教会に求められる対応①|エホバの証人の受け皿となる教会の条件
どんな人間関係においても言えることですが、他者を裁くなら、自己のあり方に対しても吟味することが求められます。それで、エホバの証人問題に取り組むある牧師は、これと全く同じことが、教会の側にも求められるという点を指摘しています*[1]。
「ものみの塔、すなわちエホバの証人の問題点を調べれば調べるほど、彼らを切っているつもりがなんとこちらの方も大部切られていると気づく。異端への攻撃は、正統と称する伝統教会をも切らざるを得ないのである。異端攻撃は両刃の剣なのである。残念ながら伝統的プロテスタント教会はやはり聖書に根拠を置いているというより、カトリック教会と同じく伝統に権威の震源がある。それがまさに教会の罪、パン種である。これが除かれないかぎり、エホバの証人への攻撃は薮ヘビになり、中途半端で生ぬるい偽まんにならざるを得ないのである。」
ですから、ものみの塔の誤りを指摘するだけでなく、同じような基準と謙遜な思いを持って、自己を吟味できる教会であることは、エホバの証人の受け皿となる上で、大切な点として挙げることができるでしょう。
「また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら・・どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。」(ローマ2:19~21、新改訳)
以上の前提を踏まえ、エホバの証人の受け皿となる教会に求められる条件について、具体的な点を取り上げていきたいと思います。
聖書信仰に立っている
エホバの証人は、多くの誤った教えを掲げているとは言え、聖書全体を神の言葉として真面目に信じています。また、聖書信仰に立っていない教会に対する多くの批判を、組織から聞かされてきています。
ですから、受け皿となる教会は、聖書全体を神の霊に導かれた書物だと信じ、聖書を信仰生活の唯一の基準として教えている必要があります。いざ教会へ足を運んでも、創世記を神話と見做していたり、超自然的な出来事を字義通りに信じていなかったりすれば、彼らは教会の姿に幻滅することになるでしょう。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(第二テモテ3:16-17、新改訳)
伝道に対するビジョンや取り組みがある。
エホバの証人の受け皿となる教会は、イエス・キリストの大宣教命令の重要性を理解し、伝道に対するビジョンを掲げている必要があります。牧師任せではなく、一人一人の信徒たちが伝道者としての意識を持つことの重要性を教えられていることが望ましいでしょう。伝道に対する具体的な取り組みがあると良いですが、そうでないとしても、宣教に対するビジョンを持っているべきです。
エホバの証人は、伝道に対する徹底した訓練と実践を経てきた人々であり、宣教に人生をかけてきた人も少なくありません。また、伝道者の一人一人が、長老任せではなく、自身で研究性を導く責任と自覚を持っています。そのため、たとえ教会に来ても、信徒たちから伝道への関心が感じられなければ、教会の姿勢に幻滅し、かえって「ものみの塔」へ戻るキッカケとなってしまうでしょう。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19、新改訳)
聖書の学びを大切にしている
エホバの証人は伝道だけでなく、聖書研究にも非常に熱心です。そのため、足を運ぶ教会が、聖書の学びを疎かにしていれば、物足りなさを感じ、そこを去ってしまうでしょう。
ものみの塔の出版物でも、「教会に行っても疑問に答えてくれなかったが、エホバの証人は聖書から答えてくれたので、これが真の宗教だと確信した」という経験談が多数載せられています。また、実際にあった話ですが、元エホバの証人の姉妹が、とある教会の学び会で「三位一体」についての説明を求めた時に、ちゃんとした説明をできる人が誰もいない、ということがありました。このような状況は、教会へ来るエホバの証人に対して、躓きを与える原因の一つとなりかねません。
それで、エホバの証人を迎える教会は、キリスト教の正統教理に関する学びを、ある程度ちゃんと提供できている必要があります。
「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」(第一ペテロ3:15、新改訳)
なお、たとえ質問に上手く答えることが出来なかったとしても、相手の疑問を真摯に受け止める姿勢を示すことによって、与える印象は大きく変わるでしょう。
偶像礼拝や不道徳に妥協しない
エホバの証人は、偶像礼拝や不道徳に対して妥協しません*[2]。例えば、お葬式で無くなった人を拝んだり線香を上げたりしません。また性的不道徳を容認せず、姦淫や婚前交渉に対しては、毅然とした対応を取ります。
ですから、受け皿となる教会も、聖書信仰に基づき、聖書が非とするこれらの行いに対して、毅然とした態度を持っている必要があります。
「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。・・こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテア5:19~21、新改訳)
※ただし、エホバの証人の存在は、上記リストの「党派心、分裂、分派」に該当します。
愛の交わりがある
エホバの証人を迎え入れる教会において、ある程度の愛の交わりがあり、ゲストを歓迎する雰囲気があることはとても大切です。なぜなら、「組織を批判しないかぎり」という条件付きの愛だとはいえ、エホバの証人同士の交わりを通して、暖かい兄弟愛を感じてきた人は少なくないからです。
例えば、引越をする時には、会衆全体で無料で手伝いをしますし、病気をしたら頻繁におかずを持って来てくれる、ということもよくあります*[3]。ある兄弟は、出張先で立ち寄った会衆で大歓迎を受けて、「これが世界的な兄弟関係か!」と感動したと言っています。また、ものみの塔の出版物では「知り合いのいない教会に行ったら、誰も話しかけてくれなかったが、エホバの証人は歓迎してくれたので入信した」という経験談が載せられています。
ですから、教会の中に愛の交わりが少なかったり、ゲストを歓迎する雰囲気が無かったりすれば、訪れるエホバの証人は残念に思い、組織へ逆戻りしてしまうかもしれません。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34~35、新改訳)
「関係ありません」という表記について
よく教会のホームページや看板などで、「当教会は、エホバの証人、モルモン教、統一教会などとは、一切関係ありません」と表記されていますが、これら異端の問題に関わる先生方の多くは、この表記方法についてやや否定的な見解を持っています。なぜなら、この「関係ありません」という表記は、それらの異端グループと関わりのある人々に対して、冷たい印象を与えるからです。
それで、可能ならば「エホバの証人、モルモン教、統一教会などでお困りの方はご相談下さい」という表記に変えていただくことができるでしょう。そうすれば、現役のエホバの証人や、その家族や友人により良い印象を与え、彼らが教会へ来やすくなるからです。
脚注
[1]内藤正俊(1986)『エホバの証人-その狂気の構造』青村出版社、4頁
[2] ただし、そのカルト的傾向のゆえ、過度な規制を強いていることも多くあるので、解釈には注意が必要です。
[3] このような普通を越えた親切な行為は「ラブシャワー」と言われますが、カルト教団の多くに見られる特徴の一つです。ただし、互いへの親切な態度には、見倣うべき点があると言えます。