教会に求められる対応② エホバの証人が教会へ来た時の接し方
ここでは、エホバの証人が(元証人を含む)教会へ来た場合、クリスチャンがどのように対応をする必要があるかを説明していきます。
まずは暖かく歓迎する
多くのエホバの証人にとって、次に挙げる二つの理由から、教会の門を叩くのは簡単なことではありません。
一番目の理由として、「キリスト教世界は偽りの宗教である」という組織のカルト的教えが挙げられます。このネガティブイメージが叩き込まれているために、たとえ組織を離れた元証人であっても、教会へ行くことに心理的な抵抗を感じてしまうのです。また、「十字架は異教のシンボル」だと教えられているために、仮に教会へ来たとしても、そこに飾られている十字架を見ただけで、気分が悪くなってしまう人もいるほどです。
二番目の理由は、ものみの塔の排斥処置の戒律に関係するものです。もしも現役の信者が教会へ行ったことが組織へ知られた場合、その人は審理委員会にかけられ、悔い改めなければ排斥されます。そして、一度排斥されれば、全ての現役信者との交流が断たれることになり、それには家族も含まれるのです。
ですから、現役のエホバの証人にとって「教会へ来る」ということは、排斥のリスクを負うことを意味し、それには多くの場合、家族や友人を捨てる危険性も伴うのです。こうした状況もあり、内心は組織の偽善に気づいてはいても、親族への配慮として表立った行動ができない、という人もかなりの数に上ると言われています。
このような理由から、教会の門を叩く多くのエホバの証人は、それなりの葛藤や試練を乗り越えて来ているわけですから、彼らが教会へ来た時には、まず「暖かく歓迎する」のが、最も大切なことだと言えるのです。
相手の話に耳を傾ける
エホバの証人が教会へ来たとしても、ものみの塔という組織に対して、また教会に対してどのような考えや認識を持っているかは人それぞれです。(ただし、ものみの塔の教えにある程度の誤りを認めている、ということは間違いありません)
例えば、組織を恨んでいたり、エホバの証人として過ごした過去の人生を後悔している場合がありますが、二世信者や一世でも現役生活が長かった人には、この傾向が見られやすいかもしれません。
反対に、教会の門を叩いたとしても、組織に未練があったり、エホバの証人について肯定的に考えているような人もいたりします。
相手がどのようなタイプなのかは、話を聞いてみないとわからず、それによってどう対応するかも変わってきます。ですからまずは、相手の話にゆっくりと耳を傾けるのが良いでしょう。そして、自分の考えや疑問を自由に言える雰囲気を作ってあげて下さい。参考までに、聞いておくと良い幾つかの質問を挙げておきます。
- 一世か、二世か
- 同じ家族の中にエホバの証人はいるか
- どのような経緯でエホバの証人となったのか
- ものみの塔という組織やエホバの証人に対してどう考えているか
- 教会に対してどう考えているか
- 神に対する信仰はまだ持っているのか
「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」(ヤコブ1:19)
相手の理解度を考慮しつつ会話を進める
話し合いをする時には、相手がその時点でどのような考えを持っているかを考慮しつつ、言葉を選ぶ必要があります。例えば、ものみの塔に対して肯定的な思いを持っているエホバの証人に対して、否定的な事実をはっきり伝えると、反感を与えるかもしれません。もっとも、事実は事実として答える必要がある時もありますが、このような相手に対して、否定的な情報を伝えすぎないよう配慮する必要があるでしょう。
また、ほとんどの元エホバの証人は、教会へ足を運ぶ時点で、多かれ少なかれ、エホバの証人独自の誤った教理を頭に残しています。しかし、それらの教えが間違っているからと言って、こちら側の教理を強く主張し、「教理の壁」を最初から作ってしまわないようにも注意する必要があるでしょう。一度信じた教えを修正することは、多くの場合、時間のかかる作業なのです。
このように、まず相手のことを知り、その理解度に合わせて会話を進める、という原則は、エホバの証人に対してだけでなく、あらゆる人々に伝道する際にも有効であるはずです。
同情心を持って接する
元エホバの証人が、現役時代の苦しみについて吐露する時には、その感情を否定せずに、受け止めてあげる必要があります。なぜなら、悲しみを吐露する側の心境としては、アドバイスや解決策を求めているのではなく、ただ気持ちを聴いて欲しいだけということが多いからです。その場合、ただ傾聴して気持ちを受け止めてあげることが大切だということを理解しておく必要があります。(ただし、辛抱強く傾聴する姿勢で接するのには向き不向きもあるので、難しいと感じる方は、他の相応しい方に委ねると良いでしょう。)
また、カルトでの喪失体験や悲しみからの回復の過程においては、感情を十分に吐き出して気持ちを整理する必要があるため、「忘れなさい、許しなさい、前を向きなさい」と感情を否定されるような事を言われると、癒しの過程が阻害される場合があります。実際に、元証人が集った集会において、「間違ったことが分かったんだから忘れなさい」「過ぎた事なんだから気持ちを切り替えなさい」というアドバイスを受けて落胆するケースも見聞きされますので注意が必要です。心の傷を抱えた人は、まず悲しみを吐き出し、よく聴いてもらい、感情を整理できてはじめて、前を向いて生きることが可能になっていくのです。
「よく聞かないで返事をする者は、愚かであり、恥を見る。」(箴言18:13)
また、教会員の側が元エホバの証人に対して「聖書を読めば間違いがすぐわかるのになぜ騙されたのか?」というニュアンスをにじませて、上から目線で対応してしまうというケースもあります。しかし、「もし私も同じ環境にいたとしたら、信じてしまったのではないだろうか」と考えるなら、このような態度を避けることができるでしょう。まして、彼らの場合は、聖霊の内住が無いために、聖書の真理を正しく理解できなかったとしても、それは仕方の無いことなのです。