1914年のキリストの王権と臨在の開始説(1)この教えの根本的な問題を明らかにする
「1914年からキリストが天の王国の王として即位し、その目に見えない臨在が始まった」
元エホバの証人の私が、一番最初に組織の教理の問題点に気付いたのは、この1914年という年代に関わることでした。以来、同じように組織の闇から出てくる元証人たちに会い、話を聞いてきましたが、1914年という教理の問題点を通して間違いに気づき始めた、という人が少なくありませんでした。
改めて今私が思うことは、エホバの証人にとって、この教理の問題点に気付くことは、組織の闇から救われていく上での最初の登竜門として最適であろう、ということです。すでにこのテーマは、2018年に記事を書きあげていますが、それから7年が経ち、聖書に対する理解が更に深まった今、改めてこのテーマについて、わかりやすく書いてみたいと思います。
現役・元エホバの証人の方々にとって、目覚めのきっかけとなれば幸いです!
1914年に関する教理の概要
1914年は、エホバの証人の教義と権威構造にとって極めて重要な年代だと言えます。この年代に関して、現代のエホバの証人が信じている教えの要点は、次のようなものです。
- 1914年に、異邦人の時が終了し、終わりの日が始まった。
- 1914年から、キリストの目には見えない「臨在」が始まり、全世界の王としての統治が始まった。
- 1914年から三年半の間、キリストは霊的神殿に来られ、当時のエホバの証人を検分・精錬した。
- 三年半の後の1919年、エホバの証人の油注がれたクリスチャンは大いなるバビロンから解放され、キリストによって「忠実で思慮深い奴隷」として任命された。以後、キリストはこの組織を、神の霊に導かれる唯一の経路として用いてきた。
エホバの証人の教えの重要な特徴として「唯一正統の主張」が挙げられます。つまり、「エホバの証人こそが、終わりの日の時代における、神の霊に導かれる唯一の組織だ」という自負であり主張です。そして、その主張の重要な根拠が、この1914年という年代とその教理にかかっているのです。この教理の重要性について、元統治体の成員だったレイモンド・フランズ氏は、次のように証言しています。
「基本となっている1914年という年代の持つ意義が揺らぐようなことがあれば、ここに挙げた教義の体系が全て揺らぐことになる。また,あこの「忠実で思慮深い奴隷」級の正式な代行者グループの特権も揺らぐことになる。この年代にそんな意義がないと言ってしまうと、これを基盤とする教義体系も権威構造もすべて終わりとなる。1914年というのは、それほどまでに重要なものなのである。」―レイモンド・フランズ『良心の危機』190頁。
フランズ氏も述べているように、1914年に関わる一連の教えは、まさしくものみの塔という組織の土台を構成しており、それによって組織が立ちも倒れもする教理です。この教理無くして、組織は立ち続けることは決してできない―そのような性質のものなのです。
では、この教理に関する以上の要点を抑えた上で、この教理を主張することについての根本的な問題点とは何なのか、これから明らかにしていきたいと思います。
※補足として、このように組織のリーダーに大きな権威付けを行い、自分たちのグループや集団を「唯一の正統」と位置付けるのは、カルトの主要な特徴です。多くのカルト的な集団が、これと同じような権威付けと唯一正統の主張を掲げています。
その日は、ただ天の父だけが知っている
1914年という年代についての主張は、ものみの塔協会の初代会長のラッセルがその始まりでした。彼は、1879年以来発行されてきたものみの塔誌を通じて、一貫して次のように主張し予言してきました。(以下の年代に関するラッセルの主張が実際に始まったのは、1877年頃からです。)
「1874年からキリストの目に見えない臨在が始まり、1914年には異邦人の時が終わり、異邦人諸国家がハルマゲドンの戦いによって滅ぼされる」
およそ40年間に渡り、ラッセルはこのような予言を大々的に触れ告げていたわけですが、結果的に、それらの全ては見事に外れたわけです。なぜなら、そのようにキリストの再臨や王として即位する時を当てようとすることは、そもそも神の御心から完全に外れたものであり、非聖書的なものだからです。
「さて,集合したときに,彼らは[イエス]に尋ねはじめた,「主よ,あなたは今この時に,イスラエルに王国を回復されるのですか」。7[イエス]は彼らに言われた,「父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは,あなた方のあずかるところではありません。」使徒1:6~7
「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も[知らず],ただ父だけが[知っておられます]。37人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。」マタイ24:36~37
このように、ただ父だけが知っておられ、天使もイエスも知ることのできない年を人が知ろうとするのは愚かなことです。(残念なら、ものみの塔だけでなく、このように時を知ろうとする人が、キリスト教サイドでも歴史的に繰り返されてきており、今日でも後を絶たないのです。)
ラッセルの予言が外れた後、協会は、非聖書的な予言をしたことを悔い改め、その年代を神の前に手放すべきでした。ところが時を経て協会が行ったことは、1914年という年代を捨てることをせず、1914年をハルマゲドンの年ではなく、キリストが天で霊的に王として即位して臨在が始まった年として置き換える、とう行為でした。つまり、「父だけが知る時を人が知ろうとし、勝手に間違った予言をした」という罪から離れることをせず、むしろその教理に延命処置を講じ、握り続ける道を選んでしまったのです。
その結果、この教理を通じて、世界の終わりに関する7回以上の予言を歴史的に外すこととなり、教理の修正も何度も行われる結果となってきました。その全ての根源的な問題は、聖書的に予告すべきでない事柄を予告してきた罪を、悔い改めなかったことから来ているのです。
- 1914年:異邦人の時が終わり、諸国家はハルマゲドンで滅ぼされる
- 1915年:異邦人の時が終わり、諸国家はハルマゲドンで滅ぼされる
- 1918年:教会が滅びる。世界大戦はハルマゲドンへ突入する
- 1925年:昔の預言者が復活することを、確信を持って期待できる
- 1941年:ドイツはハルマゲドンで滅びる
- 1975年:第七千年期の到来は、至福千年期の到来と明らかに関係がある
- 1982年~1995年: 1914年の出来事を見た世代が過ぎ去る前(西暦2000年くらいまでに)に世の終わりが来る
上記の外した予言リストについて、詳しくはこちら
ですから、1914年に関する一連の教理を主張することについての第一の最大の問題点は、そもそもキリストの王権や終わりの時に関わるこのような年代を主張すること自体が、根本的に神の御心から外れてきた、とういことなのです。
クリスチャンの信仰の土台は1914年ではなくキリストの福音である
「基本となっている1914年という年代の持つ意義が揺らぐようなことがあれば、ここに挙げた教義の体系が全て揺らぐことになる。また,あこの「忠実で思慮深い奴隷」級の正式な代行者グループの特権も揺らぐことになる。この年代にそんな意義がないと言ってしまうと、これを基盤とする教義体系も権威構造もすべて終わりとなる。1914年というのは、それほどまでに重要なものなのである。」―レイモンド・フランズ『良心の危機』190頁。
フランズ氏も述べている通り、この年代に関わる教義体系は、協会の土台であり、あまりにも重要な意義を持っているわけですが、なぜそうなっているのか、その理由について確認をしてみたいと思います。
- 1914年に、異邦人の時が終了し、終わりの日が始まった。
- 1914年から、キリストの目には見えない「臨在」が始まり、全世界の王としての統治が始まった。
- 1914年から三年半の間、キリストは霊的神殿に来られ、当時のエホバの証人を検分・精錬した。
- 三年半の後の1919年、エホバの証人の油注がれたクリスチャンは大いなるバビロンから解放され、キリストによって「忠実で思慮深い奴隷」として任命された。以後、キリストはこの組織を、神の霊に導かれる唯一の経路として用いてきた。
1914年に関わる上記の一連の教えの1~2の部分は、普通に考えると、聖書の預言の「解釈」の領域です。その解釈は聖書的ではありませんが、仮にあるグループが、1914年という年代に同じような聖書理解を持っているとしても、それ自体がそこまで大きな問題となることはありません。ところが、エホバの証人の場合、創始者のラッセルが1914年という年代を強烈に予言していた、という背景があるために、その年代を全く捨てることは、ラッセルを偽預言と見做すことと繋がってしまうため、手放せない年代となってしまっているのです。
もう一つの問題点は、3~4にあります。すなわち、1914年からキリストの臨在が始まったとする理解に留まらず、その預言解釈に「自分たちが神の霊に導かれる唯一の経路として任命された」というストーリーを結び付けてしまったのです。それによって、この1914年という一連の教理は、ものみの塔という組織と運命共同体のような関係となり、その組織にとって欠かすことのできない土台となってしまったのです。
しかし、そのような特定の年代が信仰の土台となっていること自体が、聖書的には、そもそも完全に間違っているのです。
「さて,兄弟たち,わたしはあなた方に良いたよりを知らせます。それはわたしがあなた方に宣明したもの,またあなた方が受け入れたものであり,あなた方はまたその中に立ち, 2 それにより,わたしがあなた方に良いたよりを宣明したそのことばをもって救われつつあります。もしあなた方がそれをしっかりと守っているなら,実際,いたずらに信者となったのでなければですが。 3 というのは,わたしは,最初の事柄の中で,[次の]ことをあなた方に伝えたからです。それは自分もまた受けたことなのですが,キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった,ということです。 4 そして,葬られたこと,そうです,聖書にしたがって三日目によみがえらされたこと,」コリント第一15:1~4
新約聖書をちゃんと読めばわかる通り、一世紀のクリスチャンの信仰の土台は、この聖句でパウロが述べているキリストの福音であり、「キリストが私たちの罪のために死に、葬られ、三日目によみがえられたこと」です。それこそが、クリスチャンの信仰の土台であるべきであり、その福音によって私たちは救われ、立ち続けることができるのです。
「そして,もしキリストがよみがえらされなかったとすれば,わたしたちの宣べ伝える業はほんとうに無駄であり,わたしたちの信仰も無駄になります。」コリント第一15:14
このように、クリスチャンの信仰はキリストの復活を土台としており、それによって立ちも倒れもするなら、それは正しい信仰だと言えます。しかし、1914年という特定の年代についての予言を信じなければ、その予言と成就が真実でなかったのなら信仰が崩れてしまう、というのなら、それは福音とは異なる土台を据えてしまっているのであって、その教義体系・構造自体が、そもそも聖書の教えから外れているのです。その根本的な事実に、全てのエホバの証人は気づかなければなりません。
1914年-このラッセルの呪いは、今後も組織にとって、その存続のために決して手放すことのできない重荷となり続けることでしょう。いつか組織が、その存続よりも神の義を求め、崩壊覚悟でその呪いを手放す時が来ますように