2. エホバの証人の歴史|エホバの証人とはーものみの塔の実態に迫る

2. エホバの証人の歴史|エホバの証人とはーものみの塔の実態に迫る

 

初代会長 ラッセルの時代

ものみの塔協会の創始者チャールズ・テイズ・ラッセルは、1852年にアメリカのペンシルバニア州で生まれました。子供の頃は、両親が属していた長老派の教会に通い、やがてより自由な雰囲気の組合教会へ移りました。16歳の時に、ラッセルは「永遠の刑罰」の教えに耐えられなくなり、一時的に教会を離れますが、その後アドベンティスト派(再臨派)の教えに強く惹かれ、再び真理を求め始め、独自の聖書研究グループを発足したと言われています*[1]

1879年、ラッセルは「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」(現代のものみの塔誌)を創刊、続く1881年には「シオンのものみの塔冊子協会」(現代のものみの塔聖書冊子協会)という非法人団体を設立し、現代にまで続くものみの塔の歴史をスタートさせることになります。

彼が大々的にふれ告げた予言として、(1)1878年にキリストの臨在が始まり、(2)1914年までには異邦人諸国家は滅ぼされ、神の国が地上で完全な支配を始める、というものがありましたが、これらの予言はどれも外れました*[2]

またラッセルは、三位一体、霊魂不滅・地獄の教えを否定し、キリスト教世界との違いを鮮明に打ち出しましたが、こうした主張は、ものみの塔の歴史を通じて、そのアイデンティティの根幹を成す重要なものとなってきました。

現代のものみの塔が、ラッセルを「謙遜な人物」として出版物の中で紹介する一方、彼自身は、その著作である6冊の「聖書研究」を、聖書以上に重要なものと見做し、「たとえ聖書そのものを読まなくても『聖書研究』だけを読んでいれば『光』のなかにいるが、もし『聖書研究』を読まずに聖書だけを読んでいれば、その人間は『闇』に入る」と教えていました*[3]

他にも、ラッセルが聖書研究にピラミッド学を取り入れていたこと、彼がフリーメーソンの影響を強く受けていたことは、注目に値する事実です*[4]

後にラッセルは、1914年という年代を修正し、1915年までに世の終わりが来ると改めましたが、その予言も外れ、その翌年である1916年、旅行中の汽車の中で、突如心臓発作で倒れ、その生涯を終えました。

チャールズ・テイズ・ラッセル

創始者・初代会長、チャールズ・テイズ・ラッセル

二代目会長 ラザフォードの時代

ラッセルの死後、会長の座を引き継いだのは、ジョセフ・F・ラザフォードでした。彼は弁護士資格を持っていたため、1906年にバプテスマを受けた後、その一年後からものみの塔協会の法律顧問として働いていました。

協会の出版物によれば、ラザフォードは「ラッセルとは全く違うタイプの性格の人であり、受け入れにくいと感じた人もいた」とされつつも、その詳細は説明されていませんが、実際の性格は「横暴・気分屋」であり、アルコール中毒でもあったことが指摘されています。彼は多くの本を書き、ラッセルと同じようにキリスト教世界を攻撃し、自らを「神の代弁者」「世界一の神学者」であると豪語しました*[5]

ラッセルの時代のものみの塔協会は、比較的緩やかな聖書研究者たちの群れでしたが、ラザフォードの時代になると、会長による独裁体制が強化され、その組織は全体主義的な傾向を強めていくこととなります。

ラザフォードは、1918年、1925年に世の終わりが来るという予言を大々的に外した他、1940年前後にも、「第二次世界大戦がハルマゲドンへ突入する」と予言し、それを外しました。

彼の時代に確立した教理や制度として、(1)144,000人だけが天へ行き、残りの大群衆は地上で永遠に生きる、(2)十字架の否定、(3)クリスマスの廃止、(4)奉仕時間(伝道時間)の報告制度、などが挙げられます。また、「エホバの証人」という名称の採択、「黄金時代」(現代の「目ざめよ!誌」)の創刊も、ラザフォードによるものでした。

ラザフォード

二代目会長、ジョセフ・F・ラザフォード

三代目会長 ノアの時代

1942年にラザフォードが亡くなり、会長の座を継いだのは、ネイサン・H・ノアという人物です。彼は、ラッセルやラザフォードほどカリスマ性のある人物ではありませんでした。また学力も低かったため、聖書理解の多くを次期四代目会長となるフレデリック・フランズに頼っていました。しかし、中央集権体制を確立し、組織の世界的な成長に大きく貢献した人物であり、会長就任時に約11万人であった信者の数は、彼の最後の年である1977年には、およそ222万人にも膨れ上がりました。

ノアの時代に確立した制度や教理として、(1)世界中に派遣する宣教者を訓練する「ギレアデ聖書学校」の設立、(2)信者を訓練する「神権宣教学校」制度、(3)規則に違反する信者を裁くための審理委員会の設置*[6]、(4)輸血拒否、などが挙げられます。他には、ものみの塔独自の教理に合わせて翻訳された「新世界訳聖書」の発行も、ノアを含む四人の協会の指導者たちによって手がけられたものでした*[7]

彼の時代、ものみの塔協会は、1975年にハルマゲドンが来ると大々的に予言しましたが、何事も無くその年は過ぎ去りました。そして、その翌々年である1977年に、ノアは生涯を終えました。

なお、ノアが亡くなる前の1976年に、ものみの塔協会は、一人の会長による独裁体制から、「統治体」*による集団指導体制へと移行し、その体制が現在にまで続いています。(統治体とは、複数の男性信者で構成される協会の指導者たちのこと)

また、現在のものみの塔協会が採用する主要な教理や制度の多くは、ノア会長の時代までに確立されたと言えるでしょう。

ネイサン・H・ノア

三代目会長 ネイサン・H・ノア

統治体の時代

ノアの死後、会長に就任したのはフレデリック・フランズでしたが、協会の最高責任機関は「統治体」へと移行していました。

当時起きた特筆すべき出来事としては、協会の教理や方針に疑問を抱く信者に対する大規模な粛清と、それに伴って生じたレイモンド・フランズ(統治体メンバーの一人)の排斥を挙げることができます。彼が脱会後に記した「良心の危機」は、組織の実情を明らかにした貴重な資料として、今でも世界的に読まれ続けています。

その他、1975年の予言の失敗後、協会側は言い逃れや責任転換を繰り返し、失望した信者は次々と離れ、エホバの証人の増加には大きな歯止めがかかりました。しかし、組織は野外宣教を強化し、「1914年の出来事を見た世代が過ぎ去る前に新しい世が来る」という新たな予言を打ち出すことにより、再び世界的な成長を遂げていきました。しかし、21世紀を迎えても予言は成就せず、協会側はこれと言った責任を取ることもなく、言い逃れのための預言解釈の修正が繰り返しなされ、今日に至ります。

現在は、エホバの証人の数はおよそ800万人となっており、かつての急成長の時代ほどではありませんが、世界的には今でも緩やかな成長を続けています*[8]

エホバの証人の統治体

エホバの証人の統治体(2013年7月時点)|Photo by JW.ORG

(以上のエホバの証人の歴史の執筆にあたって、特に参考とした資料は、「ふれ告げる」「良心の危機」「ものみの塔の源流を訪ねて」「エホバの証人への伝道ハンドブック」「エホバの証人情報センター」となります。)

記事一覧:エホバの証人とは?

  1. 基本概要
  2. エホバの証人の歴史
  3. 組織構造
  4. 教理(戒律)
  5. 偽予言
  6. 統計と動向
  7. 宣教活動
  8. 出版物・メディア
  9. 集会・大会
  10. 寄付制度と会計報告
  11. カルト性について

脚注

[1] ものみの塔は、ラッセルがこの時に発足させた聖書研究グループの成果によって「真理の多くが回復された」と主張していますが、前後関係を調べると、その主張には多くのおかしな点があることが指摘されています。―中澤啓介『ものみの塔の源流を訪ねて』113~130頁を参照。

[2] 現代、ものみの塔協会は、実際には外れていた予言を、あたかも「的中した」かのように説明し続けています。この点について詳しくは、「ものみの塔は偽預言者か」(当サイト)を参照。

[3] 『ものみの塔』1910年9月15日号を参照。

[4] これらの点についての詳細は、『ものみの塔の源流を訪ねて』にて詳しく説明されています。

[5] 『弁明』第一巻(1931)。ウィリアム・ウッド「エホバの証人への伝道ハンドブック」22頁を参照。

[6] 三人の指導的な男性信者(大抵は長老たち)からなる委員会であり、会衆内の様々な問題を取り扱います。

[7] 新世界訳聖書の発行を手がけたとされる「新世界訳委員会」のメンバーには、ノアの他に、フレデリック・フランズ、アルバート・シュローダー、ジョージ・ギャンギャスがいましたが、実際には、この中で聖書翻訳のためのギリシャ語やヘブル語の知識があるのは、フレデリック・フランズだけでした。フランズは、大学でギリシア語を二年間学び、ヘブル語は独学でした。―レイモンド・フランズ『良心の危機』(せせらぎ出版、2001)68頁、注記16。

[8] ただし、増加している国のほとんどは発展途上国に集中し、先進諸国では減少傾向にあります。詳しくは、本記事の「統計」の項目をご参照ください。

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2件のフィードバック

  1. 西畑積 より:

    冒頭のラッセルの誕生年が1952年になってます。

    • Webmaster-GJW より:

      ご指摘に感謝です。訂正いたしました。どうぞ宜しくお願い致します。

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