十四万四千人と大群衆① 大群衆は新しい契約の当事者ではないのか?
2016年、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け直し、エホバの証人の大群衆としての歩みを正式にキャンセルしてから、もうじき10年が経とうとしています。この間、聖書の真理への理解はさらに深まり、神の子供としての自由とその恵みを深く味わってきました。
時間の経過と共に、自分が神の子供であることの素晴らしさ、その確かさへの確信、その重要性への確信は深まることはあっても、決して薄まることはありません。
10年経った今、「大群衆は新しい契約の当事者ではなく、神の子供ではない」というエホバの証人の教理に対して、私は改めて断言します。その教えは悪魔によってもたらされた偽りであり、闇であり、福音の真理を根本から覆すものである、と言うことです。
すでに2018年に、このテーマについての記事を書き終えていますが、前回とはまた少し異なる切り口でこのテーマを語りたいと思います。
目次
十四万四千人と大群衆―教理の始まりとその内容
まばゆいばかりの霊的な光?が始まる
まばゆいばかりの霊的な光がきらめいたのは,1935年のことです。
米国のワシントンDCで開かれた大会において,大いなる群衆は地的なクラスであり,羊とやぎに関するイエスのたとえ話の羊と同じであることが示されました。(マタ 25:33-40)・・・話し手のJ・F・ラザフォードが「地上で永遠に生きる希望を抱いておられる皆さんは,ご起立いただけますか」と言うと,聴衆の半数以上が起立しました。すると,兄弟は「ご覧ください! 大いなる群衆です!」と述べました。
多くの人は自分の将来の希望をついに理解して,深い感動を覚えました。
―1935年5月31日,米国ワシントンDCの大会にて
1935年、ものみの塔協会二代目会長のJ・F・ラザフォードは、啓示7章に登場する「大群衆」の実体を明らかにする、歴史的な発表を行いました。聴衆の半数以上は喜びをもって立ち上がり、自分たちが「天的な希望を持つ144000人」ではなく、「地上で永遠に生きる大群衆」であることに同意したのです。
協会の教えによれば、この年をもって、「144000人」を集める業は終了し、世界中の「大群衆」を集まる業が開始され、今日に至るまでその業は変わらず続いている、とされています*[1]。
では、今日のエホバの証人は、啓示7章における「十四万四千人」と「大群衆」について、どのように理解しているのでしょうか?まずはその要点を確認していきます。
144000人とは
「そしてわたしは,証印を押された者たちの数を聞いたが,それは十四万四千であり,イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された。」(啓示7:4)
- 人数:144000人とは、文字通りの数である。
- 構成する人々:144000人は、主に紀元一世紀のクリスチャンと、エホバの証人の油注がれたクリスチャンによって構成される[2]。
- 希望と役割:彼らはキリストへの信仰によって神の子供とされ、やがて霊の命へ復活し、天へ挙げられる。そして、キリストと共に千年の間、天から地上の楽園を統治する。
- 新しい契約:キリストを仲介者とする新しい契約の「当事者」は、144000人だけである。したがって、記念式(聖餐式)のパンとぶどう酒に与るのは144000人だけとなる。
- 新約聖書の意義:新約聖書の大部分は144000人のために書かれたものと見做される。

144000人は天でキリストと統治する|JW.ORG
大群衆とは
「見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。・・・これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。15 それゆえに神のみ座の前にいるのである。」(啓示7:9-15)
- 構成する人々:大群衆とは、144000人以外のエホバの証人のことであり、エホバとその組織に対する従順を通して、大患難~ハルマゲドンを生きて通過し、千年王国に入る人々を指す。(ものみの塔の理解では、現代のほとんど9%以上のエホバの証人は大群衆に属している)
- 希望と役割:大群衆は地上の楽園で永遠に生きる見込みを持っている。ただし、大群衆が最終的に神の子供とされるためには、千年王国の期間中に地上の楽園で忠実を保ち、最後の試みを通過する必要がある。
- 新しい契約:大群衆は、新しい契約の「当事者」ではなく、イエスは彼らの「仲介者」ではない。しかし、大群衆はその契約から「益を受ける人々」であるため、記念式(聖餐式)でパンとぶどう酒に与ることはないが、参加することによってイエスへの感謝を表す。(したがって、新しい契約の当事者ではないが、全くの部外者でもない、と言う立ち位置となる)
- 新約聖書の意義:144,000人のために書かれたものであり、大群衆のために書かれたものではない。しかし、神は「ある意味」において大群衆を義なる者と見ているため、その教えの多くが適用される。(ある意味において義と認められていることの事例としては、アブラハムなどの旧約聖書中の義人が引き合いに出される)

大群衆はハルマゲドンを通過して地上の楽園へ|JW.ORG
十四万四千人だけを新しい契約の当事者とする教えは聖書時代にあったのか?
イエス・キリストを信じる人は誰でも新しい契約の血によって罪が赦され神の子供とされる、この教えは、そしてこの福音は、キリスト教の教えにおいてはあまりにも基礎的・常識的な教えであって、おおよそカトリック・プロテスタントを含め、ほとんど全ての教派で信じられています。
ですから、キリスト教サイドのクリスチャンから見ると、十四万四千人だけを新しい契約の当事者とするこのエホバの証人の教えは、あまりにも異質であり驚かされるべきものです。(もっとも、エホバの証人から見ると、その逆なわけですが。)
さて、なぜラザフォードは1935年にこのような発表をしたのでしょうか?出版物の説明によれば、それは突然始まった話ではなく、その種となる教えが元々あり、その種が芽を出した形で生じたものだったようです。
「聖霊はキリストの追随者を,現在わたしたちが大切にしている理解へとどのように案内しましたか。それは一連の霊的な光のきらめきを通して,漸進的に生じました。「ものみの塔」誌は早くも1923年に,天に行く願いを持たず,キリストの統治下の地上で生きるグループに注意を向けました。」ー神の王国は支配している!54ページ
果たして十四万四千人と大群衆についてのラザフォードの発表は、本当に聖霊による「まばゆいばかりの霊的な光」だったのでしょうか?それとも「深まっていく霊的な暗闇」だったのでしょうか?
この点を理解する上で、まずは聖書時代のクリスチャンの理解へ遡りたいと思います。これから言う点は、エホバの証人でも認めざるを得ない重要な点です。それは、「イエスを信じる者は誰でも、イエスの流された新しい契約の血によって罪が赦され、義とされ、神の子供となる」という教えは、紀元1世紀全体を通してクリスチャンの間で共有されていた福音であったということ、十四万四千人だけを新しい契約の当事者とする理解はそもそも1世紀にはなかった、ということです。
なぜそう言えるかというと、第一に「全ての信者が新しい契約の当事者」だという教えは、新約聖書の書簡全体において、見事に一貫して教えられている内容であり、西暦90年前後に書かれたとされるヨハネの福音書の中でも、次のように語られているからです。
「彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである」(ヨハネ1:12)
第二に、「十四万四千人だけが新しい契約の当事者である」という教えの拠り所となる啓示7章(黙示録7章)が書かれたのは紀元90年代の後期であり、それ以前にはそもそも「十四万四千」というグループの存在すら啓示されていなかったからです。
ですから、黙示録が書かれる1世紀末までは「イエスを信じる者は誰でも〜」と教えられていたのに、突然1世紀末になって「十四万四千人だけ〜」となるのであれば、神はその理由や根拠を誰にでもわかるようにはっきりと啓示されたことでしょう。(もっとも、もしもそのような変更があったとすれば、あまりにも大きな変更となるので、神の側に一貫性が無いことになってしまうと思いますが)しかし幸いなことに、啓示7章にも14章にも、そのようなはっきりとした神の計画の変更は見受けられません。
以上の点を踏まえると、エホバの証人が「十四万四千人と大群衆」の教えについての重要な拠り所としている啓示7章を丁寧に考察することが、このテーマを理解する上での大切な鍵の一つだと言えます。では、早速見ていきましょう。
大群衆の実体
彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした
啓示7章には、世の終わりに登場する十四万四千人と、それに対比される大群衆と呼ばれるグループが登場します。本来は、両方のグループについて論じる必要がありますが、本記事では大群衆にのみ焦点を合わせたいと思います。なぜなら、契約の部外者とされている大群衆も新しい契約の当事者だと分かれば、この話の決着はすぐにつくからです。(十四万四千人については、以前に書いた記事で詳しく話しているので、興味のある方はそちらをご覧下さい。)
それでは早速、啓示7章の大群衆についての聖句を確認します。
「すると,長老の一人がこれに応じてわたしに言った,「白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか」。 14 それでわたしはすぐ彼に言った,「わたしの主よ,あなたが知っておられます」。すると彼はわたしに言った,「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。 15 それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている。また,み座に座っておられる方は彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に[冒されること]もない。 17 み座の真ん中におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」
長老の一人の言葉によれば、大群衆は「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」人々です。では、「子羊の血で衣を洗って白くする」とは、聖書的にどんな意味でしょうか?聖書をある程度学んできた方にとっては、その答えはとても簡単です。
「子羊の血」とはキリストが流された新しい契約の血のことであり、「血で洗う」とは、血によって罪を聖めることであり、「白い衣」の純白の色は、罪が取り除かれて聖くされたことを表しています。つまり、大群衆は「新しい契約の当事者」なのです。それが単純明快な答えです。

ものみの塔の解釈:大群衆はやましいところのない良心を持っている
では、ものみの塔はこの単純明快な真理に対し、どのように説明しているのでしょうか?
啓示 7:13-15を読む。ヨハネの記録によると,大群衆は「自分の長い衣服を子羊の血で洗って白くしました」。これは,大群衆がやましいところのない良心を持ち,エホバから正しい人と見なされていることを意味しています。(イザ 1:18)大群衆は,献身し,バプテスマを受けたクリスチャンです。イエスの犠牲に強い信仰を持ち,エホバとの良い関係を築いています。―塔2021年1月号、16ページ
ここでものみの塔は、もっとも肝心な部分に対する説明を省いています。群衆が『自分の長い衣服を子羊の血で洗って白くし・・た』ことの説明として、「これは,大群衆がやましいところのない良心を持ち,エホバから正しい人と見なされていることを意味しています」としていますが、「何が大群衆をそうさせたのか」という主語に対する説明が抜けてしまっています。その主語は「子羊の血」であり「新しい契約の血」なのです。
また「罪が聖められた」ということは言わず、「やましいところのない良心を持ち,エホバから正しい人と見なされている」と言い換えています。この解釈は聖書的なのでしょうか?
聖書は聖書で解釈する
聖書を解釈する際の重要な原則の一つは、「聖書は聖書で解釈する」というものであり、初代会長のラッセルが用いた方法として組織もよく言及しています。
「後日ラッセルの仲間になった人の話では,その小さな聖書研究会は次のような方法で進められました。「一人が疑問点を持ち出すと,それを皆で話し合う。その問題に関係する聖句をすべて調べ,それらの聖書本文の調和を皆が確信したなら,最後に結論を述べ,それを記録する」。ラッセルが後に認めているように,「1870年から1875年までの[期間]は,恵みと知識,神への愛とみ言葉への愛が絶えず増し加わった時期」でした。―ふれ告げる、44ページ
では、この原則に沿って、「イエスの血で洗う」ことが何を意味するのか、まずは同じ啓示の書の文脈で、確認してみます。
「5 そして,「忠実な証人」,「死人の中からの初子」,「地の王たちの支配者」であるイエス・キリストからの過分のご親切と平和がありますように。 わたしたちを愛しておられ,ご自身の血によってわたしたちを罪から解いてくださった方」 ―啓示1:5
「そして彼らは新しい歌を歌って言う,「あなたは巻き物を受け取ってその封印を開くにふさわしい方です。あなたはほふられ,自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。 10 そして,彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配するのです」啓示5:9〜10
このように黙示録の文脈では、イエスの血は私たちを「罪から解いて下さる」ものであり、その血によって買い取られた人々を「王とし祭司として」下さるものです。
イエス自身も、ご自分の流される血が「罪の許しのため」に流されるという真理を、最後の晩餐の場で語られていました。
「これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪の許しのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです。」マタイ26:28
ですから聖書は、大群衆と呼ばれるグループが、新しい契約の血によって罪から解放され、贖われた者たちであることを議論の余地なく教えているのです。
なお、エホバの証人の参照資料付き聖書を見ると、該当箇所の参照聖句には、以下の聖句が挙げられており、「やましいところのない良心を持ち」の説明の根拠とされています。
「まして,永遠の霊により,きずのないすがたで自分を神にささげたキリストの血は,わたしたちの良心を死んだ業から清めて,生ける神に神聖な奉仕をささげられるようにしてくださるのではないでしょうか。」ヘブライ9:14
たしかに、イエスの血が私たちの良心を清めることは真理ですが、その血が流された目的と、良心の清めの前提は、同じヘブライ9章にある通り、罪を取り去ることにあるのです。
「そうでなければ,世の基が置かれて以来何度も苦しみを受けなければならなかったでしょう。しかし今,ご自分の犠牲によって罪を取りのけるため,事物の諸体制の終結のときに,ただ一度かぎりご自身を現わされたのです。」ヘブライ9:26
大群衆は天にいる?
「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。 15 それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている。また,み座に座っておられる方は彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に[冒されること]もない。 17 み座の真ん中におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」
啓示7章の中で、もう一つ見るべき点があります。それは、大群衆が大患難から出て来た時点で、どんな状態に置かれているか、というポイントです。7章の記述の要点としては次のようになります。
- 神のみ座の前にいる
- その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている
- 神はご自分の天幕を大群衆の上に広げる
- 大群衆は、もはやどんな苦しみにも遭わず、全ての涙がぬぐい去られる。
つまり、大群衆は大患難から出てきた時点で、神のみ座のある天において、全ての苦しみから解放された「救いの完成の状態」にあるのです。もしも、第二の死を損なう可能性のある状態であれば、このような言葉は当てはまりません。実際、同じ祝福の約束の言葉は、新しい天と地が完成する啓示21章にも登場します。
「それと共に,わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ! 神の天幕が人と共にあり,[神]は彼らと共に住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らと共におられるであろう。 4 また[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」啓示21:3〜4
エホバの証人の理解では、大群衆は千年間を地上で通過し、最後まで忠実に生きて最後の裁きを乗り越えれば、この21章にある祝福を受けることができます。しかし実際には、大群衆と呼ばれるグループは、大患難の通過後に、すでにこの祝福を受けているのです。
ですからこの点においても、啓示七章に登場する大群衆は新しい契約の当事者であって、部外者ではないのです。
大群衆は、なぜ神のみ座の前にいるのか?
「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。 15 それゆえに神のみ座の前にいるのである。
最後に抑えたい大切なポイントがあります。啓示七章では、大群衆が大患難から出てきて神のみ座の前にいる、という祝福に与っている様子が描写されています。では、なぜ彼らは大患難から出てきて神のみ座の前にいれているのでしょうか?その理由は、「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」からです。ここが重要な点です。
エホバの証人は、自分たちが新しい契約の当事者でなくても、組織に忠実に歩んでいれば、大患難を生きて通過することができる、と信じています。
しかし聖書は、大患難から守られて出てくるためには、その前に「新しい契約の当事者として、子羊の血によって自分の衣が清められていなければならない」と教えているのです!ですから、ハルマゲドンを生きて通過することを願う全てのエホバの証人は、この真実と真剣に向き合わなければなりません。イエスを信じる者を大患難から守る最も大切なものは、「組織の一員で」あることではなく、「従順」と言う人間の側の行為でもなく、「イエス・キリストの流された血」と言う恵みにあるのです。
※神に対する従順ももちろん大切ですが、どのような人間の側の努力や従順も、罪を完全に清めるには不十分なのです。だからこそ、神の子が地上に来て、命を捧げる必要があったのです。
脚注
[1] ただし、その後も天的な希望を告白する信者が常に生じてきたため、協会はその理由として、「過去に選ばれた後に不忠実になって144000人から外れたクリスチャンを補充するために、神が新たに選んでいる」としています。しかし、天的な希望を告白する信者があまりにも増加してきているため、その説明には筋が通らなくなってきています。
[2] より正確には、144000人は、一世紀のペンテコステの日から集められ始め、その選びが終了するのが大患難の直前、だということです(証印が押し終えられる)。「主に」一世紀のクリスチャンと現代の少数のエホバの証人から成る、という意味についてですが、もしも二世紀以降のクリスチャンの多くも含まれるとすると、144000人を軽くオーバーし、JWの教えと矛盾してしまいます。
そこで協会は、二世紀以降に大規模な背教が起き、現代のエホバの証人によって真理が回復された、と繰り返し教えることにより、「144000」という人数の合計が自然なものとなるよう工夫しているのです。なお、JWの教えでは、二世紀~十九世紀までにも、油注がれたクリスチャンがいた可能性は否定しませんが、その数は非常に少ないものだったと、推定されています。
ちなみに、一世紀のクリスチャン人口の一般的な統計は、およそ100万人だったと推定されており、十四万四千人を完全にオーバーしています。







なるほど。振り返ってみると、この問題について聖書的にしっかり考えたことはなかったように思いますが、言われて見ますと、JWの「大群衆」という教理の聖書的根拠はかなり薄弱ですね。そしてこの「大群衆」の教理を正当化するための種々のムリなこじつけが、結果、あの宗教におけるキリストの贖いを軽視し、組織を絶対化することにつながっているように思いました。ありがとうございます。