元エホバの研究生としての葛藤を振り返って


元エホバの研究生としての葛藤を振り返って

1年半前まで、私はエホバの研究生でした。エホバの証人とはなっておらず、集会にも出席したことはありません。そんな私がこのようなサイトに投稿して、お役に立てるかどうかわかりません。関わりとしては浅いかもしれませんが、長くエホバの証人を側で見てきて、葛藤し続けた日々を振り返ることで、迷っている方や悩んでいるご家族、救いだそうとしている方々へのヒントが見つかることもあるかと思い、投稿することにしました。私は研究生であることをずっと誰にも言えずにいました。エホバの証人にはなりたくない、と思っていたのです。それなのに研究生であり続けたこと、ここに心の闇や、カラクリがあるような気がします。何が私の心を支配し、また引き止めていたのか、揺れ動いた心の移り変わりを綴ってみたいと思います。世間一般では批判的に受け止められているエホバの証人の方の多くは、真理を追い求めている純粋な心をお持ちです。そんな方たちこそ、本来は救われるべきだと思っています。救いの一助となれば幸いです。

出会い・最初の研究

約20年前、「子育てについて聖書から調べてみませんか?」の一言に、小さな書籍を受け取ったのが最初でした。受け取った手前断り切れず、ズルズルと研究となってしまったという形です。騙されやすく、断り切れないお人よしタイプの人間によくあるパターンでしょうか。

当時の私にとって、聖書はもちろん、宗教自体ほとんど関心はなく、冠婚葬祭だけの「慣習」でした。そこにいきなり「神様はいると思いますか」と聞かれ、初めて本気で考えました。授業で習ったことがすべて正しいと思い込んでおり、進化論を素直に受け止めていましたが、話を聞くにつれ、神様の存在に気づかされ、信じるようになりました。「信仰」というより「情報収集」の時間だったと言えるかもしれません。

聖書は厚く、理解するのは難しいということから、聖書の内容をわかりやすくまとめているというエホバの証人の副読本を渡されました。聖書についての知識は皆無だったので、教科書のようなものだと思っていました。実際に聖書研究をした期間は1年ちょっとだったと思います。全部学んではいませんが、エホバの組織の教理を正しいものとして吸収していきました。その中で、一般の教会と解釈が異なるということも知り、エホバの証人がいかに聖書を詳しく学んでいるかという事をよく言われたように思います。

集会にも誘われましたが、子供が小さかったことや、過去の失敗経験から集会に対する抵抗感があり、行く気にはなりませんでした。

主人には反対されたものの、「信教の自由」の故、子供たちを巻き込まないという条件のもと、大人の私が自分で判断するのは黙認していました。しかし、友達2人から激しくやめろと言われました。エホバの証人は親の葬式にも出ないとか、車から降りて2人ずつ散らばっていくおかしな人たちだ、とかいう理由です。そしてそれ以降は口もきいてくれなくなりました。説得はその時だけで理由は乏しく、エホバの証人には、「聖書を知らないから」「その人たちもいつかわかる時が来るかもしれない」と言われ、迷いました。しかしそこまで「信仰」という状態ではなかった私は、その件で深く傷つき、研究を続ける意欲をなくしていきました。

研究をやめる

研究をやめた後は、心のしがらみが取れ、とても晴れやかな気分でした。死んだら地獄に行くのではなく、無になるのだと教わっていたので、もうこれで永遠の命はない、死ぬだけだと思うと、気持ちは結構楽でした。現世を思い切り楽しむだけだ!という感じです。しかし、現実は厳しく、家庭はゴタゴタし、始めた仕事も全く喜びを見出せませんでした。そこで経験した飛び込み営業はとても苦痛であり、戸別訪問をするエホバの証人の活動は自分には絶対無理だと思わせるものでした。

聖書についても、エホバの証人に関しても、全く無知だった私ですが、研究や経験を通して色々なことがわかってきました。書店等で批判的な意見も目にしました。そして、世間の評判とエホバの証人の穏やかで優しい人柄の狭間で迷いました。「エホバの証人の解釈は違うのかもしれない。でも、聖書はやはり正しいような気がする。」決定的な理由があったわけではありません。まともに聖書を読んだことはないけれど、自然界の不思議さや宇宙の壮大さなどを考えると、理論ではなく感覚的に創造主なる神様の存在を信じ、聖書にそのことが書かれているということが、私の心を捉えていました。

当時の私の価値観の基準は母親同士のコミュニティにありました。そんな中で、幼稚園に通わせず、子供を連れて伝道するエホバの証人は異質に映りました。実際、私が研究したエホバの証人のお子さんは、中高生であってもみな部活動をしていなかったと思います。集会を優先させるためだと言われていたように記憶しています。柔道の授業は見学、運動会の騎馬戦も出場しないとか…私にとって、それらは受け入れ難い価値観でした。エホバの証人は、そうでない人を「世の人」と言って区別します。そして、コミュニティもエホバの証人のそれが中心となります。すると、その価値観に染まっていくのでしょうか。そして、「世の人」にどう思われようが、自分たちこそ正しいのだという自負のもと、伝道に励むようになるのでしょうか。

集会に行かず、エホバの証人のコミュニティに入らなかった私は、その価値観を受け入れられないまま、聖書だけは真理かもしれないという、完全に気持ちを断ち切ることのないまま、時が過ぎていきました。

研究再開

数年が経ち、ADSLが普及してきました。転居をきっかけに、自宅でインターネットを使用するようになりました。エホバの証人のことを調べてみたところ、「被害者の会」のようなサイトがありましたが、登録制で深く知るには及びませんでした。まだ現在のように教理を詳しく否定するものは見つけることはできず、やはり良くない宗教団体なのかも…という心理状態にとどまりました。

しばらくすると、またエホバの証人の訪問を受けました。2年位は冊子を受け取る程度でしたが、そのうちに研究を再開することになりました。「エホバの証人の解釈が正しいとは思わない」というと、「それなら、正しいかどうか調べてみませんか。」「何で調べてもらっても構いません」と、強気でした。その自信に満ちた言葉が、私が心を動かされた理由かもしれません。組織からの指示ではないかもしれませんが、その方のアドバイスもあり、周囲には言わないで研究を再開しました。

その頃、図書館でプロテスタントの方が聖書について書かれた本を借りて読みました。全体の内容は覚えてはいませんが、「イスラエルが本当に建国されたときは驚いた」という一文がなぜか引っかかりました。イスラエルの建国と聖書が結びついているという事は知らなかったので、エホバの証人に尋ねてみました。すると、その方も全く意味が分からない、といった反応で、「イスラエルは神に逆らったから捨てられた。それで、私たちが霊的イスラエルになった。世のキリスト教は聖書を勉強していない。」そんなことを言われ、ほぼスルーされました。当時の私には「そうなんですか」というしかありませんでした。聖書を本当の意味で勉強していなかった故です。今思えば、1度しか借りていないキリスト教関連の本で、こんなチャンスを頂いていたのに、それを生かせなかったことはとても悔やまれます。

当時は、種々の家庭事情で毎日とても忙しく、研究再開したものの時間があまりとれず、渡されたものみの塔などの冊子もほとんど目を通さない日々でした。研究の直前にざっと予習だけをし、研究が終われば「世の人」に戻っていました。それでも、人間的にはとても信頼できる良い人たちです。研究は心の和む時間でもあり、話し合いの中で家庭や両親の悩み、仕事の悩みなどを聞いてもらい、聖句を示して答えてくださり、実際に癒されました。そうするうちに、教理を否定する気もなくなり、だんだん「正しい」という前提で考えるようになっていったように思います。しかしそれとは裏腹に、だんだんわかっていくエホバの証人の行動様式についていけない自分がいました。あまりに窮屈で、あまりに「この世」的には非常識だったからです。しかも、エホバの証人はそれを誇りに思っており、それとは程遠い自分の心理状態に、私は間違っているのかとひとりで悩み続けていました。

後ろめたさ

「研究を再開して何年たっただろう。」私は自分が全く成長していないことに何かしら後ろめたさを感じていました。無理強いはされませんが、集会には頻繁に誘われました。「一度来たからってずっと来なくちゃいけないわけではない」そういわれても、過去のトラウマから、また、ここから先に進みたくないという感情から、集会に行くのには相変わらず大きな抵抗がありました。エホバの証人になって戸別訪問する自分の姿は全くイメージできず、周囲から白い目で見られている自分ばかりが目に浮かびます。そして、私のために主人や子供たちまでが変な目で見られている姿を想像すると耐えられませんでした。なのに、なぜ研究を続けているのか…。きっとこれが真理なのだと思う気持ちがあったのです。正しい人は迫害に遭う、真理を見つける人は少ない、霊の実は謙虚で柔和で…などと、聖書に書いてあるじゃないですか。他人の目を気にせず、自信をもってその通り実行している人たちだと思っていました。

けれど、おかしいと思うことがなかったわけではありません。例えば、それまで得た知識では、エホバの証人の教理を知らずに死んだ人は千年王国で復活する。永遠の命を得たエホバの証人がその人たちに教え、受け入れた人は滅びないとか。なんか変だと思いました。しかも、最近は「どうしようもない悪人」だけがハルマゲドンで滅びるとか、教理が変わってきていました。それなら、エホバの証人の教理なんて知らない方がよいではないか、エホバの証人でなくてもよいではないかと、伝道の目的に矛盾があると思いつつ、でも「聖書に書いてある」「神様が最終的に判断される」と言われるとそれ以上何も言えず、気持ちが束縛されている状態でした。こういうのをマインドコントロールというのでしょうか。2、3年前からエホバの証人の娘さんも交えて3人で研究していたので、プチ集会状態だったのかもしれません。

しかし、やはりそれ以上進む気にはどうしてもなれなかったのです。集会に行くのは全て納得し、相当の覚悟が出来て、夫にも言ってからと心に決め、とにかく、忙しいことを理由に、集会への参加は拒否し続けました。

矛盾

時代はスマートフォン全盛となりました。私も宣伝にのせられ、スマホを持つことになりました。長く研究していながら、聖書を通読したことがなかったので、ウォーキングをしながら聞くことにしました。インターネットは惑わされるので使わない方がいいとずっと言っていたエホバの組織も、時代の流れには逆らえなかったのでしょうか、アプリで配信するようになり、集会でもアイパッドを使うよう奨励するようになっていたようです(それにも矛盾を感じました)。

聖書朗読を聞いていると、時々引っかかるところがありました。その代表的なものがマタイ22章の「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」というところです。エホバの証人の方は「楽園で子供をもつために今は子供を持たずに伝道に励む」と言っていたので、どういうことだろうと思いました。それを聞いてみたところ、はっきりとした答えはなく、最後は「神様が何とかしてくださる。私たちが考えるよりもっと素晴らしい世界なのだ。」というようなあいまいな答えでした。その他、世界を動かしているのはサタンだと思っていたのに、聖書には「神が○○させた」というような表現が多くあり、何か変だなと思うようになっていきました。

また、そのころ、組織の運営についても小冊子を用いて少しずつ説明を受けるようになりました。集会に行かない私を安心させようとされたのか、あるいは組織側の方からの指示だったのかもしれません。しかし、少人数の上層部で数々の冊子が作られるとか、その方たちは天にいく144,000人の中の一人だとか、にわかに信じがたいことが多くありました。ニューヨークの本部が田舎の方に移ったとか、会衆の寄付金のほとんどを本部が一括管理することになったとか、いろいろ変更があることも、その都度まことしやかに説明されるので、その時は何気なく聞いていましたが、後で組織に対する矛盾を感じることに結びつきました。

転機

そうこうしているうちに、私の家庭環境も大きな転換期を迎えようとしていました。仕事を辞め、少しゆっくりすることにしました。今まで忙しいという理由で集会に行かず、結論を先延ばしにしてきたエホバの証人との関係も、このままというわけにはいかなくなると思いました。けれど、心にある嫌悪感は変わらないままです。自分ではどうしていいかわからず、私を正しい道へ導いてくださるよう、祈っていました。

そして、数か月たった頃、スマートフォンで聖句を検索した時に、たまたま辿り着いたのが「良心の危機」という、エホバの統治体のメンバーだった方の暴露本について書かれたサイトだったのです。恥ずかしながら歴史についてはよく知らなかったため、1914年の根拠のバビロン捕囚の年代の相違よりも、私にとって衝撃的だったのは天に行く人が内部告発をしているということでした。しかもアマゾンで売られている!こんなに広く世に出ているのに、なぜエホバの組織は続いているのでしょう。その辺に、私が長く矛盾を感じながら、抜けられなかった心の束縛があると思いました。それから他にも情報があるかもしれないと思い、検索しまくりました。スマホが普及し、10年以上前に検索した時とは比べものにならない情報量です。多くの嘘を書いていることの証拠、裁判で統治体の方が天に行くことを否定していること、裁判で負けたため多額の資産を失っていることなど、斜め読みしただけでもマインドコントロールを解くのには十分でした。――よく考えたら終わりが近いと言っているのに本部をわざわざ移す必要もないし、寄付金の本部一括管理も裁判でお金が足りなくたったからではないか?そういえば、ここ数年、冊子が極端に薄くなり、配布回数も減った――おかしな教理、おかしな解釈、一気に頭の中が180度正気に戻った感じです。

でも、それなら何が正しいのだろうと思いました。一般の教会の方は聖書について勉強していないと聞いていました。実際に教会の不祥事も耳にするし、伝道をされたこともない。はたしてどうなのかと思い、検索していた時、ハーベストタイムの創世記のメッセージに辿り着きました。聖書のことを何も知らずに妄信していた自分の無知と無力さを思い知らされ、誤解が解けた時のようにすっと心に入り、真理へと導かれました。

その中で中川先生がよく言われていた「信仰のみ」「行動はいらない」のメッセージは衝撃的でした。はじめは意味が分かりませんでした。福音の三要素については、言葉としては知りませんでしたが、聖句を聞いて、「エホバの証人だって信じている」と思いました。けれど、「これに何か付け加えたらいけない」。これに仰天しました。まさに「目からうろこ」です。行動しなければならないと言ったらいけないのです。どれだけホッとしたことでしょう。信じるだけ。神様からの一方的なプレゼントである恵みを受け取るだけ。これが、神が愛であるということか、自由にされるということかと、長年学んでも今ひとつ実感できなかったことが深く、深く心に染み入りました。

振り返ってみると、どれだけ神様が注意深く私を導いてくださっていたか、よくわかります。聖書と接点のなかった私には、これが神様の方法だったのだと思います。最近、中川先生のメッセージの中で「変装して近づいてくる祝福」というのを知りました。大変不幸なことも、何年か経って振り返ってみると、それが今の自分を作っているという神の摂理の御手のことだそうです。私の場合もまさにそれだと思いました。聖書に出会う10年も前に集会の危険性を体験させ、エホバの組織の完全なマインドコントロールから守ってくださいました。エホバの証人の戸別訪問を連想させる不得手な仕事に就いたことも、研究をやめるきっかけを求めていた当時、自分の意思とはほぼ無関係にあっという間に話が進んでいったものです。途中で何度か間違いに気づきかけた時、そのまま離れていたら、エホバの組織からは離れられても、本当の神様には出会えなかったかもしれません。私にとって一番タイムリーな状況で導いてくださったことは、驚きであり、恵みであり、感謝に堪えません。

私の今までの人生、思いや行動は、全て神様の導きであると信じています。そして、ここにこうして投稿しているのも同じです。苦しみの渦中にある方の救い、私の大切な家族の救いに必ずつながっていると信じています。神様に信頼し、その中で救いの手助けとなれますよう、お祈りいたします。

 


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4件のフィードバック

  1. 山下一弘 より:

    研究生とはどのような事をされるのですか?

    • Webmaster-GJW より:

      ご返信遅れて申し訳ありません。
      研究生とは、キリスト教でいう求道者と同じ定義でして、定期的にエホバの証人と組織の教えを学び、バプテスマまで導かれる人のことですよ。

  2. ヨハネ より:

    初めまして。わたしはヨハネのブログをライブドアで出している者です。わたしはエホバの証人の幾つかの教理は聖書的に間違っていると思います。でも、わたしは聖書は正しいし、神の言葉だと考えています。また、毎日、聖書を読んで研究して、その研究結果をネットで公表しています。

    わたしはエホバの証人が神の律法に従う努力をしているのは正しいと思います。また、確かに証人の中にも愛を示すという聖書の教えを努力されている方がいると思います。

    それで、エホバの証人に敬意は抱いていますが、エホバの証人の預言の解釈は間違っていると思います。でも、キリスト教会が全部正しい聖書の理解を持っているとは言えないと思います。わたしは一般のキリスト教会の教えである三位一体は間違っていると思います。エホバはわたしたち人間の頭で、理解できないような神ではないと思います。

    ある知的な存在が、二つの個人で表わされるということはありえないです。イエスは神に何度も祈られました。祈りは二つの人格の会話のようなものだと思います。それで、神とキリストが同じ人格であるという教会の教えは間違っていると思います。

    ですから、現時点で、聖書を完全に理解できているキリスト教のグループは存在しないと思います。けれども、聖書は最後には完全に理解されるはずの本だと考えています。そうでなければ、神が人類のために聖書を準備された意味がないと考えるからです。

    良かったらヨハネのブログを読まれてください。

    • Webmaster-GJW より:

      コメントくださりありがとうございます。ヨハネのブログ、拝見したことがあると思います。
      真剣に聖書を研究されていると思いますし、教会や組織の教えを鵜呑みにせず、自立志向的に考えておられるご様子を感じます。
      そのような神と聖書に対する態度に共感できると共に感銘を受けます。

      ご指摘の通り、重要な点は、三位一体論だと思います。
      実に、多くのエホバの証人や、元エホバの証人が、組織の誤りに気付いても、非三位一体の立場については譲れない、よくわからない、という事がとても多いですし、私もそうだったので、理解できます。

      この点についてですが、キリストが神であることを否定される、というコメントをくださるにあたり、以下の2つの記事はお読みになりましたでしょうか?
      http://gospel-jw.com/category/doctrine/trinity/

      もし、まだお読みでない場合は、お話の前提を据えることができないので、先にお読みいただければ幸いです。
      また、上記でご紹介している記事の内容に対して、反証するような記事が、すでに貴サイトにおありの場合は、その記事をご紹介くだされば幸いです。

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