地獄・霊魂不滅② 愛の神エホバが地獄で人を苦しめるはずがない?

「愛の神が、人を地獄で永遠に苦しめるはずがない」この考えは、実はどのような聖書の言葉よりも、地獄の存在を否定する上で、エホバの証人の主張の根拠となってきた土台であり、ラッセルが地獄の存在を否定する根本的な理由となったものです。

聖書は確かに「神は愛である」と教えていますが、その愛の性質と地獄の存在は本当に矛盾するのでしょうか?本記事では、この重要な質問に向き合っていきたいと思います。

エホバの証人の主張

すでに​学ん​だ​よう​に,ある​宗教​で​は,悪い​こと​ばかり​し​た​人​は​死ん​で​火​の​燃える​責め苦​の​場所​に​行き,永久​に​苦しめ​られる​と​教え​ます。しかし,この​教え​は​神​を​辱める​もの​です。エホバ​は​愛​の​神​で​あり,その​よう​に​人​を​苦しめる​こと​は​決して​ない​から​です。(ヨハネ​第​一 4:8)親​に​従わ​ない​子ども​を​罰する​ため,その​両手​を​火​の​中​に​入れ​て​押さえつける​人​が​いる​と​し​たら,どう​思わ​れ​ます​か。・・何​と​残酷​な​人​だ,と​思う​でしょ​う。しかし​わたしたち​が,エホバ​は​人間​を​火​の​中​で​永久​に​責めさいなむ​と​考え​て​しまう​なら,それ​こそ​サタン​の​思うつぼ​な​の​です。(『聖書は実際に何を教えていますか』第6章17節)

このエホバの証人の教えを聞くと、確かに神が人を火の中で苦しめることなどあり得ない、と思えるかもしれません。「親​に​従わ​ない​子ども​を​罰する​ため,その​両手​を​火​の​中​に​入れ​て​押さえつける​人​が​いる​と​し​たら,どう​思わ​れ​ます​か。」という言葉には、私たち人間が持つ自然の感覚に見事に訴えるかけるものがあります。

しかし、この主張には盲点もあります。「愛の神と地獄の存在は矛盾する」という人間の感覚が、地獄を否定する主張の最大の土台になっている、ということです。聖書の言葉そのものよりも、神から離れた罪人の理性や感覚が、その主張の土台となっているのです。

地獄であれ、どんな教えであれ、私たちが真理を見出そうとする時には、いつでも自分の考えを脇に置き、どんな人間の言葉よりも、神の言葉が何と言っているのかに思いを向けなければなりません。

「『あなた方​の​考え​は​わたし​の​考え​で​は​なく,わたし​の​道​は​あなた方​の​道​で​は​ない​から​で​ある』と,エホバ​は​お告げ​に​なる。 9 『天​が​地​より​高い​よう​に,わたし​の​道​は​あなた​の​道​より​高く,わたし​の​考え​は​あなた​の​考え​より[高い]から​で​ある。』」(イザヤ55:8〜9)

神の義と聖さの啓示:神の性質は愛だけではない

神は焼き尽くす火でもある

誰かに神の主要なご性質について話す際に、私は三つのことを伝えます。それは「愛」「義」「聖さ」です。これら三つの性質において、神は永遠に完全なお方です。例えば、神の前で常に賛美をしているケルビムは、「愛なるかな、愛なるかな」とは言っていません。「聖なるかな、聖なるかな」と昼も夜も叫び続けています。

神の聖さは、どのような罪からも完全に分けられているため、罪は神に近づくことはできません。実際、その方の周りには燃える火があり、その火は全ての罪を焼き尽くす火なのです。(ダニエル7:9〜10)

「わたしたち​の​神​は​焼き尽くす​火​で​も​ある​の​です。」(ヘブライ12:29)

ですから、罪を悔い改めず、罪と一体化することを自ら望んだ人々が、罪と共に火で焼かれることは、実は神の聖さにおいては決して矛盾しているわけではありません。

イザヤが見た神の聖さと人の罪深さの啓示

イザヤ6章では、預言者イザヤが聖なる神の栄光の幻を見ますが、その栄光を目の当たりにした時に、自分の罪深さに愕然とする様子が描かれています。

「そして,この​者​が​かの​者​に​呼びかけ​て​言っ​た,『なるな,聖なるな,聖なる,万軍​の​エホバ。全地​に​満ちる​もの​は​その​栄光​で​ある』。 4 すると,呼ん​で​いる​者​の​声​で​敷居​の​軸​が​震え,家​も​しだい​に​煙​で​満たさ​れる​よう​に​なっ​た。

5 それ​から,わたし​は​言っ​た,『わたし災いだ! 沈黙​に​陥れ​られ​た​も​同然​だ​から​だ。わたし清くない人間あり,唇清くない住んいるから。わたし​の​目​は​王​を,万軍​の​エホバ​ご自身​を​見​た​から​だ』」(イザヤ6:3〜5)

言うまでもなく、イザヤは律法を守る忠実な信仰者でしたが、そのような義人でさえ、神の聖さを目の当たりにした時に、自分がいかに汚れた状態にあるのかを理解し、愕然としたのです。この幻は、私たちに重要な真理を明らかにしています。それは、聖なる者として神に用いられた忠実な信仰者でさえ、その聖さに対する理解や感覚は、神の聖さからは大きくかけ離れている、ということです。

地獄の火の裁きが不当だと考える人は、このイザヤと同じようなレベルで、神の聖さに触れたことがあるでしょうか?その聖さの前で自分がいかに罪深いかを痛感したことがあるでしょうか?きっとないでしょう。

地獄の裁きが実際に存在するのなら、私たちがまずしなければならないことは、罪に慣らされた地上の感覚を脇に置き、へりくだって真理を認め、悟りを得られるよう神に求めることです。地獄の裁きが十分に理解できないのは、神の聖さ・義への理解、その神の前での罪の重さへの霊的理解が十分ではないことから来ているからです。

管理人が実体験した神の聖さの啓示

ここで、私が実際に体験した神の聖さについての啓示をお話しさせて頂きます。かつて神を信じる前、エホバの証人になる前の私は、情欲に溺れた生活をしており、ポルノを見ることや淫行を行うことは日常茶飯事でした。その後、聖書を通して神を信じ始めてからは、そのようなことを一切行わなくなりましたが、それでも度々、思考の領域で葛藤を感じることがありました。

もっと神が望む聖さに到達したいと思った私は、思考の領域でも完全に解放されるよう、神に祈り求め始めました。ある日の教会での礼拝賛美の中で、「性の領域に対するあなたの御心を教えて下さい」と神に祈ったとき、突然天が開かれたような幻が与えられ、神の御座の前から、主の聖さが私に向けて流れて来たのです。その時私は、神が男女の性の交わりをいかに清く尊く創造されたのか、その聖なる思いに満たされ、それまでの人生では起こらなかったような悔い改めが起こりました。

もちろん、神を信じ始めてからは、かつての淫行を悔い改めていたので、再び同じ過ちを犯すことは無くなっていましたが、神の聖さを目の当たりにした時に、より深いレベルで過去の自分の罪への自覚が起こったのです。

この体験を通じて私は理解しました。罪に慣らされた私たち人間の感覚と、聖なる神の聖さとの間に、いかに大きな隔たりがあるのかをです。神の聖さを知るためには、人の力や努力ではなく、聖霊の助けが必要なのです。

天使たちの証言

たとえ神の聖さに対する霊的理解が足りず、地獄の存在を受け入れがたく感じるとしても、私たちには神が愛であり公正な方であることを信じる十分な理由があります。

地上のどんな人間よりも聖さにおいて完全な天のみ使いたちは、罪人の運命が地獄にあることを熟知しています。ですから、もしも地獄の裁きが不当だとしたら、彼らが心から神を賛美することは不可能なはず。しかし、実際には天の全ての天使たちは、全てを理解した上で神を愛し、主をほめ称えているのです。

「そしてわたしは,水をつかさどるみ使いがこう言うのを聞いた。『今おられ,かつておられた方,忠節な方,あなたは義にかなっておられます。このような決定を下されたからです。6 彼らは聖なる者と預言者たちの血を注ぎ出しましたが,あなたは彼らに血を与えて飲ませました。彼らはそうされるに価するのです』。7 また,わたしは祭壇がこう言うのを聞いた。『そうです,全能者なるエホバ神,あなたの司法上の決定は真実で義にかなっています』」(啓示16:5〜7)

私たちもやがて、主の再臨によって栄光の姿へと変えられる時、天使たちと同じようなレベルで真理の全貌を理解することになります。その時には、たとえ地獄が存在しても、その裁きが聖なる神の前に公正であることを十分に悟り、天使たちと共に神を讃えるようになるでしょう。

地獄の体験者たちは神の愛を疑ってはいない

百聞は一見にしかず

「愛の神が地獄で人が苦しむのを許すはずがない」と考える人は、例外なく、その地獄を体験したことがありません。つまり、その考えや論理は、実体験に基づくものではありません。日本語のことわざで「百聞は一見にしかず」とあるように、何であれ、実際に見た人や体験した人の証言には重みがあります。戦争のことを理解しようとする時に、戦争を経験していない人から話を聞くのと、実際に戦争を経験した人から話を聞くのでは、全くその意味が違うのと同じです。

ですから、「地獄の存在が神の愛と矛盾する」と考える人は、実際に地獄を体験した人々の証言に耳を傾ける必要があります。

私はこれまでに、神からの幻や夢、または臨死体験などによって、実際に地獄を体験した人々の証言を多く聞いてきました。彼らの証言は、地獄の実在を確信する上では十分なものであり、聖書の言葉とも一致します。そして興味深いことに、体験者の誰もが、その体験を通じて神の愛を疑うようになったり、信仰から離れたりするようにはなってはいません。むしろ彼らは、地獄の体験を通じて益々神を信じる生き方をするようになっています。今回、数ある地獄の体験談の中から、幾つかを紹介したいと思います。

自殺未遂で地獄を体験|タマラ・ラルー(Tamara Laroux)

タマラは、両親の離婚と崩壊した過程が原因で、人から拒絶感を感じるようになり、やがて自分の人生を終わらせるしか解決の道は無いと思うようになりました。ある日、母の部屋でピストルを自分に向けて銃を放ちましたが、死はタマラの人生の終わりとはならず、魂が体から抜け出て、地獄へと降下していきました。

苦痛に満ちた場所に所に落ちました。身体は炎で燃えていました。孤独とも感じず、憂鬱とも感じませんでした。私は憂鬱そのものになり、孤独そのものになっていました。周りの人達は痛みのために叫んでいました。全ての人達は同じように地上にいる人達にこう叫びました。「ここに来てはいけない。人生はイエス・キリストに繋がっていることを知りなさい」

ふいにタマラは、神様の手が自分に向けて降りてきたのを感じ、天国に引き上げられていきました。天国に着くと、そこは平和に包まれ、豪華で荘厳さに満ちていました。彼女は天国の詳細を見ることは許されませんでしたが、人生で初めて完全な平安と喜びを感じ、神様が自分を深く愛していることを知りました。

タマラは、ピストルでの自殺未遂という悲惨な出来事を通じて、地獄の苦しみを体験し、その地獄からの神の救出も体験しました。この体験はタマラを愛の神から遠ざけるどころか、むしろ神が愛であること、天国と地獄が実在する場所であることを彼女にはっきりと理解させるものとなりました。

この体験以降、タマラはイエス・キリストを信じるクリスチャンとなり、自身の体験談を通じて、神様の素晴らしさを伝え続けています。

Tamara Laroux のホームページ

地獄の中でイエスによる救出を体験|ハワード・ストーム

かつて大学教授として成功を収めていたハワード・ストーム氏は、ヨーロッパ旅行中に病で危篤状態に陥り、その時の臨死体験で愛も光も存在しない暗闇の場所へと連れて行かれました。彼の周りを取り囲んだ霊的な存在は、彼を傷めつけ、肉をズタズタに引き裂きました。そこでハワード氏が体験した心理的・肉体的な苦しみは、地上では想像もつかないほどの恐ろしいものでした。

苦しみの中で「神に祈りなさい」という声を聞いたハワード氏は、力を振り絞ってイエスに助けを求めました。すると、彼の元へ光が現れ、その眩しい光の中からイエスが現れたのです。その時に彼がイエスから感じた愛は、どんな愛とも比べることのできないほどの強大な愛であり、この世の言葉でその愛の力を伝えることはできない、語っています。

この愛の体験は私の根本を覆し、完全に変えてしまった。たとえ何が起ころうとも、神が常に私を愛している、ということを私は決して忘れないだろう。突然私は自分の罪深さに気付き始め、自分を恥じて恐ろしくなった。・・・私は聖なる神を前にして、まるで自分がゴミや汚いボロ布のように感じた。」(『臨死 そして与えられた二度目の人生』p.45)

その後、イエスの救出によって彼は癒され、地獄から天の近くまで引き上げられ、イエスや天使達と多くの会話をした後に、地上へ戻されました。息を引き取った時は無神論者だったハワード氏は、目が覚めた時には、イエスを信じるクリスチャンとして完全に生まれ変わっていました。ハレルヤ!地獄の悲惨さと、イエスの愛の両方を体験したハワード氏は、その後牧師となり、神の愛と死後の世界の真実を伝え続けてきました。

最後に、地獄が存在する理由と、神がそこに人が行くことを許す理由について、地獄の実体験者であるハワード氏が語ってくれている言葉を紹介します。

全ての良いものは神からきており、神のいない人生とは、全ての良いものが存在しないということである。神がいなければ、愛も、光も、希望も、喜びも、憐れみも、真実も、平安も無い。だから地獄では、憎しみ、闇、絶望、苦しみ、残忍さ、偽り、争いなどが現実となる。死後の経験は、生前個人が送ってきた人生によって決まる。これは個人の選択の結果なので神も介入されないし、天使たちも介入することができない。神は私たちの選択の自由を尊重されるのだ。

・・・神は全ての人を愛しており、たった一人の魂でさえ、その闇の中に落ちることを望んではおられない。天使たちは、神の愛を拒絶した者たちのことを話すだけで苦しんでいるようだった。人が地獄へ落ちる時に神が感じる苦しみを考えることさえ、私には耐えられなかった。

神は、誰一人として地獄に落ちて欲しくないが、その人が地獄へ行く決断をすることを止めることはない。天国へ行くか地獄へ落ちるかは、私たちの選択によって決まるのだ。私たちは神を受け入れているだろうか、それとも拒絶しているだろうか?もしその質問に対する自分の答えが分からない場合、それはすでに神を拒絶していることになる。(『臨死 そして与えられた二度目の人生』pp.82-83)

 

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