イエス・キリストの再来(再臨)は目に見えますか?
エホバの証人は、大艱難の後に、イエス・キリストが裁きのために地上に来られることを信じていますが、その再来が、目に見える仕方で訪れることを否定します。その理由はおそらく、「1914年」の教理にあると言えるでしょう。
ものみの塔は、イエスが神の王国の王として、1914年に目には見えない仕方で来られ、臨在を始めたと主張しています。そもそも聖書的には、イエスの再臨は目に見えるものですが、それを認めると、1914年の教理を主張する協会にとって、解釈上都合の悪い事態が生じるのでしょう。
そのため、字義的な解釈の「目に見える再来」ではなく、霊的・比喩的解釈である「見えない再来」を主張することにより、真理に覆いをかけていると考えられます。
ものみの塔による解説
まずは、本テーマに関する、ものみの塔側の説明を紹介します。
「イエスはご自分の弟子たちと共に過ごした最後の晩に,「あとしばらくすれば,世はもはやわたしを見ないでしょう」と,弟子たちにお告げになりました。(ヨハネ 14:19)では,「すべての目は彼を見るであろう」と言われているのはどうしてでしょうか。イエスの敵が肉眼でイエスを見るようになると考えるべきではありません。なぜなら,イエスの昇天後,使徒パウロが,イエスは今や「近づき難い光の中に住み」,「人はだれも見たことがなく,また見ることのできない」方であると述べているからです。(テモテ第一 6:16)ヨハネは明らかに,「認める」という意味で「見る」と言ったのです。それは,わたしたちが創造物を通して,目に見えない,神の特質を見る,つまり認めることができるのと同様です。(ローマ 1:20)太陽が雲の後ろに入れば見えなくなるように,イエスも肉眼では見えないという意味で,『雲と共に来られる』のです。たとえ,昼間,太陽が雲に隠れても,わたしたちの周囲にある日光のゆえに,太陽は雲の陰にあることが分かります。同様に,主イエスは目には見えませんが,「イエスについての良いたよりに従わない者に報復をする」時,「燃える火」のように表わされるでしょう。それらの人々もまた,イエスを「見る」ことを余儀なくされるでしょう。―テサロニケ第二 1:6‐8; 2:8。」―『啓示の書』20頁
このように、ものみの塔は、イエスの再来において「見る」と述べられている箇所は、「認める」という意味であると説明しています。そして、その主張の根拠として、テモテ第一6章において、パウロがイエスを「人はだれも見たことがなく,また見ることのできない」方として紹介している点を引き合いに出しています。
さて、参照されたテモテ第一6章は、次のようになっています。
「わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで,汚点のない,またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行ないなさい。15 その[顕現]は,幸福な唯一の大能者がその定めの時に示されるのです。[その方は]王として支配する者たちの王,主として支配する者たちの主であり,16 ただひとり不滅性を持ち,近づき難い光の中に住み,人はだれも見たことがなく,また見ることのできない方です。この方に永遠の誉れと偉力とがありますように。アーメン。」(6:15~16、新世界訳)
「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16 唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」(新共同訳)
新世界訳と、新共同訳を比較すると、明らかにエホバの証人の新世界訳は、不正確で、意味の分かりづらい訳となっていることが伺えます。なぜなら、ここでの「人はだれも見たことがなく,また見ることのできない方」とは、明らかに「父なる神」のことだからです。例えば、「人はだれも見たことがなく」という表現は、イエスに当てはまると考えることはできません。イエスは既に人として来られ、人が見たことのある御方だからです。人が見たことの無いお方は、明らかに父なる神だけです。
このような理由から、この聖句をもとに、キリストの再臨が目に見えないと主張することは不可能です。
なお、ものみの塔の解説通り、「人はだれも見たことがなく,また見ることのできない方」がキリストを意味しているのであれば、協会は、イエスが神であることを認めていることになるでしょう。
キリストの再来について聖句を確認する
最後に、キリストの再来に関する聖書箇所を一通り確認してみます。
「それらの日の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。30 またその時,人の子のしるしが天に現われます。そしてその時,地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。31 (マタイ24:29~31)
はっきりと、地のすべての部族が、人の子を「見る」と語られています。なお、ここで言及されている「天の雲」とは、神の栄光の雲(シャカイナ・グローリー)のことです。
「そして,これらのことを言われたあと,彼らが見守る中で,[イエス]は挙げられ,雲に取り上げられて彼らから見えなくなった。10 そして,[イエス]が進んで行く間,彼らが空を見つめていると,さらに,見よ,白い衣を着た二人の人が彼らのそばに立って,11 こう言った。「ガリラヤの人たちよ,なぜ空を眺めて立っているのですか。あなた方のもとから空へ迎え上げられたこのイエスは,こうして,空に入って行くのをあなた方が見たのと同じ様で来られるでしょう」。(使徒1:9~11)
イエスの昇天の際、彼は見える姿で昇っていき、雲に包まれて、見えなくなっていきました。したがって、彼の再臨は、雲と共に来られ、地上に近づくに連れ、見えるようになるはずです。
「見よ,彼は雲と共に来る。そして,すべての目は彼を見るであろう。彼を刺し通した者たちも[見る]。また,地のすべての部族は彼のゆえに悲嘆して身を打ちたたくであろう。しかり,アーメン。」(啓示1:7)
すべての者の目、そして彼を刺し通したユダヤ人たちの目は、彼をはっきりと見るようになります。
「またわたしは,ダビデの家とエルサレムに住む者たちの上に恵みと懇願の霊を注ぎ出す。彼らは必ず自分たちが刺し通した者を見つめ,一人[子]について泣き叫ぶかのように彼について泣き叫ぶ。」(ゼカリヤ12:10)
最後に、旧約聖書のゼカリヤ書の預言からですが、ここでもエルサレムの住民が、キリストを「見つめる」とあります。
このように、聖書全体は、キリストが「見える」仕方で再来すると、一貫して教えています。