輸血拒否は聖書の教えですか① 血の禁令は輸血に適用されるのか?

エホバの証人は多くの独自の戒律を持つ新興宗教グループですが、その中でも特に社会的に認知され、問題視されてきた三つの戒律があります。それは「輸血拒否」「忌避問題」「ムチ」です。この中でも特に「輸血拒否」については、生死に直結する重大な問題であるため、社会的にも大きな注目を集めてきました。
2026年3月20日、エホバの証人の組織の統治体は、この輸血拒否についてのルールを一部修正し、自己血の使用についての全面的な解禁を発表しましたが、他者の血液を用いる輸血については変わらず変更はなく、今後もこの教理によって命を落とすエホバの証人は増え続ける見込みです。
はたして輸血を拒否することは本当に神のご意志なのか?聖書からその答えを考えていきたいと思います。
目次
輸血拒否の教えで命を落とした13歳の少女
はじめに、エホバの証人の輸血拒否の教えを考察することの重要性を理解するために、1996年7月に埼玉県の病院で、実際に起こった出来事をご紹介します。
13歳の少女が交通事故のために入院した。医師は、手術をすれば助かると判断して、少女にそのことを話した。ところが少女は、「私はエホバの証人なので、輸血をしないでほしい」と申し出た。医師は「手術をすれば治る。輸血はどうしても必要な時だけしかしない」と話し、少女も納得し、手術を受けることにした。
翌日、手術の準備に入ると事態が変わっていた。昨夜、どこから聞きつけたのか、エホバの証人の仲間が少女のところに来て、輸血を受けないように彼女を説得したのである。少女は輸血を拒んだ。
その日、医師は再び少女の説得をはじめた。少女には身寄りがなかった。医師は、子どもであっても、本人の意志は尊重しなければならないと考え、本人の了解を取ろうと努力した。長い話し合いの末、彼女は必要であれば輸血を受けてもよい、と了承した。ところが、その日もまた、エホバの証人たちが病院に押しかけ、彼女に輸血を受けるのを思いとどまらせてしまった。
医師は、私の友人の宣教師に電話をした。その宣教師はエホバの証人のことをよく知っていたので、少女が輸血を受けるよう説得してほしい、と依頼されたのである。宣教師は、その少女を訪問することを医師に約束した。しかし、その日の夕方、医師から宣教師に再び入った電話は、その少女が先ほど息を引き取った、というものだった。
その医師は、友人の宣教師に言った。「エホバの証人は少女の生きる権利を奪った。13歳の少女に『死ね、死ね』と言ったのだ。あれはどういう信仰なのだ。あなたがたキリスト教の宣教師や牧師は何をしているのか。彼らは、聖書を持ち出して『輸血は禁じられている』と言っているのに、だれもまともに反論しないではないか」
―中澤啓介『輸血拒否の謎』3~4頁。
医師が最初に少女の説得に成功して手術の準備に入った時、おそらく既に事態は切迫していたのでしょう。少女の命を助けるためには迅速な手術が必要で、いざという時の輸血をどうするか、と言う議論を長時間している余地は残されていませんでした。
聖書の時代、輸血という選択肢は存在しませんでした。それゆえに、失われてきた命は多くあるでしょう。しかし現代は違います。「輸血」という出血多量による死を防ぐための治療方法が存在します。ですから、「いざと言うときは輸血する」という選択肢を拒むことは、時にはそのまま死に直結します。
その時に、輸血禁止という教理は、実際的に人を「生かす」教えではなく、人に「死をもたらす」教えであることが浮き彫りになるのです。輸血禁止の教えの全てが悪いわけではありません。輸血には様々なリスクがあるため、輸血をしない医療を最大限に模索することによって、それらのリスクを回避することはできます[1]。しかし出血多量の緊急事態においては、たとえその後のリスクがあったとしても、やはり輸血こそが人を死から救うための最良の手段の一つとなるのです。
その事実を真剣に受けとめる時、そして失われた少女の命を考える時、血の禁令は何のためにあるのか?その掟の本質は一体何なのか?たとえ死んだとしても、神は本当に輸血を拒否することを私たちに望んでいるのか?私たちは改めて問わなければなりません。
エホバの証人の輸血拒否の内容
輸血拒否:何がどんな理由で禁止されているのか?
エホバの証人は、他のキリスト教系の団体とは異なる数多くの独特な教理を有していますが、中でも社会的に最も認知度の高い教理が、この「輸血拒否」に関するものです。
エホバの証人の輸血拒否の具体的な基準とは、全血、あるいは血液の四つの主要成分(赤血球、白血球、血小板、血漿)を避けることを意味します。なお、今日では主要成分をさらに細かく処理した「分画」が様々な医療行為で用いられますが、分画を受け入れるかどうかは、個々のエホバの証人の「良心の問題」だとされています*[2]。
また、他者の血液ではなく、自分の血を用いる自己血を用いる治療については、2026年3月20日以降、全面的に「良心の問題」という扱いになりました[3]。
エホバの証人が命をかけて輸血を拒否する理由は、医学的な理由ではなく、宗教的―聖書的な理由によります。旧約聖書には「血を食べてはならない」という禁令がありますが、それを今日の輸血という医療行為に適用したために、「輸血拒否」の教理が生まれることとになったのです。(創世記9:3、レビ記17:10)
排斥処分の対象とされてきた輸血拒否の歴史
エホバの証人の輸血拒否の教えの歴史は、実はそう長くはありません。この教えが明確にされたのは、1951年からであり*[4]、それまでの協会の歴史においては、むしろ輸血は肯定されていたようにも見受けられます。
「大危急の中で、付いていた医者の一人は、1クォート(約1リットル)の自分の血液による輸血を患者に施した。その女性は今、生き延びて、その生涯の中で最も忙しかった23分間について、にこやかに話している」―『慰め』1940年12月25日号、19頁。
しかし、ものみの塔協会の会長がラザフォードからノアに変わった後、組織は輸血を禁止する方向性を徐々に示していきました。そして1961年には、エホバの証人で輸血を受ける人は、排斥処分の対象となることが明確にされたのです*[5]。
その時代から現代に至るまで、輸血はエホバの証人の社会において、神の命令に対する明確な違反行為と見做されてきました。そのため、輸血行為は永遠の命を失う可能性のある深刻な罪として教えられ、実際に輸血を行う信者は多くの場合、組織から排斥されてきました。
かつてイギリスのBBC放送に出演したエホバの証人の証言によれば、一日に三人、年間千人の人が、輸血禁止のために死亡しているとされています*[6]。こうした問題を踏まえ、輸血拒否を巡り、倫理的な観点から多様な議論がなされてきましたが、エホバの証人が宗教的な理由で輸血を拒否している以上、聖書を用いて彼らに話すことが大切です。

輸血禁止を提唱した三代目会長 ネイサン・H・ノア
ものみの塔の主張
エホバの証人の公式サイト(JW.ORG)の「聖書は輸血について何と述べていますか」という記事の中で、輸血拒否についてのエホバの証人の側の主張が簡潔にまとめられており、組織の主張の要点を理解する上では十分な内容となっています。
聖書は,だれも血を摂取してはならない,と命じています。ですから,全血を,あるいはどんな形態のものにせよその主要成分を,食物としても輸血としても受け入れるべきではありません。以下の聖句に注目してください。
創世記 9:4。神はノアとその家族に,大洪水後,食物として動物の肉も食べてよいとされましたが,血を食べてはならないとお命じになりました。神はノアに,「ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」とお告げになったのです。この命令は全人類に対するものです。人類は皆ノアの子孫だからです。
レビ記 17:14。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。神は魂つまり命を,血の中にあるものとみなされました。そして,魂は神のものです。この律法は,イスラエル国民にだけ与えられたとはいえ,血を食べてはならないという律法を神がどれほど重視しておられたかを示しています。
使徒 15:20。『血を避けなさい』。神は,ノアに与えたのと同じ命令をクリスチャンにもお与えになりました。歴史は,初期クリスチャンが血を飲もうとはせず,たとえ医療目的であっても血を用いなかったことを示しています。
神はなぜわたしたちに,血を避けるよう命じておられるのですか
輸血を避けることには,しっかりした医学的理由もあります。しかし,より重要なこととして,神は,血の象徴する命がご自分にとって神聖なものであるがゆえに,血を避けるよう命じておられるのです。―レビ記 17:11。コロサイ 1:20。
上記の記事の内容を踏まえ、輸血拒否についてのエホバの証人の主張の要点は、次に二つにあることがわかります。本記事ではまず、血の禁令が輸血にも当てはまるのか、という点を聖書から明らかにしていきたいと思います。
- 聖書の中の「血の禁令」は、輸血にも適用される:
血を食べてはならない、という命令は、人体に他の者の血を摂り入れるべきではない(摂取すべきではない)、ということを意味するため、輸血にも適用される。
. - 新約聖書聖書でも、血の禁令が継続されている
使徒 15:20で『血を 避け なさい』と言われていることから、神 はノア に 与え た の と 同じ 命令 を クリスチャン に も お与え に なり まし た。だから、今日でもクリスチャンは血の禁令を守る必要がある。
聖書には血を医療目的で使うことについては何も書かれていない

統治体メンバー、ゲリト・レッシュによる自己血解禁に関するアップデート。Image Source : JW.ORG
2026年3月20日、ものみの塔協会の統治体は、よく祈ってじっくり聖書を調べた結果、自己血輸血の全面解禁へ踏み切ったことを発表しました、その理由は次のようなものでした。
「聖書には自分の血を医療目的で使うことについては、特になにも書かれていません。それで、自己血を使う治療法についてはクリスチャン一人一人が自分で考えて決定します。」
確かに聖書には、自己血を医療目的で用いることについて何も書かれていません。だから、それをどのように用いるかについては、クリスチャン各自が判断するのは良いことです。しかし、それと全く同じようなことが、他人の血を「食用目的」ではなく「医療目的」で使うことについても当てはまります。
「血を食べてはならない」という神の命令は一貫しています。その命令は初めに、肉食の許可と共にノアに与えられた命令で、その内容がモーセの律法を通してより詳細に定義されていきました。ただし自己血の使用の全面解禁の際に統治体が説明したように、クリスチャンはモーセの律法には制限されません。ですので、血の禁令についての神の命令で唯一残る定義とは、単純に「血 を 伴う 肉 を 食べ て は なら ない」というものです。
輸血をする人は、血を食べているのでしょうか?食べるという行為は、食物を口から入れて、消化器官を通じて栄養を吸収する行為です。そうなると、輸血は「血を食べること」とは同じ行為ではありません。血を用いる、という共通点はありますが、それは食用目的ではなく医療目的であり、口から入れるわけでもなく、消化が目的でもありません。
つまり、統治体の言葉をそのまま使わせてもらえば、「聖書には血を医療目的で使うことについては、特になにも書かれていません」。これは事実であって、推論でも解釈でもありません。つまり事実として、聖書は直接的に、信者が輸血を拒否するようには教えていないのです。
聖書は,だれも血を摂取してはならない,と命じています。ですから,全血を,あるいはどんな形態のものにせよその主要成分を,食物としても輸血としても受け入れるべきではありません。
上記の説明では、「聖書は、だれも血を摂取してはならない、と命じています。」とされていますが、聖書のどこにも「摂取してはならない」とは書かれていません。この表現は明らかに、聖書が直接的に輸血を禁止しているかのような印象を読者に与えるための巧みな言葉遣いです。
あらためて言いますが、血を医療目的で使うことについては聖書には何も書かれていないのですから、同じ理由で自己血の使用を全面的に解禁したのなら、輸血そのものに対しても全面的に解禁し、信者の良心に委ねるべきではないでしょうか?
聖書に何も書いていないのであれば、輸血は許されるか?
聖書的な原則を適用する
聖書の中に書いてないことについて、どのように神の御心を判断することができるでしょうか?実際、輸血だけでなく、現代の医療や様々な事柄において、聖書に書いていないことはたくさんあるものです。
たとえば、タバコを吸い続けることは罪なのでしょうか?聖書には何も書いていません。しかし、タバコを吸い続けるという習慣が「百害あって一理なし」であることは医学的に証明されているので、その習慣が神の御心でないことは容易に理解できます。キリストを信じた時点で、私たちの体は既に自分のものではなく、キリストのものだからです。
では輸血についてはどうなのでしょうか?このことを理解しようとする時に、私たちは改めて、本記事で紹介した少女の話に戻る必要があります。現代の医療現場においては、輸血を拒むことは時に死を意味するのです。つまり、輸血禁止という教えは、実際的に人に死をもたらす命令なのです。
そのことを考えた時に、血の禁令やモーセの律法が何のために与えられたのか、その掟の本質に立ち返らなければなりません。
血の禁令と律法の本質
「血を食べてはならない」という最初の命令は、大洪水の後、ノアから連なる人類に対して、肉食の許可と共に与えられました。神は、人に動物の肉を食べることを許されましたが、動物の命である血を食べることは許されませんでした。血を食べないことを通し、命とその命の与え主である神を尊重する必要があったのです。
そう考えると、神が殺された動物の命を尊重しているのであれば、その肉を食べて生きる人間の命はさらに尊重しているはずです。そもそも肉食は、人間のために許可されたものだからです。
では、モーセの律法はどうでしょうか?その掟はどのような目的でイスラエル人に与えられたのでしょうか?それは、イスラエル人がそれを守り行うことによって生きるためでした。
「それであなた方はわたしの法令と司法上の定めとを守らねばならない。それを守り行なうなら,人はそれによって必ず生きるのである。わたしはエホバである。」レビ18:5、新世界訳
律法は、それを守る人が幸せになるため、その命の日々が長く続くようにするために与えられたものでした。
「今日、私が命じる主の掟と命令を守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も幸せになり、あなたの神、主が永久に与えようとしておられるその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」申命記 4:40、新改訳2017
では、長く続く命と幸福を目的とする律法が、いざという時にその人を死に追いやるのだとしたら、それは本末転倒ではないでしょうか?輸血拒否という教えと向き合う時、律法や掟が人を生かすため、隣人を愛するために与えられたものだという原点に、今一度立ち返る必要があるでしょう。
現代のユダヤ教は輸血をどう理解しているか?
輸血を受け入れるユダヤ教徒たち
血の禁令が輸血にも適用されるのであれば、それを最も厳格に守りそうなグループはエホバの証人ではなく、現代でもモーセの律法を厳格に守るユダヤ教徒であるはずです。しかし大変興味深いことに、エホバの証人と同様に輸血を拒否するユダヤ教徒は、世界中でどこにも見当たらないのです。(加えて、信仰上の理由で輸血を拒否するクリスチャンのグループも見たことがありません)
そこで、血の禁令を現代でも厳格に守るユダヤ教徒が、なぜ輸血をその禁令に適用しないのか、その理由を紹介させて頂きます。
ユダヤ教のラビ(宗教指導者)たちの公式な見解や証言によれば、輸血に関しては「禁止」どころか、むしろ命を救うための「宗教的な義務」とする極めて前向きな言葉が多く残されています。以下に、具体的な証言や法解釈のポイントを紹介します。
ユダヤ教のラビたちの証言
命を救うことは最も重要な戒律であり、義務である
世界的なユダヤ教の教育組織であるハバド・ルバヴィッチ(Chabad)の見解では、輸血について次のように明示されています。
「ユダヤ教の教えにおいて、命を救うことは最も重要なミツバ(戒律)の一つであり、他のほぼすべての戒律に優先します。したがって、輸血が医学的に必要であると判断された場合、それは単に許可されるだけでなく、義務(Obligatory)となります。」— Chabad.org “Is blood transfusion permissible in Jewish belief?” より要約
輸血は、血を「食べる」ことではない
多くのラビが、エホバの証人などが引用する聖句「血を食べてはならない」について、明確な区別を述べています。例えば、オーストラリアのラビ、レイモンド・アップル(Rabbi Raymond Apple)は、自身のコラム『Ask the Rabbi』でこう述べています。
「これらの宗教が引用する聖句は、『血を口にしてはならない。血は命であるから、肉と共に血を食べてはならない』(申命記 12:23)というものです。
ユダヤ教の答えは、この聖句がそのようなことを言っているわけではない、というものです。この聖句は『レヴィルティ・アホル・ハダム(血を食べてはならない)』と述べています。輸血において、血は「食べられる」ものではありません。
第二に、緊急時には戒律は一時的に棚上げされることがあります(偶像崇拝、姦淫、殺人の三つの禁止事項を除く)。もし命を救うために輸血が必要であるならば、命が優先されるのです。」Blood transfusions – Ask the Rabbi
このように、今でも血の禁令や食物規定を厳格に守るユダヤ教徒たちは、血を食べることと、血を血管に採り入れる輸血との違いを明確に分けて考えています。また、ここでも緊急時において命を救うことが優先されると述べ、命を救うことの大切さが説かれています。
また、緊急時には戒律が一時的に棚上げされることや、命を救うこと以上に優先される具体的な項目も整理されているのは興味深いことです。たとえ、何かをすることによって命が助かる状況があっても、その行為に偶像礼拝・姦淫・殺人等の罪が関係するなら、それらの罪を犯さないことが優先されるということでしょう。しかし、それ以外の戒律については(血の禁令を含め)、緊急時には命を救うことよりも優先順位が低くなるということです。
掟を行う人は、それによって生きることができる
「あなたがたはわたしの定めと、わたしの掟とを守らなければならない。これを行う人は、それによって生きることができる。わたしは主である。」レビ記18章5節
ラビたちは「それによって生きる(V’chai bahem)」というこのフレーズを、「律法は生きるためのガイドラインであり、死を招くための罠であってはならない」と解釈します。したがって、輸血という医療技術が「生きるため」に必要なら、それは律法の真の目的に適っていると結論付けられるのです。律法の本質を正しく捉えた見解だと私は思います。
安息日論争と輸血論争との共通点
輸血に対するユダヤ教のラビたちの見解を知る中で思い起こされた場面は、イエスが当時のパリサイ人たち(パリサイ派は、現代のユダヤ教の前身です)と繰り広げた安息日論争です。
「それから[イエス]はさらにこう言われた。『安息日は人のために存在するようになったのであり,人が安息日のために[存在するようになった]のではありません。』」マルコ2:27
「すると,見よ,彼の前に,水腫にかかっている人がいた。 3 そこでイエスは,律法に通じた人々とパリサイ人たちに語りかけて,こう言われた。『安息日に[病気を]治すことは許されていますか,いませんか』。 4 しかし彼らは黙っていた。そこで[イエス]は[その人を]抱きかかえていやし,そこからお去らせになった。 5 それから彼らにこう言われた。『あなた方のうち,自分の息子や牛が井戸に落ち込んだ場合,安息日だからといってこれをすぐに引き上げない人がいるでしょうか』」ルカ14:2~5
安息日を守ることは極めて重要な掟でしたが、イエスが言われた通り「安息日は人のために存在するようになったのであり,人が安息日のために[存在するようになった]のではありません」。ですから、安息日だからと言って、その掟によって助けを必要とする人を助けないのは律法の目的に反しており、本末転倒だったのです。
これと同じことが、輸血を拒否することについても当てはまるように思えます。律法は人のために存在するのであり、人が律法のために存在しているのではないからです。命を救うための神の命令に対する解釈が、かえっていざという時に死を招くことになるなら、それは聖書時代のパリサイ人と同じ過ちを犯しているのかもしれません。
イエスの時代のユダヤ教ラビたちは、その本質を理解しなかったためにイエスを迫害しましたが[7]、興味深いことに、輸血については、今日のユダヤ教のラビたちはこの本質を理解し、輸血よりも掟を優先して死をもたらすエホバの証人の教えに反対しているのです。
そう考えると、エホバの証人は、まさに現代のパリサイ派を代表する最も律法主義的な集団の一つだと言えるでしょう。
命を救う血を全て避けるエホバの証人
当サイトやチャンネルでは、最近まで「十四万四千人と大群衆」についてのテーマを取り上げていましたが、この次に取り上げるテーマは「地獄」を想定していました。しかし、そのタイミングで自己血についてのルール変更のニュースが入ってきたため、急遽、次のテーマを「地獄」から「輸血拒否」へ変更したのです。すると、輸血拒否の教えについて再考する中で、祈りのうちに気付かされたことがありました。輸血拒否の教えは、意外にも「大群衆」の教えと霊的に繋がっていたのです。
輸血拒否は、肉体の命を救う血を避ける教えです。同じように、「大群衆は新しい契約の当事者ではない」という教えは、私たちの霊的な命を救うキリストの血を避けるのです。つまり、これらの教えは一見全く別々の教理のように見えて、「命を救う血を避ける」という重要な共通点において、霊的に繋がっていたのです。これを理解した時に、私の内側に聖なる怒りが湧き上がるのを感じました。その怒りは統治体に対してではありません。その背後にいる真の黒幕である「悪魔」に対するもの、その悪魔の狡猾さに対するものです。
エホバの証人の信者は、これらの教理を正しいものと信じ、人生をかけて従っているのに、実際にはその背後に「死をもたらす悪魔の策略」が働いているのです。「盗人が来るのは、ただ盗んで、殺して、滅ぼすためである」と主が語られている通りです。どうか、一人でも多くのエホバの証人が、この狡猾な悪魔の策略を見抜き、羊に豊かな命を与えて下さる本当のイエス・キリストと出会うことができますように。
「盗人は,盗み,打ち殺し,滅ぼすためでなければやって来ません。わたしは,彼らが命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得るために来ました。」(ヨハネ10:10)
※輸血拒否の教えについて、私が組織に対して望んでいることは、輸血という医療行為を全面的に「良心の自由」とすることです。ある人が自らの信仰と選択で輸血を拒否するならそれはまだ仕方ありませんが、他者が自分の考えを強要して死に追いやるのは大きな問題があるからです。
脚注
[1] 輸血拒否によって健康上のリスクが減少するのはあくまで結果論であって、エホバの証人が輸血を拒否する根本的な理由ではありません。
[2] 『ものみの塔』2000年6月15日号、29-31頁「読者からの質問」。
[3] 以前から、多くの自己血を用いる治療法が「良心の問題」とされてきましたが、3/20以前は、貯血式の自己血輸血についてのみ、通常の輸血にあたる罪として分類されていました。
[4] 『エホバの証人の年間』1976年、223頁。
[5] 『ものみの塔』1961年5月1日号。
[6] 中澤啓介『輸血拒否の謎』(いのちのことば社)38頁。
[7] 補足情報として、イエス時代のパリサイ人たちも、命の危険がある時には、その人を救うための処置をすることを認めていました。ただし、命の危険が無いような状態では、癒しを行うことを禁じていました。イエスは、命の危険の無い多くの病や疾患を安息日に癒したので、それが論争のきっかけとなったのです。







