地獄・霊魂不滅③ エホバの証人の教えに反論する

死んだ者は何も知らない
知らない、と言う訳出の改善点について
死者の状態は,伝道の書 9章5節と10節で明らかにされています。そこにはこうあります。「死んだ者は何も知らない。……あなたが行こうとしているよみには,働きも企ても知識も知恵もない」。(「新改訳」)聖書によると,死とは無存在の状態です。死者には意識も,感情も,思考もありません。(『ものみの塔』2002年7月15日号)
ものみの塔のこの主張に対しては、二つ言うべきことがあります。
一つ目は、「死んだ者は何も知らない」と言う訳出についてです。この訳は2017年の改訂版からの訳ですが、1985年版では「死んだ者には何の意識もなく」となっていました。ここで「意識・知る」と訳される原語のヘブライ語「ヤダー」(Yada’)の基本的な意味は「知る」であり、「意識」と言う意味はありません。事実、他の表現で訳される場合も、常に知るという行為に関連して訳されます。
つまり、エホバの証人の1985年版新世界訳では、彼らの教理に合わせて意図的な誤訳・改ざんがなされていたのですが、流石に該当聖句に対する批判が多かったのでしょう。改訂版では「知らない」と言う正しい訳出に改善されました。
伝道者の世界観
二つ目の点ですが、ここで伝道者は「知らない」と言っているのであり、「意識がない」とは言っていません。もしも本当に意識がなければ、「知らない」と言う表現すら当てはまりません。また、ここでの伝道者の言葉を死者の状態に関する普遍的真理として適用していることに、そもそもの問題があります。
伝道の書を丁寧に読めばすぐにわかりますが、この九章は、死後の世界〜永遠の将来までを見据えた普遍的真理を語っているものではなく、著者にもその視点はありません。
「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もなく,彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら,彼らの記憶は忘れ去られたからである。6 また,その愛も憎しみもねたみも既に滅びうせ,彼らは日の下で行なわれるどんなことにも,定めのない時に至るまでもはや何の分も持たない。」(伝道の書9:5-6)
伝道の書での表現について抑えておくべきことは、著者の世界観です。この書の著者は、ソロモンの可能性が最も高いですが、丁寧に読み解いていくと、旧約聖書の他の書とは明らかに異なる、著者独自の世界観が垣間見えます。今回取り上げる9章においては「地上の生活が全てであり、死んだら全てが終わる」という世界観がはっきりと表されています。
ですから、もしも9章の聖句を引き合いに出し、人が死んだら無になるということを普遍的な真理として主張するなら、死んだら無になり、もはや何の希望も無い―つまり死後の裁きも復活の希望も無い、ということも普遍的な真理として主張しなければなりません。
しかし、そのような教えは、死者の復活と永遠の裁きを明確に示すダニエル書や、全ての行いには死後に必ず報いがあるとするイエスの教えとは対照的です。
「また,塵の地に眠る者のうち目を覚ます者が多くいる。この者は定めなく続く命に,かの者は恥辱に,[また]定めなく続く憎悪に[至る]。」(ダニエル 12:2)
伝道の書には、著者が人生の意義を神なしで追求した時に感じたことや考えたことが含まれており、全ての言葉に、霊的・普遍的真理が反映されていると考えるべきではありません。したがって、あくまで9章の言葉は、地上の人間から見た死者の状態を述べたに過ぎないものだと考えることができるでしょう。
その日に彼の考えは滅び失せる
人が死ぬと霊はどうなるのでしょうか。詩編 146編4節はこう述べています。「その霊は出て行き,彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる」。人が死んだ後に,その人の非人格的な霊が霊者となって別の世界で存在を続けることはありません。霊は「これをお与えになったまことの神のもとに帰る」のです。(伝道の書 12:7)これは,その人の将来の命の希望は今や全く神にかかっているという意味です。(『ものみの塔』2002年7月15日号)
この詩篇146編の聖句も、霊魂不滅の教えを論駁するためにエホバの証人がよく用いる聖句ですが、文脈を正しく捉えることが必要です。
「わたしは生きている限りエホバを賛美します。わたしのある限りわたしの神に調べを奏でます。
高貴な者にも,地の人の子にも、信頼を置いてはならない。彼らに救いはない。
その霊は出て行き,彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる。
ヤコブの神を自分の助けとする者は幸いだ。彼の望みはその神エホバにある。」(詩篇146:2〜5)
人の一生は短く、死ねばその人の地上での計画や考えは終わります。死んだ人には、もはや地上で生きている人間を救うことはできなくなります。そのような地の人の子を信頼してはならず、むしろ永遠の救い主である神を信頼しよう、というのが、この詩篇作者の言わんとしていることです。ですから、ここで著者は救う力の無い人間の儚さを地上から見た視点で述べているのであって、死者の状態を描写することとはあまり関係が無いのです。
死は眠りにたとえられている
イエス・キリストも死者の状態について述べています。親しくしていた人ラザロが死んだ時のことです。イエスは弟子たちに,「わたしたちの友ラザロは休んでいます」と言いました。・・(ヨハネ 11:11‐14)死を眠りや休みに例えられた点に注目してください。・・夢を見ることのない深い眠りについたかのように,死んで休んでいたのです。別の聖句でも,死が眠りに例えられています。例えば,弟子であるステファノが石打ちにされて死んだ時,ステファノは死の「眠りについた」と記されています。(使徒 7:60)同様に使徒パウロも,死の「眠りについた」当時の人たちについて書きました。―コリント第一 15:6。(『聖書は実際に何を教えていますか』第6章7節)
聖書が死者の状態を「眠り」にたとえているのは事実ですが、それはあくまで死者の肉体の状態に言及したユダヤ的な表現の一つです。また、聖書が死を眠りにたとえているのは、神には、死んで起こせない人を、あたかも眠っている人を起こすかのように起こすことができるからです。事実、ラザロの死を眠りにたとえたイエスは、あたかも睡眠中の人を起こすかのようにラザロを甦らせました。
そして将来、イエスはこれまでに死んだ多くの人を、あたかも眠った人々を起こすかのように、復活させることになります。
なお、既に亡くなったクリスチャンを「眠りについた」と表現したパウロ自身も、別の箇所では「この体から離れて主のもとに自分の住まいを定めることを大いに喜んでいる」と語り、肉体の死後に霊魂が天の主の元へ行く信仰を告白しています。(コリント第二 5:8)
罪の報いは肉体の死であり、死んだ者はすでに罪から放免されている
エホバの証人の主張
神はアダムに,神が決めたことを守らないなら死ぬことになると言ったが,地獄の火で苦しむことになるとは言わなかった。(創世記 2:17)神が決めたことをアダムが守らなかった時,神は「あなたは土なので土に戻る」と言いました。(創世記 3:19)これは,アダムは死んで存在しなくなるということです。もし神がアダムを地獄に送るつもりだったとしたら,そう言ったはずです。聖書には「罪の代償は死です」とあり,神は昔も今も,人を罰するために地獄に送ったりはしません。(ローマ 6:23)「死んだ人は自分の罪から放免されている」ので,死以外に罰はありません。(ローマ 6:7)―(『聖書の教え』聖書Q&A、聖書は地獄があると教えていますか)
エホバの証人は、聖書の中に出てくる「死」という言葉を「肉体の死」という意味で捉えるため、「罪の代償は死です」(ローマ6:23)という聖句を引き合いに出し「全ての人間は肉体の死を持って罪の代償を支払うのだから、その後にさらに地獄で苦しむことはあり得ない」と主張します。しかし、この前提と主張には大きな落とし穴があります。なぜなら、聖書は「死」という言葉を、肉体の死だけでなく、霊的な死を表すためにも用いているからです。
創世記2:17で神は「しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」と語りましたが、文脈上、アダムは「いつ」死ぬことになっていたのでしょうか?その答えは「それから食べる日」です。英語でも、「in the day」となっており、まさに罪を犯す「その日」に死ぬ、と神が警告されたことがわかります[1]。
「しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」(新世界訳)
「But as for the tree of the knowledge of good and bad, you must not eat from it, for in the day you eat from it you will certainly die.」(New World Translation 2013 Revision)
しかしアダムは「その日」、肉体的には死にませんでした。彼が塵に帰ったのは、それからおよそ1000年後だからです。では、「その日にあなたは必ず死ぬ」と言った神は、嘘をついたのでしょうか?そうではありません。なぜなら、「その日にあなたは必ず死ぬ」という警告は、肉体の死のことではなく「霊的な死」についてのことだったからです。
霊的な死とは、罪によって生じる神との関係の断裂のことです。それまでアダムは、エデンの園で神の臨在の中で暮らしていましたが、罪を犯したため、その日を境に神の臨在から切り離されてしまいました。それ以来、全ての人は肉体的には生きていても、霊的には死んでいたのです。
「一人の人がすべての人のために死んだ,だからすべての人は死んでいたのである」(コリント第二5:14)
「しかし,神は憐れみに富んでおられ,わたしたちを愛してくださったその大いなる愛のゆえに, 5 わたしたちが罪過にあって死んでいたその時にさえ,キリストと共に生かし ― あなた方は過分のご親切によって救われているのです」(エフェソス2:5〜6)
罪による霊的な死は、その後に肉体の死をもたらすことになりましたが、肉体の死が罪を取り除くわけではありません。事実、罪への罰が肉体の死で完全に解決するなら、イエスの贖いは不要だったことになります。聖書ははっきりと、罪を完全に取り除くのは、人の肉体の死ではなく、イエスの血だけだと教えているのです。
「そうです,律法によれば,ほとんどすべてのものが血をもって清められ,血が注ぎ出されなければ,許しはなされないのです。」(ヘブライ9:22)
ものみの塔はよく「死んだ人は自分の罪から放免されている」(ローマ 6:7)ので、肉体の死を通して罪への罰が終わっていると主張しますが、ローマ6章の文脈から大きく外れた解釈です。なぜなら、ここでパウロが言及しているのは、肉体的に死んだ人のことではなく、イエスの贖いへの信仰によって、イエスと共に十字架につけられて古い自分に死んだ後、新しい命へと復活した人のことを言っているからです。
「わたしたちが知るとおり,わたしたちの古い人格は[彼]と共に杭につけられたのであり,それは,罪深い体が無活動にされて,もはや罪に対する奴隷とはならないためです。死んだ者は[自分の]罪から放免されているのです。 8 さらに,キリストと共に死んだのであれば,彼と共に生きるようになることをもわたしたちは信じています」(ローマ6:6〜8)
ですから、もしもイエスへの不信仰によって罪の中に留まるなら、「霊的な死」の問題を解決しないまま肉体的な死を迎えるので、死後の世界において、神の臨在から断絶された世界である地獄へと向かってしまうのです。
しかし、イエスの招きに応答し、彼の贖いを通して主と共に死ぬことを選ぶなら、イエスが復活したように新しい命へと生まれ変わり、神の子どもとなり、死後に神の支配する天国へと迎え上げられるでしょう。
脚注
[1] 該当箇所は、ヘブル語の原文においても「その日の内に死ぬ」という意味で書かれています。






