思います。
もしもの場合がありますから。
ものみの塔は、ラッセルが始めた時から、神が用いてきた団体ではないと思います。「外れた預言」に基づいて始まった宗教ですから。以下の記事も、参考になるかと思いますよ。
https://gospel-jw.com/letter-elders-webmaster/