エホバの証人への伝道マニュアル①|キリスト教徒の場合

「筆者の教会に、17年間エホバの証人だった一人の姉妹がいる。彼女が証人時代、何度か彼女と対話をしたことがあった。彼女は、『もし、キリスト教会やクリスチャンたちが本当に福音を信じているのなら、どうして、もっと熱心に証人たちにその福音を話そうとしないのか』と、問いただした。筆者は何も答えられなかった。彼女の言葉を、全ての教会、クリスチャン各人は、もっと真剣に考えなければならないのではないだろうか。*[1]

本記事の筆者は、元エホバの証人であり、現在はプロテスタントの教会へ通うクリスチャンですが、この話で紹介された姉妹と同じように、彼らへ福音を伝える必要性を強く感じている者の一人です。

多くの場合、エホバの証人を正しい福音へ導くのは簡単ではありません。その理由は、ものみの塔協会の指導者たちが、巧みな方法を用いて防御策を講じているからです。しかし、彼らの教えや戦略を把握し、正しい方法で語りかけることができれば、脱会へ導くことは決して不可能ではありません。

本記事で紹介する伝道方法は、筆者自身の経験だけでなく、エホバの証人問題の専門家の方々の幅広い知識・経験も踏まえ、それらを体系的にまとめあげたものです。読者のキリスト教徒の方々が、本記事で紹介する方法を用いて、効果的な伝道を行っていくことができるよう、心よりお祈りいたします。

エホバの証人へ伝道する意義

エホバの証人は救いを必要としている

クリスチャンとして、エホバの証人への伝道を考えるべき最大の理由は、彼らもノンクリスチャンと同じく、福音による救いを必要としている人々だということです。信仰のあるクリスチャンであれば誰でも、ノンクリスチャンに福音を伝えたいと願って生きているはずですが、そうであれば、エホバの証人に対しても同じように考える必要があるのです。

ここで「たとえ異端だとはいえ、エホバの証人は救われているのではないか」という考えを持つ方もいらっしゃるかもしれません。確かに彼らは創造主なる神を信じ、聖書全体を神の言葉として認め、キリストが救い主であることを受け入れています。加えて、筆者自身、数年間JWとして活動をしてきた経験から、あの組織の中に、誠実な思いで信仰生活を送っている人がいかにたくさんいるかもよく理解しています。ですから、自分自身の感情で言えば、エホバの証人が救われない、ということは全く考えられないようなことです。

しかし、救いに関する聖書の言葉を熟慮し、彼らの教えや活動に照らし合わせて考えるならば、「エホバの証人は救われている」と言うことは、とても困難であることが明らかになってきます。筆者は神ではありませんので、誰が救われるとか、救われないとか、断言することはできません。ただ、聖書の言葉に沿って考えるならば、彼らJWが救われると言うことはできないのです。

例えば、ものみの塔協会は聖書を改ざんし、「捏造されたイエス」を宣べ伝えていますが、この点は重要な問題として考えるべきでしょう。つまり、エホバの証人はイエスの神性を否定し、主が創造主なる神ではなく被造物であり、天使長ミカエルである、と教えているのです。

聖書によれば、クリスチャンは「キリストの証人」(使徒1:8)と呼ばれるべき存在であり、聖書自体もキリストを証しするために書かれています。ですから、その聖書を改ざんして捏造されたキリストを教えている時点で、エホバの証人は、クリスチャンとしての資格を失っているのです。

加えて、ものみの塔という組織を客観的に観るならば、その実体は多くの誤った教えを説く異端的・カルト的な宗教団体であり、「キリスト教は偽りを教える悪魔的宗教である」というプロパガンダを用いて、キリストの体に分裂をもたらしているのです。

そして、キリストを救い主として信じるだけでは不十分であり、救われるためにはキリスト教世界から離れ、エホバの証人の一人となり、組織の教えに従わなければハルマゲドンで滅ぼされると主張します。しかし、このような教えを説く人々に対して、聖書は次のように警告しているのです。

「たとえわたしたちや天からのみ使いであろうと,わたしたちが良いたよりとして宣明した以上のことを良いたよりとしてあなた方に宣明するとすれば,その者はのろわれるべきです」(ガラテア1:8)

「さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,・・分裂,分派,・・およびこれに類する事柄です。・・そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。」(ガラテア5:19-21)

(エホバの証人の救いが危うい聖書的根拠は、他にも複数挙げることができますが、詳しくはまた別の記事で取り上げたいと思います。)

このように、多くのエホバの証人は霊的に危険な状態に置かれているわけですが、その一方で、彼らの多くが、永遠の命を真剣に求めているという事実は無視できるものではありません。つまり、救われずに地上を去る多くの人々は、救いを求めなかった結果として、そのような運命をたどるわけですが、エホバの証人の場合は、人生をかけて救いを求めた結果、反対の方向へと導かれるわけですから、その現実は悲劇以外の何物でもない、ということになるのです。

キリスト教にとって現実的な課題である

福音同盟所属教会へのアンケート

1985年に、日本福音同盟所属*[2]の教会を対象に行われたアンケートでは、対象となった教会の70%が、最も困っている問題として「エホバの証人の訪問」を挙げました。この調査から、エホバの証人への対応は、教会にとって、個々のクリスチャンにとって、現実的で身近な問題であることがわかります。

もっとも、1980年代は、日本のエホバの証人の活動に特に勢いのある時期であったため、現在の状況と全く同じように考えることはできません。しかし、日本国内のエホバの証人の数や活動頻度が、当時から大きくは変わっていないことを考えれば、今でも重要な課題として捉える必要性は高いと言えるでしょう。

訪問伝道への対応

たとえば、日本のエホバの証人は、2~3ヶ月に一回*[3]は、全ての家を訪問伝道できるよう、組織的な伝道活動を行っています。そこで、訪問されたクリスチャンが、どのような対応をするのかが、一つの重要な課題となります。先に紹介した福音同盟対象のアンケートでは、個々のクリスチャンの対応について、以下のような調査結果が出ています。

戸別伝道に対するクリスチャンの対応についての同調査結果
・門前払いをする=29.5%
・伝道を試みる=22.2%
・福音文書を手渡す=15.2%、
・議論する=13.5%
・無視する=8.1%
※半数以上は何らかの積極的な対応をしている。

調査結果によれば、半数近くのクリスチャンは、何かしら積極的な対応をしていることがわかりますが、これは良い点だと言えるでしょう。ただ、実際に色々な伝道を試みたクリスチャンから話を聞いても、「話が噛み合わなかった」「時間と体力を浪費した」という感想が多く、実りのある伝道になりにくい現状があります。

また、元JWであった私自身の経験や、周りの元JWの友人たちから話を聞いてみても、まともに効果的な伝道をしてくれたキリスト教徒にはほとんど会ったことが無い、という感想が圧倒的に多いのです。

これらの多くの失敗の原因は「効果的な伝道方法を知らなかった」という点にありますので、もし知っていれば、彼らを救いへ導ける確率は飛躍的に上昇していたことがわかります。ですから、本記事を通して、エホバの証人への伝道方法を学ぶことは、とても意義のあることなのです。

キリスト教世界への偽りの非難

ものみの塔協会は全世界の信者に対し、「キリスト教世界全体は、偽りを教える背教した大いなるバビロンである」と教えており、そのイメージは全ての信者の脳裏に焼き付いています*[4]。偽りの根拠としてよく挙げられるのが、三位一体や霊魂不滅などの教理ですが、これらが偽りであることを論じる記事は、定期的に出版物で取り上げられ、世界中で配布されています。このような「キリスト教への非難・攻撃」は、初期の時代からのものみの塔の特色であるため、教会側は、こうした批判に対する然るべき弁明ができていなければなりません。

また、教理的な面の他にも、かつてキリスト教世界が戦争に積極的に加担した事実や、特定の聖職者の不祥事などが批判されることがよくあります。多くの場合、指摘する内容自体は正しいのですが、そのような不祥事を全ての教会やクリスチャンが行ってきたわけではありません。ところがものみの塔は、こうした不祥事を取り上げることにより、あたかも「キリスト教界全体」がその罪を犯したかのように宣伝するのです。

そして、出版物で取り上げられるキリスト教界関連の話題は全て否定的なものであり、肯定的な内容は皆無であるため、内部の信者の脳裏には、「キリスト教世界は悪である」という洗脳が着実に進んでいくのです。

ですから、ものみの塔協会が行っているこのようなプロパガンダは、キリスト教界にとって害ではあっても、益となることはありません。偽りを教えられ、偽りの宣伝活動に加担してしまっているエホバの証人に対し、教会側は正しく弁明し、福音を伝えていく必要があるのではないでしょうか。

元エホバの証人の願い

ものみの塔を後にした元エホバの証人の中には「もっと早く気づくことができなかったのだろうか」と考える人も少なくはありません。そのため多くの元JWは、キリスト教徒がもっと積極的にエホバの証人にアプローチすることを願っています。

実際に、エホバの証人にその間違いを気づかせるのに最適なグループとは、キリスト教徒以外にはありえません。クリスチャンだけが、聖書を共通の土台としながら、彼らの洗脳を解いていくことができるからです。

エホバの証人の気持ちを知る

相手が牧師でも論駁できる

ほとんどのエホバの証人は、自分たちこそが回復された真理をもっており、キリスト教世界に属するクリスチャンは偽りによって欺かれている、と心から信じています。そのため、たとえ相手が牧師や神父であろうと、論駁してエホバの側へ導けると思っています。多くのエホバの証人が、平然と教会のインターホンを鳴らして訪問伝道をしてくるのはそのためです。

※ただし、エホバの証人は伝道のために教会を訪問することはあっても、共に礼拝したり祈ったりするために中へ入ることはありません。偽りの宗教との信仰合同だと考えるからです。

聖書の話をしたいと思っている

基本的に、多くのエホバの証人は聖書の話をするのが大好きです。ですので、訪問伝道やその他の場所でキリスト教のクリスチャンに会うと、積極的に聖書の話題を持ちかけ、伝道をしようと試みます。ほとんどの日本人は、聖書に馴染みが無いわけですが、キリスト教のクリスチャンはそうではないので、JWにとっては共通の土台に沿って伝道をしやすい恰好の対象と見られているのです。

なぜエホバの証人への伝道は困難なのか

組織のリーダー「統治体」への信頼

ものみの塔協会は「統治体」と呼ばれる少人数の男性信者によって統括されていますが、多くの信者は、統治体が「イエスによって任命された神からの唯一の経路」(マタイ24:45-47)だと信じており、彼らに強い信頼を抱いています。そして、その信頼こそが、彼らへ福音を伝える働きを大きく阻害する要因なのです。

「統治体への信頼」が植え付けられたエホバの証人は、聖書を読む時にも、常に「統治体の見解が正しい」という前提に立って理解するようになります。実際に組織は、「統治体の助け無しに、聖書を正しく理解することはできない」と教えており、信者の側も、マインドコントロールの度合いが強ければ強くなるほど、それ以外の方法で聖書を読むことができなくなっていくのです。

すると、ある聖句に対する統治体の見解がどんなにおかしなものであったとしても、キリスト教徒が指摘する「論理的な」説明よりも、組織の「非論理的な」説明の方を信じてしまうのです。つまり、エホバの証人の多くが実際に信じているのは、「聖書」ではなく「統治体」なのです*[5]。(もっとも、彼らの多くはそのことに気づいていません。)

「9 自分で聖書を理解できる,と考える人がいるかもしれません。しかし,イエスは「忠実[な]奴隷」を任命し,霊的食物を分配するための唯一の経路として用いています。栄光を受けたイエス・キリストは1919年以来,その奴隷を用いて,追随者たちが神の書を理解し,その指示に従えるよう助けておられます。聖書の教えに従うなら,会衆の清さと平和と一致を促進できます。それで,こう自問するとよいでしょう。「わたしは,今日イエスが経路として用いている奴隷に忠節だろうか」―『ものみの塔研究用』2016年11月号 16頁、9節

また、信者によっては、統治体への「信頼」と「恐怖心」が同居している場合もあります。つまり、「統治体がイエスに任命されている」という前提から、もしもその統治体の教えに従わなければ、神を裏切ることになり、排斥や滅びへと繋がってしまう、という恐れです。このような恐れは、他の聖書解釈を受け入れる上で、大きな足かせとなるのです。

「この忠実な奴隷は,イエスがこの終わりの時において真の追随者たちを養う経路です。この忠実な奴隷を認識するのは肝要なことです。わたしたちの霊的健康と神との関係は,この経路に依存しているからです。―マタ 4:4。ヨハ 17:3。」―『ものみの塔』2013年7月15日号、20頁。

こうした点を踏まえれば、エホバの証人へ効果的に福音を伝えるためには、まず第一に、「統治体への信頼」を、明白な証拠をもって切り崩す必要があることがわかります。もっとも、この方法は正直な人を嘘つきだと証明しようとするものではありません。嘘つきを嘘つきだと証明しようとすることなのです。

そして、一度相手のJWに「統治体は重要な教えについて間違えることがある」「統治体は嘘をつくことがある」と理解させることができれば、脱会への大きな扉が開かれることとなるのです。

ちなみに、エホバの証人問題の専門家の方々の意見や、私自身の経験を踏まえると、論駁に適した再現性の高いテーマはある程度絞られてきます。なお、以下の各テーマを具体的などのように用いていくかは、追って別の記事でご紹介します。

  • 過去の予言の失敗
  • 聖書の改ざん
  • 十字架の否定
  • 誕生日の否定
  • ラッセルとフリーメーソンの関係
  • 1914年
  • 児童性的虐待の問題

※上記のテーマはその全てではありません。今後随時、良い情報があれば当サイトへ公開していきますが、その他おすすめのテーマがございましたら、ぜひ当サイトへお知らせください。

他宗教の出版物を受け取ってはならない

エホバの証人への伝道を困難にさせているもう一つの要因は、情報統制に関係するものです。ものみの塔協会は、全ての信者に「排斥者・反対者・他宗教の出版物を受け取ったり読んだりしてはならない」と教えており、それにはキリスト教の出版物も含まれます。ですので、仮に訪問伝道をされたクリスチャンが、トラクトなどを相手のエホバの証人に手渡しても、受け取ってくれないか、受け取っても後で捨てられる可能性が高いのです*[6]

これに対する対処方法としては、以下を挙げることができます。各方法の詳細については、次の記事で詳細を取り上げたいと思います。

  • トラクトなどの文書を渡し、「わたしのを読んでくれるなら,それをもらいましょう」という交換条件を出す。
  • 断られた時点で情報統制に関する問題を指摘する
  • 文書に書いてある内容をその場で読み上げる。

色々なエホバの証人がいる

色々なパターンを知る

一言でエホバの証人といっても、その中には色々なタイプの人がいます。男性なのか女性なのか、信者になってからどれくらいなのか、一世か二世か、熱心かどうか、信仰生活の動機は何か、マインドコントロールの度合いはどの程度か、などです。

そして、脱会の難易度に特に影響する要因として挙げられるのは、(1)マインドコントロールの度合い、(2)信仰生活の動機、(3)家族や親族との関係、です。

マインドコントロールの度合い

マインドコントロールの影響下にある人々は、自分がそのような状態に置かれていることに気づかないものですが、エホバの証人も例外ではありません。ただし、その度合については、個々のエホバの証人によって多少の違いがあり、その度合が弱い人の方が、圧倒的に目覚めやすいことは言うまでもありません。

マインドコントロールの度合いに影響する要素としては、信者として生活してきた年数や、元々の性格(自分で物事を考えるタイプかどうか)などが挙げられるでしょう。

信仰生活の動機

同じエホバの証人であっても、JWとしての信仰生活を送る根本的な動機には違いが見られます。(この点は、キリスト教徒の間でも共通して言えることだと思います)そして、その動機が霊的なものを中心としている場合と、人間的なものを中心としている場合とでは、脱会の難易度や、取り扱うべきテーマに大きな違いが生じます。

以下は、霊的な動機と人間的な動機に、どんなものが挙げられるかをリストアップしたものです。なお、人によって、ある一つの動機が強く関係している場合もあれば、複数の動機が混ざっていることもあるでしょう。※これら二つの動機を表現する際、「神中心」と「人間中心」とも言い換えることができるかもしれません。

【霊的な動機】
・エホバの証人だけが「真理」を有している組織であるため
・エホバを喜ばせるため
・エホバの名を高めるため

【人間的な動機】
・楽園へ行くため(楽園にさえ行ければ良い、という動機のこと)
・エホバの証人のコミュニティに魅力を感じているため
・居心地が良いため
・組織の中での立場を良くするため、または保つため
・たまたま生まれた家がJWだったため

「霊的な動機」が中心にあるエホバの証人は、聖書的な信仰を持っている人々です。例えば、JWの教えが「真理であること」が強い動機となっている信者が、「組織の偽善や間違い」に気づくなら、自身の信仰の前提が崩れる可能性を比較的早く理解するため、自らものみの塔の教えを調べ直し、組織から離れていきます。つまり、「霊的な動機」を中心とするJWは、間違いに気づいたときに、スムーズな脱会へ進みやすいタイプだと言えます。

「人間的な動機」が中心にあるエホバの証人は、聖書的な信仰を持っているとは言えない人々であり、「何が真実なのか」「何がエホバを喜ばせるか」よりも、別の目的を優先させます。ですから、組織の偽善や間違いを指摘しても、それに興味を示さないこともあり、「コミュニティに魅力があるなら組織が偽善でも良い」とか、「楽園に行けさえすれば教えが間違っていても良い」という考えになるのです。

(もっとも、楽園の希望を抱くことや、心地よいコミュニティを求めること自体は悪いことではなく、健全な欲求です。しかしそれらの動機が、霊的な動機よりも上に来るならば、それはやはりご利益を求める人間的な信仰となってくるのです。)

それで、このようなタイプのJWを脱会へ導くためには、また別の方法やテーマを扱う必要がある、というのが、専門家の意見です。(詳細は、追って別の記事でご紹介します)

最後に、適切な伝道を行った上で、最終的に相手のJWがどのような道を選択するのかは、その人の動機を明らかにするものとなるでしょう。私たちの側の責任は、正しい方法で福音を伝え、彼らのために祈ることであり、それ以上のことは、神に委ねる必要があります。

家族や親族との関係

ものみの塔の組織には、「排斥制度」があり、脱会する信者は、現役の信者と会話することができなくなります。つまり、家族・親族の中に、同じエホバの証人の信者がいれば、脱会に伴って関係が断裂してしまうのです*[7]

そして、エホバの証人の社会では、家族ぐるみで信者となっているケースがかなり多いため、ものみの塔の誤りに気づく多くの人は、そのような事情から二の足を踏みます。もっとも、そこでどのような対応をするのかは、先程取り上げた当人の信仰の動機によって異なってきます。

霊的な動機が中心となっている信者の場合は、自分だけでなく、家族への脱会も積極的に試みる可能性が高いです。最悪、家族との関係が途絶えるとしても、真理に沿って生きることを優先する傾向にあります。それ以外のタイプの場合は、人によって対応が異なりますが、積極的な脱会を試みず、家族関係を維持するケースも多いという報告もあります。

もっとも、どのようなケースであっても、同じ家族にエホバの証人がいるのなら、無理に事を進めるのではなく、慎重に対応をし、できるなら家族全員で脱会をするのがベストです。

キリスト教徒側の事前の準備

自身の信仰を確立しておく

筆者は以前に、「エホバの証人」をテーマとした一日がかりの講義で講師を務めさせてさせていただいたことがありますが、参加者の感想で多かったのは「エホバの証人がこんなに聖書を熱心に勉強しているとは思わなかった」というものでした。彼らは、その重要な教理において間違ってはいるものの、多くのキリスト教徒よりも聖書を熱心に勉強しており、キリスト教の教理への論駁方法も心得ています。つまり「間違っているなりに、しっかりしている」のです。

このような理由から、キリスト教の教理の聖書的根拠を十分に理解していないクリスチャンが、エホバの証人とまともに聖書の話し合いをしても、論駁されてしまう可能性が高いでしょう。ですから、キリスト教徒がエホバの証人へ福音を伝えようと思うなら、まずはエホバの証人との議論になりそうな教理について、事前に学びを深めておくことが賢明です。

当サイトでは、エホバの証人との話し合いで取り上げられやすい聖書の教えについて、複数の記事を既に公開しています。それらの記事をお読み頂ければ、実際の話し合いでどんな点を指摘すべきかを知るだけでなく、キリスト教の正統的な信仰を確立する上でも役に立つでしょう。

エホバの証人について知っておく

どんな人に伝道をする時にでもそうですが、相手について事前に知っておくに越したことはありません。

心理的な障壁を除く

エホバの証人に対して、「なんとなく恐い」「気味が悪い」などの心理的障壁を感じているために、彼らを敬遠しているキリスト教徒も少なくありませんが、こうした心理的な障壁の原因は、「エホバの証人についてよく知らない」ことにあります。

一部の過激なカルト団体とは異なり、エホバの証人は恐い人々ではありません。むしろその多くは誠実な人々であり、暴力をふるったり、強引に勧誘してきたりすることはありません。そして既に述べたように、彼らは聖書の話をしたがっていますので、あなたも聖書の話が好きならば、普通に話かけて、会話をしてみるのが良いでしょう。話すたびに、必ず相手の教えを論駁しようとか、意気込む必要はありません。仮に答えづらい質問をされても、わからないことは「わかりません」と答えれば良いのです。

※とはいえ、霊的に危険なカルト団体であることに違いはありません。しかし、接触をする側のキリスト教徒が、「なぜエホバの証人は危険なのか」について、正しい知識を持っていれば接触自体に危険はありません。そして当サイトは、そのような「正しい知識」を提供する目的で制作されています。

組織と信者をどう見るべきか

筆者は、自身のJWとしての経験と、その後の研究を通して、「ものみの塔協会は、異端的な教えを信じ込ませるためにマインドコントロールを用いるカルト的な組織であり、多くの信者はその組織に惑わされた求道者・被害者である」という結論に達しています。加えて「信者は単に被害者というだけでなく、熱心な布教によって加害者ともなっている」ということも見逃してはなりません。このような定義と見方は、筆者だけでなく、エホバの証人問題を研究する多くの専門家も、一貫して指摘していることです。

以上の定義を踏まえ、「ものみの塔という組織」をどう見るかと、「エホバの証人という信者」をどう見るかを、分けて考えておくことは大切です。

(ただし、会話の中で、「カルト」や「異端」という言葉を軽はずみに使い、悪い印象を与えないよう注意して下さい。言うべき時には言う必要がありますが、ふさわしい時を見定める必要があります。)

お勧めの情報源

以下に、エホバの証人について知る上で、参考となる記事や書籍を挙げておきます。

  • エホバの証人とは(当サイト)
    JWについてトータルで知る上で役立ちます。
  • エホバの証人の教え(当サイト)
    問題となるJWの重要教理について、一通り知ることができます。
  • ウィリアム・ウッド『エホバの証人への伝道ハンドブック』
    JWへの伝道のために書かれた書籍であり、様々な必要情報が網羅されています。彼らへの伝道を真剣に考えるなら、一冊は持っておきたい書籍です。
  • 平田真実『あなたにもできる「エホバの証人」救出活動』
    エホバの証人への具体的な伝道方法が、会話の実例と共にシンプルにまとめられています。
  • ウィリアム・ウッド『「エホバの証人」への伝道とフォローアップ』
    脱退後の元JWを教会に迎え入れる場合は、彼らが自立したクリスチャンとして成長できるよう適切なフォローが欠かせません。本書では、アフターケアのための必要な情報がまとめられており、特に1~3章の「エホバの証人の受け皿となる教会の三つの基本的条件」「救いを妨げる問題」「クリスチャン生活を妨げる問題」はお勧めです。

会話をする時のアドバイス

愛をもって接する

クリスチャンであれば、誰に対しても「愛をもって」接するよう心がけるべきですが、エホバの証人と話す時にも、同じようであるべきです。自分がどんな動機を持っているかは、会話の中で自然とあらわれるものだからです。

神様から与えられた愛を実践し、キリストの愛と香りをエホバの証人に届けることができるのは、新生したクリスチャンにしかできない務めです。(エホバの証人は新生していないため、内住の聖霊がありません。)

相手のJWが、あなたを通して少しでも神の愛に触れることができれば、あなたのことを「背教したキリスト教のクリスチャン」ではなく、「本物のキリストの弟子」として認識する道が開かれるかもしれません。

「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」(ヨハネ13:35)

共通の土台に基づいて話を進める

「論駁しよう」という気持ちが先行すると、ついつい上から目線な一方的な言い方になりやすいものです。しかしそのような語り方をするなら、相手に悪印象を与え、大事なことを伝える前に、心を閉ざされてしまうかもしれません。

クリスチャンがやりがちな良くない例は、「イエスは神なんですよ!あなたたちが教えられていることはデタラメだからきちんとした教会に行って教えてもらいなさい!」と言ってしまうパターンです。これではいつまで経っても話は平行線であり、良い結果がもたらされることはありません。

JWの教えと私たちの教えとの間に大きな違いがあるとしても、掘り下げていけば、共通の土台があるのです。そして、当サイトの「解釈学」に関する記事で既に確認した通り、エホバの証人との共通の土台とは、「聖書全体は神の霊感による言葉である」という聖書観です*[8]。まずはそこを確認し、その上で具体的な聖句を挙げながら、丁寧に互いの理解を確認していくのです。

この点で、神でありながら、人として歩まれたイエスの姿を思いに留めることができるでしょう。キリストは人間となることを通して、私たちと同じ目線に立ち、共通の土台を据えた上で、私たちの模範となってくださったのです。

6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:6-9、新改訳)

ただし、エホバの証人の心へ福音を到達させるためには、ある段階で「統治体への信頼」をしっかりと切り崩す必要がありますので、そのような場合は毅然とした態度で指摘する必要があることは事実です。私たちが相手にするのは、目の前にいるエホバの証人だけでなく、むしろその背後で信者をコントロールしている強力な偽預言者ですので、そのことを忘れてはならないのです。

ただ、組織の誤りを指摘する場合においても、謙遜な態度を忘れてはなりません。良い方法の一つは、エホバの証人の誤りを指摘する際に、随所で彼らの良い点にも言及することにより、フォローを入れることです。そのような態度を示すことによって、相手のエホバの証人は、あなたが公正な見方を持つ人と感じることができ、聞く耳を持ってくれることでしょう。

証をして距離を縮める

エホバの証人へ効果的に福音を伝えようとする場合、まずは相手との距離を縮めるのが最善の方法です。その際に、是非クリスチャンとしてのあなたの証(経験)を相手に話してみて下さい。自分がどんな人生を送り、なぜキリストを信じるようになったのか、信じてからどのように変えられたのかを、話してみるのです。相手がエホバの証人であるかどうかに関わりなく、神を信じるもの同士が証を語りあうなら、そこに親近感が生まれるものです。

また、あなたの証を聞くことにより、相手のエホバの証人は「この人と誠実に向き合いたい。背教したキリスト教から救ってあげたい」と思うようになるかもしれません。そうなれば、その後の話し合いにおいて、たとえものみの塔の間違いを指摘されたとしても、途中で会話から逃げる可能性はずっと少なくなり、伝えるべき大切な点を、最後までしっかりと伝えやすくなるでしょう*[9]

加えて、エホバの証人の中には、「キリスト教徒は真面目に神を信じたり、聖書研究を行ったり、伝道したりはしていない」と思っている人は少なくありません。ですから、あなたが積極的に証をし、神への誠実な信仰を伝えるなら、相手のエホバの証人は、組織から聞かされてきたことや、自分の推測が誤っていたことに気づくかもしれません。

真理の重要性を相互に確認する

もしも、エホバの証人の教えが正しいのであれば、キリスト教は偽りの宗教であり、その教えに救いは無いことになります。逆に、エホバの証人の教えが間違っている場合は、偽りの宗教はエホバの証人の方だということになります。つまり、どちらの教えが聖書の真理を述べているのかは、お互いの永遠の救いにとって、極めて重要な問題であることがわかります。

それで、もしもエホバの証人と話し合う機会が開かれるなら、この点を引き合いに出した上で、「この問題は、お互いの救いにとってとても大事なテーマなので、聖書に基づいて真剣に話し合う必要がありますよね?」と伝えてみると良いでしょう。また、「もし私の信条が間違っていて、エホバの証人の教えが真理だったら、私は喜んでエホバの証人になります」と言うこともできるかもしれません。

このように話し合いの目的と重要性を確認しておくならば、相手のエホバの証人は、あなたとの話し合いが聖書的に有意義なものであることを理解することでしょう。それによって、たとえ相手の形勢が不利になっても、簡単に話し合いを中断される可能性は少なくなるでしょう。

脚注

[1] 中澤啓介『パンドラの塔』2000年、227頁。

[2] 当時で、45の教派、12万人の会員が含まれていました。

[3] 頻度については、区域によって多少のバラツキがあります。

[4] 大いなるバビロン」とは、黙示録17・18章で登場する偽りの宗教体制のことであり、新世界訳聖書以外の聖書では「大バビロン」と訳されています。

[5] このような「リーダーコンプレックス」の傾向は、ユダヤ教のラビたち(教師)の言うことを無条件に信じてしまう、ユダヤ人にも共通しているようです。彼らの多くは、たとえ旧約聖書からイエスがメシアである証拠を証明されても、「ラビがそう言っているから信じる」という考えで、ラビの非論理的な説明の方を信じてしまうようです。

[6] 『王国宣教』2013年9月3頁「わたしのを読んでくれるなら,それをもらいましょう」
「わたしたちは,誤りを広める宗教文書とわたしたちの聖書研究の手引きを交換することはしない」と述べられており、交換を申し出られた場合の対処方法について説明されています。

[7] この制度に関するより詳細な解説は、「エホバの証人とは」にて取り挙げています。

[8] なお、現代のキリスト教徒の中には、聖書全体を神の言葉と信じる十全霊感説に立たない方も多くいらっしゃいますが、そのような方の場合は、三位一体や1914年などの聖書解釈に関するテーマよりも、十字架の問題や予言の失敗などの不正行為に関連するテーマを用いることをお勧めします。

[9] キリスト教徒と定期的な話し合いをする中で、エホバの証人側の形勢が悪くなってくると、途中で長老から話し合いを中断するよう強制的にストップがかかる場合があります。この点は、本記事で先に紹介した『あなたにもできる「エホバの証人」救出活動』にて、著者の経験として指摘されています。

おすすめ

7件のフィードバック

  1. アリウス君 より:

    とても良く出来ていると思いますが効果性という点で多少の疑問があります。
    余計なお世話ですが、JW側の観点から問題点を述べさせて頂きます。よくJWは偽預言者と称されますが、本人達は全くその自覚がありません。預言というものは人間が解明できるものではなく「解き明かしは神による」からです(創40:11)求められているのは真理探究の姿勢です(ペテロⅡ1:19,20)
    もとより統治体が間違いを犯すことなどJWの中では織り込み済みで、「あれ?また見解が変わった?」くらいにしか捉えていません。直近の例でいうならば、あれほど字義的という事に拘っていたのに”読みやすさ”という名目で改訂版を出したり、JWの聖書理解の根幹を成す”予型対型”の理解を突然止めたりと付いて行くのが大変です!笑 後者に至っては「授業の三分の二が吹っ飛んだ」とギレアデ宣教学校(本部にある宣教者養成学校)を卒業した友人が語っておりました。
    そもそも天使達もイエスも知らないのですから地上の人間が知っている!と公言する方が偽預言者ですよね?(マタ24:36)大切なのは見張りの者として叫び続けていることではないでしょうか。その点ではあらゆる人々が認めているように、JW程徹底的に述べ伝えている人々はおらず、ヨエル書のいなごのようにあらゆるところに入り込んでいきます。更には貴殿もお認めになられているように”彼らの善良さ”です。その数世界で800万を超えております。あらゆる人種やイデオロギーを超えてこの数を集めるのは、しかもその全員が宣教を行なっているのは脅威的な集団です。そんな彼らは毎週の説教で頭を垂れ反省し自らの罪と戦っております。勇気をもって見ず知らずの家々をノックし震える手で聖書を開き証言します。無学無教養な信者全員がです!故に彼らを改心させたいならば、これと同様の業を行なっている、投獄されてまで徴兵拒否をする、そして命懸けで輸血拒否をする(あえてここでは聖書的判断とは言いませんが)キリスト教徒の集団を提示する必要があるでしょう。何故なら宣教はキリストに追随する者にとってミッションであり、毎回豊かな霊的食物を供給し、その圧倒的な数によって神の是認を受けているという納得させる証拠を示さなけらばならないからです。
    誤解のなきよう申し添えておきますが、ここに来ている時点で私は貴殿の活動にケチを付けるつもりは毛頭ありません。私自身真理が他にあると確信したらいつでもJWを辞めるつもりでおります。ただ人間は理屈で動くのではなく感情の生き物ですよね。よってJWに脱会を勧めるならば教理の矛盾点を突いても貝の口を閉ざすだけです。働きかけるなら「マインドコントロールを解く」がまだ効果的ではないでしょうかね?大変ですが。でも彼らのマインドはまるで漆塗りのようですよ。ネットでもJWを攻撃する文章を読むのですが、どれも的を外しているものがほとんどですね。悪魔に任せるのが一番でしょうね。

    また「組織につまずいた」という書き込みが散見されますが、愛を成長させるのはどういう時でしょうか?キリスト教が別名「赦しの宗教」と言われる所以は、「父よ彼らの罪を赦したまえ」という主の言葉から弟子達に何が期待されているのかが分かります。仲間の信者の弱点欠点は愛を広げる機会でもあります。心の筋トレです。時に自らの限界を超えた躓きがあるかもしれませんが、そういう時こそ神の力を試す時でもあるのではないでしょうか。イエスご自身も教えておられるからです。私はそういう”奇跡”なら信じたいと思います。
    内側から眺めると人間の組織ですからツッコミどころ満載ですが、私はそれらを自らの中に埋め込まれた”信管”、パウロの言う肉体のトゲだと思って今のところ一つ一つ抜いております。

    • Webmaster-GJW より:

      コメントありがとうございます、
      そして、内側の信者としての立場から、改善点を教えていただきありがとうございます!

      私も、離れてから数年以上たつので、内部にいた時の感覚は少しずつ薄れてきています。そのような中で、現在進行形で中にいる人からのこのようなアドバイスは大変助かります。

      記事の中では、マインドコントロールを解く上で役立ちそうなテーマとして、以下のものを挙げています。
      ーーーーーー
      ちなみに、エホバの証人問題の専門家の方々の意見や、私自身の経験を踏まえると、論駁に適した再現性の高いテーマはある程度絞られてきます。なお、以下の各テーマを具体的などのように用いていくかは、追って別の記事でご紹介します。

      過去の予言の失敗
      聖書の改ざん
      十字架の否定
      誕生日の否定
      ラッセルとフリーメーソンの関係
      1914年
      児童性的虐待の問題
      ーーーーーー

      アリウスさんでしたら、上記の代わりにどのようなテーマを挙げるでしょうか?
      コメントの中ではすでに、以下のように言われていますが、他にもポイントはあるでしょうか?
      ーーーーーーー
      故に彼らを改心させたいならば、これと同様の業を行なっている、投獄されてまで徴兵拒否をする、そして命懸けで輸血拒否をする(あえてここでは聖書的判断とは言いませんが)キリスト教徒の集団を提示する必要があるでしょう。何故なら宣教はキリストに追随する者にとってミッションであり、毎回豊かな霊的食物を供給し、その圧倒的な数によって神の是認を受けているという納得させる証拠を示さなけらばならないからです。
      ーーーーーーー

      ちなみにですが、ここ1~2年は、記事の中で上記にあげたテーマは、伝道の際は用いていないのが現状です。それよりも、
      ・イエスと交わりはありますか?
      ・イエスを主と告白できますか?
      ・イエスの名を呼び求めていますか?

      あたりをよく聞いています。
      なぜなら、結局のところ、私は彼らにイエスと繋がってほしいから、イエスを体験的に知って欲しいからです。
      ほとんどの場合、彼らにとっては想定外の質問となるようで、主と告白できない、聖書からちゃんと答えれない証人が多いです。

  2. アリウス君 より:

    それもそのはず、JWにとってイエスは主であり神の御子だからです。つまりイエスを神と認めておらず古代イスラエルの大祭司の役割で捉えております。よって「神との執り成し」をしてくださった方であり贖いを自ら捧げてくださった方という点で私達の指導者「主イエス」なのです。
    故にJWにとっては「イエスを体験的に知る」という表現や感覚は実感としてありませんし考えた事もありません。これらは教会の方々がよく用いる表現ですがJWの世界ではこの種の”体験”は全くありませんので、おそらく「イエス様によって救われてますか?」という質問には『はっ?」とあっけに捕われて即答できないのが実情です。
    JWにとってイエスは神ではなく「神の右に立つ王」です。(使徒7:56)またマタイ17:2で使徒達の前で変貌されたイエスはモーセとエリヤと語り合う幻を見せましたが、彼らは律法と預言者を現しています。つまりイエスはこの両方を兼ね備えた方であり、パウロも「メルキゼデクの様に従って永久に祭司である」(ヘブライ5:6)と述べているようにイエスは王権と祭司職を兼ね備えている王であると説明しております。でも神ではありません。以上のような教義からイエスを神とは捉えていないので「イエスによって救われる」という言葉は理解できても、教会の方々がよく言われる意味での上記の表現には理解できずに反応できないのだと思います。

    ところでこんな事言ってはいけないのですが、JWを大挙して転向させたいなら先回提示した条件を満たしている”組織”を紹介する必要があるでしょうね。組織を否定するならそれに代わる別の組織を提示する必要があるからです。つまりJWと同じような規模で活動する「三位一体」を唱える組織の提示です。そうすれば彼らは混乱します。そうなって初めて同じ土俵に立つことができます。「イエスは神なのか神でないのか」という土俵です。正統の神学論争、21世紀のアリウスvsアタナシオスの戦いです。

    • Webmaster-GJW より:

      ありがとうございます。

      聖書を読むと、新世界訳でさえ、イエスの名を呼び求める、イエスを信じて救われる、イエスを主と告白する、というのが重要キーワードとして浮かび上がってくるのですが、一方のJWにはその信仰や感覚が皆無なので「あっけに捕われて即答できない」ということが起こります。まさにこれが、イエスを実像の通りに信じれているか、ということのわかりやすいバロメーターだと思っており、こうした話題を通して、気付くきっかけになって欲しいと思ってます。

      さて、代わりの組織を提示する必要がある、という点について、ご意見をいただきありがとうございます。これについては、実際の伝道で取り上げるか、どのように話すかとは別に、この場で確認するべきことがあると思いました。

      他のコメントを見ていてもわかってきましたが、JWの思考の中には、「神は、地上でのご自分の業を推し進めるために、単一の組織を用いるはずだ」という前提がまずあると思います。それは、統治体の教えによって教育されてきた成果です。私自身も、昔そう思っていました。それで、アリウスさんは、「そもそも、神は単一の組織を必要としていないし、用いてもいないかもしれない」ということは考えたことはありますか? 

      確かに、旧約時代は、イスラエルという一つの民族を用いていました。しかし、新約以降の時代、「統治体」のような一握りの人たちをトップとするトップダウン形式の単一の組織を用いることを、そもそも神は想定しているのでしょうか?

  3. アリウス君 より:

    なるほど、とても良い着目点だと思います。JWにとってキリスト教教会は「大いなるバビロン」と教え込まれておりますのでその点では先入観はあります。統治体は唯一のキリストの兄弟であり、神権統治のキリストの権利を委ねられているという考えがあるからです。一方で他の教団にも素晴らしい教会もあるのでそれら全て含んでキリストの兄弟ではないのか?と改めて考えてみる事をご提案されておられるのですね?確かにカトリックでさえ?自分達の良心と語られるかの聖フランチェスコという聖人がおりますものね。そのような過去の偉大なクリスチャン達も全て”大バビ”とみなしてしまうのか…という問題提起ですね。要はマタイ24:45~47の実体を解明できれば宜しいかと存じます。

    • Webmaster-GJW より:

      趣旨に気づいていただきありがとうございます。
      以下の文章は、内容をそのまま近々記事にすることも想定しているので長めになっていますが、最後までお読みいただければ幸いです。

      実際にエホバの証人へ伝道する際、この問題をどのように扱うかは別の話ですが、アリウス兄弟のご意見は、おそらく多くのエホバの証人の考え方を表すものとして、念頭に置いておくべきものと思わされました。
      というのも、かくいう私自身も、かつて組織にいた時、そして疑問を持ち始めてからしばらくは、この考えの枠組みの中でしか考えれなかったからです。

      それは、統治体が長年に渡って信者に植え付けてきた「組織思考」という枠組みです。(もっとも、統治体自身も、その枠組みの中でしか考えれてないのかもしれませんが)

      つまり、「エホバは地上でご意志を行うために、特定の(単一の)組織を選び、用いておられる」という考え方・思考の枠組みです。この考え方が決定的に教え込まれているために、組織に疑問を持ち始めた後も、ものみの塔以外の「他の組織」を見つけようとします。そして、伝道や輸血拒否や殉教や非三位一体等の幾つかの条件を満たす「組織」が他に無い場合、やはり「この組織なのだ」という考えに落ち着いたり、ある人は「もう神なんか信じられない」となります。私自身も、しばらくはそのような思考パターンに陥り、他の組織を探したりもしました。

      しかし、その後改めて聖書を学び、聖書理解を再構築していく中ではっきりとわかったことは、「そもそもエホバは、特定の(単一の)組織を用いていないし、単一の組織を用いようともしておられない」ということでした。

      ◆新世界訳(1985年)における組織の出現頻度

      エホバの証人の口癖の一つは、「組織」です。「こんな組織は他にない」「組織へ導く」「組織に忠実にありましょう」こんな言葉が、普段の交わりの中で頻繁に行き交います。しかし、聖書時代の神の民は、「組織」という言葉をそんなに用いたでしょうか?

      新世界訳(1985年)における組織の出現頻度を確認すると、なんと聖書全体を調べても「組織」というキーワードが出てくるのは、わずか四ケ所だけです(;’∀’)

      https://www.jw.org/ja/%E6%A4%9C%E7%B4%A2/?q=%E7%B5%84%E7%B9%94&link=%2Fresults%2FJ%2Fbible%3Fq%3D

      特に新約聖書には一回も登場しません。つまり、聖書時代の神の民の中には、現代のエホバの証人が抱いているような「組織思考・組織信仰」は存在しなかったのです。(最も、旧約聖書の時代に、神がイスラエルという単一民族を用いていたことは明らかであり、国家であった以上、ある程度の組織化は当然必要でしたが、現代のJWのように、「組織・組織」と連呼してはいなかったと思われます。

      ◆一世紀の統治体?
      使徒15章には、当時勃発した割礼問題を解決するために、エルサレムに使徒たちや長老たちが集まって会議をしたことが記録されています。この時は、エルサレムのリーダーたちだけでなく、アンテオケからパウロ等の使徒も派遣され、一堂に会しました。

      統治体は、このエルサレム会議を根拠に、この集まりを現代の統治体の原型であるとしています。しかし、使徒の働き全体や、新約聖書全体を見ても、複数の地域の使徒やリーダーたちが、重要な問題について話し合うために集まったのは、この時だけです。それは、古い契約の時代から新しい契約への移行期において、福音の真理の土台が据えられるための重要な論争だったからです。

      一方、それ以外の場合では、彼らは継続的にエルサレム等の主要地域で集まって会議をしている、という様子はありませんでした。それは、各地域の教会の運営は、各地域の長老たちの裁量にゆだねられていた、ということです。パウロが教会の開拓をした後に、いつもそこで育った人々を長老として任命し、次の伝道へ旅立っていったのも、そのためです。(もっともパウロは、長老を任命するために、教理的な土台をしっかりと教え、育てていました)

      ◆単一の組織ではなく、同じイエス、同じ福音、同じ霊
      このように見ていくと、紀元一世紀の教会は、単一の組織として機能していたわけではないことがわかります。この状態を、組織思考的な枠組みで見ると、「単一の組織がないと、信者をまとめれないじゃないか」と思うかもしれませんが、それは神のやり方ではないのです。

      使徒の働きを丁寧に読んでいくと、使徒たちが何に導かれて宣教していったのかがよくわかります。それは「聖霊の働き」です。ですから、「使徒の働き」は、言い換えれば「聖霊の働き」なのです。神が必要としているのは、単一の組織構造をもった組織ではなく、同じ聖霊に満たされ、その聖霊によって物理的にではなく、霊的に結び合わされている神の家族なのです。

      組織の存在を全く否定しているわけではありません。キリスト教にも、たくさんの組織があります。色々な宣教団体、色々な教団、教派があります。しかし、組織や教団は違えども、同じイエスと同じ福音を信じ、同じ聖霊に導かれているなら、私たちは一つの家族、一つの兄弟であり、キリスト・イエスにあって一つなのです。

      大事なのは、同じ組織にあって一つであることではなく、キリスト・イエスの内にあって(in Christ)一つであることなのです。

      「ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男性も女性もありません。あなた方は皆キリスト・イエスと結ばれて一人の[人]となっているからです。」ガラテア3章28節、新世界訳

      「体は一つ,霊は一つです。それは,あなた方が自分たちの召されたその一つの希望のうちに召されたのと同じです。5 主は一つ,信仰は一つ,バプテスマは一つです。」エペソ4章4~5節、新世界訳

      ◆超教派の働きの一つ、通路チャペル
      具体的な事例を一つご紹介したいと思います。「キリスト教は伝道していない」とよく批判するエホバの証人ですが(あながち、間違ってはいない所もありますが、、)、そんなエホバの証人があまりリーチできていない人たちの中に、「路上生活者」がいると思います。実は、路上生活者への伝道という領域で見ると、少なくとも東京においては、キリスト教サイドに完全に軍配が上がると言ってよいでしょう。

      実際、東京近郊の炊き出しの半分前後は、キリスト教系の団体によって行われており、炊き出しの活動を通してイエスへ導かれる人も少なくありません(組織へではなく、イエスへ導かれます)

      代々木公園で毎週土曜日の朝、通路チャペルという路上生活者向けの働きが十年以上前から行われていますが、そこには実に様々な教会から、クリスチャンの奉仕者が集まります。バプテスト派、聖霊派、無教会派、聖公会等、またいつも色々な宣教団体が宣教師たちを派遣してくれています。

      そこにあるのは、単一の組織によって管理されている伝道ではなく、イエスにあって一つとされた兄弟姉妹たちが、各々聖霊に導かれ、一つの働きへ集められた姿です。そこには一致があり、愛があり、主の御心があるのです。
      https://true-ark.com/yoyogi-sidewalk-chapel/

      ◆世界宣教
      おそらく、単一の組織として、最も多くの国や地域に徹底して伝道しているのは、確かにエホバの証人かもしれません。しかし、イエスにあって一つとされた世界中の兄弟姉妹たちは、教団や教派を乗り越えて、それぞれの地域で一致しながら、それぞれの方法で福音を広げているのです。

      このようにイエスにあって一つとされた兄弟姉妹たちの働きを合わせるなら、その働きの大きさや救いに導かれた人の数は、エホバの証人の伝道活動を遥かに上回ります。

      たとえば、1970年代から、中国では聖霊の超自然的な働きによるリバイバルの炎が燃え上がり、その炎は瞬く間に中国全土を覆っていきました。それから2~30年後には、地下教会の信者の数は、数千万人に膨れ上がりました。元地下教会の著名なリーダーの一人であったブラザー・ユンの書いた「天国の人」を読むと、その光景がよくわかりますが、このたった数十年の中国内の聖霊の働きのみでも、全世界のエホバの証人800万という数を、遥かに上回ってしまいます。

      しかも、伝道の熱心さや、迫害に対する確固たる信仰においても、地下教会の信者のそれは、エホバの証人に全くひけを取りません。中国では、迫害や投獄が当たり前だからです。

      最後に、あえて単一の組織を挙げるとすれば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドを挙げたいと思います。1900年代初頭に起きたアズサストリートリバイバルの流れから始まった著名なペンテコステ系の教団ですが、ウィキペディアによると、「2018年の調べによると、世界規模での信徒は約69,200,000人。世界190カ国に広がり、教会の数では、世界規模では375,310ほど点在する」とあり、およそ過去100年間で、エホバの証人の10倍近くの6900万人もの信者数に増加しています。
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%89

  4. アリウス君 より:

    いつもながら熱心なる証に心より感謝致します。研究調査の姿勢といい素晴らしい解説です。
    フラットでニュートラルな視点でキリスト教というものを俯瞰することはとても大切なのだ…という事を改めて教えて頂きました。この度は一つの組織に限定するという事ではなく、そのようなくくりを超えてもっと大きな視点を持ってキリスト教を見てはどうなのか?というご提案を頂きました。確かに組織内にいるとそのような視点を持つことすら考えることはありません。「真理は一つ」という固定観念があるからです。確かにJWの教理は真理とも言える聖書に立脚したものを持ってはおりますが、「殺鼠剤の例え」のように98%が美味しいく滋養分に富んだ餌でも、残りの2%に毒が入っていれば死んでしまいます。
    聖書の教理理解は神のご意志で100%の開示はされていない訳ですから、仮に90%理解していると謳っても100%でない以上「我こそが真理を所有している!」と断定する事はできないのだという謙虚さを持つのがクリスチャンの姿勢ですね。
    素晴らしい講義に感謝致します。

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