元エホバの証人の熱心な研究生からイエスの証人へ|罪の中にいた私に注がれた神の大きな愛

今回の記事では、元エホバの証人の熱心な研究生であったMさんの救いの証をご紹介させていただきます。プロテスタント系クリスチャンの親に育てられながら、ものみの塔組織へ導かれ、伝道活動や週に2回の集会にも出席し、順調に証人として進歩していたMさんが、その後どのように組織の誤りに気づいていき、「エホバの証人」としてではなく、「イエス・キリストの証人」としてバプテスマを受けるに至ったのか、ぜひ最後までお読み下さい。Mさんを救いの真理へ導かれた主をたたえます!
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」エペソ2章8節
※本記事の聖句の引用は、注記が無い限り全て口語訳です
目次
神に背を向けていた人生の結末
私は両親ともにプロテスタント系のクリスチャンのもとに生まれました。人生を通して熱心に教会に通ったことは少ししかありませんでした。気の向く時だけたまにだけ行ったりしました。苦しみながらも好き勝手に生きてきました。メンタルを壊してた時期もありました。心に神様のいない人生でした。
そんな自分も5年位前のことですがそれまでの人生を振り返り自分も歳を取った、幸せになるために何でもしてきたつもりなのに全く幸せになれず不幸なだけの人生だったなあと痛感させられました。人生の短さ儚さやこの先がそんなに長いわけじゃないことを思ってほんの少しだけ聖書と神様に心を開くようになりました。短い祈りを時々したり、聖書をたまに少しだけ読んだりし出しました。
2つの大病をわずらう
そんな中、今から3年近く前に大きな体の病気が2つ同時に襲ってきました。一つは命に関わる病気でもありましたが、幸い抗がん剤の服用により抑えることができました。
もう一つは原因不明の圧迫骨折が全身に次々起こる病気でした。このことを経験したときに、これからは神様に完全に心を開こうと強く思わされました。
「主よ、私は知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることができないことを」(エレミヤ10章23)
このみことばを痛感させられました。ひたすら幸せだけを求めて生きてきてずっと幸せになれず、あげくに大病2つというこんな結果を前に、心が神様に対してはじめて降参しました。人は自分の歩みを導けない、これからは神様に心を開こうと。
エホバの証人にお世話になり研究生として進歩する
その時の入院の際、エホバの証人の方に大変お世話になりましたが、彼らの親切に感動したこととも重なり、退院後すぐに聖書レッスンをお願いしました。プロテスタント系キリスト教に対する不信感が昔からあったことも一因です。
(エホバの証人とは、その時からさかのぼること10年位前に自宅に伝道に来られたときレッスンをお願いしたことがありました。当時は神様に対して心が全く開かれてなく、プロテスタントの教えとの違いはなんだろうというただの興味本位からでした。しかし伝道に熱心なその姿勢に好印象を持ちました。その時は神様に心も閉ざしておりレッスンも途中で終わる形となりました。)
今回はレッスンも熱心に受けて、数カ月後からは週2回の集会にも通うようになりました。その中で証人達の真面目さや温かさ、信仰の熱心さに感動を覚えたものです。そのことに関しては今でも良い思い出です。「やっと本物のキリスト教に出会えた」「やっと本当の聖書の組織に出会えた」と喜んだものです。
そんな日々の中で、自分のプロテスタントの親や兄弟や世の一般のキリスト教の人々にもエホバの証人になってほしいと思うようにまでなっていきました。
また子供の頃少し行っていたプロテスタントの教会の知り合いの方に、プロテスタントよりエホバの証人のほうが真理だと思うということを熱心に話したこともありました。その方はエホバの証人の夏の地区大会に来てくれたり、集会にも数回だけ来てくれたりもしました。(当時は、自分なりに真理だと思えた教えや組織に燃えていたのです。)
組織の間違いも調べ始める
レッスンが始まった初期の頃ですが、Google検索でエホバの証人が外した予言のことが載っていました。それで司会者に「1914年の予言が外れて、外れた後になって予言解釈を変えたというのは本当ですか?」と尋ねたら、「予言解釈は最初から変えてない、予言は当たっていた」と答えられたことがありました。それを聞いてどちらが本当か分からなくなりました。
その後もGoogle検索したらどうも予言は本当に外したようだと分かりました。その中で当サイト、「エホバの証人への福音」の存在も知りました。どうやらエホバの証人は組織の過去の過ち等を聞いてもあまり答えてくれない、また聞ける雰囲気でもないこと等を感じさせられました。それなら自分で調べようと思いました。
その時の気持ちは、組織の過去の失敗や過ちを知っても自分のエホバの証人への気持ちは変わらない、総合的には一番正しい組織だと思っていました。ただ何も知らないのは嫌だったので、過ちや失敗を知った上で真理の組織として受け入れたいという気持ちからでした。
ですので、最初はYouTubeを見ながらこのサイトの管理人を「悪い人だ、裏切り者だ」と思いながら、情報だけもらおうとしていました。レッスンを受けながら集会にも通いながらも「エホバの証人への福音」のサイトやYouTubeも覗いていました。
疑念が膨らみ始め、神の無条件の愛に目が開かれ始める
エホバの証人のレッスンと週2回の集会をほとんど休むことなく2年ほど続けて行く中で、真理を見つけた喜びと同時にいくつかの疑問や反発も生じてきました。
大群衆が新しい契約の当事者でないこと、聖書は14万4千人に向けて書かれた書であって、現在のエホバの証人について言えば、その中の僅かな人々に向けて書かれている、ということ等に対してです。(現在、約900万人のエホバの証人のうち、14万4千人に該当するのは1%以下の2万人ちょっとくらい、と教えられている)
また過去に全ての予言を外し、聖書解釈も何度も変えてきている統治体なのに、その組織が神の唯一の経路だということへの疑問や反発です。しかし、同時に自分の罪、とくに傲慢からこのような疑問反発が起きているのではないかと悩みの気持ちも持つようになりました。神様どうかこの反発の罪を犯さなくてよいように私の傲慢を無くしてくださいと何度も祈りました。
もう一つは神様の無条件の愛ということがほとんど強調されない部分です。証人たちはエホバへの愛、エホバへの愛と口癖のように言う方が多かったです。信仰の土台、心に一番強く持っていることがエホバへの愛だということに対する疑問を感じるようになりました。信仰の土台はエホバへの愛ではなくエホバからの愛だと思います。
「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」ローマ人への手紙5:8
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」ヨハネの第一の手紙4:10
」わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである」ヨハネ第一の手紙4:19
エホバの証人に通うようになるまでの人生で、プロテスタント系の教会に数カ所行ったり短く通ったりしましたが、大体どこでも神の無条件の愛を強調していてそういう空気感もありました。エホバの証人では皆さん熱心で親切です。私も大変親切にしていただきました。しかし同時に私が頑張っているから親切にされている部分が強いのです。自分の信仰として頑張っている面もありましたが、会衆の空気として頑張らないわけにはいかないというものと交じり合う状態にもなっていました。
エホバの証人の方に「贖いで示されたのは神様の罪人に対する愛、無条件の愛ですよね」と質問すると、そうですねと答えるはずです。しかし会衆内の信仰生活においては、神様の無条件の愛はほとんど強調されません。あるのは唯一の真理の組織の一員だから、正しい信仰生活を送っているから、努力しているから、エホバへの愛を大切にしているからエホバに愛されているのだ、という愛でした。
「自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいのことはしている」(ルカによる福音書6:33)―こうおっしゃられている神のもとにいるのに、「信仰努力しているから、エホバへの愛を大切にしているからエホバから愛されているのだ」ということを心の土台にしているのはなんと勿体ないことだろう。私達が罪だらけで神に敵対していたときですら、イエス様はご自分の命を投げ討つほど愛してくださり、エホバも独り子を賜るほどに愛して下さった。この愛こそ一番尊いという気持ちが強くなっていきました。
レッスンと集会の生活を送りながら覗いていた「エホバの証人への福音」からの情報に、段々と反発がなくなっていきました。昔からプロテスタント系キリスト教に対する不信感があってエホバの証人を選んで最初は本物を見つけたと喜んでいました。なのに、だんだんと以前は反発していたプロテスタント系キリスト教の特色である「信仰義認」「聖書のみ」「信仰のみ」、という教えに対して、尊さを感じるようになっていきました。
エホバの証人への福音の助けを得て、研究生を辞める
自分個人が統治体やエホバの証人の教理への疑問や反発を感じる部分があっても、一人だと確信が持てないのです。疑問反発は自分の罪からきているのではないか、自分の傲慢からきているのではないか、また自分の聖書理解の浅さからきているのではないかと思ってしまうからです。当時はエホバにこの罪を許して清めてくださいと祈ったほどです。
そういう意味でも「エホバの証人への福音」の管理人さんのように、元エホバの証人で現在は牧師でもあり聖書理解が深い方がエホバの証人の教理の間違っている部分をハッキリと聖書から説明してくれることによって、心の中にエホバの証人とキリスト教という2つの選択肢が存在できるようになります。
自分はレッスンや集会を2年近く続けてバプテスマを受けていない伝道者にもなりました。お家を一軒一軒回る伝道もし出していました。それから数ヶ月して、司会者より数ヶ月後に予定されているエホバの証人のバプテスマについて聞かされました。その時、バプテスマの前に自分の気持ちをハッキリさせないといけないと思いました。エホバの証人としてやっていきたい気持ちがある一方、心に中には疑問や反発もあったので、その疑問にしっかりと向き合って解消した上で、ちゃんとした気持ちでバプテスマを受けたいと思ったのです。それで、それまでは覗く程度で見ていた「エホバの証人への福音」のコンテンツに対してきちんと向き合い始めました。
(2年以上、エホバの証人の方々と親密に交わらせてもらいました。特にその中の一人の方には、最初の入院中からずっと並々ならぬ親切をして受けていました。実の家族との関係が上手くいったことがなかった自分には、半ば実の家族ができたようにまで感じていました。その中で組織から離れる選択がし辛い心情になっていたのです)
その時「エホバの証人への福音」の過去記事「神の子供とはどんな人々ですか ?144000人と大群衆の実体②」を読んで、大群衆つまり99%以上のエホバの証人がエホバと霊的父と子の関係でないことことを知り驚きました。「神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです」(ローマ人への手紙8章14 節)などや、他の8章の多くの節の御言葉とも矛盾しているという説明にも納得させられました。エホバの証人の教えでは、大群衆が天ではなく地上、天での王ではなく千年王国の住人だとされていることは当然知っていましたが、まさかエホバと霊的父と子の関係でもない、ということは全く知りませんでした。このことで目が開かれて、司会者にバプテスマを受けないこと、もうエホバの証人の組織から離れることを伝えました。
自分に対して特にご親切にし続けてくれた一人の証人の方との別れはとても辛かったです。しかし信仰に生きようと決めている中で、エホバの証人という組織が間違った福音の組織であることが分かった以上、偶像礼拝は出来ない、またここにいても真の救い、心の真の幸福はつかめないという気持ちのほうが強かったです。(エホバの証人の発行するものみの塔誌では、「統治体に対する信仰」という信じられないような言葉もこれまでに用いられています)
エホバの証人の組織との関わりをやめようとしたとき「エホバの証人への福音」の管理人さんに連絡させてもらい、色々と大変ご親切にしていただきました。
エホバの証人とプロテスタントの違い
元々、プロテスタント系クリスチャンの両親や教会の方々への不信感からエホバの証人を選んでいました。しかし、霊的な意味でエホバの証人のほうが真理だと喜んでいたのが、段々とプロテスタント系キリスト教に対して以前は疑問に感じていた部分も、逆に良い部分であることを悟りだしました。プロテスタント系キリスト教は世界約900万人のエホバの証人と違い数億人います。放縦クリスチャンとも言えるような人も少なくありません。信仰に熱くないクリスチャンも少なくないと思います。しかし一部のプロテスタント系クリスチャンはやはりエホバの証人より凄いと思います。子供の頃や若い頃に何箇所かの教会を浅く経験しましたが、その中の少数の一部の人達の表情や人柄、信仰は確かに凄いものでした。
今YouTubeでもいろんな牧師さんのメッセージを見ることができます。ここの管理人さんもそうですが、その方々の中にはエホバの証人の人達より強い霊的幸福感、神様、イエス様との強い繋がりを感じさせる方々がいらっしゃいます。その方々から感じ取れるキリストにある自由、救いの喜びや清さや厚い信仰は、エホバの証人の信仰に厚い方々よりやはり凄いと感じさせられます。
エホバの証人のように統治体を通してイエス様とエホバと繋がっているのでなく、直接イエス様との一体によってエホバと父と子になれている人達だからだと思います。
エホバの証人は統治体を通さないとエホバと結びつけないと信じ込んでいますが、事実は逆です。聖書が語っているのは、誰でも心から信じることによって、個人が直接イエス様と一体となれてエホバとも父と子という繋がりを持てます。統治体を挟むことは、むしろ大きな制限になっています。これはエホバの証人の組織を出ないと実感しにくいことです。
イエスの証人としてバプテスマを受ける

私は最近「エホバの証人への福音」の管理人さんがおられる教会でバプテスマを受けました。本当の福音に導かれました。
ここの教会では癒しの賜物も大切にされています。私も癒しの賜物は信じていましたが自分には起こることはないだろうと思っていました。しかしバプテスマを受ける2時間前位に体の癒しも祈っていただきました。全身の圧迫骨折とその後遺症で4年近く苦しめられていたのが、翌日には完治しました。驚愕しました。今でも治った体を感じて信じられない思いになります。
私個人の力では、決してここまでは来ることはできませんでした。イエス様の大きな愛と家族の祈りやここの管理人さんなどに助けられて、恵みの中でここまで来ることができました。
そういう意味では、エホバの証人の方々にもここまで来る道のりを大いに助けられました。私個人の信仰が燃えていったのは、エホバの証人の組織と関わっている中でのことでもありました。そこで励まし助けられもしました。特にその中の一人の方には感謝の気持ちしかありません。その方のおかげで信仰を強められました。その方をはじめエホバの証人の方々が真の福音と、本当のイエス様とエホバに導かれることを祈っています。
「神には、なんでもできないことはありません」(ルカによる 福音書1:37)
エホバの証人の組織と関わりを絶ったとき、自分の信仰に不安も感じました。正しい組織に励まされ、またある意味見張られていないと信仰を保ちにくいのではないかと不安にもなりました。しかし、その心配は杞憂に終わりました。
以前は、自分を律したり清く変えてもらうために神様に頼りつつも、統治体と会衆の皆さんの励まし慰めも受けながら同時に見張ってもらうことにも頼っていました。離れて分かったのですが、見えないものに対する信仰、見えるものにとらわれすぎない信仰がエホバの証人ではあまり出来ません。
「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである。」コリント人への第二の手紙4:18
また新世界訳聖書になりますが「信仰とは、望んでいる事柄が実現するという確信であり、目に見えないものが実在するというはっきりとした証拠を持っていることです」(ヘブライ11:1)とまで神が言われているのに、目に見える人間である統治体に心の目を注いでいるエホバの証人達の信仰とは何でしょうか。目に見えない神様とイエス様そのものに心の目の全てを注ぐ信仰、神への信頼と確信。これらによってのみ自分を律して清く変えてもらっていく。見えない神様とイエス様の大きな愛を感じながら生きていく。エホバの証人とのかかわりの中では決して得られない信仰、幸せが今ここにあります。
私は本来、愛に値しない人間です。このことは自分が一番よく分かっています。しかしこのような自分にも、神様は最大の深い愛を注いでくださいました。そのことによって神様に心を開けて信仰を始めることもできました。








