輸血拒否は聖書の教えですか② 血の禁令はクリスチャンにも適用されるのか?

前回の記事では、血の禁令が輸血に適用されるのかどうかを聖書的な視点で考えましたが、今回はそもそも血の禁令がクリスチャンにも適用されるのかを考えたいと思います。
エホバの証人が、血の禁令をクリスチャンに対しても有効な教えと考える重要な根拠は、「血を避けるよう」(使徒15章20節)と書かれたエルサレム会議の勅令です。早速、見ていきましょう。
「・・・ですから,わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。」(使徒15:19~20)
エルサレム会議。その背景と内容
異邦人も救いのために割礼を受けるべきか
「血を避けるように」というエルサレム会議の勅令の意図を正しく理解するために、まずはこの会議に至った歴史的背景を確認していきます。
当時、世界中でたくさんの異邦人が福音によって救われていく一方、エルサレムでも、パリサイ派の中からイエスをメシアとして信じるユダヤ人クリスチャンが起こされていきました。しかし彼らの中には、律法に対する生来の熱心さもあってか、「イエスへの信仰のみによって救われる」という福音の本質を理解せず、「異邦人も救いのためには割礼を受けるべきだ」と主張する「割礼派」が存在したのです。
こうした背景の中、ある時「割礼派」の人々がアンティオキア教会に下っていき、「異邦人も割礼を受けるべきだ」と主張したことによって大論争が起こり、問題解決のため、アンティオキア教会はバルナバとパウロをエルサレムへ派遣します。彼らがエルサレムへ着いた後、使徒たちとエルサレム教会の長老たちを交えた会議が開かれ、次のような流れとなりました。
「さて,多くの議論が出てから,ペテロが立って彼らにこう言った。『皆さん,兄弟たち,あなた方がよく知っているとおり,神は早いころからあなた方の間で選びを行ない,わたしの口を通して諸国の人たちが良いたよりの言葉を聞いて信じるようにされました。 8 そして,[人の]心を知っておられる神は,わたしたちに行なわれたと同じように,彼らにも聖霊を与えて証しをされました。 9 また,わたしたちと彼らとの間に何の差別も設けず,彼らの心を信仰によって浄められたのです。 10 それですから,どうして今,父祖もわたしたちも負うことのできなかったくびきを弟子たちの首に課して,神を試したりするのですか。 11 それどころか,わたしたちも,その人たちと同じように,主イエスの過分のご親切によって救われることを頼みとしているのです』。
12 すると,一同は沈黙してしまった。そして,バルナバとパウロが,自分たちを通して神が諸国民の間で行なわれた多くのしるしや異兆について話すのを聴くのであった。
13彼らが話し終えてから,ヤコブが答えて言った,「皆さん,兄弟たち,聞いてください。 14 シメオンは,神が初めて諸国民に注意を向け,その中からご自分のみ名のための民を取り出された次第を十分に話してくれました。 ・・・ですから,わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。21 モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」(使徒15:7〜21)
以上が、エルサレム会議の流れの要約ですが、会議を通して定められた二つの要点をこれから確認していきたいと思います。
会議の決定事項の要点
第一に、異邦人は救いのために、割礼を受けたりモーセの律法を守ったりする必要はありません。つまり、このエルサレム会議の決定事項を通し、「人はただ恵みと信仰によって救われる」という福音の本質が確証され、守られたのです。
「また,わたしたちと彼らとの間に何の差別も設けず,彼らの心を信仰によって浄められたのです。 10 それですから,どうして今,父祖もわたしたちも負うことのできなかったくびきを弟子たちの首に課して,神を試したりするのですか。 」
第二に、ではなぜ、律法を守らなくても救われる異邦人が、「偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう」という律法の要求事項のようなものを守る必要が生じたのでしょうか?すでに確認した通り、人は救いのために律法を守る必要はありません。ということは、異邦人に求められたこれら四つの要求事項は、救いのためではなく、他の目的のためであった、ということです。
使徒勅令、四つの禁止事項が与えられた目的
禁止事項の内容
はじめに、四つの禁止事項の内容について、少し説明をさせていただきます。「偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避ける」、ここで挙げられた四つの事項は、イスラエル人に対してだけでなく、「在留異国人」にも求められた聖潔の定めに該当するもので、当時ユダヤ教に改宗した人々に、最低限の要求として課せられていたものと考えられます。(レビ記17~18章)
「偶像によって汚された物」とは主に、偶像の神殿で犠牲として捧げられた食べ物のことです。そのような肉を食べるかどうかは、クリスチャンの良心に委ねられていましたが(コリント第一8章)、ユダヤ人はそれを偶像礼拝の一部とみなしました。
「淫行」の禁止とは、一般的な性的不道徳に加え、近親婚についての律法の基準を要求するものだったと考えられます[1]。
「絞め殺されたもの」とは、血が残った肉のことであり、「血を避ける」の意味も、血を食べてはならない、という血の禁令に関するものです。
禁止事項が与えられた背景と目的
ではなぜ、救いのために律法を守る必要のない異邦人クリスチャンが、これらの四つについては守るよう課せられたのでしょうか?その理由のヒントを与えてくれるのが、以下のヤコブの結びの言葉です。
「モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」
当時、福音が広がっていった地域では、多くの場合ユダヤ人の共同体があって、各地域には会堂があり律法の朗読がなされていました。そのような環境で育ってきたユダヤ人が多く救われていく中で、どの教会にもユダヤ人と異邦人の両方が連なるようになりました。そうなると、必ず起こる問題が「食事」です。
ユダヤ人にとっても当時の教会にとっても、同じ神の家族として親しい交わりを持つ上で食事を共にすることは欠かせない習慣でしたが、律法の食物規定を守るユダヤ人とそうでない異邦人が食事を共にすることには様々な困難が伴いました。実際、ユダヤ人は伝統的に異邦人と食事をすることは禁止されていたほどです。(使徒10:28)
ですから救われて同じ神の家族になったとはいえ、レビ記17~18章の在留異国人にも求められた四つの禁止事項を守らない異邦人と食事をすることは、ユダヤ人にとって大きなハードルとなったのです。血の禁令を厳格に守ってきたユダヤ人が、血の禁令を守らない異邦人と同じ食卓につくことには大きな抵抗があったのです。
そこでヤコブは、異邦人が信仰のみによって救われることは認めつつも、当時の教会の現状を考慮し、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが平和な食卓の交わりを持つことができるよう、異邦人クリスチャンに対して最低限の配慮を求めたのです。
ある聖書教師の優れた注解
最後に、エルサレム会議に関する優れた注解を残している、ある聖書教師のコメントをご紹介させていただきます。
「それから、彼らは、律法としてではなく、『必要なこと』としてまとめあげた。・・これらのものを避けるようにというアドバイスには、ユダヤ人たちが、そのような肉を食べることが異教徒の偶像礼拝に参加することであると考えたからである。偶像なるものは木や金属や石に過ぎない、という物事にとらわれない見方をすれば、偶像は食物を益したり、害したりするものではない。にもかかわらず、異邦人クリスチャンは、これらのことを行う自由を捨て、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、弱い兄弟たちの良心を傷つけないのは懸命なことである。と考えた。
血の使用の禁止についても同じことである。これらの禁止事項は律法のもとで生活していなかった異邦人にとっては無縁なものだった。しかし、ユダヤ人の思いには深く根ざしていた。したがって、教会の平和を保つためには、異邦人がこれらのことを守る必要があった。・・・もし、彼らが争いを好まず、分裂を避けようとするのであれば、これらのことに関する事由を喜んで犠牲にしたであろう。」*[2]
この優れた注解を残したのは、他でも無い、ものみの塔協会の創始者チャールズ・テイズ・ラッセルです。彼は、エルサレム会議の決定事項の意味については、それを正しく理解していたようです。ところが、後のものみの塔協会が文脈を無視した解釈を適用したことによって、組織はますます真理から後退してしまったのです。
ノア契約との関係
すでに本シリーズの記事で確認してきた通り「血を食べてはならない」という命令は、大洪水の後にノアを通して全人類に与えられたものでした。では、この全人類にノアを通して与えられた命令は現代でも有効なのでしょうか?
実はこの問題については、現時点での私の考えでは、断定できない側面があるように思えます。
血の禁令が、肉食の許可と共に全人類に与えられた命令である、という側面を考慮すると、今日でも続く基本的な神の命令と見ることも可能かもしれません。
一方では、血の禁令は、ユダヤ人にはモーセの律法契約の中で継承されていきましたが、異邦人にはあまり継承されていきませんでした。ですから、もしも血の禁令が、全てのクリスチャンに対しても基本的な神の命令とされるのであれば、使徒たちはその禁令を偶像礼拝や姦淫の罪と共に、普遍的な命令として手紙の中ではっきりと教えたと思いますが、そのような形跡が見当たりません。実際、クリスチャンの中で、今日でも血の禁令の有効性を認めている人は多くありません。
以上の理由から、血の禁令をクリスチャンが守るべきものとして絶対視することは難しいと言えそうです。(もっとも、禁令が有効だとしても、その禁令を輸血に適用することには問題があるでしょう)
結論
最後に、エルサレム会議の決定事項は、「普遍的定め」としてではなく、「ユダヤ人信者への配慮」がその目的であったことがわかります。したがって、現代のクリスチャンが使徒勅令を根拠として、血の禁令を普遍的な掟として理解する必要は無いことがわかります。
また、ノア契約の流れを踏まえると、その禁令が普遍的なものとして語られていると見えなくもないですが、一方で、新約聖書の中では血の禁令の普遍性に言及している箇所がありません。
ですから、一連の聖書的な原則を踏まえると、血の禁令に基づく輸血拒否の教えには十分な聖書的根拠が無く、まして命懸けで守る教えとして強制するのはもってのほかだと言えます。聖書は、他人の血を医療目的で使うことについては何も言っていないのですから、自己血の解禁と同様に、将来全ての輸血が解禁になることを願ってやみません。
脚注
[1]当時の世界において、モーセの律法と異邦人世界との間に、どこまでの近親婚を合法とするのか、基準の違いがありました。
[2] 中澤啓介『輸血拒否の謎』144~145頁






