新生した神の子供として、天の父とイエスに祈る|キリストの証人になる④
神の子供として天の父に祈る
エホバの証人は天の父だけを神とし、祈る時にはいつも父に祈ってきましたが、キリストの証人となった後も、天の父への祈りの必要性と重要性は変わることはありません。神への祈りの基本は、天の父に対し、イエスの名によって、聖霊の助けによって祈ることです。
一方、大きく変わった素晴らしいこともあります。それまでのエホバの証人としての祈りは、「父よ」と呼びかけてはいても、実際には神の子供という立場からの祈りではありませんでした。しかしこれからは、実際に神から生まれた神の子供として、天のお父さんに祈ることができるようになったのです!
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」(ローマ人への手紙 8:15~16)
ですから、神の子どもとして新たに生まれ変わった今、もう神との関係に恐れを感じる必要はありません。イエスの血によって、信じる者と神を隔てていた罪という壁は取り除かれたからです。祈る時には、イエスの血によって、大胆に天の父へと近づいて下さい。
「罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」(ヘブル人への手紙 10:18~20)
主イエスに祈る
エホバの証人は、イエスには一切祈っては来ませんでした。なぜなら証人たちにとって、イエスは神ではないからであり、神ではない存在に祈ることは偶像礼拝になるからです。それが、統治体がイエスに祈ることを信者に教えない根源的な理由だと考えられます。しかし、イエスが神であるなら、イエスにも祈ることができます。実際、クリスチャンは「イエスの名を呼び求める」民なのですから、イエスに祈るのは自然であり、当然のことなのです。
「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」(ヨハネの手紙 第一 1:3)
使徒ヨハネもはっきりと、「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」と教えています。ここで「交わり」と訳されているギリシア語「コイノニア」は、エホバの証人の新世界訳では「結びつき」と訳されています。間違いではありませんが、組織の理解が色濃く反映されており、意味を十分に伝えてはいません。
「コイノニア」の意味は、単に「AとBがつながっている」という状態(結び付き)だけでなく、「共通のものを分かち合う」「親密に言葉や心を交わす」「共感する」という、動的で温かみのある関係性を表す言葉なのです。つまりクリスチャンは、天の父とだけでなく、「主イエスとの親密な交わり・関係」にも招かれているのです!
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(ヨハネの黙示録 3:20)
ここでイエスは、誰でもイエスの声を聞き、戸を開けて彼を家の中へ迎えるなら、その人は彼と共に食事をする、と語っていますが、「食事をする」とはどのような意味でしょうか?聖書的・ユダヤ的には「親密な交わりをする」という意味です[1]。イエスは確かに、全ての信者を彼との親密な交わりの中へと招いているのです。
ですから、これからは天の父だけでなく、主イエスに対しても祈り、自由に語りかけ、親密な交わりを持って下さい。主は、あなたが主との交わりに心を開く時を切に待ち望んでいます!
私の友人で、元エホバの証人のクリスチャンの比嘉さんは、エホバの証人から出てくる際、一時期は神概念がはっきりしなくなり、誰に祈ったら良いのかわからなくなる辛い時期を過ごしました。そんなある日、「イエス様」とはじめてイエスに祈ったところ、雲の中にいるような神の臨在に包まれて、主がそばにいることをはっきりと体験したそうです。イエスに祈り、主と交わることが神の御心であること感じさせてくれる素晴らしい証しです。
脚注
[1] 聖書時代、ユダヤ文化の中において、食事は親密な交わりを持つ上で欠かせないエッセンスでした。例えば聖書には、ペンテコステの日以降の当時の教会の様子として、「家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし」とあり、食事が親しい交わりを表すものとして表現されています。(使徒2:46)






