解釈学―聖書解釈における共通のルールを確認する
キリスト教と比べて数多くの教理の違いがあるエホバの証人ですが、幸いなことに、話し合いにおける共通の土台は残されています。それはどちらのグループも、その教えの基礎を「聖書の言葉」に置いている、という点にあります。
ただし、同じ聖書を用いても、聖書解釈において異なる方法論を用いていれば、話は平行線を辿るばかりです。そこで、教理の説明に入っていく前に、最後に確認しておくべき重要な点は、「解釈学」です。
解釈学について
解釈学とは
解釈学とは、文献からその内容を正確に読取るための方法論のことで、特に聖書の正しい理解のために、宗教改革に先行して発達してきた学問です。ここでは、解釈学の基本となる点を簡潔に示し、エホバの証人とキリスト教の聖書解釈との共通点を確認していきたいと思います。
解釈学の目的と必要性
解釈学の目的・ゴールは「著者の意図を正確に理解すること」にあります。なぜなら、聖書解釈学には「神が私たちに語られた」という前提がありますが、神が語られた以上、その語られた言葉の意図を正確に読み取る必要と責任が人間の側にあるからです。
では、聖書を読む時に、特に解釈のルールが必要となるのはなぜでしょうか?それは、聖書筆者たちと私たちの間に、三つの大きな隔たり「時間的」「地理的」「文化的」隔たりがあるからです。私たちが同じ現代に生きる日本人が書いた文章を読む時は、その正確な意味を掴むことは難しくありません。
しかし、聖書は二千年以上前に、中東のヘブル人の文化的背景に沿って書かれた書物ですから、先に挙げた三つの隔たりを考慮して読まなければ、その意味を正しく理解することができない場合があるのです。
解釈学の大前提:聖書全体の霊感性
「聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。」(テモテ第二3:16)
「聖書全体は神の霊感を受けている」とする聖書観は、解釈学を論じる上で、大前提となる重要な事項です。
この聖句は、エホバの証人が聖書研究において頻繁に用いる聖句ですが、キリスト教でもよく知られています。エホバの証人は、このテモテの聖句の通り、聖書全体を神の霊感によって記された誤りの無い書物として見ています。
キリスト教では、このような理解に立って聖書を読む立場を、「正統主義」*[1]と言いますが、プロテスタントの中では、「福音派」と呼ばれる教派・教会は、一貫してこの聖書観を持っています。なお、今日のキリスト教では、聖書全体を神の言葉として認めない教会や個人も多くいますが、その場合は、エホバの証人との聖書の話し合いにおいて、共通の土台で話し合うことは不可能です。
1:字義通りに読む
「字義通りの解釈」とは、著者が意図した言葉を、その通りの意味で理解する、ということです。つまり、記された言葉を、普通に読み、普通に理解する、ということです。聖書だからと言って、何か特別な読み方が常に要求されるわけではありません。なぜなら、聖書の書簡の多くは、基本的に当時の一般庶民が理解できるように書かれているからです。
ただし、ここでの「字義通り解釈」の意味は、「全ての言葉を自動的に字義どおりに理解する」という機械的解釈を意味するわけではありません。あくまで散文は散文として、比喩的な表現は比喩として理解する、というのが「字義通りに解釈する」という言葉の正しい意味になります。
2:歴史的文脈・文法構成を考慮する。
専門的には「歴史的・文法的解釈」という表現が用いられますが、キリスト教の多くの神学者が、「正しい聖書解釈のために不可欠」と考える解釈法です。既に述べたように、聖書時代の筆者たちと現代の私たちとの間には、三つの大きな隔たり「時間的・地理的・文化的隔たり」が存在します。したがって、聖書を正しく理解するためには、次のような点を考慮する必要があります。
◆文法構成:ヘブル語やギリシャ語の文法や、該当の言葉が当時どのような意味で用いられていたか、などの言語的背景を考慮する。ヘブル語・ギリシャ語がわかるに越したことはありませんが、そうでなくても、訳文の比較や辞書を用いることで、正しい意味を判別できることも多くあります。
◆歴史的文脈:各書簡を、誰が、誰に、どんな目的で、いつ頃書いたのか、などの時代背景を考慮し、当時の人々にとって最も明瞭に理解された意味を考える。
◆聖書的文脈:聖書全体の文脈、各書の文脈、前後の文脈を考慮し、正しい意味を考える。
以上に挙げた点が、正しい聖書理解のために重要であることは、ほとんどのエホバの証人が同意するはずです。実際にものみの塔協会が1990年に出版した「聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です」という書籍は、聖書全体の霊感性・統一性を前提とし、各書簡の歴史的背景や文脈を体系的にまとめたものであり、歴史的・文法的解釈の必要性を示すものとなっています。
3:聖書全体の統一性を考慮する
聖書全体が、同じ神の霊によって導かれた統一性のある書物だという理解は、エホバの証人とキリスト教の双方が共有する聖書観です。そしてこの前提に立つと、以下のような四つの原則にしたがって聖書を解釈していくことが可能となります。
聖書が聖書を解釈する
聖書のある箇所の正しい解釈は、同じ聖書の別の箇所が説明している場合があります。この原則は、聖書全体の様々な教えに適用ができますが、特に預言を解釈する際に、有効な事例が多くあります。
例えば、ダニエル2章で登場する巨大な像の幻では、像を破壊する「石」が出てきますが(ダニエル2:45)、この石が象徴的に「メシア」を表していることは、聖書の別の箇所がはっきりと答えを与えています。(マタイ21:42など)
ラッセルが用いた聖書解釈法
「一人が疑問点を持ち出すと,それを皆で話し合う。その問題に関係する聖句をすべて調べ,それらの聖書本文の調和を皆が確信したなら,最後に結論を述べ,それを記録する」(『ふれ告げる』44頁)
ものみの塔の歴史の初期の聖書研究会において、ラッセルとその仲間たちが、上記のように「聖書が聖書を解釈する」という原則で研究していったことは、エホバの証人の間では有名な話です。そして、おそらく多くの信者は、「教会の神学者や信者は、このような聖書解釈法を怠ったから偽りを教えてきたのだ」と考えているはずです。
しかし実際には、聖書が聖書を解釈する、というこの解釈方法の原則は、何も特別なことではなく、歴史的に神学の世界で連綿と行われてきた重要な手法の一つだと言えるでしょう。
明瞭な聖句は、不明瞭な聖句に優先する
ある教理の聖書的な根拠を論じる中で、明瞭に教えている聖句と、不明瞭な聖句があった場合は、明瞭な聖句を優先し、それに基づいて教理を構築しなければなりません。不明瞭な聖句に基づいて、教理を考えてはいけません。
例えば、第一コリント15章29節で「死者のためのバプテスマ」について言及されている箇所がありますが、この聖句の解釈には多くの議論があり、神学者によって解釈のパターンが約200種類もあるそうです。
「もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。」(新改訳)
それだけ解釈のパターンがあるということは、この聖句の意味が不明瞭であることを表していますので、正しく解釈するためには、バプテスマと救いに関する他の明瞭な聖句を優先して、その意味を考える必要があります。
聖書全体は、神を信じた当人が救われてバプテスマを受けるべきことが明白に教えられており、既に死んでしまった人が救われるために、生きている誰かが代わりにバプテスマを受ける、という教えは存在しません。(ヨハネ3:16、ローマ6章)したがって、この聖句の解釈は、「救いは各人の信仰による」という明白な聖書の教えと調和する形で理解しなければなりませんし、エホバの証人も、そのように理解していることは、以下の新世界訳の訳し方を見れば明らかです。
「そうでなければ,死んだ者[となる]ためにバプテスマを受けている者たちは,何をしていることになりますか。死人のよみがえらされることが決してないのであれば,なぜ彼らはそのような者[となる]ためにバプテスマを受けたりするのですか。」(新世界訳)
二つの相反する教理が、ともに明白に教えられているなら、両方とも受け入れる
この点は、「三位一体」や「地獄」などの論争において、重要な意味を持つ点です。聖書には、人間側の視点においては、明らかに相反すると考えられる教えが、「共に明白に」教えられている場合があり、「三位一体」や「地獄の存在」はその代表格です。かつてラッセルが、三位一体や地獄の教えを退けた理由も、「三つの神が一つの神であるはずがない」「愛の神が人を地獄へ送るはずがない」という彼なりの考えからでした。
しかし、聖書の中に「神が唯一であることとイエスが神であること」「神が愛であると同時に地獄が存在すること」が共に明白に教えられているなら、それを否定する場合、結局は「明白な聖書の言葉」を否定することになるのです。
また「人間側の視点では矛盾だからそれはあり得ない」と考えることは、それが「神の側では矛盾でない可能性」を否定することを意味し、「人間の限られた知識や知性の有限性」を謙遜に認めていないことを意味します。
ですから、人間の有限性と、神の無限生を認めるならば、その神からの直接的な啓示が、相反するように見える事柄を共に明白に教えているなら、どちらも真理として受け取る必要があるのです。この点の理解については、多くのエホバの証人にとってすぐに受け入れることが難しいものかもしれませんので、具体的な教理の説明で、さらに詳しく取り上げたいと思います。
脚注
[1] 聖書を誤り無き神の言葉として見る説のことを「逐語霊感説」「十全霊感説」という。