十四万四千人と大群衆② 衝撃!エホバの証人は本当の福音を宣べ伝えていない?
かつて私がエホバの証人として歩み出した時、熱心にエホバを求める私を見ていたある姉妹は、私に次のように言いました。「この人は、もしかしたら天に行く人かもしれない!」
その姉妹の予想は、ある意味で当たりました。それは、私が「十四万四千人と言う特別な天的級に選ばれた」と言う意味ではなく、「イエスを信じる者は誰でも神の子どもとなり天に行くことができる」と言う福音の真理に気づく人になった、と言う意味においてです。
福音(良いたより)とは何なのか?その真理とは何なのか?本記事を通して明らかにしていきたいと思います。
目次
別の種類の良いたよりへのパウロの警告
「エホバの証人への福音」という名称の通り、当サイトの主な目的はエホバの証人に本当の福音を伝えることにあり、本記事はまさにその目的の中心となる大変重要な内容になります。そこでまず、福音を正しく理解することの重要性を聖書から確認したいと思います。
新約聖書には、「良いたより・福音」を意味する「ユーアンゲリオン」(ギリシア語)と言う言葉が数多く登場します。聖書によれば、この福音は全世界に宣べ伝えられるべきものであり、この福音によって私たちは救われ、神との関係が回復し、永遠のいのちを持つようになります。ですから、この福音を正しく理解し、イエスの弟子たちが伝えた通りの福音を伝えることはとても重要です。
ガラテア人への手紙の中では、使徒パウロがその重要性について次のように力説しています。
「あなた方が,キリストの過分のご親切をもってあなた方を召してくださった方から別の種類の良いたよりへと,これほど早く移って行くことを,わたしは不思議に思います。 7 しかしそれは別の[たより]ではなく,ただ,あなた方を煩わせ,キリストについての良いたよりをゆがめようとしている者たちがいるというだけのことなのです。
8 しかし、たとえわたしたちや天からのみ使いであろうと、わたしたちが良いたよりとして宣明した以上のことを良いたよりとしてあなた方に宣明するとすれば,その者はのろわれるべきです。 9 わたしたちが上に述べたとおりのこと,それをわたしは今もう一度言います。あなた方が受け入れた以上のことを良いたよりとしてあなた方に宣明している者は,だれであろうとのろわれるべきです。」ガラテア1:6〜9
この手紙は、ガラテア教会の人々が「別の種類の良いたより」に惑わされることなく、本当の福音の恵みの中に留まれるようにと、切なる願いを持って書かれたものです。ここで注目すべき点は、パウロが別の福音を宣べ伝える者に対して、「誰であろうとその者は呪われるべきです」と繰り返し警告していることです。
クリスチャンの中には、このパウロの言葉が厳し過ぎるように聞こえる人もいるかもしれません。しかし、聖書の教えに精通し、キリストの福音への理解が深かったパウロからすれば、その警告の厳しさは当然のものだったのでしょう。
パウロはなぜ、こうも厳しい口調で別の福音を断罪しなければならなかったのか?その理由は、「別の福音」がキリストの贖いに基づく新しい契約の恵みを台無しにしてしまうものであり、人々を救いから遠ざけてしまうものだからです。ですから、1世紀の使徒たちに啓示された本物の福音が何であるかを正しく理解し、その正しい福音を宣べ伝えることは、生死を分けるほどに重要な問題となるのです。
では、エホバの証人が宣べ伝える「良いたより」は、はたして本物の福音となっているのでしょうか?「新しい契約の当事者を十四万四千人だけ」とする彼らのメッセージは、パウロや使徒たちが宣べ伝えた福音の真理と調和しているのでしょうか?
福音の中心〜その最も重要な部分とは何か?
物事を理解する上で、まずその物事の最も重要な部分、本質を理解することが大切です。それで、まずはイエスが弟子たちに宣べ伝えるよう命じた良いたよりの中心とはどんな内容だったのか、確認してみましょう。
イエスは復活した後、弟子たちにこう告げられました。
「こう言われた。『このように書いてあります。すなわち,キリストは苦しみを受け,三日目に死人の中からよみがえり, 47 その名によって罪の許しのための悔い改めがあらゆる国民の中で宣べ伝えられる ― エルサレムから始めて, 48 あなた方はこれらの事の証人となるのです。』」ルカ24:46~48
主イエスは、弟子たちがキリストの贖いと復活、イエスの名による罪の赦しについて宣べ伝えるようになること、それらの出来事の証人―つまりイエス・キリストの証人となる、と預言しました。つまり、「イエスの贖いと復活、罪の赦し」が、イエスが宣べ伝えるよう命じた「福音」の中心的なメッセージだったことがわかります。
さらに、以下のパウロの言葉から、その事実をさらに確証することができます。
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」第一コリント15章1~5節、新改訳1970
ここでパウロは、福音の最も大切な要素、その中心となるメッセージをしっかりと定義しています。パウロが宣べ伝えた福音において最も大切なこととは、(1)キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、(2)また、葬られたこと、また、(3)聖書に従って三日目によみがえられたこと」です。
これらの福音の中心的要素は、弟子たちが宣べ伝えるようになる「良いたより」についてイエスが預言した内容と見事に一致しています。ですから聖書の定義によれば、イエス・キリストの贖いと埋葬と復活の出来事、その業を通してもたらされた罪の赦しこそが、福音の最も大切な要素だと言えるのです。

エホバの証人の良いたよりとは
神の王国政府が全地を平和にする
では次に「良いたより」とは何か、と言う質問をエホバの証人にした場合、どのような答えが返ってくるでしょうか?「良いたよりと何か? 」と言うテーマで書かれているものみの塔誌の記事を幾つか確認してみます。
「クリスチャンには,『王国の良いたより』を宣べ伝える務めがあります。他の人にそのたよりを告げ,その王国こそ将来,義によって地を支配する世界政府となる,ということを知らせるのです。とはいえ,聖書中で「良いたより」という表現は,他の事柄に関しても用いられています。例えば,「救いの良いたより」(詩編 96:2),「神の良いたより」(ローマ 15:16),「イエス・キリストについての良いたより」(マルコ 1:1)などです。」ものみの塔2011年3月|良いたよりとは何ですか
「ですから,良いたよりとは,神による王国すなわち政府に関するものであり,その政府はあらゆる悪を除き去り,その後,全地を平和に治めます。人類と地球に関する創造者の当初の目的を実現させるのです。―創世記 1:28。」ものみの塔 2001年4月1日号、4ページ|王国の良いたより ― どんな知らせですか
「『王国の良いたより』を宣べ伝えるなら,イエスが始めた業を続けていることになります。(ルカ 4:43を読む。)おそらくあなたは,間もなく神が人間の物事に介入されることについてよく話しているでしょう。神が「大患難」によって偽りの宗教を終わらせ,地上から悪をぬぐい去るということです。(マタ 24:21)また,神の王国によって地上が再び楽園となり,平和と幸福が満ちあふれるということもよく話題にしているでしょう。」ものみの塔2011年6月、すべての人が必要とする良いたより
これらの記事を読んではっきりとわかることは、エホバの証人にとっての良いたよりの中心とは、「神による王国すなわち政府に関するものであり,その政府はあらゆる悪を除き去り,その後,全地を平和に治める。」という内容なのです。なんと、どの記事を読んでもそのメッセージの中に「キリストの贖いと復活と罪の赦しの福音」が出てこないのです!なぜでしょうか?
イエスの贖いと復活がJWの福音の中心ではない理由
その理由は、「キリストが私たちの罪のために死なれ、その血によって罪の赦しが与えられる」と言う福音のメッセージをエホバの証人が持っていないからです。なぜならそのメッセージは、新しい契約に基づく福音だからであり、契約の対象者を十四万四千とするエホバの証人の理解とは合わないからです。
確かに、神の王国がイエスの再臨によって地上の悪を終わらせることは、良いたよりの大切な部分ではありますが、いざ福音の中心である「イエスの贖いによる罪の赦し」の話になると、「大群衆に属するあなたは新しい契約の当事者ではないので、エホバを信じてもすぐに罪の完全な赦しはすぐには与えられません」となってしまい、福音の中心を否定する結果となってしまうのです。
福音の本質ー信じる全ての人を義とする神の恵み
福音の最も大切なこと
ここで、福音の本質をさらに深く掘り下げていきましょう。まずは、福音の中心を定義しているパウロの言葉をもう一度確認します。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」第一コリント15:3~4
キリストは聖書の預言通り、私たちの罪のために死なれたこととあります。つまり、この福音のメッセージを聞いている「あなたのために、あなたの罪が完全に赦されるために、あなたの罪の身代わりとしてキリストが死んでくれた」これが福音の最も大切なことだというのです。十四万四千人だけのためではなく、この福音を聞く全ての人の罪が赦されるためです。
だから、「大群衆はキリストの血による新しい契約の当事者ではない」と教えることによって、「キリストはあなたの罪の赦しのために死んでくれた」と語ることができなくなっているのです。なんという悲劇でしょう!そのような教えのために、神の子があなたのために命をかけて流してくれた血と裂かれた体を、記念式で食べることができなくなってしまっているのです。
記念式でも罪の赦しは語られない
イエスの贖いと復活を良いたよりの中心に据えないエホバの証人でも、一年に一度、積極的にイエスの贖いを宣べ伝えるシーズンがあります。それはユダヤの過越の時期であり、イエスの死の記念式が行われるシーズンです。
2年前、私はエホバの証人の記念式に久々に参加してみました。プログラムの最初から最後まで参加しましたが、大きな違和感を感じたことをはっきりと覚えています。それは、キリストの贖いをテーマにした記念式のメッセージの中でさえ、「キリストの血による罪の赦し」と言うキーワードが一切語られなかったことです。
「罪の赦し」と言う言葉は「幸せになれます」と言う言葉に置き換えられ、終始、新しい契約の恵みを受け取ることのできないメッセージとなっていたのです。昔は、記念式に参加してもそのような違和感を感じたりはしませんでした。しかし、福音の真理を以前よりも深く理解するようになった今、エホバの証人の教えがいかに聖書から離れているかをより鮮明に識別できるようになっていたのです。
信じるすべての者に無償で与えられる神の義
以下のローマ人への手紙の聖句は、福音の核心を見事に描いた素晴らしいメッセージです。
「したがって,律法の業によって肉なる者が[神]のみ前で義と宣せられることはありません。律法によって罪についての正確な知識が生じるのです。 21 しかし今や,律法からは離れて神の義が明らかにされました。律法と預言者たちによって証しされているとおりです。 22 そうです,イエス・キリストに対する信仰による神の義であり,信仰を持つすべての者のためのものです。差別はないからです。
23 というのは,すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しないからであり,24 彼らがキリスト・イエスの[払った]贖いによる釈放を通し,[神]の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。」ローマ3:20~24
聖書によれば、全ての者は罪を犯したので神の栄光に達することができません。では、私たちが義とされる望みはどこにあるのでしょうか?それは律法の行いによってでもなく、私たちの善行によってでもありません。その義は、「キリスト・イエスの贖いによる神の恵みによって、信仰を通して全ての者に無償の賜物として与えられる」のです。「イエス・キリストに対する信仰による神の義であり,信仰を持つすべての者のためのものです」と書かれている通りです!
別の福音について警告しているガラテア人への手紙の中でも、本物の福音について次のように語られています。
「生来のユダヤ人であって,諸国民の罪人でないわたしたちも,人が義と宣せられるのは律法の業によるのではなく,ただキリスト・イエスに対する信仰を通してであることを知っているので,このわたしたちでさえキリスト・イエスに信仰を置き,こうして,律法の業によってではなく,キリストに対する信仰によって義と宣していただけるようにしたのです。律法の業によっては,肉なる者はだれも義と宣せられないからです。」ガラテア2:15~16
したがって、イエスに対する信仰によって罪が許され、義とされるのは全ての人に対する神の恵みなのであって、十四万四千人だけのためではないことがわかるでしょう。「差別はないからです」(ローマ3:22)と書かれている通りです。
また、もしもその従順な生き方によって十四万四千人に選ばれ、その結果として神の義を得て神の子供となったのであれば、彼らにも誇るところはあるでしょう。しかし聖書は、何と言っているでしょうか?
「では,誇るところはどこにあるのでしょうか。そのようなことは締め出されているのです。どんな律法によってですか。業の[律法]ですか。決してそうではありません。信仰の律法によってです。」ローマ3:27
「まさにこの過分のご親切のもとに,あなた方は信仰によって救われているのです。そして,これはあなた方によるのではなく,神の賜物なのです。 9 そうです,それは業によるのではありません。だれも誇ることのないためです。」エフェソス2:8〜9
ですから、イエスを心から信じる人は誰でも、それまでのいかなる行いとも関係なく、信じた瞬間に無償の賜物として罪の赦しを受け、義とされる、これこそが聖書的な福音の本質、中心的なメッセージなのです。
イエスの死の際、垂れ幕が二つに裂けた真の意味
ものみの塔の統治体は、イエスがゴルゴダの丘の上で死んだ時、なぜ神殿の至聖所の垂れ幕が上から下に裂けたのかを理解していません。その垂れ幕が上から下に裂けたのは、神ご自身がそれを裂いたことの紛れも無い証拠です。(なぜなら、もしも人間がそれを裂く場合は、上から下ではなく、下から上に裂けるはずだからです。[1])
「しかし,イエスは大きな叫び声を上げて,息を引き取られた。 38 すると,聖なる所の垂れ幕が上から下まで二つに裂けた。」マルコ15:37~38
その垂れ幕は、聖なる神と罪人とを隔てていたものであって、その垂れ幕によって隔てられていた至聖所は、旧約時代は年に一度の贖罪の日にのみ、大祭司だけに入ることが赦された場所でした。しかしその大祭司でさえ、律法の要求通りの清めを疎かにして入るなら、神の聖さの前に死ぬリスクがありました。
しかし、イエスの血によって神ご自身がそれを裂いたということは、イエスの血が罪の完全な聖めを完了させ、神と人との間にあった隔ての壁を取り除いたことを表しています。そのようにして神は、その血に対する信仰を持つ全ての人が、誰でも大胆に神に近づくことができるようにされたのです。
「それゆえ,兄弟たち,わたしたちは,イエスの血によって聖なる場所へ入る道を大胆に[進むことが]できるのですから」ヘブライ10:19
ですからもはや、神が取り除かれた隔ての壁を再び人間が作るようなことがあってはなりません。「大群衆は神の子どもではない」と言う教えによって再び壁を作っているのは「ものみの塔」であって、神ではないのです。神はキリストの血によってそれを取り除かれたのです!
なぜものみの塔組織は、バプテスマを授ける前に、まず神権宣教学校に入り、集会に毎週出席し、色々なエホバの証人独自の教理への同意を求め、家から家への伝道に行かせるのでしょうか?なぜ洗礼の前に、そんなにも多くの行いを要求するのでしょうか?
それはまさしく、福音の中核である「信仰によって義とされる神の恵み」を知らないからです。その福音の土台となる新しい契約を知らず「別の福音」を信じているからです。

全ての信者は新しく生まれ変わり神の子どもとなる
使徒たちの福音によれば、全ての人は信仰によって義とされ、その結果として「新しく生まれ」変わり、「神の子ども」となります。これらは繋がっており、全く切り離せないものであり、福音の中核に続く大変重要な祝福です。
聖書は見事に一貫して、この「神の子供になる」という祝福が、イエスを信じる全ての人に与えられると教えています。
「彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである」(ヨハネ1:12)
「イエスがキリストであることを信じる者はみな神から生まれたのであり,生まれさせた方を愛する者は皆,その方から生まれた者を愛します。」ヨハネ第一5:1
ヨハネはここで、「神の子どもとなる権限」と言う表現を用いていますが、「権限」と訳されるギリシア語(エクソーシア)の基本的な意味は「権威・力」であり、悪霊を制するための権威と力が十二使徒に与えられる際も、全く同じ言葉が用いられています。(マタイ10:1)つまり、神の子どもとなることには、霊的な権威と力が伴うのです。
では、神の子どもが持つ霊的権威と力を恐れているのは誰でしょうか?それは「悪魔」です。ですから、新しい契約の恵みを否定するエホバの証人の教えは、悪魔を喜ばせることはあっても、神を喜ばせることはありません。
エホバの証人は、自分たちが聖霊に導かれていると信じていますが、一方で、自分たちが神の子供であることは否定します。しかし、新しい契約の時代においては、聖霊に導かれている全ての者は、神の子どもです!
「神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。」(ローマ8:14)
エホバの証人は、自分たちが聖書に基づくバプテスマを受けたのだと信じています。それならば、聖書に基づくバプテスマを受けたことによって証人たちはキリストを着ており、神の子どもとなっているはずです。しかし、それでも神の子どもにはなっていないと言うのなら、それは聖書が教えるバプテスマを受けてはいない、と言うことです。エホバの証人が受けたバプテスマとは、「キリストを着る」ための洗礼ではなく、「組織を着る」ためのものだからです。
「現にあなた方は皆,キリスト・イエスに対する信仰によって神の子なのです。27 キリストへのバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを身に着けたからです。」(ガラテア3:26-27)
全てのエホバの証人は、そして統治体は考える必要があります。私たちが神の子どもと呼ばれために、父なる神がどれほどの素晴らしい愛を示してくれたのかをです。その愛を知る時に、神の子どもとされると言う恵みは、決して無駄にしてはならないものであることがわかるはずです。
「父がわたしたちにどのような愛を示して,わたしたちが神の子供と呼ばれるようにしてくださったかをご覧なさい。そして,わたしたちはそのとおりのものなのです。」ヨハネ第一3:1
結論

Image source : Watch Tower
1935年、米国のワシントンDCの大会でのラザフォードの発表によって、十四万四千人と大群衆に関するこれらの教えが確立されていきました。この発表は、本当に「まばゆいばかりの霊的な光」だったと言えるでしょうか?いいえ、それは「新しい契約というまことの光」をさえぎる「暗闇のベール(覆い)」であって、悪魔から来ているものだったのです。
「そこで,もしわたしたちの宣明する良いたよりに事実上ベールが掛けられているとすれば,それは滅びゆく人たちの間でベールが掛けられているのであり,4 その人たちの間にあって,この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです。」コリント第二4:3~4
この記事を読む全てのエホバの証人や、まだ新しい契約の恵みを受け入れていない全ての人に、私は心から勧めます。イエスがあなたの罪の赦しのために死んでくれたことを受け入れて下さい。そして、新しい契約の血の恵みが、信じる全ての人のためにあることを信じて下さい。
そして、もしもこれまでに別の福音を信じ、またその福音を宣べ伝えてきたのなら、そのことを悔い改めて下さい。
神は、あなたを神の子どもとして迎えるその時を切に待ち望んでいます!

脚注
[1] もっとも、その垂れ幕はとても分厚いものであり、人間が裂けるようなものではそもそもありません。






