目ざめたエホバの証人へのアドバイス②|聖書の真理を学び直す
目覚めたエホバの証人にとって、学び直すべき聖書の教えは数多くありますが、ここでは理解を訂正すべき特に重要な点について、簡潔に触れておきたいと思います。
1:統治体は任命されていない
「統治体だけが神から任命されている」という点に、ものみの塔のあらゆる教義体系の中心があります。しかし、この「任命」の教義は、次に挙げる複数の理由から、全くの誤りです。
偽予言があまりにも多い
少なくとも、エホバの証人の歴史上、8回以上に渡り、世の終わりに関する大々的な予言が外れています。聖書中に、神から正式な任命を受けながら、予言を外す預言者は一人も登場しません。特に、任命に関わるとされる1914~1918年は、1914、1915、1918年と三回に渡り予言を外した期間です。それで、神の言葉によれば、この組織は真の預言者ではなく、偽預言者であるという結論に達します。
もし預言者がエホバの名において話しても,その言葉が実現せず,そのとおりにならなければ,それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたはその者に恐れ驚いてはならない』(申命記18:22)
任命より清めが先である
協会の主張する所によれば、組織は1919年に任命を受けた後、時間をかけて徐々に偽りから清められてきました。(十字架やクリスマスの廃止、輸血など)。つまり、「清めより任命が先である」という論理です。しかし、任命に関する聖書の教えは、「任命よりも清めが先」であることを明らかにしています。ですから、もしも神が本当に輸血を罪深い行為として禁じておられるのなら、1919年に任命する前に、組織をその行為から清めたはずです。加えて、このような原則を踏まえれば、複数の予言を外した直後に任命されるという教えがいかにあり得ないものであるかが理解できるはずです。
「監督の職をとらえようと努めている人がいるなら,その人はりっぱな仕事を望んでいるのです。2 したがって,監督は,とがめられるところのない人で,・・その人は外部の人々からもりっぱな証言を得ているべきです。非難と悪魔のわなに陥ることのないためです。」(テモテ第一3:1~6)
他にも本書の二章で既に取り上げた「1914年」の誤りも、任命を不可能とする決定的な理由の一つです。そして、統治体が任命されていないということは、ものみの塔が神の霊に導かれている保証が無いことを意味します。したがって、「救われるために組織に留まらなければならない」という期待を持つことも不可能であることがわかります。そして、こうした点への理解は、「統治体に逆らうとハルマゲドンで滅ぼされる」という思い込みの解消にも繋がることでしょう。
2:全てのクリスチャンは神の子どもである
「しかし,彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。」(ヨハネ1:12)
協会は、紀元一世紀のクリスチャンに与えられた数々の約束は、144000人だけに適用されると教えていますが、全くの誤りです。もしもそれが真理なら、紀元一世紀末のクリスチャン人口は、どんなに多くても144000人以下となるはずですが、実際の統計は「100万人」*[1]であり、かけ離れています。
つまり、信仰によって罪赦され、神の子どもとなり、新しい契約の当事者として表象物(契約のしるしであるパンとぶどう酒)に与り、天的な希望を与えられているのは、イエスを信じる全てのクリスチャンに対してなのです。人は、行いによってではなく、イエスを信じた時に、神の前で「義」と認められるのです。
「8 まさにこの過分のご親切のもとに,あなた方は信仰によって救われているのです。そして,これはあなた方によるのではなく,神の賜物なのです。9 そうです,それは業によるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エフェソス2:8~9)
また、エホバの証人の多くは、「義」と認められるために「業」を行うという認識が強く、その結果として、神との関係において恐れを感じている場合が多いです。しかし、このようなネガティブなイメージは、144000人の誤った教えがもたらした弊害の一つだと言えます。
聖書によれば、人は義とされるために業を行うのではなく、信仰によって「義」と認められ、神との平和がもたらされることによって、「業」を行うことができるようになるのです。(これらの点への理解を深めるために、特にローマ8章全体を、自分に向けて語られた言葉として読み直すことを強くお勧めいたします。)
以上の点から、144000人だけを新しい契約の当事者とし、その他大多数の信者を契約から除外するこの教えは、「まばゆいばかりの霊的な光」ではなく、「増し加えられた暗闇」だと言えるでしょう。
3:イエスを主と信じる
「その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。10 人は,義のために心で信仰を働かせ,救いのために口で公の宣言をするからです。」(ローマ10:9~10)
エホバの証人にとっての「主」とは「エホバ」であり、「イエスは主である」という認識や理解はほとんどありません。その結果、イエスの御名を呼び求めず、イエスを信仰の中心には据えず、イエスとの個人的な関係を求めず、バプテスマによってイエスと一つになる(一体化)ことを否定します。しかし、このような信仰は、聖書時代のクリスチャンのそれとはかけ離れています。
新約聖書全体、特に使徒の働き以降の時代において、クリスチャンのもっとも重要かつ基本的な信仰とは「イエスは主である」というものです。一世紀のクリスチャンは、イエスの御名を呼び求め、イエスを信仰の中心に据え、イエスを賛美し、イエスとの関係を培い、洗礼によってイエスと一体化したことを公に表しました。(使徒1:8、4:12、9:15~16、16:31、19:17)
実際に、使徒の働き以降の書簡を読んでいくと、旧約時代にエホバに向けられていた賛美や信仰の中心が、新約時代にはイエスに向けられていることがわかります。旧約時代にはエホバの御名を呼び求めていた民は、新約時代にはイエス・キリストの御名を呼び求めるようになっています。
つまり、かつてイスラエルがエホバに対して「主」と呼びかけていたのと同じように意味において、「イエスは主である!」と告白することが、救われるために必要な信仰なのです。
なお、ものみの塔は、この重要な事実を曲げるために、新約聖書で「主」と表記される237箇所を「エホバ」に置き換えましたが、この重大な問題については、追って別の記事にて詳しく解説いたします。
脚注
[1] 教文館『世界キリスト教百科事典』29頁。
1970年以降の期間を見ても、ものみの塔誌が「イエス・キリスト」から離れてきていることが、塔誌上の使用単語の統計を見ても分かります。
読みずらい記事で恐縮ですが、下の記事に「イエス・キリスト」等の単語の年毎の使用回数をグラフにまとめてあります。関心のある方はどうぞ。
「衝撃! ものみの塔誌 イエス・キリストから徐々に離脱? WTライブラリー2011」2015-08-12 下から見たJW アメブロ
(↓)リンクで飛べるでしょうか?
こちらのコメント、お邪魔でしたらご削除ください。
ももきち様
大変興味深いコメントをくださりありがとうございます! 是非、そちらの記事を確認したいのですが、リンク先が掲載されておりませんでした。教えていただいてもよろしいでしょうか?