エホバの証人からキリストへ|元JWの救いの証


幼少期からエホバの証人へ

自宅に伝道で訪問してきたエホバの証人に母が接したのは、私が一歳半の時でした。まもなく父も信じ、社会との精神的な接触を禁じるカルトの洗脳教育に取り込まれていきました。

ともあれ本能的に、私には宇宙を貫く正義・真理なるものを強く願う欲求がありました。そんな中、「神がまもなくこの社会を裁き、悪人を必ず滅ぼす」その教えがある時特別に心に入り、その時子供ながら、自分はこの方に仕えようと固く決意しました。

折しも当時、グリコ・森永事件、インドの首相やフィリピンの反政府指導者の衝撃的な暗殺、学校でのいじめもあり、正義感の強かった私はこうした気ままで邪悪な社会に強い怒りを抱いていました。

「主イエスは私たちの罪のために死なれ、葬られ、復活された」教育の中、ある時から自然にそう信じられるようになりました。しかしその信仰は、三位一体に基づいてはいませんでした。

組織の中での葛藤

時は過ぎて行き、信者同士あいさつもしない、子供たちが次々に離れていくなど、教団の中での様々な堕落を目の当たりにするようになりました。しかし、たとえ教会を変わっても主イエスを捨てない私たちと同じく、自分が脱会するという発想はまったくありませんでした。

なぜなら彼らの教えでは、ユダヤ人が神に見捨てられた中で自分たちのグループこそがⅠペテロにあるとおりの選ばれた国民であり、その所属が救いに至る唯一の道だったからです。

家から家の伝道にも携わりましたが、応対しても自分たちを論破しない自称クリスチャンを思う時、その確信が弱まることはありませんでした。

そんな中、さらに時は過ぎて社会はITブームとなり、インターネットが家庭に流通するようになりました。ネットには背教者の教えが多々あるゆえにそれを決して見てはならないと言われており、自分も同意していましたが、一方であいさつがないなど人間関係の不満は相変わらずあり、その結果、脱会はしないものの教団への若干の反抗の意味もあり、ついにそれを見るに至りました。

崩れ落ちた偽りの教え

そこでは、教団の教理を論破する強力なサイトが待ち受けていました。主イエスは1914年に再臨してはいない、輸血拒否は誤りである、信者は全員天に行く―この教団の根幹を成す教理の牙城が、突如、一瞬にして崩れ落ちていきました。それを成し遂げたのは背教者の中傷でも不信者の戯れ言でもなく、引用されていた聖書の御言葉そのものだったのです。

その頃ちょうど並行して、サイトとは無関係に突然、主イエスの復活は肉体を伴ったものだとの理解が与えられました。イエスは天使と同じ霊の体に復活したというのが教団の教えだったのですが、それは聖書が教える復活ではなかったのです。こうして、福音の三要素の最後がついに出揃うことになりました。しかしそれでも、私は救いにあずかってはいませんでした。

一方、その後三位一体も信じた自分に、ある時ローマ11:1節が与えられました。それは、「神はご自分の民イスラエルを退けてはいない」との真理でした。彼らが捨てられてないのであれば、そもそも新しいグループが神から任命されることは、論理的にない。教団では決して開かれなかったこの聖句が、私を直接の脱会に導きました。この場所で偽物の神に騙されてから、30年余りのことでした。

組織の外での葛藤

しかし、カルトから解放されてもそれは一つの事実にすぎず、必要な心の喜びや平安はありませんでした。社会との接触は遮断されていましたので、事実上仕事ゼロ、貯蓄ゼロ、友人ゼロ。解放され支援者から喜ばれ、語学を活かした専門職に即就ける拉致被害者以下の境遇。せめてもの仲の良い人が欲しかった、それだけは神から与えて頂きたいと願ったのですが、それも叶いませんでした。結果的に、真理は私を自由にしなかったのです。

なお、子供の頃から時々あったのですが寝入りばなには今や頻繁に悪霊から襲われ、睡眠妨害を受ける日々でもありました。しかし皮肉にもその攻撃が、逆に教会を探して出席する動機になりました。私が教会に行くから、その代わり悪霊の攻撃から守ってほしいという、切実な神への願いでした。

ですが、悪霊の妨害はやや減ったものの、私が求めていたより良い人間関係は、既存の教会からは得られませんでした。ちなみにハーベスト・タイムを知ったのは、ちょうどその頃でした。

神への怒りと悔い改め

キング牧師の言葉「最大の悲劇は悪人の残酷さではなく、善人の沈黙である」私は、これに強く共感していました。人間関係の慰めは今必要なのに、神は私を助けない、祈りを聞かれない、すべては将来の希望に丸投げしたまま―

子なる神へは十字架の恵みゆえに感謝しかありませんでしたが、父なる神への激しい反感が止まりませんでした。つまりは、子供の頃私が仕えると決意したのは神ではなく、正義という概念だったのです。その概念に神は達しないと判断した時、私は徹底的に神を糾弾することを厭いませんでした。

そんな中、出席していた教会である未成年が突然私を罵倒してきました。
「(私の名前→)〇〇さんは、信用できない」

理不尽な侮辱に、正義感あふれる私は普通なら激高するところなのですが、ただ、そこでなぜか怒りとは別の感情が生まれてきました。それは悲しみでした。

「勝手な妄想に取りつかれ、人を公平に知ろうともしない。私を知りさえすれば、真実はすべて分かるのに」

しかしそこで、ハッと気づいたのです。これは、立場こそ違うが、じつは自分の姿ではないかと。そしてこの悲しみこそ、私に対する御父の心なのではないのかと。

そこで、問題が自分にあることを認め、シンプルに思いました。「神を悲しませることは、もうやめよう」放蕩息子の兄のように形式上は敬虔であった私が、悔い改めた瞬間でした。

神との和解―バプテスマへ

その後、なぜか60分でわかる旧約聖書「民数記」のメッセージに導かれました。そこではキリストの予型である青銅の蛇についての講解がなされていました。

「もし蛇が人を噛んでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」(民数記21:9、新改訳)

“噛まれたらほとんどの人は傷を見る、なぜ上を見ないのか”

なるほど、自分の傷がどれほどのものか、痛むのかは問われていない、シンプルに、見上げれば癒される。それは何年も何十年もかかることではない、ほんの1秒ほどで済むこと。でもその招きに、気づかなかったのです。

私はありのままの神を信じ、そして救われました。福音の三要素はただの知識ではなく、今や信頼をもって正しく信じれるものになりました。人間関係は相変わらずの関心事ですが、それ以上に私には神からのささやかな平安が与えられています。それは私を支えるに足るものであり、私は今かつて疎んじた将来の希望によって喜んでいます。

「今後の自分に対し、神は果たしてどんな御心を持っておられるのだろうか」この思いに胸をときめかしつつ、祈りのうちに、これから自分の天命をひたむきに探していきたいと思っています。

※追記

この方の証についてさらに知りたい点、質問等ありましたらどうぞお気軽にお問合せください。ご本人の了承により、喜んでお伝えいたします。

著作の紹介

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