神の子供とはどんな人々ですか ?144000人と大群衆の実体②
ものみの塔協会は、144,000人だけが新しい契約の当事者であり、「神の子供」であると教えます。そのため、今日「大群衆」と呼ばれる大部分のエホバの証人は「神の子供ではない」というのが、協会の主張です。
ところが、神の子供ではない「大群衆」に属するエホバの証人は、祈りの中で「天のお父様」と神に呼びかけ、自分たちを「聖霊に導かれる」唯一の民だと信じ、「イエスの名によってバプテスマを受けている」とされています。このような教えは、聖書の言葉と本当に調和するのでしょうか?
本記事では、「神の子供」というテーマに焦点を合わせ、144000人に関する教理を、前回の記事とは違った角度から考察していきたいと思います。
神の子供とは―その聖書的背景
旧約時代には存在しなかった
神に信仰を持つ者は誰でも神の子供となる、という教えは、旧約聖書の時代には存在しませんでした。それが語られるようになったのは、明らかにイエスの贖いと復活以降の新約時代においてです*[1]。
旧約聖書の時代から、神に信仰を持つ者は、誰でも神の前で義と認められましたが、その原理は今日でも変わることはありません。しかし、キリストの死によって信じる者の罪が贖われることにより、義と認められた人の立場に変化が生じるようになったのです。その背景と理由を明らかにするために、まずは聖書的文脈を確認してみます。
神の子供からの堕落
かつて、アダムとエヴァが罪を犯す前は、二人は神の臨在の中を生きる神の子供でした。ところが、二人が罪を犯したために、神との関係に断裂が生じ、人間はもはや神との親しい交わりをすることができなくなってしまったのです。このことから、人類が再び「神の子供」としての立場を回復するためには、神との関係を断裂させている「罪」を取り除く必要が生じました。
旧約聖書の時代、モーセの律法下では、罪人が聖なる神に近づくために、どんな方法によって罪を取り除くべきかが示されましたが、動物の生贄は完全な贖いとはなりませんでした。
神の子供の立場の回復
しかし、満を持して贖い主であるメシアが到来し、完全な犠牲を捧げたことにより、キリストへの信仰によって贖いを受け入れる全ての人に、罪の赦しが与えられるようになったのです。そして、信仰によって罪赦された全ての人は、断裂されていた神との関係を回復し、アダム以来失われていた「神の子供」としての立場を回復するようになりました。そして今、贖われた聖なる者たちは、神の聖所に大胆に近づき「父よ!」とはばかりなく語りかけることができるのです。―ヘブライ10:19
以上が、新約以降の時代において、イエスを信じる者たちが「神の子供」と呼ばれるようになった聖書的な理由とその背景です。
罪の赦しがもたらす恵みとは
霊に従う者―神の子供たちの祝福
メシアの贖いによってもたらされた罪の赦しは、イエスを信じる者たちに多様な恵みをもたらしましたが、「神の子とされる」ことも、それらの恵みの要素の内の一つだと言えます。この点を詳しく解説しているのがローマ8章であり、パウロは「霊に従う者」と「肉に従う者」を対比させる文脈で、信仰によって与えられる「罪の赦し」が、どのような恵みをもたらすのかを力説しています。
「8 こういうわけで,キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。2 キリスト・イエスと結びついた命を与える霊,その[霊]の律法が,あなたを罪と死の律法から自由にしたからです。3 肉による弱さがあるかぎり律法には無能力なところがあったので,神は,ご自身のみ子を罪深い肉と似た様で,また罪に関連して遣わすことにより,肉において罪に対する有罪宣告をされたのです。4 それは,律法の義の要求が,肉にではなく,霊にしたがって歩むわたしたちのうちに全うされるためでした。5 肉にしたがう者は自分の思いを肉の事柄に向けるのに対し,霊にしたがう者は霊の事柄に[向ける]からです。6 肉の思うことは死を意味するのに対し,霊の思うことは命と平和を意味するのです。7 肉の思うことは神との敵対を意味するからです。それは神の律法に服従しておらず,また,現に[服従し]えないのです。8 それで,肉と和している者は神を喜ばせることができません。
9 しかし,神の霊があなた方のうちに真に宿っているなら,あなた方は,肉とではなく,霊と和しているのです。けれども,キリストの霊を持たない人がいれば,その人は彼に属する者ではありません。10 しかし,キリストがあなた方と結びついているなら,体は罪のゆえに確かに死んでいるとしても,霊は義のゆえに命となっているのです。11 そして,イエスを死人の中からよみがえらせた方の霊があなた方のうちに宿っているのなら,キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたその方は,あなた方のうちに住むご自分の霊によって,あなた方の死ぬべき体をも生かしてくださるのです。
12 それですから,兄弟たち,わたしたちは義務を負っています。それは,肉にしたがって生きるという,肉に対する[義務]ではありません。13 肉にしたがって生きるなら,あなた方は必ず死に至るからです。しかし,霊によって体の習わしを殺すなら,あなた方は生きるのです。14 神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。15 あなた方は,再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく,養子縁組の霊を受けたのであり,わたしたちはその霊によって,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。16 霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています。17 さて,子供であるならば,相続人でもあります。実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人なのです。ただし,共に栄光を受けるため,共に苦しむならばです。」(ローマ8:8-17)
引用した聖句を要約すれば、キリスト・イエスを信じる者たちに与えられる恵みには、次のような要素があることがわかります。また8章の文脈上、イエスを信じる「神の子供」でなければ、これらの恵みを受けることができない、という点も明らかです。
- 罪の赦しにより、有罪宣告は無い
- キリストと結ばれている。(キリストに属する)
- 命を与える霊の律法が支配している。
- 神との平和がある。
- 神の霊が宿っている。
- キリストの霊を持っている。
- 神の霊に導かれている
- 神の子となっている。
*聖霊によって「アバ、父よ!」と語りかける - キリストと共同の相続人となっている。
- 永遠の命を持っている*[2]。(ヨハネ3:36)
ものみの塔の教えはローマ8章と調和しない
協会の教えに染まり切っていないエホバの証人が、誠実な思いでローマ書を読んでいくと(特に6~8章あたり)、ものみの塔の教えの矛盾点に気づく場合があります。例えば、パウロはローマ8章で、互いに相容れることのない「霊の従う者」と「肉に従う者」の二つのグループについて語っていますが、協会の教える「大群衆」は、そのどちらにも当てはまらないからです。
協会は「大群衆」に対して、「あなたは神の子ではない」と言いながら、「霊に従うように」と教えます。しかしパウロの教えによれば、そもそも「神の子供」でなければ、「霊に従って」歩むことはできません。
協会は「大群衆」に対して、「あなたは神の子ではない」と言いながら、「聖霊の導きを求めるように」と教えます。しかしパウロの教えによれば、そもそも「神の子供」でなければ、「聖霊に導かれる」ことはできません。その中間は無いのです。
つまり、ものみの塔協会は、新約聖書に存在しない「第三のグループ」を、自ら作り出しているのです。
神の霊の導かれる者はみな神の子です
「神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。」(ローマ8:14)
ものみの塔協会は、エホバの証人こそが「神の霊に導かれる唯一の民」であると主張します。したがって、144000人であろうと大群衆であろうと、全てのエホバの証人は自分たちが「聖霊に導かれている」という認識を持っています。
実際に、集会の時、野外伝道の時、聖書研究の時など、あらゆる場面において、エホバの証人は聖霊の導きを求めるのですが、一方で「自分たちは神の子供ではない」と主張します。
しかし、このような教えは、パウロの神学に反するものです。パウロははっきりと「神の霊に導かれる者はみな神の子である」と教えているからです。新約聖書には、神の霊に導かれながら、神の子供でない人々は出てきません。つまり、神の子供に関するエホバの証人の教えは、パウロの言葉に反するものであり、聖書的な根拠が無いのです。
イエスの名によるバプテスマの意味
「キリストの霊を持たない人がいれば,その人は彼に属する者ではありません。10 しかし,キリストがあなた方と結びついているなら,体は罪のゆえに確かに死んでいるとしても,霊は義のゆえに命となっているのです。」(ローマ8:9-10)
エホバの証人は、イエス・キリストを信じる者がイエスの名によるバプテスマを受けるべきことを認めています。そして、自分たちが「イエスの名によるバプテスマ」を行っていると主張しますが、そのバプテスマを受けた人々(大群衆)が、「キリストと結ばれるようになる」ことは認めません。つまり、キリストに属する神の子供にはならない、と教えるのです。―『洞察二巻』551頁
しかし、このような教えは、バプテスマに関するパウロの教えとは矛盾します。なぜなら、イエスの名によるバプテスマは、それを受けた人がキリストと結ばれ、神の子供となったことを象徴するからです。
「それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです。4 ですから,彼の死へのバプテスマ[を受けたこと]によって,わたしたちは彼と共に葬られたのです。それは,キリストが父の栄光によって死人の中からよみがえらされたのと同じように,わたしたちも命の新たな状態の中を歩むためです。5 彼の死と似た様になって彼と結ばれたのであれば,わたしたちは必ず,彼の復活と[似た様になって]やはり[彼と結ばれる]のです。6 わたしたちが知るとおり,わたしたちの古い人格は[彼]と共に杭につけられたのであり,それは,罪深い体が無活動にされて,もはや罪に対する奴隷とはならないためです。7 死んだ者は[自分の]罪から放免されているのです。
8 さらに,キリストと共に死んだのであれば,彼と共に生きるようになることをもわたしたちは信じています。・・自分を,罪に関してはまさしく死んだもの,しかし,神に関してはキリスト・イエスによって生きているものとみなしなさい。」(ローマ6:3-11)
この聖句が示す通り、イエスの名によって受けるバプテスマは、イエスを信じた人が彼と共に葬られ、彼と共に復活することによって、「キリストと結ばれる」ことを象徴していることがわかります*[3]。そして、ローマ8章で確認した通り、「キリストと結ばれて」いるのであれば、「神の子供」となっていなければなりません。
「26 現にあなた方は皆,キリスト・イエスに対する信仰によって神の子なのです。27 キリストへのバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを身に着けたからです。」(ガラテア3:26-27)
新約聖書の中で、イエスの名によってバプテスマを受けながら、神の子供となっていない人は、一人も登場しません。しかしものみの塔協会は、「イエスの名によってバプテスマを行っている」と説明しながら、それを受けた「大群衆」が、「神の子供とされてはいない」と主張します。
このような主張は、「イエスの名によるバプテスマ」の意味を消し去るものであり、そこに聖書的な根拠があるとは言えません。
大群衆の立場は旧約時代の義人と同じですか
大群衆も「ある意味で」義なる者です
そこで協会は、ローマ8章の内容は「油注がれたクリスチャン」に向けて書かれているが、「大群衆」もその内容から益を得ることができる、と教えます。そして、ローマ8章の文脈において「大群衆」に対して生じる矛盾を、次のように説明します。
「しかし、地的な希望を持つ人たちもローマ8章から益を得ることができます。神は彼らのこともある意味で義なる者とご覧になるからです。その点は,パウロが4章でアブラハムについて述べている ことから分かります。信仰の人アブラハムは,エホバがイスラエルに律法をお与えになる前,またイエスがわたしたちの罪のために死なれるずっと前に生きていた人です。それでもエホバは,アブラハムの際立った信仰に目を留め,彼を義なる者とみなされました。(ローマ 4:20‐22を読む。)エホバは今日,地上で永遠に生きる希望を持ち,信仰を示すクリスチャンのことも,義なる者とご覧になります。ですから彼らも,ローマ8章の義なる者たちに対する助言から益を得ることができます。」―『ものみの塔』(研究用)2016年12月「霊の思うことは命と平和を意味する」
上記の説明から、協会は、新約聖書に存在しない「第三のグループ」の矛盾を解決するために、アブラハムを引き合いに出し、神の前における「大群衆」の立場は、かつて信仰によって義とされた旧約時代のアブラハムと同じだと説明します。
しかしこのような説明は、読者を欺いているか、よほど聖書的文脈を理解していないかのどちらかだと言わざるを得ません。
聖所への道が開かれた新約時代
信仰によって義とされる、という原則は、どの時代においても変わりませんが、神のみ前における義人の立場は、キリスト以前の旧約時代と、キリストの復活以降の新約時代とでは、大きく変化しています。
本記事の前半で説明した通り、新約以降の時代*[4]は、メシアの贖いが成し遂げられることにより、全ての義人には罪の完全な赦しが与えられ、神の子供とされる道が開かれたのです。その恵まれた霊的状態は、絶えず動物の生贄を必要とした旧約時代とは、大きく異なっていることは明白です。
しかし、それを今になって「大群衆」の立場が旧約時代の義人だと一緒だとするならば、世界中の144000人以外のエホバの証人は、毎週の集会で、動物の生贄を捧げなければなりません。
また神は、キリストが尊い血が流された時、エルサレムの神殿の聖所の幕を、上から下に真っ二つに裂き、全ての信者が大胆に聖所に入ることができるようにされたのです。(マルコ15:38)
ですから、今になって「大群衆の壁」を作り、その霊的状態を旧約時代の義人と結びつけることは、神が真っ二つに割いた聖所の垂れ幕を、再び元に戻しているようなものなのです。
結論
結論として、メシアの贖いによって罪の赦しが与えられた新約以降の時代においては、イエスを信じる全ての人に、神の子供となる特権が与えられているのであり、その単純明快な真理は、聖書に書いてある通りです。
全てのクリスチャンは、新しい契約の当事者であり、天的な希望を持っており、神の子供であり、記念式(聖餐式)でパンとぶどう酒に与ることができるのです。
「彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである」(ヨハネ1:12)
脚注
[1] ここでの「新約以降の時代」の定義は、厳密には使徒行伝のペンテコステの日以降です。
[2] 8章にはありませんが、重要な側面なので含めました。
[3] イエスを心から信じた人は、その瞬間に「新しく生まれ変わり」ますが、それはその人の霊が、実際にキリストと共に葬られ、蘇ることを意味します。この「新生」の働きは、聖霊によってなされることであり、「聖霊のバプテスマ」と呼ばれます。イエスの名によって水のバプテスマを受けることは、その人の霊が生まれ変わったことを象徴的に表現するものとなります。
[4] ここでの「新約以降の時代」の定義は、厳密には使徒行伝のペンテコステの日以降です。
こんにちわ。よくまとめられた分かりやすい解説ですね。
ところで、144000人と大群衆が別々に紹介されているのは、14万4千人は、大患難の前に天に復活する「初穂」であり、大群衆は患難を経て天に入る人々だからです。いわゆる「患難後の携挙」と一般に呼ばれるグループに属するからです。(殉教者は「第1の復活」に含まれる)
「この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで」黙示14:4
この14万4千人の別格の復活についてパウロはこう述べています。
「こうして,[キリスト]とその復活の力+またその苦しみにあずかること+を知り,彼のような死に服し+,何とかして死人の中からの早い復活*+に達しえないものかと[努めているのです]。」フィリピ 3:10‐11新世界訳
「早い復活」(字義訳:死の外への他の復活 原語では、唯一ここで「外、他」という意味の「エク」が2度使われています)
また、このことは、やはり患難前に黙示12章の「女」が生む「子」として表現されています。
こんばんは、ご返信遅くなりすいません。ご説明の点、聖書から確認してみましたが、大患難時代の流れとして、144000人の額に印が与えられてから(黙示録7章)、
9章の第五のラッパの裁きに入ると、次のように書いてあります。
「そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。」
黙示録の流れを考慮すると、ここで「額に神の印を持たない人たち」だけに害を加えてよいと許可されているということは、この時点で、依然として地上に、「額に神の印を持つ人」である144000人がいるものと私は見ております。
もっとも、そのあとのどの段階で、144000人が天へ挙げられているのか、黙示録では詳しい情報は無いので、それ以上の細かいことは言えないと考えています。
ところで、全然別の話題ですが、サイトでフラットアースについて説明されていますね。私も最近、フラットアースを調べ始めて、とても目が開かれました。貴サイトの情報も大変参考になり、感謝いたします。