恵みと信仰と行いー救いにはどう関係するか?聖書的に正しく理解する

十四万四千人と大群衆シリーズの2番目の記事「衝撃!エホバの証人は本当の福音を宣べ伝えていない?」の中で、行いによって救いを得ようとするエホバの証人の良いたよりが、福音の本質から外れているということを説明させていただきました。つまり、人はただ神の恵みにより、イエスを信じる信仰によって義とされるのであり、そこに律法の行いや善行を加えることは決してできない、ということです。
しかしここで、エホバの証人の良いたよりが的外れだったことはある程度理解できても、救いに行いが全く関係ない、という点については疑問を持った方もいるかもしれません。そこで今回の記事では、福音の本質についての記事の重要な補足として、神の恵みと信仰と行いが救いとどのように関係するかについて、聖書的な視点をちゃんと理解できるよう整理してお伝えしたいと思います。
救いの三つの段階
まずこの話を進めていく前に、聖書が信者の救いについて三つの段階を教えていることを抑えておく必要があります。それは「義認」「聖化」「栄化」と呼ばれます。これらはキリスト教の神学用語ではありますが、救いの三つの段階を理解する上では、とても適切で便利な用語だと思います。
義認、信仰義認|Justification
人は、イエス・キリストの血という神の大きな恵みにより、その恵みをただ信じることによって罪が赦され義と認められます。そこには、いかなる行いも関係がありません。
「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」(ガラテヤ人への手紙 2:16)
そして、信じて義と認められた時点でその人は「救われ」ます。これは人間の構成要素である「霊・魂・体」(第一テサロニケ5:23)の中の「霊の救い」であり、全ての信者はそのような意味において既に救われているのです。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)」
上記の聖句でも「救われた」と過去形で表現しているのはそのためです。信者は行いに関わりなく神の恵みにより救われるのです。
聖化|sanctification
聖化とは、義認を受けた信者が、聖霊の働きにより、徐々にキリストの似姿へ造り変えられていくことを意味するものです。信じて救われて霊が新たに生まれ変わっても、たましいの領域には依然として古い性質が残っています。全ての信者は、その後の地上生涯での信仰生活を通じて、変えられていく〜罪の性質から救われていく必要があります。これが現在系の救いであり、魂の救いです。
「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(コリント人への手紙 第二 3:18)
「新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」(コロサイ人への手紙 3:10)
栄化|Glorification
栄化とは、信者の救いが将来的に完成することを意味し、地上生涯を終える時に恵みによって成し遂げられます。栄化された信者は、罪の力から完全に解放され、義の性質が確定するため、それ以降二度と罪を犯すことが無くなり、永遠のいのちが確かなものとされるのです。これが未来形の救いであり、体の救いです[1]。
「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」(マタイの福音書24:13)
「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」(黙示録2:11)
このように聖書は、救いについて「過去形」「現在形」「未来形」の三つの段階を教えていることが分かります。では、これら三つの段階について、神の恵み・信仰・救い・行いはどのように関係しているのでしょうか?
神の恵みと信仰と救いと行いの関係
先に、これら四つの要素についての方程式をご紹介したいと思います。
神の恵み+信仰=救い→良い行い
新しい契約という神の恵みが全ての土台にあり、その恵みを信じることが救いの全ての段階を貫く大原則です。そして、神の恵みを信じる時にもたらされる第一の結果が「救い」(罪の赦しと新生)です。
続いて、恵みと信仰がもたらす第二の結果が「良い行い」です。つまり、神の御心にかなう良い行いとは、救われるために必要なものではなく、救われた結果として必然的に伴うものなのです。エペソの2章はこの関係を見事に説明しています。
「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」 エペソ人への手紙 2章8~10節
人は行いによらず、恵みと信仰によって救われます。そして救われた信者は、その同じ恵みによって「良い行いをするためにイエスにあって新しく造られる」、つまり再創造されるのです。それは、恵みによって救われた信者が、その恵みによって神が備えてくれた良い行いのうちに歩むためです。つまり良い行いとは、救いの結果であって、原因ではないのです。
このように見ていくと、大群衆に対して新しい契約の部外者として努力によって救いを得させようとするものみの塔の教えが、いかに聖書的な救いの教えからかけ離れているかがよくわかると思います。神が備えて下さる良い行いに生きるためには、先に救われて新しく造り変えてもらう必要があるのに、救われるために良い行いをするよう教えているからです。新生なしに人間的な努力によって新約聖書の教えを守ろうとするのは本末転倒であり、それゆえに多くのエホバの証人が苦しくなり、うつ病にもなるのです。
ですから、救われて新生した信者には、聖霊によって良い行いの内に歩む力があり、その力は、恵みと信仰を通してもたらされるのです。
救われた信者が良い行いに生きない場合はどうなるか?
万が一、一度救われた信者が、神の恵みを拒絶して主から離れたり、良い行いの内に生きなかったりする場合、それは「できない」からそうなるのではありません。良い行いに生きる恵みがあるのに、それを拒否する自らの選択によることなのです。
ですからパウロは、彼が書いた多くの書簡において、恵みと信仰によって救われた信者が、その恵みを思い違いして、不従順に生きる口実にしないよう警告しています[2]。
「”肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」(ガラテア5:19~21)
「”あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。」(第一コリント6:9~10)
「もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。」(ヘブル人への手紙10:26~27)
信仰について私たちが理解すべき重要なことは、真の信仰には必ず行いが伴うということです。人が救われる時、その人が偽りの信仰によって救われることはありません。真の信仰によってのみ救いを得ることになります。そして、そのような真の信仰には必ず行いが伴うはずです。
「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。」(ヤコブの手紙2:26)
全ての救われた者は、恵みによって赦された者として、地上生涯全体を通して、その信仰と悔い改めの内に固く留まる必要があるのです。主イエスご自身も、次のように語られた通りです。
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイの福音書 7:21)
「わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」(ヨハネの福音書 15:6)
「わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。」(ヨハネの黙示録 3:11)
最後に伝えたいことは、私たちを救いの完成へと導く神の恵みは、全ての信者に対して十分にある、ということです。ですから、私たちを日々キリストの似姿に造り変えて下さる神の恵みを大胆に信頼し、恐れることなく主と共に歩んでいきましょう!
「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル人への手紙4:16)
「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。いつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル人への手紙 7:24~25)
脚注
[1] 全ての信者は、地上生涯を終える時点で義の性質が確定し、たましいの救いが完成します。ただし厳密には、信者の救いが最終的に完全なものとされるのは「体の救いの完成」がもたらされる携挙の時であり、その時には死人の復活と生きている信者の携挙が同時に起ります。
[2] 救われた後に不従順に生きた場合、その救いが失われて滅びてしまうのか?本記事では、聖書の言葉そのものから読者の方々が判断できるよう複数の聖句をリストアップしましたが、実はこの点は、プロテスタントの中では議論があり、「たとえ不従順に生きたとしても救いそのものは失われない」という永遠の保証の立場と、「救われても、その後に不従順に生きる場合は滅びてしまう」という立場の双方があります。このような立場の違いは宗教改革以後、連綿と続いてきている議論であり、現代の日本だと、プロテスタントの福音派の多くが「救いは失われない」とする立場をとっています。






