目ざめたエホバの証人へのアドバイス⑤|教会に対する偏見を取り除く


ものみの塔は、キリスト教全体に対する多くの誤った考えを、意図的に信者に植え付けています。また、キリスト教の一部に対してなされるべき批判を、あえてキリスト教全体に向けることにより、非常に偏った考えを信者に抱かせることに成功しています。

このような手法は、マインド・コントロールの典型的な方法ですが、元証人が教会に通い始めるにあたり、これらの偏見や誤解を取り除いておくことは必要不可欠です。

教会はバビロンではない

むしろ、「キリストは偽りの宗教の世界帝国・バビロンである」というものみの塔の主張こそ、大きな誤りです。このような主張は「ものみの塔協会は神の霊に導かれる唯一の組織である」という唯一正統の教えを土台としているわけですが、「アドバイス②|真理を学び直す」でも既に述べてきた通り、その土台には確かな聖書的根拠がありません。

各地域にある教会の多くは、キリストの体が建て上げられるため、神によって用いられているのです。最初に門を叩く時には、感情的な抵抗などで勇気がいるかもしれませんが、恐れずに足を運んでみて下さい。

神の御名「エホバ」について

エホバの証人にとって、「エホバ」の御名を告げ知らせることは真のクリスチャンの証拠であり、極めて重要なことと見做されるので、キリスト教の崇拝に参加した時、その御名が全く用いられず、「イエス」が中心とされていることに違和感を覚えるはずです。しかし、これについては、エホバの証人の側に理解を改めるべき複数の重要な点があります。ここでは、その理由を簡潔に説明させていただきます。

(1)「エホバ」という御名の発音は明らかな誤読である

神の御名を表すテトラグラマトンの正確な発音が失われたとはいえ、今日の多くの学者の間では、「ヤハウェ」もしくは「ヤーウェ」であっただろう、という見解で一致しています。「エホバ」という発音は、神の御名を「アドナイ」(主)と読ませるためにマソラ学者が付した振り仮名を、後代の学者が御名の正確な発音のための振り仮名と誤解して発音してしまったものであり、誤読であることが明らかになっています。

(2)一世紀のクリスチャンは、神の御名を発音しなかった

当時のクリスチャンは神の御名を発音した、というのがものみの塔の主張ですが、ユダヤ教のミシュナーやヨセフスの記録によれば、一世紀のユダヤ人が神の御名を発音しなかったことは明らかです。そこで協会は、自説の正当性を示すために、七十人訳や死海写本で神の御名が出ていることを、当時の人々が御名を発音した根拠として挙げますが、的外れな主張です。

なぜなら、そもそも当時のヘブル語聖書の中には、普通に神の御名が表記されていたからです。ユダヤ人が否定したのは、御名をヘブル語聖書に表記することではなく、その御名を声に出して発音することだったのです。

(3)新約聖書の写本に「エホバ」の御名は一つも無い

この事実は、エホバの証人にとって不利な証拠となるので、協会は「2~3世紀の背教したクリスチャンが、その御名を『主』に置き換える改ざんを行った」と説明していますが、その主張には重大な問題があります。なぜなら、もしも新世界訳聖書が底本として用いるギリシア語本文に、未だ重大な改ざんが含まれているのなら、他にも重大な改ざんが含まれる可能性が浮上することとなり、聖書の信頼性が根底から覆るからです。

しかし実際には、膨大な写本研究の結果、現代のギリシア語本文は、原典の内容を99.9%再現している、と結論付けられており、残りの0.1%も、重要な教理に関係する箇所では無いことが明らかになっています。つまり、一方では新世界訳聖書の正確性を主張しながら、他方では未だ重大な改ざんが含まれている、と言うことは不可能なのです。

十字架のシンボルについて

エホバの証人は「十字架を用いることは偶像礼拝である」と教え込まれてきているため、教会へ行っても十字架を見ると嫌悪感を覚えてしまいますが、これもまた統治体による誤った情報の一つです。

(1)キリストは十字架上で死を遂げた

キリストが一本の杭ではなく、「十字架」上で死を遂げたことは、歴史的な事実から明らかになっています。新世界訳聖書で「杭」と訳されるギリシア語「スタウロス」は、一本の杭という意味もありますが、新約聖書の時代には、ローマによる十字架刑を意味する言葉にもなっていたのです。ものみの塔は、『洞察一巻』783頁や、『論じる』216項において、自説を裏付けるために新聖書辞典やインペリアル聖書辞典を引用していますが、全くの悪引用であり、実際の引用元を確認すると、どちらも刑具の形状が「十字架」であったと説明されています。

(2)キリスト教徒は十字架を拝んではいない

偶像礼拝とは、偶像を崇敬の対象と見做す礼拝行為ですが、実際のところ、ほとんどのキリスト教徒は十字架をキリスト教のシンボルと見做しており、拝んだりはしていません。ですから「十字架を用いて偶像崇拝を行っている」という主張は、偶像礼拝の拡大解釈であり、キリスト教を攻撃するための行き過ぎた批判に過ぎません。

十字架については、他にも様々な点を挙げることができますが、詳しくは、当サイトの記事「真のクリスチャンは十字架を用いるべきですか?」「十字架と杭―キリストが架けられたのはどちらですか?」にて解説していますので、そちらをご確認下さい。

クリスマスについて

多くの教会では、イエスの誕生を記念して、クリスマスを祝いますが、これもエホバの証人にとって、抵抗を感じる教会の習慣の一つです。ものみの塔は、(1)イエスの誕生を祝うようにという聖書の命令は無い、(2)クリスマスは、異教徒の祭りに由来する、という理由によって、クリスマスを否定しますが、以下の理由を考慮する必要があります。

(1)確かに、イエスの誕生を祝うようにという聖書の命令はありませんが、その誕生を喜ばしい出来事として描写していることは紛れもない事実です。

「『今日,ダビデの都市で,あなた方に救い主,主なるキリストが生まれたからです。・・・』すると突然,大勢の天軍がそのみ使いと共になり,神を賛美してこう言った。『上なる高き所では栄光が神に,地上では平和が善意の人々の間にあるように』」(ルカ2:11~14)

ですから、以下の出版物の説明の通り、キリストの誕生がいつお祝いされようとも、クリスマスに神に感謝し、救い主についてふれ告げるのは良いことなのです。

キリストの誕生がどの日に祝われても、それは重要時なことではないし、他の人々と共にクリスマスの日に神と救い主に感謝するのは正しいことである。―『ものみの塔』1903年12月15日号、457項。

(2)12月25日は、元々太陽神の誕生を祝うローマの祭りでしたが、これについては歴史的背景に対する解釈上の問題があります。キリスト教が西暦392年にローマ帝国の国教とされる中で、クリスチャンたちは異教徒の習慣に合わせたのではなく、「イエスこそ義の太陽である」という理解に基づき、12月25日を「太陽」拝む日ではなく、「太陽の造り主」を拝む日と定めたのです。

聖書研究や伝道への姿勢について

聖書研究や伝道に対する熱心さにおいては、キリスト教徒の側にエホバの証人に見倣うべき点があることは事実です。ただし、次の点には留意する必要があります。

(1)聖書研究に熱心な教会は存在する:実際に、聖書研究を重視する教会は存在しますし、エホバの証人よりも質の良い学びが提供されている教会もあります。

(2)伝道熱心な教会も存在する:エホバの証人ほどではないにしても、色々な方法を用いて積極的に伝道している教会や個人は存在します。また、キリスト教徒の方が、伝道の方法に柔軟性がある場合もあります。

(3)重要な教えが正しく無ければ意味が無い:いくら熱心でも、そこで学び伝道する内容が、聖書的に正しいもので無ければ意味はありません。100人の未信者に非聖書的な教えを伝道することよりも、一人の未信者に聖書的な伝道をする方が、遥かに勝っています。

献金(寄付)について

今日の一般的な教会では、礼拝の中で献金の時間があり、献金袋が回ってきますが、自由献金制に慣れている多くのエホバの証人は抵抗を感じることでしょう。加えて、「キリスト教の牧師は献金袋を回して献金を強要している」と組織から教えられてきているわけですから、なおさらのことです。

しかし、(1)献金の有無や額が信者の側の自発的な意志に委ねられていること、(2)集められた献金が神の御国のために用いられること、等の内容については、エホバの証人の方式と変わるところはありません。ですから、既に述べたことでもありますが、「郷に入れば郷に従え」の精神で、安易に裁いたりせず、違いとして受け入れる必要があるでしょう。

また、キリスト教を批判する一方、ものみの塔の側にも、寄付の用い方について大きな問題があることは、既に当サイトの「寄付制度と会計報告」で触れた通りです。ものみの塔よりも、献金を正しく用いている教会は、実際にいくらでも存在するのです。

ただし、組織の指摘通り、実際に信者に多くの献金を要求し、そのお金によって牧師が裕福な生活をしているような教会も中には存在します*[1]。そのような場合には、速やかにそこを去ることをお勧めいたします。

先生という称号について

エホバの証人の世界では、「先生」という呼び名を否定し、たとえ相手が統治体であって「兄弟」と呼びかけることから、キリスト教の牧師が「先生」と呼ばれていることに抵抗を覚えるものです。

エホバの証人の理解の根拠としては、「しかしあなた方は,ラビと呼ばれてはなりません。あなた方の教師はただ一人であり,あなた方はみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)が挙げられるわけですが、その次の節では「 また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなた方の父はただ一人,天におられる方だからです。」となっています。言うまでもなく、エホバの証人でも、キリスト教徒であっても、自分を生んだ父親を「父」と呼ぶわけですから、この聖句をその通りに読むことは間違いです。

歴史的背景としては、当時のユダヤ教のラビ(先生)は、弟子たちに対して過度な権威を持っていました。そこでイエスは、その行き過ぎた権威を問題にし、「ラビと呼ばれてはなりません」と警告したのです。つまり問題の核心は、その呼び方ではなく、その実質なのです。

エホバの証人の場合、先生とは呼びませんが、統治体、支部委員、巡回監督、長老等、厳格な階級制度があり、上の階級が持つ権威の実質は、多くの場合、キリスト教で先生と呼ばれる牧師を上回っています。そしてその中でも「統治体の権威」こそが、イエスが最も否定した「ラビ的権威」なのです。

以上の点を考慮すれば、「先生」という呼び名に躓くことは無いでしょう。

一致の問題について

ものみの塔は、「キリスト教には一致が無い」と批判します。そして実際に、キリスト教の情報に目を通したり、クリスチャンたちと交わったりすると、人によって言っていることに違いがあったりするので、その不一致に躓いたりすることがあります。まず現実問題として、キリスト教の中にも多少の不一致は存在しますが、エホバの証人の側の考えにも、正すべき点があります。

エホバの証人の不自然な一致:エホバの証人のセールスポイントとしては、世界的な一致がよく挙げられるわけですが、それは統治体の絶対的権威と情報のコントロールによってもたらされたものであり、「不自然な一致」なのです。表面的な「一致」の裏には、疑問を持った信者への無数の排斥行為が存在しているのです。そのような一致は、エホバが意図した一致とは程遠いものです。

キリスト教の一致:実は、「キリスト教は一致していない」という考え方自体に、大きな誤解があります。エホバの証人が表面的にでも一致しているのは、それが単一の教団内のことであるから当然のことです。キリスト教の特にプロテスタントは、全体が一つの団体なのではなく、たくさん教団の集合体なのです。ですから、個々の教団内のレベルで捉えれば、エホバの証人と同じように、ある程度の教理や組織体制の一致があるのです。

そして、より広い視野に立って考えれば、キリストを救い主と信じる世界中の人々は、細かい教えの違いこそあれ、一つのキリストの体を構成しているわけですが、エホバの証人のように「自分たちの組織だけが救いへ至る唯一の道」であると教えることこそ、むしろキリストの体に決定的な分裂をもたらしているものなのです。

脚注

[1] このような教会の多くは、誤った福音である「繁栄の神学」の影響を受けています。繁栄の神学とは、クリスチャンの物質的な祝福を強調し、この世で多くの富を得ることは神の祝福のしるしであると教える神学ですが、正しい教えではありません。


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