イエス・キリストは神ですか? 三位一体の聖書的根拠を論じる


1914年は「キリストの臨在の始まり」ですか?

「イエス・キリスト」は、本当に礼拝されるべき神なのでしょうか?

この質問は、クリスチャンの信仰生活の根本に関わる重要なテーマです。なぜなら、「唯一の神を礼拝する」ということが、聖書の基本的な教えだからです。またこの問題は、キリスト教とエホバの証人との論争において、また三位一体を巡る論争においても、最も重要かつ中心的なテーマだと言えます。

本記事では、「キリストの神性」の根拠を聖書全体から捉え、このテーマに関する答えを提供していきます。「三位一体」が中々腑に落ちない現役や元エホバの証人の方々、またその教えの聖書的根拠について深く理解できていないキリスト教徒の方々にとって、本記事が役立つものとなれば幸いです。

※本記事では、特にエホバの証人との議論を念頭においているため、引用する聖句や用いる表現の多くについて、新世界訳聖書を参考にしています。例として、神の御名「ヤハウェ」については、原則として「エホバ」と表記します。

目次

キリストの神性―旧約聖書の証言

旧約聖書 巻物

ひとりの男子、エホバを得た(創世記4章1節)

「さて,アダムはその妻エバと交わりを持ち,彼女は妊娠した。やがて彼女はカインを産んで,こう言った。「わたしはエホバの助けでひとりの男子を産み出した」(新世界訳)

「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。」(新改訳)

この聖句は、エバがカインを生んだ場面を表していますが、ほとんどの聖書は、その難解さから、字義通りの意味を正確に訳すことを避けているようです。しかし、原典を直訳してその意味を掴むと、メシアの神性を示唆するとても興味深い箇所であることがわかります。この点については、ユダヤ人の神学者アーノルド・フルクテンバウム博士の見解を、以下に引用させていただきます。

創世記4:1のヘブル語原典を直訳すると、以下のようになる。

「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、言った。「私はひとりの男子、ヤハウェを得た」

「私はひとりの男子、ヤハウェを得た」という文は、それに続く文(創世記4:2)とまったく同じ文法構造である。

「彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。」

ここでエバが何を言っているのか、理解している聖書翻訳者はほとんどいないようである。そのため、既存の訳では、上記の直訳のようには訳されていない。エバは、創世記3:15のみことばから、神であり人である神人が蛇を打ち負かすとはっきり理解していた。そして、どうやらカインがその方(ヤハウェ)だと思ったようである。エバの神学は基本的に正しい。メシアは人であると同時に神である。エバが間違っていたのは、その適用である。エバは、初子のカインが約束されていた神人だと思い込んだ。エバがその間違いにすぐに気づいたことは、弟アベルの誕生記事を読めばわかる。エバが付けたアベルという名の意味は「空しさ」である。」―ハーベストタイム『メシア的キリスト論』(電子書籍版)、No.579~588。

エホバのみ使い(主の使い)

「エホバのみ使い」とは

旧約聖書の多くの箇所に、受肉前のメシアが「主の使い」として登場します。そして、興味深いことに、「主の使い」は多くの箇所で、「主なる神ご自身」として語り、行動しているのです。まずは、他のみ使いたちと混同しないよう、その表現を分類・定義します。

(1)エホバみ使い(新世界訳)、主の使い(新改訳)、
・ヘブル語:マラク・ヤハウェ
「エホバのみ使い」(新世界訳)は、単なる肩書ではなく、ヘブル語の文法上、固有名詞として登場し、他のみ使いたちとは区別されています。そして、「使い」は常に単数形で表記されます。(創世記16:7~11、出エジプト3:2、民数記22:22~35、など)

(2)[まことの]神のみ使い(新世界訳)、神のみ使い(新改訳)
・ヘブル語:マラク・ハ・エロヒム
「使い」は常に単数形で、「神」には定冠詞「ハ」が付きます。文脈上、「主の使い」と同じ方を指して用いられます。(創世記31:11、出エジプト14:19、裁き人6:20~21、など)

(3)神のみ使いたち(新世界訳)、神の使いたち(新改訳)
・ヘブル語:マラヘイ・エロヒム
「使い」は複数形で、「神」に定冠詞は付きません。一般的な天使たちを表します。(創世記28:12、32:1、など)

このように、「エホバのみ使い」「神のみ使い」と呼ばれる方は、通常のみ使いたちとは明確に区別されているわけですが、「エホバのみ使い」が登場する場面を丁寧に読んでいくと、確かにこの方が「エホバご自身」として啓示されていることが明らかになるのです。

ここから、具体的な聖書箇所をご紹介していきますが、該当箇所の全文を引用すると長くなってしまいますので、ぜひお手元に聖書を用意し、実際に開いて確認してみてください。

創世記16:7~14「ハガルとの会話」

女奴隷ハガルが、サラから逃げていく場面ですが、そこへ「エホバのみ使い」が現れ、ハガルと会話します。しかし、13節以降を読むと、ハガルは自分が話していた相手を「エホバご自身」だと認識したことがわかります。

そこで彼女は,エホバつまり自分に語りかけておられた方の名を,「あなたはご覧になる神です」と呼ぶようになった。彼女は,「わたしを見ていてくださる方を,わたしはここで実際に見たのでしょうか」と言ったのである。

創世記22:11~12「イサク奉献」

アブラハムがイサクを捧げる有名な場面ですが、天から声をかけて奉献を止めたのが「エホバのみ使い」です。アブラハムは、イサクを神に捧げようとしたわけですが、12節を見ると、「あなたが・・ひとり子をさえわたしに与えることを差し控えなかった」とあり、「エホバのみ使い」が神と全く同列に置かれていることがわかります。

ところが,エホバのみ使いが天から彼に呼びかけて,「アブラハム,アブラハムよ!」と言った。それに対して彼は,「はい,私はここにおります!」と答えた。12 すると[み使い]はさらに言った,「あなたの手をその少年に下してはならない。これに何を行なってもならない。わたしは今,あなたが自分の子,あなたのひとり子をさえわたしに与えることを差し控えなかったので,あなたが神を恐れる者であることをよく知った

創世記31:11~13「ベテルの神」

ラバンの元にいたヤコブに現れたのは、「神のみ使い」(マラク・ハ・エロヒム)です。新世界訳聖書では、[まことの]という修飾語が付され、他の天使と区別して訳されています。そして13節を見ると、このみ使いは、「ベテルの[まこと]神である」と名乗っています。また、ヤコブはベテルでエホバに誓約を立てていますが(創世記28章)、その誓約は「エホバのみ使い」に対するものであったことも明らかにされています。

そのとき[まことの]神のみ使いが夢の中でわたしに向かって『ヤコブよ』と言い,わたしは『はい,ここにおります』と言った。12 すると彼はこう続けた。・・・13 わたしはベテルの[まことの]神である。あなたはそこで柱に油をそそぎ,そこでわたしに誓約を立てた。今,身を起こしてこの地を去り,あなたの生まれた土地に帰りなさい』

創世記32:24~30「ヤボクの渡し」

この場面は「ヤボクの渡し」と言われ、ヤコブが祝福を求めて主の使いと格闘する有名な箇所です。ここでは、「エホバのみ使い」「まことの神の使い」という固有名詞は出てきませんが、文脈上、その方であったことは明らかです。なぜなら、ヤコブが戦った相手は「神また人」であったと啓示されているからです。この事実は、やがて来られる救い主が「神人」であることを示すための伏線であったと考えられるでしょう。

28 するとその人は言った,「あなたの名はもはやヤコブではなく,イスラエルと呼ばれる。あなたは神また人と闘って,ついに優勢になったからだ」。29 それに対しヤコブは尋ねて言った,「どうかあなたのお名前を教えてください」。しかしその人は言った,「わたしの名を聞こうとするのはどうしてか」。そう言って彼はそこで[ヤコブ]を祝福した。30 ゆえにヤコブはその場所の名をペニエルと呼んだ。彼の言うところでは,「顔と顔を合わせて神を見たのに,わたしの魂は救い出された」からであった。

なお、聖書的には、「人は神を見たら死ぬ」という教えがあり、それがユダヤ人の伝統的な認識となってきたことが伺えますが、一方で、「神を見ても死なない場合がある」という点も明らかにされており、上記聖句の「顔と顔を合わせて神を見たのに,わたしの魂は救い出された」というヤコブの言葉がその双方を示しています。「見たら死ぬ神」とは父なる神のことであり、「見ても死なない神」とは、「エホバの使い」と呼ばれる受肉前のメシアのことです。

出エジプト3:2~4「モーセの召命」

いばらの茂みの中、モーセに現れたのは「エホバのみ使い」でした。そしてモーセが近づいた時、そのみ使いは「いばらの茂みの中から彼に呼びかけ」た、とありますが、話しかけたのは「神」だとされています。

その時,エホバのみ使いが,いばらの茂みの中,火の炎のうちにあって彼に現われた。・・3 そこでモーセは言った,「少し立ち寄って,なぜいばらの茂みが燃えてしまわないのか,この大いなる現象を調べてみよう」。4 エホバは,彼が調べようとして立ち寄ったのをご覧になり,神はすぐにそのいばらの茂みの中から彼に呼びかけて,「モーセ,モーセよ」と言われた。」

裁き人2:1(士師記)

ここで現れたのは「エホバのみ使い」ですが、そのみ使いは、イスラエルをエジプトから連れ上り、彼らと契約を結ばれた方であることが明らかにされています。そして、出エジプト19:4~5を見るなら、これらを実現された方は紛れもなく「エホバ」であることがわかります。

その時,エホバのみ使いがギルガルからボキムに上って来てこう言った。「わたしはあなた方をエジプトから携え出して,あなた方の父祖たちに誓った地に携え入れようとした。それでさらにこう言った。『わたしはあなた方との契約を決して破らない。』

結論

このように、旧約聖書の中では、確かに「エホバのみ使い」が「エホバご自身」として語り、行動される場面が一貫して登場するのです。なお、これらの記述について「その理由は、このエホバのみ使いが神の言葉を代弁しているのだ」という反論があるかもしれません。

しかし、通常聖書の中では、神の言葉の代弁者は、主の言葉を語り始める前に「主はこのように言われた」というニュアンスのフレーズを用います。しかし、「エホバのみ使い」の場合は、一貫して、そのまま主ご自身として語り始めるところに大きな違いがあるのです。

力ある神(イザヤ9章6節)

「君としての支配がその肩に置かれる。そして彼の名は,“くすしい助言者”,“力ある神”,“とこしえの父”,“平和の君”と呼ばれるであろう。」(新世界訳)

「権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。」(新共同訳)

数あるメシア預言の中でも、イエスの神性を最も明瞭に示す聖句であり、特に「くすしい助言者」「力ある神」という称号が注目に値します。

【くすしい助言者】ここで、「驚くべき」「くすしい」(英語:Wonderful)と訳されているヘブル語(Pele)は、旧約聖書中、合計13回登場する言葉で、常に神の御業の偉大さを表現するために用いられる言葉です。(詩編77:11,88:12、イザヤ25:11、など)したがって、キリストに対する「くすしい助言者」という称号は、イエスの神性を示すものとなっています。

【力ある神】メシアに対して、明白に「神」という称号が与えられていることは注目に値します。加えて、「力ある神」(ヘブライ語:エール ギッボール)という称号は、イザヤ10:21において、イスラエルの神に対しても用いられています。

「ほんの残りの者,ヤコブの残りの者が力ある神のもとに帰る。」(新世界訳)

エホバの証人は、イザヤ10章における「力ある神」を、当然「エホバ」だと理解しますが、エホバとイエスに対して全く同じ「力ある神」という称号が用いられている以上、イエスも神であると結論せざるを得ないことになります。

なお、聖書の中で、サタンや偶像に対しても「神」という表現が用いられているから、イエスが「神」と呼ばれているからといって、必ずしも「神ご自身」だと結論できるわけではない、という反論があります。

聖書がサタンや偶像を「神」と表現しているのは、それらの存在が、この世の人々から「神」として崇拝されているからです。したがって、聖書がイエスを「神」として表現するならば、それはイエスが崇拝の対象でることを示しているのであり、イエスを崇拝するよう召されているのは世の人々でなく神の民なのです。

自分たちが突き刺した者(ゼカリヤ12章10節)

「またわたしは,ダビデの家とエルサレムに住む者たちの上に恵みと懇願の霊を注ぎ出す。彼らは必ず自分たちが刺し通した者*を見つめ,一人[子]について泣き叫ぶかのように彼について泣き叫ぶ。また,初子のための激しい嘆きの時のような激しい嘆きがその者に関してある。」(新世界訳)

「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」(新改訳)

「And I will pour upon the house of David, and upon the inhabitants of Jerusalem, the spirit of grace and of supplication; and they shall look unto me whom they have pierced; and they shall mourn for him, as one mourneth for his only son, and shall be in bitterness for him, as one that is in bitterness for his first-born.」(ASV)

終わりの日におけるイスラエルの改心を示した預言であり「彼ら(ユダヤ人)は、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見」となっています。エホバの証人の新世界訳では、「自分たちが刺し通した者*を見つめ」となり、「わたし」が抜けてしまっていますが、原文では「わたし」となっており、ほとんどの逐語訳の聖書では、原文の通り訳出されています。

「自分たちが突き刺した者」とは、明らかにイエス・キリストのことですので、この預言を語り手は受肉前のキリストであることがはっきりと理解できます。

そして、ゼカリヤ12章の文脈を見るならば、この預言の語り手は明らかに「エホバ」なので、イエスはエホバである、という結論になります。

キリストの神性―新約聖書の証言

新約聖書 ヨハネの黙示録

「主」(キュリオス)という称号

旧約聖書全体において、唯一の神は「主」という称号で呼ばれてきました。特に、紀元一世紀頃になると、ユダヤ人は神の御名「ヤハウェ」を唱えることを恐れたため、神に対しては一貫して「主」(ヘブル語で「アドナイ」)という称号で呼びかけるようになっていました。つまり、ユダヤ的な視点において、「主」は「神の称号」なのです。

「あなた方の神エホバは神の神,主の主,偉大で力強く,畏怖の念を抱かせる神であり,だれに対しても不公平な扱いをせず,まいないを受け取ることもされず,」(申命記10:17)

「「見よ,わたしは自分の使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整えなければならない。また,あなた方の求める,[まことの]主がその神殿に突然に来る。そして,あなた方の喜ぶ契約の使者が。見よ,その者は必ず来る」と,万軍のエホバは言われた。」(マラキ3:1)

そして、紀元一世紀のクリスチャンは、救い主なるキリストに対して「主」という称号を用いるようになりました。この事実は、当時のクリスチャンが、イエスに「神の称号」を与え、旧約聖書における「ヤハウェ」と同等の存在として見做すようになったことを如実に示しています。

事実、旧約時代のイスラエル人は、主なる神ヤハウェの御名を呼び求め、その御名を信仰の中心としていましたが、新約聖書の時代になると、彼らは主なるキリストの御名を呼び求め、その御名を信仰の中心とするようになったのです。

「その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。」(ローマ10:9)

「しかしみ子についてはこうです。・・・「主よ,あなたは初めにこの地の基を据えられました。天はあなたのみ手の業です。」(ヘブライ1:8~10)

「これらの者は子羊と戦うであろう。しかし子羊は,主の主,王の王であるので,彼らを征服する。また,召され,選ばれた忠実な者たちも彼と共に[征服する]」(啓示17:14)※黙示録

なお、聖書の中で、「主」という表現が必ずしも「神」を意味するわけではないから、イエスが「主」と呼ばれたからと言って、「神」だとは言い切れない、とエホバの証人は言うかもしれません。一例として、確かにサラはアブラハムのことを「主」と呼びましたが(創世記18:11)、イエスの場合は、旧約聖書において神に対して用いられるのと同じような意味と文脈で「主」と呼ばれているため、他の事例と同列に扱うことは不可能なのです*[1]。以下に、上記の聖句から例を挙げて解説を加えます。

申命記10:17では、エホバに対して「主の主」と呼ばれていますが、啓示17:14ではイエスに対して「主の主」という同じ称号が用いられています。

ヘブライ1:10では、み子に対して「主よ」と呼びかけられる旧約聖書が適用されていますが、引用元は詩篇102:25であり、その聖句における「主」とは紛れもなくエホバに対して用いられています。

他にも、ローマ10:13では「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」(新世界訳)とあります。原文では「エホバ」ではなく「主」となっており、「主」という称号が文脈上「イエス」を表していることは、ローマ10:9で「イエスは主である」と書いてあることから明らかです。そして、この聖句の適用元と考えられるヨエル2:32では、「エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れることになる」となっています。

このように、聖書は明らかに、旧約時代における「主なる神エホバ」と、新約時代における「主イエス」を同列に置いているのです。

わたしはある「エゴー・エイミー」

福音書の中でも、特にヨハネ福音書では、ギリシャ語で「エゴー・エイミ」と訳される表現をイエスが用いる箇所が多くあります。「エゴー・エイミ」は、日本語では「わたしはある*[2]」(現在形)と訳され、英語では「I am」となります。そして、その表現が用いられる文脈や、その言葉を聞いた周りの人々の反応から、イエス・キリストが「エゴー・エイミー」を、ご自身の神性の表現として用いたことは明らかです。一例として、ヨハネ8章をご紹介します。

「イエスは彼らに言われた,『きわめて真実にあなた方に言いますが,アブラハムが存在する前からわたしはいるのです』。59 そのため彼らは,[イエス]に投げつけようとして石を拾った。しかしイエスは隠れ,神殿から出て行かれた。」(ヨハネ8:58~59)

ここで、「わたしはいるのです」と訳される箇所のギリシャ語原文が、「エゴー・エイミ」です。ユダヤ人たちが、この言葉をイエスの口から聞いた途端、石打ちで殺そうとしていることから、ユダヤ的文脈において、その言葉が「神の御名に対する冒涜罪」に相当したことがわかります。

出エジプト記3章14節には、「わたしは、『わたしはある。』という者である」(新改訳)という御名の宣言が出てきますが、七十人訳ギリシャ語聖書では、「エゴー・エイミー・ホ・オーン」であり、同じ表現に訳されています。また、以下の二つの聖句においても、七十人訳では、「エゴー・エイミ」が神の御名として登場しています。

「『あなた方はわたしの証人である』と,エホバはお告げになる,『すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。それはあなた方が知って,わたしに信仰を抱くためであり,わたしが同じ者である(エゴー・エイミ)ことを理解するためである。』」(イザヤ 43:10)

わたしが わたしがあなた方を慰めている者なのである。 『死んでゆく死すべき人間を恐れ,ただの青草のようにされる人間の子を[恐れる]とは,あなたはだれなのか。』」(イザヤ 51:12)

イエスは、アブラハムの前からご自身が存在することを語る際、あえて現在形の「エゴー・エイミ」という表現を用いることにより、ご自身が永遠の昔から存在する神であることを示されたのです。そして、その表現をイエスの神性宣言として理解したからこそ、不信仰なユダヤ人たちはイエスを冒とくの罪で殺そうとしたのです*[3]

他にも、イエスが「エゴー・エイミ」を用いた例を幾つか紹介しておきます。

彼らは,「ナザレ人のイエスを」と答えた。[イエス]は彼らに言われた,「わたしが[その者]です」。さて,[イエス]を裏切る者であるユダも彼らと共に立っていた。しかしながら,「わたしが[その者]です」と[イエス]が言われた時,彼らは後ずさりして地面に倒れた。(ヨハネ18:5~6)

ゲッセマネの園での捕縛の際、「わたしが[その者]です」(エゴー・エイミ)とイエスが答えると、軍隊は「後ずさりして地面に倒れ」ています。訓練されたローマの兵士たちの集団が倒れるのですから、ここでの「エゴー・エイミ」という言葉が、単なる返答ではなく、イエスの神性を物語る力強いものであったことが伺えます。

すると,彼らはみな言った,「それでは,あなたは神の子なのか」。[イエス]は彼らに言われた,「あなた方自身,わたしがそうだと言っています。71 彼らは言った,「どうしてこのうえ証しが必要だろうか。わたしたち自身が,彼の口から[それを]聞いたのだ」(ルカ22:70~71)

「わたしがそうだ」(エゴー・エイミ)という言葉を聞いた時点で、イエスの有罪が確定していますが、マタイの福音書の並行記述を見ると、それが「冒涜罪」であったことがわかります。このことから、「エゴー・エイミ」という表現によって、キリストの神性が表現されていたことが伺えます。

父と子と聖霊の名(マタイ28章19節)

「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊とのにおいて彼らにバプテスマを施し,」(新世界訳)

「Go, therefore, and make disciples of people of all the nations, baptizing themp in the name of the Father and of the Son and of the holy spirit,」(NWT by JW)

有名な大宣教命令に関する聖句ですが、英語の新世界訳聖書で示されている通り、「父と子と聖霊との名」における「名」は、ギリシャ語の原文において複数形「the names」ではなく、単数形「the name」となっています。

ギリシャ語の文法では、複数形と単数形は明確に分けて用いられます。例として、同じマタイの福音書における「十二使徒の名」は、その「名」が複数形「the names」となっています。

十二使徒のは次のとおりである。まず,ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ,ゼベダイの[子]ヤコブとその兄弟ヨハネ」(マタイ10:2、新世界訳)

The names of the 12 apostles are these: First, Simon, the one called Peter, and Andrew his brother; James the son of Zebe’dee and John his brother;」(New World Translation by JW)

以上の点から、聖書は、父・子・聖霊が共に「一つの名」を共有する存在であることを啓示しているのです。そしてその御名とは、唯一の神の御名「エホバ」であるに違いありません。さらに、ユダヤ的な文脈における「名」とは、単にその名の発音を意味するだけでなく、その名を持つ人の実質を表します。したがって、父と子と聖霊が一つの名を持つということは、その三者が実質・実体において一つであるということをも意味するのです。

ことばは神であった(ヨハネ1章1節)

聖句

「はじめに、ことばがいた。ことばは、神のもとにいた。ことばは、神であった。」(新世界訳)

”In the beginning was the Word,+ and the Word was with God,+ and the Word was a god” – NWT (New World Translation by Jehovah’s Witnesses)

“In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.” – ASV (English Standard Version)

「en arch hn o logoV kai o logoV hn proV ton qeon kai qeoV hn o logoV」(W&H)

この聖句「ことばは神であった」は、三位一体論に関するキリスト教とエホバの証人との論争において、特に注目されてきた箇所になりますが、筆者のヨハネの意図を正しく読み取るための鍵は、解釈学の原則「歴史的文法的解釈」であり、特にヘブル的な視点で解き明かすことが重要となってきます。

言語的背景:定冠詞の有無の問題

この聖句に対する第一の議論の要点は、ギリシャ語原文における「定冠詞の有無」に関するものです。「ことばは、神のもとにいた。」の「神」には、ギリシャ語の原文において定冠詞(英:The)があるのに対し、「ことばは、神であった。」の「神」には定冠詞がありません。

エホバの証人は、「定冠詞が無い」という事実を「当時のギリシャ語の言語的背景」と照らし合わせるなら、ことばであるキリストは必ずしも神であることを意味するわけではない、と主張します。そして、彼らの新世界訳聖書において「Word was a God」と訳し、「God(神)」の前に「a」という不定冠詞を付して、キリストが「神のような」存在であったと主張します。

一方、多くのキリスト教の神学者は、言語的背景を考慮した上で、「定冠詞が無い」という事実によって、「神としてのキリストの神性が否定されるわけではない」と主張します。実際に、ほとんどの聖書学者は、ヨハネ1章1節を「Word was God」と訳し、「a」という不定冠詞を付した新世界訳聖書を誤訳だと主張します。

ユダヤ的背景:ユダヤ教の「メムラ」の教え

イエスが「ことば」(ギリシャ語:ロゴス)として表現されているヨハネ1章の冒頭は、「ロゴスの賛歌」と呼ばれており、ギリシャ哲学における「ロゴス」の意味から解説されるケースが多い箇所ですが、ヨハネが生粋のユダヤ人であったことを考えれば、ユダヤ的な視点を考慮する必要があります。

紀元一世紀のユダヤ教のラビたちは、旧約聖書の中で、「ことば」が擬人法で多く用いられている点に注目し、「ことば(メムラ)」に関する以下の六つの基本的な教えを確立しましたが、ヨハネ1章における「ロゴスの賛歌」は、「メムラ」の教えと全く一致するのです。した。(「ことば」はヘブル語では「ダバール」、アラム語では「メムラ」です。)

  1. メムラ(ことば)は、神とは別の存在であるが、神と同じ方でもある
  2. メムラは、宇宙の創造に参加された存在である。
  3. メムラは、神の救いをもたらす存在である。
  4. メムラは、神がご自身を人間に啓示する際に用いる方法である
  5. メムラは、神が人と契約を結ばれる際の契約の仲介者である。
  6. メムラは、神の啓示の仲介者である。

そして、議論の対象となっている「ことばは、神のもとにいた。ことばは、神であった。」は、まさにメムラの第一教え「メムラ(ことば)は、神とは別の存在であるが、神と同じ方でもある」と一致するのです。

したがって、ヨハネはユダヤ教のメムラの教えに基づいて、ことばであるイエスが神と同じ方であることを伝えたかったのだと考えられます。

わたしの主、わたしの神(ヨハネ20章28節)

「それに答えてトマスは彼に言った,「わたしの主,そしてわたしの神!」29 イエスは彼に言われた,「あなたはわたしを見たので信じたのですか。見なくても信じる者は幸いです」(新世界訳)

イエスの復活のことを聞いても中々信じないトマスに対して、イエスが直接現れた有名な箇所です。トマスは、「わたしの神!」と言い、イエスを「主なる神」とする信仰を告白していますが、イエスは「見なくても信じる者は幸いです」と返し、トマスの告白を承認しています。もしもイエスが神でないのなら、これはあり得ないことであり、すぐさまトマスの信仰告白を否定したことでしょう。

事実、聖書の中では、どの天使や弟子たちにおいても、「神」と呼ばれることを一切受け入れないからです。

「ペテロが入ると,コルネリオは彼を出迎え,その足もとにひれ伏して敬意をささげた。26 しかし,ペテロは彼の身を起こして言った,『立ちなさい。私も人間です』」(使徒10:25~26)

「また,市の前に[神殿]があるゼウスの祭司は,数頭の雄牛と花輪を門のところに携えて来て,群衆と一緒に犠牲をささげようとするのであった。14 しかし,そのことを聞くと,使徒のバルナバとパウロは,自分の外衣を引き裂いて群衆の中に飛び出し,叫んで 15 こう言った。『皆さん,なぜこうした事をするのですか。わたしたちも,あなた方と同じ弱さを持つ人間です。』」(使徒14:13~15)

「そこでわたしは,彼の足もとにひれ伏して彼を崇拝しようとした。しかし彼はわたしに言う,『気をつけなさい! そうしてはなりません!』」(啓示19:10)

以上の点から、イエスが「私の神!」というトマスの信仰告白を承認したという事実は、イエスが崇拝されるべき神であることを明白に示しているのです。

イザヤはイエスの栄光を見た(ヨハネ12章41節)

「イエスはこれらのことを話して去って行き,彼らから身を隠された。37 しかし,彼らの前で非常に多くのしるしを行なってこられたのに,彼らが[イエス]に信仰を持たなかったので,38 預言者イザヤの言ったこの言葉が成就した。

・・・「彼は彼らの目を盲目にし,彼らの心をかたくなにした。彼らが自分の目で見,心で考えをつかみ,身を転じ,そしてわたしが彼らをいやす,ということがないためである」。41 イザヤは彼の栄光を見たのでこれらのことを述べ,彼について語ったのである

42 とはいえ,実際には,支配者たちでさえその多くの者が彼に信仰を持ったのである。しかしパリサイ人たちのてまえ,[彼について]告白しようとはしなかった。」(12:36-42、新世界訳)

この聖句は、イエスが唯一の神「エホバ」であることを示す、決定的な箇所の一つです。この聖句は、イエスの公生涯の終わり、最後の祭りの期間での出来事です。それまでの奉仕を通して、たくさんのしるしがなされたにも関わらず、ユダヤ人の多くがイエスに信仰を持たなかった、という文脈で語られています。

そしてヨハネは、当時のユダヤ人の不信仰な状態を、イザヤの時代の不信仰なイスラエル人と重ね合わせ、イザヤ6章を適用しました。そして、6章の幻における「彼は彼らの目を盲目にし,彼らの心をかたくなにした。」というエホバの言葉を引用し、最後に次のように付け加えたのです。

「イザヤは彼の栄光を見たのでこれらのことを述べ,彼について語ったのである」(ヨハネ12:41)

ここでの「彼」とは、文脈上明らかにイエスのことですが、引用元のイザヤ書を確認すると、イザヤが見たのは「エホバの栄光」であり、イザヤが終始語っているのも「エホバについて」です。つまり、ヨハネは「エホバ」と「イエス」を完全に同一視しているのです。

しかしながら,ウジヤ王の死んだ年に,わたしはエホバを見た。高大で,高く上げられた王座に座しておられ,そのすそは神殿に満ちていた。2 セラフたちがその上の方に立っていた。各々六つの翼を持っていた。二つで顔を覆い,二つで足を覆い,二つで飛び回るのであった。3 そして,この者がかの者に呼びかけて言った,「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,万軍のエホバ。全地に満ちるものはその栄光である」。・・・

すると,[神]はさらに言われた,「行け。あなたはこの民に言わなければならない,・・・10 この民の心を,受け入れる力のないものにし,その耳を鈍感にならせ,その目をのり付けせよ。彼らがその目で見ることのないため,その耳で聞くことのないため,また,その心が理解することのないため,彼らが実際に立ち返って自分のためにいやしを得ることのないためである」。(イザヤ6:1-10)

ちなみに、ものみの塔はこの箇所について、「実際にはそこにイエスも居たのだ」というような説明をしていますが*[4]、仮にエホバとイエスが別の存在で、その場にイエスが居たとしても、イザヤはイエスについては一言も語っていないので、その説明には筋が通りません。筋の通る唯一の解説は、「イエスはエホバご自身である」という三位一体を踏まえた説明であると言えます。

命の君(使徒2章15節)

「一方では,命の主要な代理者を殺しました。しかし神はこの方を死人の中からよみがえらせたのであり,わたしたちはその事の証人です。」(新世界訳)

いのちのを殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。」(口語訳)

「whereas you killed the Chief Agent of life. But God raised him up from the dead, of which fact we are witnesses.」(NWT)

「and killed the Prince of life; whom God raised from the dead; whereof we are witnesses.」(ASV)

この聖句で、ペテロはイエスのことを「命の君」と呼んでいますが、新世界訳聖書では、「命の主要な代理者」となっています。ここで「君」「主要な代理者」と訳されているギリシャ語「Archegosは、「君主・先導者・創始者」という第一原因を意味する言葉であり、「代理者」という意味は全くありません。

archgon Archegosの意味:
①先導者(道を切り開いて)、導く者、導き手、指導者、君主、②開始者、創始者、創立者、元祖。¯織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』教文館、76頁.
1 : the chief leader, prince, of Christ.  2 : one that takes the lead in any thing and thus affords an example, a predecessor in a matter, pioneer.  3 : the author ―“The NAS New Testament Greek Lexicon

ですから、「君」を「代理者」と訳すことは、「社長」を「社長代理」と書き換えるのと同じ行為であり、ものみの塔による明白な改ざん行為であることがわかります。では、なぜ組織は、そのような改ざんをしなければならなかったのでしょうか?

ものみの塔の教えでは、神は最初にイエスを創造し、そのイエスによって他の命を創造したとされています。つまり、イエスはあくまで被造物であり、神の代理としての創造者であるため、「命の創始者・君主」という称号は都合が悪かったのです。

しかし、ペテロはイエスを「命の君」と語ることにより、イエスが被造物ではなく、命の第一原因である方、神と全く同質の方であると宣言したのです。

キリストの霊(ペテロ第一1章11節)

「ほかならぬこの救いに関して,勤勉な探究と注意深い調査が,あなた方に向けられた過分のご親切について預言した預言者たちによって行なわれました。11 彼らは,自分のうちにある霊が,キリストに臨む苦しみとそれに続く栄光についてあらかじめ証しをしていた時,それがキリストに関して特にどの時期あるいはどんな[時節]を示しているかを絶えず調べました。」(新世界訳)

「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。」(新改訳)

eraunwnteV eiV tina h poion kairon edhlou to en autoiV pneuma cristou promarturomenon ta eiV criston paqhmata kai taV meta tauta doxaV (ギリシャ語底本―Hort & Westcott)

ここでペテロは、旧約時代の預言者たちは、自分たちのうちにある「キリストの霊」によって、メシア預言を語った、ということを説明しています。

エホバの証人の新世界訳を見ると、「自分のうちにある霊」となっていますが、ギリシャ語の原文では「自分のうちにあるキリストの霊」(spirit of Christ)となっています。つまり、ものみの塔は、「キリスト」という神の御子の名前を意図的に削除したのです。新世界訳以外の他の全ての聖書では、ちゃんと「キリストの霊」と訳されているため、この箇所が重大な改ざんであることがわかります。

ではなぜ、ものみの塔は、「キリスト」を意図的に除いたのでしょうか?預言者たちにメシア預言を語らせた霊とは明らかに聖霊のことであり、「エホバの霊」です。ですから、ペテロが聖霊を「キリストの霊」と呼んだのであれば、聖書の中で「聖霊」「エホバの霊」「神の霊」と書いてある全ての場所は、「キリストの霊」とも言いかえることができることになります。そうなると、「エホバ」と「キリスト」が同一の存在であることが明らかになり、キリストの神性を否定するものみの塔としては都合が悪いのです。

このように、ものみの塔が意図的に「キリスト」を削除しなければならなかったという事実は、この聖句がキリストの神性を裏付ける有効な箇所であることを意味しているのです。

主は地の基を据えられた(ヘブル1章10節)

「8 しかしみ子についてはこうです。・・・『主よ,あなたは初めにこの地の基を据えられました。天はあなたのみ手の業です。11 それらのものは滅びうせますが,あなたご自身は絶えずとどまっておられます。それらはみな外衣のように古び,12 あなたは外とうのように,外衣のようにそれらをたたまれます。それらは変わりますが,あなたは同じであり,あなたの年が尽きることは決してありません』と。」(ヘブル1:8~12、新世界訳)

ここでヘブル人への手紙の著者は、イエスについて説明する際、詩篇102章を引用していますが、引用元の聖句は以下のようになっています。

24 わたしは言いはじめました,「わたしの神よ、わたしの日の半ばにわたしを取り去らないでください。あなたの年はすべての代に及びます。25 あなたは昔,この地の基を据えられました。天はあなたのみ手の業です。26 それらのものは滅びうせますが,あなたご自身は立ちつづけます。それは衣のようにみな古びてしまいます。あなたは衣服のようにそれを取り替えられます。そしてそれは用を終えるのです。27 しかしあなたは同じであり,あなたの年が全うされることはありません。(詩篇102:24~27)

明らかに詩篇作者は、神(エホバ)に対する賛歌を歌っており、創造主で永遠なる神を褒め称えています。そしてヘブル人の聖句では、そこで讃えられているのが「イエス・キリスト」だと名言されているのです。したがって、イエスは創造主であり、永遠なる神として描写されているのです。

なお、この聖句に対するものみの塔の反論として次のようなものがあります。

「詩編 102編25‐27節はこの言葉が神に向かって語りかけられていることを示しているのに,どうしてこの句がヘブライ 1章10‐12節に引用されて,み子に当てはめられているのでしょうか。なぜなら,詩編作者がこの句の中で描写している創造の業は,神がみ子を通して行なわれたものだからです。(コロサイ 1:15,16; 箴言 8:22,27‐30参照。)」―『論じる』169~170頁

「創造の業は,神がみ子を通して行なわれたものだから」という回答は、論点を反らす反論であると言えます。なぜなら、あくまでヘブル人の聖句は、詩篇作者が「神よ」と呼びかけている対象が「イエス」であることを示しているからです。つまり、創造がどのような形で行われたにせよ、詩篇における「神への賛歌」は、そのままイエスにも適用できる、ということなのです。

長老たちは子羊を礼拝した(啓示5章14節)※黙示録

「13そして,天と地と地の下と海の上とにいるあらゆる被造物,およびそこにあるすべてのものがこう言うのが聞こえた。「み座に座しておられる方と子羊とに祝福と誉れと栄光と偉力が限りなく永久にありますように」。14すると,四つの生き物は「アーメン!」と言い,長老たちはひれ伏して崇拝した」(新世界訳)

「And I heard every creature in heaven and on earth and underneath the earth+ and on the sea, and all the things in them, saying: “To the One sitting on the throne+ and to the Lamb+ be the blessing and the honor+ and the glory and the might forever and ever.”+ 14  The four living creatures were saying: “Amen!” and the elders fell down and worshipped.」(NWT)

啓示5:14は、キリストの神性が全面に表現されている素晴らしい聖句であり、ただ三位一体の論争で取り上げるというだけでなく、個人的にも感動を覚える大好きな箇所です。

文脈の確認をすると、啓示4章では、父なる神が礼拝され、続いて5章の前半~中盤までは子羊であるイエスが礼拝されています。そして最後に、礼拝の焦点が「み座に座しておられる方と子羊と」に当てられます。つまり、13節以降の箇所で語られる賛美は、全て父と子の双方に対するものだというのが、前後の文脈から明らかにわかることなのです。

【祝福と誉れと栄光と偉力】まず13節では、「み座に座しておられる方と子羊とに,祝福と誉れと栄光と偉力が限りなく永久にありますように」とあります。英語では「the blessing and the honor+ and the glory and the might」となっており、それぞれの単語の前に、全て定冠詞である「The」が付いています。つまり、イエスが父と共に持っている「祝福と誉れと栄光と偉力」は、全て唯一の神だけが持つものである、ということです。イエスが持つ「栄光」とは、「エホバの栄光」なのであり、イエスが持つ力とは、「エホバの力・全能の力」だということなのです。

【長老たちはひれ伏して崇拝した】天と地のあらゆる被造物による賛美の後、四つの生き物は「アーメン!」と言い、長老たちはひれ伏して崇拝」します。文脈から明らかなように、ここでの長老たちによる崇拝は、「み座に座しておられる方と子羊とに」捧げられています。

聖書の重要な教えでは、神以外に対してひれ伏して崇拝するようなことがあってはならず、その原則は同じ黙示録の中でも、明白に強調されています。

「そこでわたしは,彼の足もとにひれ伏して彼を崇拝しようとした。しかし彼はわたしに言う,「気をつけなさい! そうしてはなりません! わたしは,あなた,また,イエスについての証しの業を持つあなたの兄弟たちの仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい。イエスについて証しすることが預言に霊感を与えるものなのです」。(啓示19:10)※黙示録22:8~9も参照

したがって、聖書はイエスが崇拝されるべき神であることを明白に示しているのです。※もしもイエスが神でないのなら、天の全軍は偶像礼拝の罪を犯していることになるでしょう。

最初であり最後である(啓示1章17節)

「イスラエルの王,これを買い戻す方,万軍のエホバ,エホバはこのように言われた。『わたしは最初であり,わたしは最後であり,わたしのほかに神はいない。』」(イザヤ44:6)

「恐れてはいけない。わたしは最初であり最後であり,18 また,生きている者である。」(1:17)

「また,スミルナにある会衆の使いにこう書き送りなさい。『最初であり,最後である者』,死んで,生き[返った]者がこのように言う。」(2:8)

見よ,わたしは速やかに来る。そして,わたしが与える報いはわたしと共にある。各々にその業のままに報いるためである。13 わたしはアルファでありオメガであり,最初であり最後であり,初めであり終わりである。」(22:12)

「最初であり、最後である」この表現は、時間と空間を支配する神の永遠性を表す称号であり、旧約聖書ではイザヤ書で初めて用いられます。そして黙示録において、イエス・キリストは繰り返しこの「最初であり最後である」という称号を用いています。この事実から、イエスが時間と空間を超越した永遠の神であることが明白にわかります。

なお、ものみの塔協会は、22章12~13節の言葉は、イエスではなく、父なる神であるとし、「アルファでありオメガ」の称号は、み子ではなく、父なる神に対してのみ当てはまる*[5]、と主張しますが、その見解には複数の問題点があります。

第一に、22:12を読むと、「アルファでありオメガ」である存在は、「速やかに来る、報いを与える」と述べています。黙示録の文脈において、速やかに来て報いを与える存在とは、一貫してイエスだと表現されており、特に1~3章を読めば、そのことがはっきりと理解できます。(16:15、19:14~15なども参照。)ですから、ここで「速やかに来る」とされている人物は明らかにキリストなのです。

第二に、ものみの塔はキリストの神性を否定するために、「最初であり最後である」と、「アルファでありオメガである」という称号の意味を分け考えようとしています。しかし、「アルファ」と「オメガ」は、ギリシャ語の最初と最後の文字であるため、その意味は「最初であり、最後である」となります。ですから、これらの称号の本質的な意味は同じであり、分けて論じる必要は無いのです。

おそらく、「アルファでありオメガであり,最初であり最後であり,初めであり終わりである」という宣言は、ある事柄を強調するために、同じ内容を別の表現で繰り返すヘブル的な「対句法」の一種です。したがって、イエスはここで、ご自身が永遠性を持つ神であることを、三度に渡って繰り返し強調しておられるのです。

神と子羊のみ座(啓示22章)

「また彼は,水晶のように澄みきった,命の水の川をわたしに見せてくれた。それは神と子羊とのみ座から出て,2 その大通りの中央を流れていた。・・・3 そして,もはや何ののろいもない。神と子羊とのみ座が[その都市]の中にあり,その奴隷たちは[神]に神聖な奉仕をささげるのである。」(新世界訳)

「And he showed me a river of water of life, clear as crystal, flowing out from the throne of God and of the Lamb 2 down the middle of its main street. ・・・And there will no longer be any curse. But the throne of God and of the Lamb will be in the city, and his slaves will offer him sacred service」(NWT)

黙示録22章は、新天新地に関する預言ですが、そこにある「神と子羊のみ座」は、英語では「the throne of God and of the Lamb」となっており、み座が複数(the thrones)ではなく、単数形(the throne)になっていることがわかります。つまり、神と子羊は、同じみ座に着座されているのです。そしてその「み座」とは、「神の王座」であるに違いありません。

子羊であるイエスは、永遠に「神の王座」に着座され、被造世界を治めるのです。

キリストの顕現を体験した人の証言

イエス・キリストが神であることを中々受け入れられない人にとっては、ここで紹介するような補足情報も貴重な検討材料となります。近年、イスラム教徒に対して、イエスが幻や夢など何らかの形で現れ、キリスト教の信仰へ導く、という事例が多くありますが、こうした事例において、イエスが自らを「神」だとはっきり述べている点は注目に値します。

元イスラム教リーダー、アフシン・ジャビード

元イスラム教リーダー、アフシン・ジャビード

Youtube:https://www.youtube.com/watch?v=FTBegJm2ROg&t=925s

アフシンは、非常に熱心なイスラム教徒で、コーランの教えに忠実に従い、イスラム教の霊的な力を行使できるほどの人でした。しかし、とある罪が原因で、マレーシアの監獄に投獄されました。そして囚人として過ごしていた時、イエス・キリストが彼に現れ、「私は道であり、真理であり、命である」と語り、続けて「私は生きる神、イエス・キリストである」(ビデオ12分目)と告げました。この体験によって、アフシンはイスラム教が誤りだと確信し、キリストに従うものとなりました。

現在、アフシンは熱心なクリスチャンとなっており、自身の証の本の出版や、専用のウェブサイトの立ち上げなども行っています。

アフシンのサイト:http://www.afshinjavid.com/bio.html

元イスラムの戦士、カマル・サリーム

元イスラムの戦士、カマル・サリーム

Youtube:「イスラム・ジハード戦士、イエスに出会う」

カマルは、米国の文化を変える使命を持ったイスラムの戦士でしたが、移住後に事故で大きな怪我を負った際、現地のクリスチャンたちに大きな愛を持って助けられことで、信仰が揺るがされました。名誉を保つために自殺をしようとした瞬間、「アブラハム、イサク、ヤコブの神を呼びなさい」という声がして呼ぶと、神の臨在が部屋を満たし、「ヤハウェ」として現れたのは、手と足に穴があるイエス・キリストだったのです。そしてイエスは、「わたしはある。わたしはある、という者だ。わたしはアルファであり、オメガ、最初であり最後であり、その間のものの全てである」と告げました。(ビデオ6分目)

カマルは改心し、今はイスラム教徒への伝道を行うクリスチャンとなっています。

エホバの証人の反論に答える

反論の内容を整理する

ここからは、エホバの証人が、三位一体を否定するためによく取り上げる聖句を紹介し、それらの主張に対してどう答えることができるのか、解説をしていきます。

三位一体論に対するエホバの証人の反論を考察していくと、全ての反論の根底には、三位一体論の論理的な矛盾に対する反発があることがわかります。つまり、人間の理解で矛盾に思える教えは真理であるはずがない、という考えです。そして、その感覚に基づく反論の内容は、具体的に以下の二つのカテゴリーに分類できます。

(1)イエスに対する父なる神の優位性

父はわたしより偉大な方だからです。」(ヨハネ14:28)」

「『わたしは,わたしの父またあなた方の父のもとへ,わたしの神またあなた方の神のもとへ上る』と言いなさい」(ヨハネ20:17)

「あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり,女のかしらは男であり,キリストのかしらは神である」(コリント第一 11:3、口語訳)

このように、父はイエスより偉大であり、イエスにとっても神であり、キリストの頭なのだから、イエスは神ではあり得ない、という主張です。

(2)イエスは唯一の神と区別されている。

「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。」(ヨハネ17:3)

神とイエス・キリストは、聖書中の多くの箇所で、区別される存在として描写されています。そうした点を取り上げ、イエスは神ご自身であるわけがない、と主張されます。

では、以上の二種類の反論に対して、それぞれどのように考え、どう答えることができるのかを説明していきたいと思います。

子に対する父なる神の優位性について

確かに聖書には、イエスに対する父の優位性を教えている箇所が多数見出されます。しかし、エホバの証人の理解の問題点は、その優位性を強調するあまり、父と子との間に存在する一体性や同質性を見逃しているところにあります。つまり、父と子の関係を単純化し過ぎているのです。

子に対する父の優位性がはっきり示されているのと同じように、両者の一体性や同質性についても、聖書は明瞭に教えています。したがって、イエスの真の姿を捉えようとするならば、優位性と一体性の両方を、同時にバランスよく理解しなければなりません。

例えば、「キリストのかしらは神である」(第一コリ11:3)という聖句がありますが、この教えは父と子との間の序列を表すものではありますが、そのような上下関係が、父と子との関係の全てでは無いのです。

同聖句のその前の節では「すべての男のかしらはキリストであり,女のかしらは男であり」とあります。聖書的には、男性は女性に対して「頭の権」があるため、神の秩序においては、男性は女性より大きな特権と権利を担っていると言えます。しかし、男性も女性も、同じ人間という意味においては、全く同質で対等な存在です。

同じように、「キリストのかしらは神である」という表現は、権威という視点における父なる神の優位性を示していますが、同じ神という意味において、父と子が対等な存在であることについても、聖書は明瞭に教えているのです。(ヘブル1:10、黙示録5:13~14等々)

以上が、父なる神の優位性を示す聖句に対する基本的な考え方ですが、その理解を念頭に、以下の聖句の意味を説明していきたいと思います。

父はわたしより偉大な方だからです。

「わたしは去って行き,そしてまたあなた方のもとに[戻って]来る,とわたしが言ったのを,あなた方は聞きました。もしわたしを愛するなら,わたしが父のもとに行こうとしていることを歓ぶはずです。父はわたしより偉大な方だからです。」(ヨハネ14:28)

三位一体論に関する論争において、基本的な点として認識しなければならないことがあります。それは、人として歩まれたイエスは、本来の神としての立場を捨てて、自らを奴隷のような者とされた、ということです。以下の聖句は、そのことを明確に示しています。

彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。7 いえ,むしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のような様になりました。8 それだけでなく,人の姿でいた時,彼は自分を低くして,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になりました。」(フィリピ2:6-8)

この視点を考慮すれば、イエスが公生涯において「父はわたしより偉大な方」と語ったとしても、何も不思議ではありません。イエスは、奴隷の形をとっていた自分の立場を念頭に、このことばを語ったと考えることができるのです。

イエスは父を「わたしの神」と呼んだ

「17 イエスは彼女に言われた,「わたしにすがり付くのはやめなさい。わたしはまだ父のもとへ上っていないからです。しかし,わたしの兄弟たちのところに行って,『わたしは,わたしの父またあなた方の父のもとへ,わたしの神またあなた方の神のもとへ上る』と言いなさい」(ヨハネ20:17)

この箇所も、イエスが自分を無にして人となり、父への祈りによって歩んだことを考慮すれば、何も不思議ではありません。公生涯で人としての性質を身に付けたイエスにとって、確かに父なる神は「イエスの神」だったのです。さらに、この聖句については、以下の3つの点も考慮する必要があります。

(1)父なる神が、子なる神にとって「わたしの神」と呼ぶような存在であることは、詩篇のメシア預言において、既に啓示されていた事柄です。(詩篇45:7)

(2)ここでは「わたしの神、またあなた方の神」というように、「イエスと神との関係」と、「弟子たちと神との関係」が分けて表現されています。このことから、イエスが「わたしの神」と呼んだとしても、それを私たちが神を呼ぶ時と同じような意味で理解する必要はありません。

(3)ヨハネは明らかに、イエスとエホバを同一視していました。(ヨハネ12:41)したがって、イエスが父のことを「私の神」と呼んだからと言って、イエスの神性が否定されるわけでは無いことは明らかです。

子も知らない,ただ父だけが知っておられる

「マルコ 13:32,口語: 「その日,その時は,だれも知らない。天にいる御使たちも,また子も知らない,ただ父だけが知っておられる」。(もし父と子と聖霊が同等であって,ひとりの神を構成しているのであれば,もちろんそうは言えないでしょう。また,ある人々が示唆するように,もし,み子がその人性ゆえに知ることに限度があったとしても,なぜ聖霊は知らないのかという疑問が残ります。)」―『論じる』164頁。

一見すると、キリストの神としての全知性に疑問が投げかけられそうなことばですが、ここはヘブル的な文脈で理解する必要があります。キリストが昇天し、弟子たちのために住まいを整え、父が決めるタイミングで花嫁を迎えに来る、この一連の流れは、以下の示すユダヤ式の婚礼と共通しているのです。

  • 婚約の段階:花婿の父が、花嫁の父に花嫁料を支払って婚約が成立する。
  • 住まいの準備段階:続いて、花婿が花嫁のための住まいを準備する。この間、花嫁の方も、婚礼の準備を整える。
  • 花婿が花嫁を迎えに行く段階:花婿の父親が、花嫁を迎えに行く時を決める。そして、花婿が友を連れて花嫁を迎えに行く。花嫁も、結婚を祝う仲間たちの音を聞いて家を出て、二人が道中に用意された結婚式場で出会う。

このように、神はユダヤ人の文化を通して、キリストの再臨に関する真理を啓示しておられたのです。したがって「その日・その時は父だけが知っておられる」という再臨に関する真理は、イエスの神性を否定するものではなく、父と子の役割の違いを述べたものだと理解することができます。

唯一の神とイエスとの区別について

エホバの証人が主張する通り、聖書は実に多くの箇所において、神とイエスを区別して描いており、そのことは紛れもない事実です。ですから、「神と区別される存在でありながら、同時に神でもある」という教えは、矛盾しているように思えても仕方無いかもしれません。

「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。」(ヨハネ17:3

「イエスは祈りの中でこう言われました。「父よ……永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。(ヨハネ 17:1‐3,口語; 下線は追加。)(大抵の翻訳はここでみ父を指して『唯一のまことの神』というような表現を用いています。新英訳聖書は,「ただひとりまことに神であられる」方と訳しています。もし,父と同程度の神がほかに二人いるならば,父は『唯一まことの神』,「ただひとりまことに神であられる」方ではあり得ないのではありませんか。)」―『論じる』165頁。

しかし、本記事で既に説明した通り、旧約聖書では、神と区別される「エホバのみ使い」(受肉前のイエス)が、明らかに「エホバご自身」としても行動しています。また新約聖書においても、神に遣わされたイエスが、神ご自身として描かれる箇所が多く登場します。(ヨハネ1:1、第一ペテロ1:11等々)このように、「神と区別されながら、神と同じ方でもある」という一見矛盾した教えは、「聖書全体」において、「一貫」して、「明瞭」に啓示されているのです。

もっとも、聖書が明瞭に教えてはいるものの、私たち人間にとって、不思議な教えであることに変わりはありません。しかし、この教えが真実の神からの啓示なのであれば、それを理解不能な矛盾と考えるよりも、神の真理の深さと、人間の知性と理解の有限性を認め、素直にその教えに従うべきではないでしょうか?

「ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は[何と]たどりがたいものなのでしょう。」(ローマ11:33)

後書き

多くの現役のエホバの証人にとって、また組織を離れたエホバの証人にとっても、「三位一体」の教えだけは、理解し辛い問題として残ります。「1914年」や、「輸血拒否」「統治体」などに関する教えからは、多くのJWが比較的早く解放されるのですが、どういうわけか、この三位一体論に関しては、中々腑に落ちないのです。そして、かくいう私自身が、その一人であったわけです。

しかし、そんな私が、現在は、キリストの神性をはっきりと信じるようになっています。それは、キリストに関する聖書全体の教えを、丁寧に学び直していったからです。そして、研究の過程で、キリストの神性を信じるにあたり、特に私を納得させた根拠の数々を、本記事ではご紹介していきました。本記事を読む読者の方々が、キリストの神性に対する理解を深め、心から主イエスを礼拝できるようになることをお祈りしています。

脚注

[1] 事実、ものみの塔は、新約聖書においてイエスを意味する「主」を、多くの箇所において「エホバ」に置き換えています。

[2] 「わたしはある」(新共同訳)、「わたしはいる」(新改訳、口語訳)、「我は在るなり」(文語訳)、となっています。ほとんどの英語訳聖書では、「I am」と訳されており、日本語よりも英語の方が、原文の意味を掴みやすい箇所となっています。

[3] 英語の新世界訳聖書はこの箇所を「I am」(私はある)ではなく、「I have been」(私は存在してきた)と訳していますが、もしもイエスが本当に「I have been」というニュアンスで返答したのであれば、ユダヤ人たちが石を投げつけた理由が全くわからなくなります。つまり、単にアブラハムの前から存在してきた、という意味であるならば、神の御名の冒涜にはならず、石打に相当する罪とならないからです。

[4] 『ものみの塔』1998年6月5日号、24頁。

[5] 『論じる』168頁。


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2件のフィードバック

  1. 西村 より:

    命の君(使徒3章15節)の説明のところが2章15節になっていました。
    楽しく勉強させていただいています。

    • Webmaster-GJW より:

      ご指摘感謝です。修正いたしました。引き続き、西村さんの学びが祝福されますように!

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